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2010年12月26日 (日)

「麗し大和」と法隆寺論争/やまとの謎(21)

産経新聞で1年間連載された「麗し大和」の連載が、今日の「悠久の法隆寺」で終了した。

最後はここと決めていた。夕闇迫る悠久の法隆寺。創建は607年と平城京より100年ほど早く、一度焼けて再建されたのが平城遷都のころという。あかね色に浮かぶ五重塔のシルエットは、当時とほとんど変わらないだろう。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101226/acd1012260701002-n1.htm

担当は「文 山上直子」と記されている。記者だろうが、さすがに名文である。
今年の前半は山中のリハビリ専門病院に入院していたので、ほとんど目にしていない。
奈良へ旅行に行こうという話がまとまって、その参考資料を準備する中で、連載のバックナンバーをインターネットから集めた。
そして、尋ねてみるつもりのある場所と関連する記事を編集して、同行する仲間に渡して予備知識とした。

法隆寺も、もちろん行きたいリストに入っていた。
しかし、旅行のスケジュールには「麗し大和」の記事は間に合わなかった。
法隆寺といえば、「再建・非再建論争」が有名である。
Wikipedia101022最終更新を見てみよう。

日本書紀巻27に「夏四月癸卯朔壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無餘」(天智天皇9年・670年に法隆寺は一屋余すところなく焼失した)という記事がある。この記事の真偽をめぐって、現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子創建時のものであるとする説と、670年に全焼した後、再建したものであるとする説とが鋭く対立し、いわゆる「再建・非再建論争」が起きた。
・・・・・・
法隆寺ではこの寺は聖徳太子創建のままであるという伝承を持っていた。しかし、明治時代の歴史学者は『日本書紀』の天智天皇9年(670年)法隆寺焼失の記述からこれに疑問を持ち、再建説を取った。これに対して建築史の立場から反論が行われ、歴史界を二分する論争が起こった。再建派の主要な論者は黒川真頼、小杉榲邨(こすぎすぎむら)、喜田貞吉ら、非再建派は建築史の関野貞、美術史の平子鐸嶺(ひらこたくれい)らであった。

以後、多くの学者が参画する論争となった。
若草伽藍の発掘調査等により、再建説が決定的となったと思われていたが、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって最も外側の年輪が591年のものとされており、なぜそんなに古い木材が使用されたのか謎である。
古田武彦氏の「九州王朝説」の支持者らは、再建法隆寺は、大宰府の観世音寺等から移築されたとの説をとっているが、現時点では異端の説に留まっているように思われる。

鋭い感受性で多くのファンを魅了した作家の立原正秋氏が亡くなって30年になる。
立原氏は、『一小説家の感想』と題するエッセイで、この論争について次のように書いている。

戦争末期の頃、私は『法隆寺再建非再建論争史』という本を読んだことがある。昭和二十年の春ではなかったか、と思う。
・・・・・・
つまり、法隆寺は一度焼けうせて再建された、という説と、再建されなかった、という説と、焼けたが焼ける前と寸分たがわぬように再建された、という説が、歴史学的に建築学的に、明治のはじめから論争された経緯をまとめた本であった、とおぼえている。
昭和二十年春といえば、私個人にとってはもっとも暗い年であった。そうした時代に、法隆寺が再建されたかされなかったか、という論をよんで、私は一条の光を垣間みた気がした。判らないなりに感じたことだが、それは純粋に学問的な論争であった。論争そのものにも感心したが、論争をよそに、戦争をよそに、法隆寺が現存していること自体が私にはひとつの感動であった。

山上さんも「人の寿命などはるかに及ばず、まるで昨日建ったかのようにたたずむ威容にただ心打たれて」と書いている。
また、立原氏の小説『春の鐘』は奈良が舞台になっているが、その一節に次のような文章がある。

この法隆寺については一つの感動的な話がある。 いや法隆寺だけでなく奈良,京都, 鎌倉がその恩恵を受けているわけだが, あの大きな戦争で日本の大都市が空襲を 受けたのに, 奈良や京都の寺院は空襲を受けなかった。 というのは,当時,アメリカ のハーバード大学で東洋美術を研究していた人にウォーナーという博士がいた。 彼は東洋美術の学者達をあつめ, 日本の文化財のうち重要な個所には爆撃を加え ないよう除外すべきだ,と目録をつくった。 アメリカ軍はその目録をもとに日本の文化財に爆撃を加えなかった。 ウォーナー博士は目録の筆頭にこの法隆寺をあげていた。 文化財は単に日本だけのものではなく人類の遺産だという考えがあったのだと思う。

「ウォーナー博士のお蔭」説には異論もあるようだが、人類の遺産であることに違いはない。

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コメント

再建、非再建の論争や、聖徳太子実在、非実在の論争はともかくとしても、この法隆寺が訪れるものの心を捉えて止まないことは誰にも否定できないことでしょう。
私もいろいろと考えることはあるのですが、いざこの寺の境内に足を踏み入れるとどうでもいいような思いにとらわれてしまいます。
長い年月、この寺に向けて捧げられた多くの人の祈りがそうさせるのでしょうか・・・

投稿: 三友亭主人 | 2010年12月27日 (月) 22時26分

三友亭主人様

コメント有難うございます。
歴史の重みというものでしょうか。
オーソドックスなものより異端に惹かれがちな性分ですが、素直に受容したいと思っています。三友亭主人様と異なりすぐに訪れるというわけにはいきませんが、機会をつくって足を運びたいと願っています。

投稿: 夢幻亭 | 2010年12月28日 (火) 22時13分

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