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2010年12月15日 (水)

大津皇子と相聞コミュニケーション/やまとの謎(18)

現代はコミュニケーションの時代であるといってよい。
マスコミは巨大産業に成長しているし、このブログのように零細であるが開かれたツールもある。もちろん、1:1のコミュニケーションも、電子的なメールが主流になっている。
プライベートでも、仕事の上でも、コミュニケーション力の重要性は高まる一方である。

フィリップ・マーロウの有名なセリフを借りれば、「コミュニケーション下手では生きていけない。コミュニケーション上手になれなかったら生きている楽しみが得られない」と言ったところである。
半身不随の身になって、コミュニケーションの上でも大きなハンディキャップを背負ってしまった。
幸いにして、家族や多くの友人・知人たちの助けにより、日常生活はおろか、ある程度の社会参加をさせていただいている。
改めて有難いことだと思う。

「三色ボールペン」を活用した読書法で知られる齋藤孝さんに、『コミュニケーション力』岩波新書(0410)という著書がある。
齋藤さんは、コミュニケーションを、意味や感情をやりとりする行為であると規定する。
単なる情報伝達でなく、感情を伝え合い分かち合うこともコミュニケーションの重要な役割である、と。

しかし、私は、そもそも情報には、「情」の要素と「報」の要素とがあるのであって、齋藤さんのいう感情を伝え合い分かち合うことは、情報伝達の重要な側面だと思う。
それはとかくとして、コミュニケーションにおいて、意味と感情が重要な要素であることに異論はない。

齋藤さんは、コミュニケーションの日本的形態として、和歌のやりとり挙げる。
確かに、和歌は、意味と感情の媒体として好適である。
「五・七・五・七・七」という形式は、感情の表現に相応しい。
俳句のように、「五・七・五」だけだと、感情表現には物足りない。やはり、花鳥風詠であり、写生のツールである。

和歌によるコミュニケーションの事例として、齋藤さんは、『万葉集』の有名な歌を取り上げる。
Photo_5
http://www1.odn.ne.jp/~cbg28720/manyou/utamo4(2)oi.htm

私も、この相聞歌により、大津皇子ファンとなった。
⇒2007年8月27日 (月):偶然か? それとも・・・②大津皇子
大津皇子処刑の実相については謎が残されているが、こんな返歌を貰ったらのめりこんでいくに違いない。

齋藤さんのコメントは次の通りである。

相手の歌の中の言葉を、自分の歌にアレンジして組み込む。相手の使ったキーワードを用いて話す、という技が和歌のやりとりでは基本技として駆使されている。思いを込めて使った言葉を相手がしっかり受け取り、使って返してくれる。そのことで心がつながり合う。ただそのままの形で返すわけではない。意味を少しずらして別の文脈に発展させて使う。そうすることによって二人の間に、文脈の糸がつながる。

大津皇子の母親の大田皇女の墓にほぼ間違いないとされる古墳が見つかったばかりである。
こちらは、時空を超えたコミュニケーションともいえよう。

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