持統天皇(ⅳ)/やまとの謎(17)
持統天皇を中心にして、すっきりした系図を書けば次のようになる。 すっきりしているのは、情報をそぎ落としたからであるが、この系図からだけでも、彼女の前半生が波乱に満ちたものだったことが窺える。
母方の祖父の蘇我石川麻呂は、乙巳のクーデターで重要奈な役割を負ったが、夫である天智に対する謀反の罪を着せられて自害した。
⇒2008年3月 5日 (水):薬師寺論争…⑬蘇我倉山田石川麻呂
飛鳥の山田寺と深い関係がある。
山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。法号を浄土寺または華厳寺と称する。蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくら(の)やまだのいしかわ(の)まろ)の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。その後、明治25年(1892年)に小寺院として再興されている。
Wikipedia100622
飛鳥資料館に発掘成果が展示されている。
http://www.nabunken.go.jp/asuka/s-annai.pdf
山田寺といえば仏頭が有名である。
なぜか、興福寺の所蔵となっている。
奈良市・興福寺に所蔵される銅造仏頭(国宝)は、もと山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部であった。『玉葉』(九条兼実の日記)によれば、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えた。当時の興福寺は平重衡の兵火(治承4年・1180年)で炎上後、再興の途上であった。この薬師如来像は応永18年1411年)の東金堂の火災の際に焼け落ち、かろうじて焼け残った頭部だけが、その後新しく造られた本尊像の台座内に格納されていた。この仏頭は昭和12年(1937年)に再発見されるまでその存在が知られていなかった。
Wikipedia同上像は興福寺の鎌倉再興期の文治3年(1187)に東金堂本尊薬師如来像として迎えられましたが、応永18年(1411)に堂とともに被災します。幸い残った頭部が応永22年(1415)に再興された現東金堂本尊台座に納められ、昭和12年(1937)に発見されました。造立年代が明らかであるところから、白鳳彫刻の基準作として高く評価されます。
蝋(ろう)型原型から鋳造されたもので、鍍金(ときん)が施されます。伸び伸びと弧を描きながら流れる眉、水平に伸びる下まぶたと、それをおおうように弧を描く上まぶた、額から直線的に伸びる鼻、ふっくらとした唇、顎の張ったたくましい面相は、青年のような若々しさ、すがすがしさを感じさせてくれます。
http://www.kohfukuji.com/property/cultural/064.html
山田寺の仏頭については下記で触れたことがある。
⇒2008年3月 2日 (日):薬師寺論争…⑩山田寺仏頭
⇒2008年3月 2日 (日):薬師寺論争…⑩山田寺仏頭
白鳳の傑作と評されるもので、9月の旅行で実見することができた。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)(2019.03.13)
- 日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)(2019.02.24)
- 秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)(2019.02.11)
- 自然と命の画家・堀文子/追悼(136)(2019.02.09)
「日本古代史」カテゴリの記事
- 沼津市が「高尾山古墳」保存の最終案/やまとの謎(122)(2017.12.24)
- 薬師寺論争と年輪年代法/やまとの謎(117)(2016.12.28)
- 半世紀前に出土木簡からペルシャ人情報/やまとの謎(116)(2016.10.07)
- 天皇制の始まりを告げる儀式の跡か?/天皇の歴史(9)(2016.10.05)
- 国石・ヒスイの古代における流通/やまとの謎(115)(2016.09.28)
「やまとの謎」カテゴリの記事
- 元号と改元と日本建国/やまとの謎(125)(2019.01.10)
- どんどん焼き・左義長/やまとの謎(124)(2019.01.07)
- 今上天皇在位最後の誕生日/やまとの謎(123)(2018.12.23)
- 沼津市が「高尾山古墳」保存の最終案/やまとの謎(122)(2017.12.24)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント