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2010年12月13日 (月)

持統天皇(ⅳ)/やまとの謎(17)

持統天皇を中心にして、すっきりした系図を書けば次のようになる。
Photo_2 すっきりしているのは、情報をそぎ落としたからであるが、この系図からだけでも、彼女の前半生が波乱に満ちたものだったことが窺える。

母方の祖父の蘇我石川麻呂は、乙巳のクーデターで重要奈な役割を負ったが、夫である天智に対する謀反の罪を着せられて自害した。
⇒2008年3月 5日 (水):薬師寺論争…⑬蘇我倉山田石川麻呂
飛鳥の山田寺と深い関係がある。

山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。法号を浄土寺または華厳寺と称する。蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくら(の)やまだのいしかわ(の)まろ)の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。その後、明治25年(1892年)に小寺院として再興されている。
Wikipedia100622

飛鳥資料館に発掘成果が展示されている。
Ws000000
http://www.nabunken.go.jp/asuka/s-annai.pdf

Photo_2山田寺といえば仏頭が有名である。
なぜか、興福寺の所蔵となっている。

奈良市・興福寺に所蔵される銅造仏頭(国宝)は、もと山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部であった。『玉葉』(九条兼実の日記)によれば、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えた。当時の興福寺は平重衡の兵火(治承4年・1180年)で炎上後、再興の途上であった。この薬師如来像は応永18年1411年)の東金堂の火災の際に焼け落ち、かろうじて焼け残った頭部だけが、その後新しく造られた本尊像の台座内に格納されていた。この仏頭は昭和12年(1937年)に再発見されるまでその存在が知られていなかった。
Wikipedia同上
像は興福寺の鎌倉再興期の文治3年(1187)に東金堂本尊薬師如来像として迎えられましたが、応永18年(1411)に堂とともに被災します。幸い残った頭部が応永22年(1415)に再興された現東金堂本尊台座に納められ、昭和12年(1937)に発見されました。造立年代が明らかであるところから、白鳳彫刻の基準作として高く評価されます。
蝋(ろう)型原型から鋳造されたもので、鍍金(ときん)が施されます。伸び伸びと弧を描きながら流れる眉、水平に伸びる下まぶたと、それをおおうように弧を描く上まぶた、額から直線的に伸びる鼻、ふっくらとした唇、顎の張ったたくましい面相は、青年のような若々しさ、すがすがしさを感じさせてくれます。

http://www.kohfukuji.com/property/cultural/064.html
山田寺の仏頭については下記で触れたことがある。
⇒2008年3月 2日 (日):薬師寺論争…⑩山田寺仏頭
白鳳の傑作と評されるもので、9月の旅行で実見することができた。

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