持統天皇/やまとの謎(13)
藤原京に遷都したのは持統天皇である。
飛鳥からはわずかに北へ遷ったことになる。
俯瞰図を見てみよう。
「百人一首」の2番目に置かれている次の歌は、持統天皇の作とされている。
言うまでもなく、持統天皇は天智天皇の娘であり、親子の歌が、1番目と2番目に位置している。
そのことと、99番目と100番目という閉めの位置に、後鳥羽院と順徳院の親子の歌が置かれていることに、何か意味があるのだろうか?
それが、発症直前の疑問であった。
⇒2009年12月22日 (火):百人一首の構成
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ 1 天智天皇
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山 2 持統天皇
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は 99 後鳥羽院
百敷や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり 100 順徳院
何の準備もない状態で、とつぜん入院するハメになりその頃の問題意識までなかなか復旧しない。
慌てることはない。誰に頼まれたわけでもないので、マイペースで逍遥することにしよう。
しかし、私が通った高校・大学には、逍遥歌というものがあって、時には一人で、時には友と連れだって、吟じたものだが、最近はどうだろうか?
持統天皇の歌の解釈として、次の解説を引用しておこう。
持統天皇は694年、都を飛鳥浄御原から藤原の地(橿原)に移した。壬申の乱の影響も消え、安定と繁栄の時代を迎えようとしていた。その藤原京の東方にある香具山の山腹に乾されてある衣の際だつ白さを見て、夏の訪れの喜びを詠んだ歌。季節感そのものを歌うという方向もまだ未分化であり、しかも春と秋がことに愛された時代にあって、あまり歌われたことのない夏を、さわやかに歌った点が注目される。
後に「春過ぎて夏きにけらししろたへの衣乾すてふ天の香具山」と形を変え「新古今和歌集」巻3夏に再び録られ小倉百人一首にも選ばれている。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1448555364
藤原京の京域には諸説あるようであるが、現在有力になりつつある大藤原京説では、天香具山は完全に域内ということになる。
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