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2010年12月

2010年12月31日 (金)

半身全麻痺から半身半麻痺への1年間/闘病記・中間報告(18)

今年の元旦は、救急病院の病棟で迎えた。
爾来一年が閲したことになる。振り返ってみると、短いような長いような不思議な気分である。
もっとも、そういう感覚は、加齢とともにあったともいえる。
わずか一年前のことに過ぎないにもかかわらず、急性期のことは既に記憶が朧である。
動転が治まらないといったことも理由だと思う。
元日に、病棟で、おせちとか、雑煮の類が供されたのかどうかすら覚えていない。

元日は、足首さえ動かない半身全麻痺状態だった。
一段落して、リハビリ専門病院に転院したのが1月半ば。今にして思えば、まだ、うろたえていたと思う。
何で自分の身に、という思いと、やっぱりという後悔の念と。
果たして、これからの人生はどうなるのか?
ひょっとして、このまま車いすで過ごすことになるのか?
考えても仕方のないことについて、あれこれ思いを巡らした。

麻痺はゆっくりと進行していった。
もちろん、発症そのものは突然だった。
しかし、未だに指の屈伸ができない右手は、夕食時まではほとんど随意に動いていたように思う。
夕食中に、右手に持っていた箸の位置感覚に違和感があり、やがて不随意状態になった。
それが1年かけても戻らないのである。

先に麻痺状態に陥った下肢の方が回復は早い。
なぜかはよく分からない。
神経経路の太さによるものだろう。
下肢の神経系の方が太いので、麻痺するのも回復するのも早いのだろう。
上肢の場合は、入り組んだ路地のように神経経路が発達していて、細やかな動きに対応している。
その経路から神経が抜けていくのにも、浸透していくのにも時間がかかる。
そんなアナロジーが当てはまるのではないだろうか。

初めて外泊許可を得て自宅に帰ったのが3月の初めだった。
既に陽光が眩しい季節となっていた。
2か月半ぶりに自分の部屋に入ると、書籍や資料の類が、未整理のまま積み重ねられていた。
手にする確率の小さいと思われる書籍のかなりのものを処分したが、未だ整理しきれていない。

5月末に退院してからの時間の経過は早い。
外来患者としてリハビリを続ける一方で、できる範囲ではあるが、ある程度の社会参加をするまでになった。
この間、実に大勢の方々の励まし・支援をいただいた。

変わったのは、飲食に関する生活習慣である。
毎日摂取していたアルコール類は、基本的には中断している。
忘年会等も、ノンアルコール・ビール等で済ませている。
今後ともドライな生活に完全に切り替えようということではない。
のど越しのビールや、肺腑に染み渡るような冷酒の味は、まったく捨て去るのは味気ない。
ただ、発症前のように、ただ酔うために飲む、ということは止めようということである。

食については、野菜を多量に摂るようになった。
1日の総カロリーも、制限している。
そのため、体重は、退院時を超えたことはない。
発症前に比べると12㎏減程度である。

美酒、美食、美人は、やはり人生の愉しみというものだろう。
幸いにして。血圧、血液検査の値も正常値の範囲内に収まっている。
恐れていた再発という事態も今のところセーフである。
二度と入院生活に戻らないよう心掛けるつもりである。

麻痺は一生完全には消えることはないだろう。
しかし、まだ少しずつ回復しているのも事実である。
完全な半身不随状態から、半身半不随状態への1年であった。

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2010年12月30日 (木)

紙はどこまで減らせるか?/知的生産の方法(4)

知的生産において、紙は不可欠の媒体であった。
シンクタンクと呼ばれる民間組織は、ある意味で知的生産の代表であるといえるだろう。
大学とは異なり、営利目的ではあるが、情報を収集し、分析した結果を報告書としてまとめ上げる。

そのシンクタンクの仕事においては、揶揄ではあるがNHXが必需品といわれた。
NHXとは、ノリとハサミとゼロックスのことである。
情報を加工するのに紙に印刷した素材を切り貼りするのであるが、場合によっては成果物に生煮えの状態で元の素材を使用したりする。
そのようなリサーチャーは早晩淘汰されるが、NHXはその類の仕事の代名詞でもあった。

現在は、NHXもカットand/orコピー・ペーストというように、より容易になった。
文学賞の応募作品が作品が、別の作品に酷似していた、などとケースもしばしば耳にする。
人文・社会系では、学者の研究論文にも類似性が問題になることもある。
手軽にコピー&ぺ-ストできることもその引き金になるのではないだろうか。

現在でも、シンクタンクなどの成果物そのものの正本は、多くの場合、紙の報告書として提出されるのではなかろうか。
しかし、知的生産全般にわたって、電子媒体の占める比重が急速度で増えていることと思う。
特に、2010年は、電子書籍元年ともいわれるように、書籍の電子化において大きな進歩があった。
念のため、電子書籍をWikipediaでみてみよう(101221最終更新)。

電子書籍(でんししょせき)とは、古くより存在する紙とインクを利用した印刷物ではなく、電子機器のディスプレイで読むことができる出版物である。電子書籍はソフトウェアであるコンテンツだけを指すが、ハードウェアである再生用の端末機器(電子ブックリーダー)も重要な要素であり、本記事ではコンテンツと端末機器の両方について記述する。
呼称については電子書籍の他、電子ブック、デジタル書籍、デジタルブック、Eブックといった呼称が存在する。
コンテンツの流通と再生の方式の違いにより、以下の形式が存在する。
1. 携帯電話や携帯情報端末などで携帯電話ネットワークやインターネットからダウンロードして閲覧する
2. PC等でインターネットからダウンロードして閲覧する
3. PC等でインターネットからダウンロード後、さらに再生用小型機器にダウンロードして閲覧する

2010年が電子書籍元年と呼ばれるのは、以下のようなニュースを見ても頷けるであろう。
Photo
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/index/20101227_416904.html

確かに、端末を中心に、電子書籍に話題が賑わった。
iPadは社会現象といえるほどインパクトがあったし、GALAPAGOSはマイナス的なイメージを逆手に取った意欲が窺える。
しかし、書籍の本質は器にあるのではなく、中身(コンテンツ)にあるだろう。
その面からみるとどうだろうか。
次のような指摘がある。

「電子書籍元年」と騒がれた今年。一方、紙の書籍・雑誌の売り上げは、21年ぶりに2兆円を割り込んだ昨年を、さらに下回る見通しだ。電子書籍は出版界の救世主となるのか。先行きはまだ不透明だ。
出版科学研究所によると、今年1~10月の書籍・雑誌の推定販売金額は1兆5629億円で、昨年同期より3・5%減少した。年間でも昨年の1兆9356億円を下回るのは、ほぼ確実な情勢だ。電子書籍の市場規模は2009年度の推計で574億円(インプレスR&D調べ)だが、その9割は携帯電話向けのコミック。アップルのiPadを除けば、各社の電子書籍端末の発売が年末にずれ込んだこともあり、10年度も携帯向けコミックが市場の大半を占めると見られる。それ以外の電子書籍・雑誌が紙の本の減少分を補うには程遠い。
出版界の動きも「元年」と呼ぶには物足りなかった。3月に設立された日本電子書籍出版社協会はアップルなどの“黒船襲来”に備えて出版社が大同団結した意味合いが強く、個々の取り組みには、ばらつきがあった。日本語の縦書きやルビなどに対応する統一規格作りも、ようやく始まったところ。作家の平野啓一郎氏は新作電子化の記者会見で、「業界全体の足並みがそろっていない」と指摘した。米国に比べると日本では読む中身より端末が先行して広がり始めた構図が見える。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20101221-OYT8T00341.htm

私も、増え続ける紙媒体をいつも妻や娘になじられている身として、紙が電子化される可能性に期待するものは大きい。
新聞の切り抜き等はほとんどスキャンしてPDFの形で保持するようになった。
雑誌も、必要箇所をPDF化しつつある(わが家のスキャナーでは結構大変であるが)。

書籍についてはどうか?
未だ結論を出すほど馴染んでいない。
しかし、品揃えが拡大すればかなりの部分を電子化できるのではないかと思っている。
今ある蔵書についてはどうか? いわゆる自炊をするだろうか。
次のような記事がある。

紙の書籍や雑誌を電子データとしてパソコンや携帯端末に取り込む「自炊」を楽しむ人がじわじわ増えている。今年は米アップルの「iPad(アイパッド)」に続き日本のソニーやシャープも相次いで電子書籍端末を発売。これらを購入した人が、自分で所有している本も新端末で楽しんでみたいと始めるケースが多いようだ。
自炊には本の裁断が必要。書籍の背を裁断すると本は「紙の束」に変わる。自動給紙装置のついたスキャナーに束をセットすれば高速スキャンが可能になる。裁断作業は、「オフィスコンビニ」と呼ばれる事務補助店や印刷・製本業者で有料でやってもらう人が多い。ただし一部のマニアは手動裁断機とスキャナーの両方を自宅などに置いてすべてのプロセスを「手作り」で完結させる。作成した電子データを転売したりネット上に流出させると著作権侵害になるが、自分で使うなら私的複製の範囲内で問題ない。
愛好家は、アナログな作業によって「自家製電子書籍」というデジタルな成果物を生み出す、ある種の矛盾が魅力だと言う。だがそれを一歩引いてみると、コンテンツ不足という日本の電子書籍市場の課題が背景に浮かび上がる。

http://www.nikkei.com/news/print-article/g=96958A96889DE0E2E7E4EBEAE7E2E0E7E

裁断のところで身体的なハンディがどれくらい影響するか・・・・・・。
廉価で高速のスキャナが登場すれば、実用書のかなりの部分が電子化されることになるだろう。
しかし、本には愛玩物的な要素もある。モノとしての存在感は電子書籍にはない。
私自身、せっかく苦労して手に入れた稀覯本を裁断してしまう潔さは多分ない。
したがって、わが部屋がスッキリとした状態になることはないだろうなあ。

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2010年12月29日 (水)

「たちあがれ日本」との連立という発想に驚く

民主党の菅内閣が「たちあがれ日本(以下たち日)に連立を申し入れて、たち日が拒否したという。
結果的には当たり前のことだったといえるだろう。
民主党とたち日とでは、重なり合う部分がまったくといっていいほどないように思う。
私のような素人は、連立内閣というのは、多少でも理念が共通するものが構成するものだと思っていた。
しかしどうやらプロの政治家というのは別の発想をするものらしい。
私も、多数派を形成するために、小異を捨てて大同につくということが重要であることは認識している。否、むしろ世の中には小異を主張する人が多いのに閉口することが少なくない。
人は、他人とは異なる自己というものを自覚し、自分らしい商品やサービスを求める。
ビジネスにおいては、商品やサービスの差別化が重要であるといわれる。
たち日のホームページを見てみよう。
結党趣旨という項目がある。
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見るとおり、「第一の使命」として挙げられているのが「打倒民主党」である。
その民主党がこともあろうに、と私は思うが、連立を持ちかけるとは。
たち日と民主党の連立工作の発案者は誰かは分からない。
民主党は、参院でのねじれを解消することを狙って、相手かまわず連立を持ちかけている。
まず、公明党への働きかけを重ねたが、政治とカネをめぐる問題や世論の反応を重視する公明党の党風を読み切れず破談となった。
次に社民党との再連立を狙った。しかし、米軍普天間飛行場問題の確執から連立を離脱したのだから、ムリがある。
さらには、新党改革の舛添要一代表に協力を呼びかけたり、渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長が自民党の谷垣禎一総裁に2年限定の大連立を持ちかけるなど、慌ただしい。
しかし、どれもこれも失敗続きだ。
たち日との連立申し入れもその一環ということだろう。
「社民党に声をかけ、たちあがれに声をかけるというのは、精神錯乱というか、何を考えているのか。数さえあえばいいという、かなり末期的な状況だ」
たちあがれへの連立打診について聞かれた自民党の石破茂政調会長は27日の記者会見で、うんざりした表情で批判した。改憲をかかげるたちあがれと、護憲の社民党に時間をあけずに声をかければ双方から不審がられるのは当然だからだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101228-00000104-san-pol
菅内閣は、舵もエンジンも失って漂流している難破船のようなものではないのか。

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2010年12月28日 (火)

スマートフォンの可能性/知的生産の方法(3)

スマートフォンが人気を集めているようだ。
Wikipedia(101224最終更新)によれば、以下のようなツールを指す。

「PDA機能が付いた多機能携帯電話」と表現されることがある。携帯電話・PHS端末を出自とするもの、PDAを出自とするもの、ページャー(ポケットベル)、を出自とするものの三つに大きく分けることができる。 米国でのBlackBerry(ブラックベリー)のビジネスマンにおける爆発的人気から世界的スマートフォンブームが起こった。
日本国内で普及している携帯電話は、その大半にカメラ・電子メール・ブラウザ機能などが搭載されており、多機能である。しかし、「ワープロや表計算などのビジネスアプリケーションがない」「搭載OSの技術情報が非公開である」「それによってフリーウェア等の開発・導入が困難である」など、PDAと呼ぶには汎用性・カスタマイズ性が不足している。このことから、日本的な多機能携帯電話はスマートフォンに含めないのが通常である。

携帯電話は、文字通り携帯(持ち運び)できる電話機である。
それが進化して、ネットへの接続やメールができ、高機能のカメラとして利用できるなど、多機能端末となった。
特に、わが国の携帯電話は、世界的にも特異な姿の進化をしているとして、「ガラパゴス・ケータイ」などと呼ばれたりしている。

これに対し、スマートフォンは、電話もできる情報携帯端末といえよう。
情報端末の代表は、パソコン(PC)であろう。
PCも軽量のノート型あるいはネットブックと呼ばれる小型のものなどが開発され、携帯に便利になってきている。
しかし、カバンの中に入れて持ち歩くのはまだ重い。特に、私のような身体障碍者には決して優しくないものだ。

今や、知的生産、端的にいえば文章を書いたり、データを加工したりするのに、PCが有用であることは言うまでもない。
私は、報告書や企画書など、他人に向けて書く文書は、PCでないと書きはじめられないようになってしまった。
特に、右手が麻痺してからは、メモが取れなくなってしまったのでハンディキャップは大きい。

文書を自分でPCに入力して作成するようになったのは、1986~7年頃ではないかと思う。20年以上になることになる。
完全なブラインドタッチというわけではないが、基本的には両手で入力していた。
右半身が麻痺してからは、左手だけで入力しているが、ミスタッチが俄然多くなった。
つい、隣のキー、例えば<O>と<I>などを打ち間違えることが、両手のときに比べて多くなるのだ。

携帯電話は、いつの間にか必需品になってしまった。
元来電話そのものはあまり好きな方ではないと思う。ヒマさえあれば電話をするタイプの人がいるが、私は必要最小限の用事にしか使わない。
しかし、脳梗塞を発症した際には携帯電話のお蔭で命拾いをしたと思っている。
⇒2010年4月18日 (日):中間報告(4)初動対応と救急車の是非

リハビリ専門病院では、病棟に患者の使えるインターネット環境がなかった。
それで、入院前は、メールといえば専らPCメールを使用していたが、入院後は携帯メールを利用した。
片手で操作できるので、片麻痺患者にとってはきわめて有用であった。

そんなわけで、携帯とPCを兼ねたツールが出たとなれば、期待は大きい。
世間的にはiPhoneの人気が高く、身の回りの利用者もほとんどiPhoneを使っている。
しかし、アンドロイドのXperiaにした。Googleのオープン・ソースの考え方の方が面白いような気がしたからである。

なお、アンドロイドには、次のような問題があることを、梅田望夫さんが産経新聞の「ウエブ立志篇」101129『アンドロイド訴訟の背景』で知った。

そのアンドロイドをめぐって、興味深い訴訟が米国で進行中である。ソフトウェア大手の米オラクルが、アンドロイド開発過程で同社のソフトウェアの特許や著作権が侵害されたとして、グークルを訴えたのだ。クーグルも徹底抗戦の構えで、訴訟は長期化の兆しを見せている。

Xperiaを使った感想はどうか?
私が十分に使いこなしてはいないという限定付きの評価ではあるが、私のニーズには不適であった。
私は、PCで行っていた基本的な業務資料の閲覧と編集、ウエブサイトの閲覧、メール等に利用したいと考えていた。できればメモ帳としても。
しかし、ウエブサイトの閲覧くらいは何とかなるが、基本的には入力が困難なため、メールや業務資料などには向いていない。
もちろんメモ帳は論外である。
入力のしやすさはポメラには敵わない。
⇒2010年8月 5日 (木):障害者に優しいツール:ポメラ/中間報告(10)

Bluetoothを利用したキーボードもあるが、折角の携帯性の良さがキーボードを別に用意するのでは台無しである。
付言すれば、電池の消耗が早いという欠点もある。丸1日持つかどうかである。充電器具を同行する気にはなれないだろう。

話題のiPadは、半身不随の身には重すぎた。
⇒2010年9月19日 (日):新聞の未来と折込チラシ広告
なかなか適当なツールというのは難しいものである。

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2010年12月27日 (月)

脱「犬の道」/知的生産の方法(2)

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」』英治出版(1012)著者・安宅和人さんは、仕事のバリュー度は、「イシュー度」と「解の質」の2軸によって決まるとする。
Photo_3

そして、バリューのある仕事へ到達する経路として、「解の質」を上げることから始めることは絶対にやってはいけないという。
つまり、左下の象限から右上の象限に行くのに、上に行ってから左回りで右に行くことは、避けるべきだとする。
何故か?

世の中には、「問題」が山積している。そして、「問題かもしれない」と考えられていることの中で、本当に解くことに意義がある問題、つまりバリューのある仕事はほんの一握りに過ぎない。
ほとんどの「問題」は、「イシュ―度」の低い問題であり、いくら努力してみても、最終的なバリューは上がらない。
「努力と根性」を捧げても、報われない仕事なのだ。

タテ軸の「解の質」はキャリアによって向上する。
つまり、仕事をはじめたばかりの頃は誰でも低いのが当たり前である。
「イシュ―度」と「解の質」が共に低い状態では、「バリューのある仕事」は生み出せない。残るのは徒労である。
多くの仕事を質の低い仕事で食い散らかすと、仕事が荒れる。続けていると、高い質の仕事ができなくなる。

労働量によって上に行き、左回りで右上に到達する道を、著者は「犬の道」と呼ぶ。
「犬の道」を歩むと、ダメな人になってしまう確率が高い。

右上の象限に近づくために採るべきアプローチは、「犬の道」と反対回りをすることである。 Photo_3
すなわち、まず「イシュ―度」を上げることを考え、その後「解の質」を上げて行く。
言い換えれば、ビジネス・研究活動の対象を、意味のあることに絞ることである。

「イシュ―度」の高い問題に絞り込むことによって、問題に取り組む時間が大幅に増加する。
最初は「解の質」は低いが、徐々に確率は上がっていく。
やっても意味のない仕事を見きることによって、時間を生みだすのである。

それは、問題を如何に解くか(how)よりも、何を解くか(what)を重視するということであろう。
多くの場合、ビジネスの現場では、問題は「他人」から与えられる。
上司であったり、顧客であったりだが、いずれにしろ自分では選べない。
しかし、多くの類書が技法に力点を置くのに比して、先ず「イシュ―度」を考えよ、という指摘は斬新ではなかろうか。

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2010年12月26日 (日)

「麗し大和」と法隆寺論争/やまとの謎(21)

産経新聞で1年間連載された「麗し大和」の連載が、今日の「悠久の法隆寺」で終了した。

最後はここと決めていた。夕闇迫る悠久の法隆寺。創建は607年と平城京より100年ほど早く、一度焼けて再建されたのが平城遷都のころという。あかね色に浮かぶ五重塔のシルエットは、当時とほとんど変わらないだろう。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101226/acd1012260701002-n1.htm

担当は「文 山上直子」と記されている。記者だろうが、さすがに名文である。
今年の前半は山中のリハビリ専門病院に入院していたので、ほとんど目にしていない。
奈良へ旅行に行こうという話がまとまって、その参考資料を準備する中で、連載のバックナンバーをインターネットから集めた。
そして、尋ねてみるつもりのある場所と関連する記事を編集して、同行する仲間に渡して予備知識とした。

法隆寺も、もちろん行きたいリストに入っていた。
しかし、旅行のスケジュールには「麗し大和」の記事は間に合わなかった。
法隆寺といえば、「再建・非再建論争」が有名である。
Wikipedia101022最終更新を見てみよう。

日本書紀巻27に「夏四月癸卯朔壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無餘」(天智天皇9年・670年に法隆寺は一屋余すところなく焼失した)という記事がある。この記事の真偽をめぐって、現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子創建時のものであるとする説と、670年に全焼した後、再建したものであるとする説とが鋭く対立し、いわゆる「再建・非再建論争」が起きた。
・・・・・・
法隆寺ではこの寺は聖徳太子創建のままであるという伝承を持っていた。しかし、明治時代の歴史学者は『日本書紀』の天智天皇9年(670年)法隆寺焼失の記述からこれに疑問を持ち、再建説を取った。これに対して建築史の立場から反論が行われ、歴史界を二分する論争が起こった。再建派の主要な論者は黒川真頼、小杉榲邨(こすぎすぎむら)、喜田貞吉ら、非再建派は建築史の関野貞、美術史の平子鐸嶺(ひらこたくれい)らであった。

以後、多くの学者が参画する論争となった。
若草伽藍の発掘調査等により、再建説が決定的となったと思われていたが、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって最も外側の年輪が591年のものとされており、なぜそんなに古い木材が使用されたのか謎である。
古田武彦氏の「九州王朝説」の支持者らは、再建法隆寺は、大宰府の観世音寺等から移築されたとの説をとっているが、現時点では異端の説に留まっているように思われる。

鋭い感受性で多くのファンを魅了した作家の立原正秋氏が亡くなって30年になる。
立原氏は、『一小説家の感想』と題するエッセイで、この論争について次のように書いている。

戦争末期の頃、私は『法隆寺再建非再建論争史』という本を読んだことがある。昭和二十年の春ではなかったか、と思う。
・・・・・・
つまり、法隆寺は一度焼けうせて再建された、という説と、再建されなかった、という説と、焼けたが焼ける前と寸分たがわぬように再建された、という説が、歴史学的に建築学的に、明治のはじめから論争された経緯をまとめた本であった、とおぼえている。
昭和二十年春といえば、私個人にとってはもっとも暗い年であった。そうした時代に、法隆寺が再建されたかされなかったか、という論をよんで、私は一条の光を垣間みた気がした。判らないなりに感じたことだが、それは純粋に学問的な論争であった。論争そのものにも感心したが、論争をよそに、戦争をよそに、法隆寺が現存していること自体が私にはひとつの感動であった。

山上さんも「人の寿命などはるかに及ばず、まるで昨日建ったかのようにたたずむ威容にただ心打たれて」と書いている。
また、立原氏の小説『春の鐘』は奈良が舞台になっているが、その一節に次のような文章がある。

この法隆寺については一つの感動的な話がある。 いや法隆寺だけでなく奈良,京都, 鎌倉がその恩恵を受けているわけだが, あの大きな戦争で日本の大都市が空襲を 受けたのに, 奈良や京都の寺院は空襲を受けなかった。 というのは,当時,アメリカ のハーバード大学で東洋美術を研究していた人にウォーナーという博士がいた。 彼は東洋美術の学者達をあつめ, 日本の文化財のうち重要な個所には爆撃を加え ないよう除外すべきだ,と目録をつくった。 アメリカ軍はその目録をもとに日本の文化財に爆撃を加えなかった。 ウォーナー博士は目録の筆頭にこの法隆寺をあげていた。 文化財は単に日本だけのものではなく人類の遺産だという考えがあったのだと思う。

「ウォーナー博士のお蔭」説には異論もあるようだが、人類の遺産であることに違いはない。

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2010年12月25日 (土)

イシュードリブン/知的生産の方法(1)

知的生産の技術の分野に、久しぶりに快著が出現したのではないだろうか。
安宅和人『イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」』英治出版(1012)である。
私は若い頃、リサーチファームに所属していた時期があり、それはいま振り返ってみれば私の修業期間だったと言えるかも知れないが、その頃から知的生産の方法については、少なからぬ関心を抱いてきた。

その職場では、仕事の性格上から、調査・リサーチの方法論について悩むことが多く、同じような悩みを持つ仲間と議論し、方法論を模索した。
そして、行きついたのが、「思考技術」という言葉だった。
専門横断的な知の方法論となるものは、畢竟するところ、思考ではないか、というのが結論だった。
当時、参考としうる成書はほとんど見当たらなかった。

梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』岩波新書(6907)が、ベストセラーとして版を重ねていた。
⇒2010年8月 7日 (土):知的生産者たち/梅棹忠夫さんを悼む(18)
もちろん、啓発されることは多く、ファイリングやカード等のしくみを取り入れていた同僚もいた。
しかし、われわれが求めたのは、思考そのものの方法論であり、梅棹さんは、そのための環境整備について語っていた。

今でこそ思考技術や分析などの言葉を冠した書物が数多く出版されている。
中でも斎藤嘉則さんや後正武さんさらには船川淳志さんなどの書かれたものは、多くのビジネスパーソンの参考になるものと思われる。
あるいは、野口悠紀雄さんの「超」シリーズなども益するところが多いのではないか。
また、道田泰司&宮元博章/(まんが)秋月りす『クリティカル進化(シンカー)論―「OL進化論」で学ぶ思考の技法』北大路書房(9904)が出た時には、拍手喝采を送りたいような気がした。
⇒2010年9月22日 (水):クリシンはどこへ行った?

しかし、である。
ロジックツリーやMECEや「空雨傘」などは、もう十分に解説されているのではないだろうか。
これらの重要性や必要性はよく分かる。これらの欠如したビジネス思考はあり得ない。
しかし、それだけでいいのか?
著者の問題意識もその辺りにある。

著者は問う。

「<考える>と<悩む>、この2つの違いは何だろう?」
僕はよく若い人にこう問いかける。あなたならどう答えるだろうか?

著者の答えは次のようである。

「悩む」=「答えが出ない」という前提のもとに、「考えるフリ」をすること
「考える」=「答えが出る」という前提のもとに、建設的に考えを組み見立てること
この2つ、似た顔をしているが実はまったく違うものだ。
・・・・・・
特に仕事(研究も含む)において悩むというのはバカげたことだ。
仕事とは何かを生み出すためにあるもので、変化を生まないとわかっている活動に時間を使うのはムダ以外の何ものでもない。これを明確にしておかないと「悩む」ことを「考える」ことだと勘違いして、あっという間に貴重な時間を失ってしまう。

それはそう思う。
しかし、悩みが尽きないのが一般人ではないか。

イシュードリブンというのは、タイトルの示しているように、「イシューからはじめる」ということである。
イシューとは、さしあたって解くべき問題と考えればいいだろう。
著者は、仕事のバリュー度は、「イシュー度」と「解の質」の2軸によって決まるとする。
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2010年12月24日 (金)

ウィキリークスをめぐる謀略の匂い

ウィキリークス創設者のジュリアン・アサンジが逮捕されたのは、強姦容疑である。
それについては真偽が不明ではあるが、次のようなことだという。
『ウィキリークスのジュリアン・アサンジっていったい何者か』(日経ビジネス オンライン101224)

事件が起きたのは今年8月中旬のことである。
アサンジはスウェーデンで開かれた報道の自由についてのセミナーに招待された際に、主催者の一人だったアナ・アルディンさん(31)から「自分の留守中アパートに泊まらないか」と提案されたという。
彼は、アルディンさんとベットを共にしたが、アルディンさんは警察に対して「私が寝てしまったときにアサンジは性交を強要。私が避妊具を付けるように頼んだのを無視してセックスをした」と供述した。
スウェーデンの刑法では、「女性が避妊具をつけることを要求したにもかかわらず、これを無視して、性交に及んだ場合は強姦とみなす」との条文があり、アサンジは強姦容疑を被せられた。

この強姦容疑は、アサンジ側に言わせると「完全なでっち上げ」ということになる。
アルディンさんは左翼シンパとがされているが、それは「隠れ蓑」で、実際にはCIAの工作員だという。
米情報サイト「Raw Story」によると、アルディンさんはキューバに留学中に、CIAが資金を支援している反カストロ・フェミニスト団体「Las damas de blanco」(白い服の女たち)に所属していたという。
CIAがアルディンさんを使ってアサンジを「強姦容疑」で告発させ、逮捕されるよう仕組んだことは十分にあり得ることだろう。

アサンジのターゲットはアメリカ政府だけではない。
彼は「ニューヨーカー」のインタビューで述べている。

ウィキリークスの究極の標的は、一般大衆を抑圧し、言論の自由や人権を抑圧しているアフリカやアジアの国々――中国やロシア、さらにはミャンマーなど――の独裁政権の極秘文書を暴き、全世界の人たちに知らせることです。無論、その前に、不法かつモラルに反する政策を一般大衆に押し付けている支配権力に立ち向かおうとしている西側諸国の人たちを支援するのが先決です。彼らのために極秘文書をリークする。今はそれが大事なことだと思っています。

ウィキリークスの矛先は、将来的には、中国共産党一党独裁政権や金正日世襲独裁政権にも向けられることになろう。
ここで語られているウィキリークスの理念そのものは否定すべきではないように思われる。
問題は、その力が大きすぎる脅威となることである。
インターネットは人が作り出したツールである。
それは原子力と同じように、利用の仕方如何によって、大きな力にもなるし、大きすぎる脅威にもなる。

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2010年12月23日 (木)

インターネット時代における情報の保秘と公開

わが国でも、情報の保秘に関する問題が議論されている。
尖閣諸島における中国漁船衝突事件のビデオ映像流出問題や警視庁のテロ情報流出問題である。
ウィキリークスの功罪については、未だ判断を下すのは早いと思われる。
アサンジは次のように言う。

「透明性が高くオープンであることは、多くの場合、そうしたゴールに社会を導く傾向がある。なぜならば、権力を乱用する計画や振る舞いは市民の反対を受け、権力者がそうした計画を実施する前に人々の反対に遭うことになるからだ」
政府がわざわざお金をかけて特定の情報を秘密にし、人々に知られないようにするということは、一般の人々に知られては都合の悪い情報だからである場合が多い。そこでこうした秘密を暴くこと(透明性)で権力の乱用を防止し、より公正な社会の実現に寄与することが、ウィキリークスとその活動を支援している人たちが望んでいることだ、とアサンジは述べている。

『ウィキリークスを作るために生まれた男』

尖閣諸島の中国漁船衝突ビデオを、わが国政府は秘匿する方針をとった。
その理由は、当初は裁判上の証拠ということであったが、実際上の判断根拠は不明である。
海保職員が職務違反という形でそれを公開した。
私は、石原都知事と同様に、「結構なこと」と考える。
⇒2010年11月 9日 (火):政府は、誰に対し、何を謝罪するのか?

本来は、政府が堂々と全面公開べきものであったとは思う。
結果として、ビデオ流出を実行した海保職員は停職処分を受け、辞職するに至った。
彼はウィキリークスを利用すべきだったのか?
私はウィキリークスに頼ることなく、実行者が自ら名乗り出ることができる社会の方が好ましいと考える。
しかし、世界には、ウィキリークスのような形でなければ情報を発信できない国もあるのだ。
保秘の判断を下した政府当局は現時点でどう考えているのだろうか。
菅首相の懲戒処分に対するコメントは以下の通りである。

尖閣沖の漁船衝突映像流出事件で、警視庁は22日、流出させたと認めた海上保安官を書類送検した。海上保安官はこの日、海上保安庁から停職処分を受け、その後、退職した。これについて、菅首相は「実際にそういう行為を行った人に対して、しっかりとした一つの処分が行われたと、このように受け止めています」と語った。
http://news24.jp/articles/2010/12/22/04172891.html

遵法は大事だという一般論であり、首相にそれ以上の発言を求めるのは無理というものだろう。
しかし、問題の本質は、別のところにある。
これで幕引きとなるのでは、釈然としない気持ちが残るのは否定できない。
一方、警視庁のテロ情報が漏洩した事件は、決して公にされるべきではない情報が表に出てしまった事案といえよう。

インターネットの最大の特徴は、障壁がないことであると思う。
誰もが容易に世界中に情報発信できる。
その影響力は別として、である。
ひとたび発信された情報は、瞬く間に増殖する可能性を持っている。
YouTubeの中国漁船衝突ビデオは、オリジナルが削除されてもコピーが大量に出回った。
それは、限りなくコスト0でコピーできるデジタル情報というものの本質による。

インターネット時代になって問題が大きくなったのは、プライバシーに係わる情報であろう。
個人情報に関する取扱いが、「そこまでやるか」というほど神経質になっている。
私も住んでいるマンションの管理組合の理事長を輪番でやったことがあるが、防犯・防災等のためにはある程度詳しいデータを盛り込んだリストが必要で、兼ね合いに悩んだ記憶がある。

プライバシーという言葉が一般化したのは、三島由紀夫の小説『宴のあと』が、有田八郎氏(元外務大臣)からプライバシーを侵害したとして訴えられた事件以降であろう。
東京地裁の判決(昭和39年9月28日)で、「私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利」としてのプライバシーの権利を承認したケースである。
プライバシーの侵害による不法行為の成立要件として、判決は次の基準を示した。
http://www.hogen.org/research/paper/jp/

1.公開された内容が私生活の事実またはそれらしく受けとられるおそれのある事柄であること
2.一般人の感受性を基準にして当該私人の立場に立った場合公開を欲しないであろうと認められること
3.一般の人々に未だ知られない事柄であること

プライバシーの問題は、必ずしも悪意をもったものでなくても、当事者が公開により不快、不安の念を覚える場合もあり、しかもそのことには個人差がある。
一般に、情報を流出させた側は極めて小さなリスクであるのに対し、情報を流出された側は大きなリスクを被る。
リスクの非対称性である。
ウィキリークスもその非対称性を利用したリアル社会での弱者の戦略といえよう。

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2010年12月22日 (水)

本格的なインターネット戦争

米国政府は各国政府や民間企業と連携して、ウィキリークスに対する国際的な包囲網を形成し、創設者のジュリアン・アサンジを逮捕に追い込んだ。
一方、ウィキリークスを支持するネットの「反乱勢力」は、世界規模でサイバー攻撃を仕掛け、世界で初めて本格的な「インターネット戦争」が展開されている。
菅原 出『ウィキリークスを作るために生れた男』(日経ビジネスオンライン2010年12月22日号)

ウィキリークスは一つの非政府組織に過ぎない。
それが、冷戦時代のソ連ですらできなかったほどの大打撃を米国政府に与えている。
そこに、インターネットというメディアの持つ威力がある。

アサンジを支持するのは、具体的な勢力はどんな人たちで構成されているのか?
アサンジが保釈後向かったのは、ロンドンの北東190キロほどに位置するイースト・アングリアのエリングハム・ホールといわれる。
そのオーナーは元英国陸軍の将校でビデオ・ジャーナリストのボーガン・スミスという人で、ロンドンを拠点とする「独立と透明性」を求めるフリー・ジャーナリストたちの集まりである「フロントライン・クラブ」の創設者である。
スミスは、1500名におよぶ同クラブの会員を代表してアサーンジへの支持を表明し、エリングハム・ホールをアサンジに提供したことを明らかにしている。

日本ではアサンジを、「機密情報を暴露した胡散臭い元ハッカー」といったイメージが強い。
しかし、アサンジは広範なネットワークによって支えられている。
例えば、ミック・ジャガーの元妻で映画監督、人権活動家として名高いビアンカ・ジャガーや反ブッシュ映画で有名な映画監督マイケル・ムーアなどである。

アサンジは、政府や企業などの“組織が秘密にしようとしている情報”、“公の目から隠そうとしている情報”を白日の下に晒すことがウィキリークスの主たる活動であるとし、その究極的な目的について次のように述べている。

われわれのゴールはより透明性の高い社会を実現することではなく、より公正な社会を実現することである。透明性が高くオープンであることは、多くの場合、そうしたゴールに社会を導く傾向がある。なぜならば、権力を乱用する計画や振る舞いは市民の反対を受け、権力者がそうした計画を実施する前に人々の反対に遭うことになるからだ

特定の情報を秘密にするのは、知られると都合の悪い情報だからである。
政府がそういう行動をとるならば、その秘密を暴くことは、権力の乱用を防止し、より公正な社会の実現に寄与するであろう。
ウィキリークスとその活動を支援している人たちはそう考えている。

これは権力を監視しチェックする機能としてのジャーナリズムの本質的な役割と共通している。
アサンジが、みずからを「ジャーナリスト」として規定するゆえんである。
国内メディアは、国家の権力構造の中に多かれ少なかれ組み込まれている。
これに対し、ウィキリークスは国際的な組織で一国家の利益を超えているから、国家の圧力に屈することがない。
米国という超大国と敵対しながら活動を続けるアサンジとウィキリークスは、反米、反権力のシンボル的な存在になっている。

菅原氏は、アサンジの生い立ちをトレースし、次にように要約する。

ジュリアン・アサンジという人物が極めて特異な環境で生まれ育ったエキセントリックなキャラクターであることが容易に想像できるであろう。公教育を拒否するほど国家の権威に対する激しい反発心を持つ母親に育てられ、父親の暴力に怯え逃げ隠れた経験を持ち、コンピューターにのめり込み高度なハッキング技術を身に付け、政府と戦う上で内部情報を含めた秘密情報がいかに有効かを体験した男…。アサンジはまさにウィキリークスを立ち上げるべくこの世に生を受けたような存在である。

ウィキリークスの最大の特徴は、暗号化をはじめとする高度なコンピューター技術と、主要な機能を多国に分散して配置する多国籍運営体制である。
また、世界中で20か所以上のサーバーを利用し、「ミラーサイト」の数もすでに数百に上ると言われている。
特定の国家からの圧力に対して、きわめて抵抗力のある仕組みである。
アサンジは、「ウィキリークスを潰そうと思ったらインターネット自体を破壊しなくてはならない」と豪語している。

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2010年12月21日 (火)

ウィキリークスの創設者・アサーンジの人物像

ウィキリークスに対しては、賛否両論が鋭く対立している。
といっても、われわれが目にする論調は、創設者を悪人と決めつけるものが多いようだ。
ウィキリークスのように機密情報を勝手に漏洩されては、秩序が保てない。創始者のアサーンジは犯罪者だ。何より、彼はインターポール(国際刑事警察機構)の指名手配を受け、ロンドン警視庁に逮捕されているではないか。

「週刊文春101223号」の上杉隆特別レポート『日本人が知らない「ウィキリークス」創設者アサーンジの「正体」』は、このような見方は、陰謀によるもので誤りだという。
世界の多くのジャーナリストが、アサーンジを支持している。彼の祖国オーストラリアでは、外相などの閣僚も彼を支持している。

アサーンジの逮捕容疑は、「強姦」である。
しかし、その中身は、性行為において避妊具を使用しなかったり、避妊具が敗れたものだという。
インターポール(ICPO)といえば、国際的な犯罪組織を摘発する組織といったイメージが強い。
Wikipedia(10209最終更新)の解説は次のようである。 

主な活動は、国際犯罪及び国際犯罪者に関する情報の収集と交換、国際会議の開催、逃亡犯罪人の所在発見と国際手配書の発行である。 映画・テレビ・漫画などのフィクションでは「国際警察」のような描かれ方をするが、実体はそのような大規模な組織ではなく、各国法執行機関の連絡機関・協議体としての性格が強い。

それにしても、アサーンジの逮捕容疑とのギャップは大きい。
私のように、ウィキリークスの活動によって逮捕されたのだと誤解している人も多いだろう。
EUの取り決めでは、当事国への引き渡しは逮捕後90日以内である。

アサーンジの身に何かあれば、パスワードが自動的に発行され、機密資料が全世界にばら撒く用意ができているという。
そうなれば、パックス・アメリカーナの世界秩序は崩壊することになる。
だからこそ、米国と巨大企業は戦時体制のような体制を敷いているのだ。
にもかかわらず、日本人の大多数はあまりに無頓着ではないか、と上杉氏は憂慮する。
メディアは、海老蔵事件でもちきりである。

アサーンジは、オーストラリアの旅芸人の家に生まれた元ハッカーである。
彼がオーストラリア最大の新聞「オーストラリアン」紙に寄稿したウィキリークスの意義を訴えた主張を、上杉氏は紹介している。

ウィキリークスが編み出したのは、「科学的ジャーナリズム」という新しいタイプのジャーナリズムである。私たちが他の報道機関と連携してはたらくのは、人々にニュースを伝えるためもあるが、報じる内容が事実に間違いない、と証明するためでもある。科学的ジャーナリズムにおいては、ニュース記事を読んだその人が、記事のベースとなる元の記事までクリックしてみることができる。

アサーンジの原点は、反人権主義、非人道的政策への監視であった。
しかし、彼の活動は、アメリカ政府にとって許し難いものだった。
安全保障上の機密が漏れ始めたのだ。
米国政府は、アサーンジをテロリストとして糾弾するようになる。

有力議員や米政府の意向を受けてウィキリークスの関係を絶った大企業がサイバー攻撃の標的となった。
ウィキリークスに批判的な企業のサイトが次々に停止を余儀なくされた。
世界中で情報戦争が始まっている。
当然、それは日本にも及んでいる。
しかし、それに気づいていないのは当の日本人だけではないか、と上杉氏は危惧している。

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2010年12月20日 (月)

『万葉集』とウィキリークス/やまとの謎(20)

『万葉集』とは何か?
Wikipedia(101214最終更新)によれば次の通りである。

『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)とは7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3)以後とみられる。日本文学における第一級の資料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な資料である。

日本の現存する最古の歌集ということは小中学生でも知っているが、『日本書紀』や『古事記』などの歴史書との関連性については多くの論点がある。
そのごく一部に触れたことがあるが、まさに豊かな(未知の)大海を前にして、小島の磯で戯れている子どもであろう。
⇒2008年8月 8日 (金):2年目を迎えて

しかし、戯れること自体が楽しみなのだ。
⇒2008年6月 5日 (木):『万葉集』とは?
⇒2008年6月 6日 (金):『万葉集』とは?…②日本という国の青春期
⇒2008年6月 7日 (土):『万葉集』の編纂過程
⇒2008年7月18日 (金):『万葉集』とは?…③大浜厳比古説
⇒2008年10月16日 (木):小林惠子氏による『万葉集』の解読
⇒2008年10月 5日 (日):『万葉集』と志貴皇子

関祐二『なぜ万葉集は古代史の真相を封印したのか (じっぴコンパクト新書)』実業之日本社(1009)は、『万葉集』は稗史ではないか、という視点に立って歴史を読み解こうとする。
稗史とは、「正史」の対語で、民間の細々としたことを記録したもの、である。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%A3%BB%CB
つまり正史から抹殺された本当の歴史を後世に伝えようとしてリークしようとしたものではないか、ということである。
関氏は、情報は大切であるからこそ、迅速に伝わる一方で秘匿され、それが漏洩される、という。
その繰り返しが歴史なのだ。
そして、政争の勝者は、正史を編む。
『日本書紀』や『続日本紀』である。
政争に敗れた側の「弁明」の書が稗史である。
『万葉集』は、正史によって抹殺された貴重な情報を提供しているのかも知れない。
情報の秘匿と漏洩の問題は、現代でもますます重要化してきている。
ウィキリークス(Wikileaks)が、賛否両論の話題を集めているのは、まさにそれを示しているだろう。
改めて説明するまでもないが、WikileaksとはWikipedia(101213最終更新)で次のように解説されている。

ウィキリークス (WikiLeaks) は、匿名により政府、企業、宗教などに関する機密情報を公開するウェブサイトの一つ。創始者はジュリアン・アサンジ。投稿者の匿名性を維持し、機密情報から投稿者が特定されないようにする努力がなされている。2006年12月に準備が開始され、それから一年以内に120万を超える機密文書をデータベース化している。ウィキリークスの運営には、MediaWikiに変更を加えたソフトウェアを用いている。

要するに、組織的に体制批判、内部告発をしようということだろう。
創始者のアサンジ氏が、ロンドンでイギリスの警察当局に12月7日に逮捕された。
アサンジ氏はスウェーデン国内での婦女暴行容疑でスウェーデン当局が逮捕状を取り、国際刑事警察機構
(ICPO)が国際指名手配していたが、アサンジ氏が自ら出頭した。アサンジ氏は容疑を否定し、陰謀だと非難している。
アサンジ氏は、12月16日に保釈され、「わたしは仕事を続けたい。無実も訴え続けたい」などと話したという。

WikipediaやWikileaksのWikiというのは、ハワイ語の「Wikiwiki」が語源で、「速い」「急ぐ」「形式張らない」といった意味がある。
ウィキでは通常、誰でも、ネットワーク上のどこからでも、文書の書き換えができるようになっているので、共同作業で文書を作成するのに向いている。
この特徴から、ウィキはコラボレーションツールやグループウェアであるとも評される。
良し悪しはともかく、インターネット時代を象徴するものである。

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2010年12月19日 (日)

江戸の仕掛け人-蔦屋重三郎

昨日、東京ミッドタウンのサントリー美術館で開催されていた「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」を見てきた。
発症後美術館は遠い存在だったし、雑踏の中を歩くのも心配だったが、思い切って出かけた。
Photo_2

蔦屋に関しては写楽との関連で、かねてから関心を持っていた。
こつ然と現れて消えた謎の絵師・写楽。

およそ10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版した後、浮世絵の分野から姿を消した。本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている
Wikipedia101212最終更新

Photo_3ドイツの美術研究家ユリウス・クルトがレンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家と激賞した写楽。
活動期間は10か月。作品総数は役者絵が134枚のほか、全部で160点ほど。
その正体は謎に包まれている。
写楽とは何者か? 多くの人が論考を著わしている。

その写楽作品のすべてを出版した男・蔦屋重三郎。
人の才能を見抜き、面倒見がいい。写楽だけでなく、今回の展覧会のタイトルからも分かるように、歌麿の美人画や山東京伝の洒落本を手掛け、曲亭馬琴や十返舎一九などの世話をした。

展示は以下のような構成で、蔦重の世界をバランスよく理解させるものとなっていた。
第1章 蔦重とは何者か? ― 江戸文化の名プロデューサ―
第2章 蔦重を生んだ<吉原> ― 江戸文化の発信地
第3章 美人画の革命児・歌麿 ― 美人大首絵の誕生
第4章 写楽“発見” ― 江戸歌舞伎の世界

膨大な作品が出展されていた。
会期も終わり間近(12月20日まで)ということもあるのだろうが、大変な賑わいぶりだった。
たまたまタイミングよく出席できた「フレンドリートーク」というスライド解説が参考になった。
特に、写楽のデビューに際し、豪華な黒雲母摺の役者大首絵を28枚同時に出すという鮮烈な演出をしたこと、出版物にしばしば蔦重本人の姿が登場し、店の広告塔的な役割を担っていたという話は、プロデューサー魂が感じられ、面白かった。

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2010年12月18日 (土)

小澤征爾さんの活動復帰を慶す

Photo_2小澤征爾さんが、ニューヨークのカーネギーホールで、ブラームスの交響曲第1番を指揮して健在なのを示した。
小澤さんは、食道がんのため今年1月から休養していたもので、活動休止からの本格復帰を果たした。
多くのファンがほっとしていることだろう。
小澤さんは、気心の知れたサイトウ・キネン・オーケストラを率いて気迫のこもった演奏を披露したそうだ。
http://www.sankei.jp.msn.com/world/america/101215/amr1012151826013-n1.htm

サイトウ・キネン・オーケストラは、桐朋学園創立者の一人である斎藤秀雄の没後10年記念として斎藤の弟子である小澤征爾と秋山和慶を中心に、国内外で活躍する斎藤の教え子たちが結集し1984年9月に東京と大阪で開かれた「斎藤秀雄メモリアル・コンサート」で臨時編成された桐朋学園斎藤秀雄メモリアル・オーケストラが母体のオーケストラである。Wikipedia100923

私は、受験生の頃、人に勧められて、斎藤秀雄の父親の齋藤秀三郎の『熟語本位英和中辞典』を使ってみたことがある。
その人は絶賛していたのだが、私の英語力ではその有難味を実感し得なかった。

毎年、長野県松本市で「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が開催されている。
私も行ったことがあるが、一般にはなかなかチケットが入手できないほどの人気である。
ある年の小中学校時代の同窓会で、出席していた同級生が松本に嫁いでいて、同フェスティバルにも協力していることが分かって大いに盛り上がった。
何回か、彼女のツテでチケットを確保してもらったが、地元の人でも大変らしい。

小澤さんには、「世界の」という形容詞がつくことが多い。
国際的な場で活躍している日本人は少なくないが、小澤さんはその先駆者であろう。
征爾の名前は、板垣征四郎の征と石原莞爾の爾をとって命名されたという。
満州青年連盟などの運動に携わった征爾の父・小澤開作が2人に傾倒していたことを物語っているが、現在の征爾さんの活動と、われわれが持っている「板垣-石原」のイメージは結び付けがたい。

「智謀の石原、実行の板垣」などと称せられていたようであるが、この2人は一時期の満州を牛耳っていた実力コンビであった。
小澤征爾の父親は、「満州国」に託された理想、五族(漢・満・蒙・朝・日)が協和してつくる王道楽土という一種の理想郷の建設への共鳴者であった。
東アジアにどういうビジョンを持って向き合うかは、現在に持ち越された課題といえよう。

石原莞爾は、満州事変の中心人物として悪名高い。
一方で、その先見力を高く評価する人も多く、カリスマとして神格化されていることすら少なくない。
あの市川房枝ですら、『石原莞爾全集』のパンフレットに「石原讃辞」を書いているほどである。

市川房枝は、私たちのイメージでは、組織に頼らない個人的な支援者が手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えず、「理想選挙」とまで言われた人の印象が強い。
元祖勝手連である。
現首相の菅氏も、市川の選挙スタッフを務めたことが政治活動の原点である。
石原莞爾とは異質のような気がする。

しかし、戦争中は、市川は国策(戦争遂行)への協力姿勢をみせていた。
そのことで、婦人の政治的権利獲得を目指すべく評論活動を行うことを確保しようとしたのだという。
しかし、最終的には、翼賛体制に組み込まれて、大日本言論報国会理事に就任している。

同じ職業軍人として活動した人でも、石原莞爾は、例えば東条英機などとは対照的な評価をされている。
石原は、戦争を研究して、そこに内在する法則性を抽出し、いずれ東亜とアメリカが太平洋を挟んで争う最終戦争になると予測した。
そして、その後にはじめて地球上から戦争は無くなる、とする「最終戦争論」(昭和15年)の提唱者として知られている。
最終戦争の時期は30年後内外であり、50年後くらいには世界が1つになるだろうというのがその予測である。

一時期、オウム真理教が、ハルマゲドンだとか世界最終戦争を呼号したことがあった。
もちろん、石原の戦争論と似て非なるものである。
石原は、時期を設定しており、かつ過去の歴史から抽出した法則性を根拠にしているから、予言や予想の類ではない。
石原の考えは現在でも文庫版で入手可能である。
⇒『最終戦争論 (中公文庫BIBLIO20世紀)』中央公論新社(0109)
オウム真理教の思考については、下記が参考になる。
⇒大澤真幸『虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争 (ちくま新書)』筑摩書房(9606)

注目したいのは、東亜とアメリカの決勝戦の前に東亜の内部で不要な戦線拡大をすべきではない、としていることである。
満州事変は石原の自作自演とも言えるが、その後は対支戦線不拡大論者であった。その辺りが、いたずらに戦線を拡大して泥沼にはまり込んだ東条英機などとの評価との分かれ目にもなっている。
当時の帝国日本は、閉塞状況を打破するために、満州に活路を見出そうとした。
今から振り返ると無理であり無茶でもあるが、当時は理想郷を実現しようというロマンを抱いた人も多かったのである。
小澤征爾の父親の小澤開作もその1人だった。

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2010年12月17日 (金)

聖徳太子(ⅰ)/やまとの謎(19)

私が若年の頃、聖徳太子は高額紙幣、いわゆるお札の代名詞だった。
Photo_2 昭和25年に、聖徳太子の肖像の千円券が発行された。
まだ戦後復興の時代である。

高度成長が始まるとより高額な紙幣の需要が高まり、昭和32年に五千円券が、続いて昭和33年に一万円券が発行された。
両券種とも聖徳太子の肖像が使われ、上位3券種がすべて聖徳太子ということになった。
「お札といえば聖徳太子」のイメージが強くなったのも当然である。

世界のお札の約70%に、その国の有名人の肖像が印刷されているといわれる。
それは、肖像が、その国の独自性(アイデンティティ)を表現するのに好都合であることと共に、覚えやすく見分けがつけやすいことなどから、偽造され難いからである。
現在は周知のように、聖徳太子は、その役割を終えわれわれの前から姿を消したが、もし手にすれば有効な紙幣である。

歴史学においても、聖徳太子像に対する見直しがなされているようである。
私が入院中に読んだ数少ない本の中で、大山誠一『天孫降臨の夢―藤原不比等のプロジェクト (NHKブックス)』日本放送出版協会 (0911)は刺激に満ちたものだった。
入院という事態は、読書環境としては、個室はどうか分からないが、私のように相部屋だと、適・不適の両面がある。
部屋のTV等はイヤフォンを使用することになっているが、実際には結構守られていない。
それよりも、自分の心身の状態が、不適である。ページを押さえるなどのちょっとした動作にも右手が使えない。

そんな状況の中だから、1冊の本を読了するのに結構骨が折れる。
大山氏の上掲書は、発症前に抱いいていた日本古代史の「もやもや感」を、完全にとはいかなくてもかなり晴らしてくれたような気がした。
大山誠一氏は、『「聖徳太子」の誕生 (歴史文化ライブラリー)』吉川弘文館(9904)などにより、『日本書紀』に記された聖徳太子像がフィクションであることを、文献史学者として鮮明に訴えた学者であることは知っていた。

私は史学界の事情に疎いが、通説的な古代史が「坂本パラダイム」という史観をベースにしているらしいことは聞きかじっている。
坂本太郎氏の人物像は以下の通りである。

坂本 太郎(さかもと たろう、1901年(明治34年)10月7日 - 1987年(昭和62年)2月16日)は、日本の歴史学者。東京大学・國學院大學名誉教授。文学博士(1937年・東京帝国大学)。専門は日本古代史。静岡県出身。太平洋戦争終戦直後の混乱した東京大学国史学研究室の再建と、東京大学史料編纂所での史料編纂事業の復活および興隆に尽力した。
Wikipedia101130最終更新

私の高校時代の日本史の教科書は、坂本太郎氏の手になるもの(好学社版)だったと記憶している。
日本史のアカデミーの最高に位置している人だろう。
その坂本氏に、『聖徳太子』(人物叢書178)吉川弘文館(7912)という著書がある。もちろん聖徳太子を実在した人物として扱ったものだ。
大山氏は、研究者としては当然のことともいえるが、その日本史の主流に掉さしたのである。野次馬的にみれば、ドン・キホーテのようにも見える。

大山説は、アカデミズムの世界では依然として少数派のようである。
高額紙幣の顔として使われなくなったのは大山説とは関係がないだろうが、不思議な暗合である。
マーケティングコンサルタントの西川りゅうじん氏は、産経新聞の「平成志事術」という連載コラムの101215で次のように書いている。

くしくも、国民が聖徳太子を目にする機会がなくなり、太子の業績について信憑(しんぴょう)性が疑われ始めたのと時を同じくして、日本人は自信を喪失し、国内外で日本経済の将来について疑問符が付されるようになった。日本経済の「失われた20年」とは、日本国民が聖徳太子を失った20年でもある。
だとすれば私たちは聖徳太子を取り戻さねばならない。では取り戻すべき聖徳太子とは一体何なのか?
・・・・・・
「一に曰く、和を以(もっ)て貴しと為(な)し」と話し合いによる問題解決の重要性を説いた。
しかしながら、外国に対しては常に毅然(きぜん)とした態度で臨んだ。
・・・・・・
聖徳太子とは、内憂外患の中で、立派な国を作ろうとした往時の日本人の思いが結晶した象徴であり、理想像に違いない。
今こそ、私たちは聖徳太子の気概を取り戻すべきだ。先達に恥じないよう、聖徳太子の名がごとく、国外に対しては超然として神聖さを貫き、国内には端然として人徳を以て治める国にしなければならない。
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/101215/biz1012150426001-n1.htm

それにしても、『日本書紀』の記述する聖徳太子(厩戸皇子)は自然人を超越しているような書き方をされている。
なぜそのような人物像を造型したのか?
そのことが大きな「やまとの謎」であるし、アカデミズムの主流が、実在の人物として扱ってきた(いる)こともまた「やまとの謎」である。

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2010年12月16日 (木)

舛添要一氏の小沢批判言説

部屋を片付けようとして、古雑誌を捨てようとしたら、舛添要一氏の文章が目に止まった。
『「反小沢戦争」の天王山/総理となり、小沢氏に最後のとどめを刺す』というもので、舛添氏の肩書は、参議院議員・新党改革代表である。
「新潮45」の7月号で、「小沢民主の病理を衝く」という特集の中の一文である。

舛添氏がいつ執筆したのかは分からないが、冒頭に6月2日の民主党の両院議員総会の様子をTVで観ていた時の感想が記されているので、雑誌の発行日を考えれば、その直後辺りではないかと思われる。
別に、古証文というほど昔のことではないだろう。
舛添氏の文章は、「この人もやっと最後に、代表としてまともな行動をしたのか……」という感慨から始まっている。
「この人」というのは、鳩山前首相のことである。
「まともな行動」というのは、自らの辞任と道連れにすべく、当時の小沢一郎幹事長にも職を辞することを迫ったことを指している。

あれから半年余りしか経っていないが、もうずい分と昔の出来事のように感じる。
鳩山氏の後継として、菅現首相氏と樽床伸二氏が名乗りを上げて、菅氏が総理大臣の座に就いた。
7月の参院選で、民主党は大敗し、菅氏の去就が注目されたが、いち早く続投の意思を表明した。
小沢一郎氏との代表選に競り勝って、引き続き総理大臣職にあるが、何が変わったのか。
今また、民主党は、小沢氏の政倫審への出欠問題などで大騒ぎしている。一体政権交代に期待した国民の意向を、この人たちはどのように考えているのだろうか。

舛添氏の抱いた感慨はおそらく多くの人に共通するものであろう。
鳩山氏の在任中の迷走は理解を超える部分があったが、この時ばかりは、幕の降ろし方は心得ているんだな、と思った。
ところが、である。
つい先日、鳩山氏、弟の邦夫氏、小沢氏、舛添氏が会談をしたという。
⇒2010年12月 9日 (木):鳩山兄弟と小沢、舛添-この懲りない面々

会談の内容はいろいろ取りざたされているが、当事者ではない者が推し量っても仕方がないだろう。
しかし、菅氏の政権運営に不満を抱いているのが共通項であるのは事実であると思われる。
政界というのは一寸先は闇だという。何が起きても不思議ではないらしい。
それにしても、「戦争」の相手と位置づけをしている人間と平然と会食するなど、朝飯前ということだろうか。

舛添氏は、「代表が菅直人氏に代わろうが、幹事長が枝野幸男氏に代わろうが、民主党のキングメーカーは、依然として……小沢氏であることには変わりがない」と書いている。
改造菅政権を取り仕切っているのは仙谷官房長官のようだが、その辺りの事情は変わったのか、変わらないのか?
あるいは舛添氏の認識は?

舛添氏が、「新党改革」を旗揚げしたのは、参院選で、“小沢民主党”の単独過半数を阻止することが大きな目的であった、という。
舛添氏の描いたシナリオ通りだったかどうかはともかく、結果として、民主党は過半数を制することができず、この立党のコンセプトは成功したともいえる。
舛添氏の狙い通りに、ねじれ国会は運営が難渋しており、国民の多くが苛立っているように見える。

舛添氏は、次のように書いて、自らのスタンスについて、「みんなの党」との差別化を訴求している。

私は終始、「反小沢」の旗幟を鮮明にしてきた。そこが、「みんなの党」の渡辺喜美氏との違いといえる。渡辺氏は、「アジェンダが一致すれば、小沢氏とも組む、小沢氏に関してはあくまでもフリー」だと明言している。
私は小沢氏と組むことはない。なぜか? それは小沢氏の手法では日本が沈没する、政治不信がますます深まると憂慮するからだ。

その言やよし。まさか、この間の会談によって、小沢氏と組むことになった、なんてことはないでしょうね。
菅氏には、ビジョンが見えないという批判が多い。
舛添氏は、この文章の最後の部分で、自分のビジョンの目玉として、「廃県置州」構想に触れている。
地方の動きが、大阪や名古屋(愛知)などの個性的な首長によって面白くなりそうな予感がする。
中央もそろそろ役者が変わった方がいいのではなかろうか。

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2010年12月15日 (水)

大津皇子と相聞コミュニケーション/やまとの謎(18)

現代はコミュニケーションの時代であるといってよい。
マスコミは巨大産業に成長しているし、このブログのように零細であるが開かれたツールもある。もちろん、1:1のコミュニケーションも、電子的なメールが主流になっている。
プライベートでも、仕事の上でも、コミュニケーション力の重要性は高まる一方である。

フィリップ・マーロウの有名なセリフを借りれば、「コミュニケーション下手では生きていけない。コミュニケーション上手になれなかったら生きている楽しみが得られない」と言ったところである。
半身不随の身になって、コミュニケーションの上でも大きなハンディキャップを背負ってしまった。
幸いにして、家族や多くの友人・知人たちの助けにより、日常生活はおろか、ある程度の社会参加をさせていただいている。
改めて有難いことだと思う。

「三色ボールペン」を活用した読書法で知られる齋藤孝さんに、『コミュニケーション力』岩波新書(0410)という著書がある。
齋藤さんは、コミュニケーションを、意味や感情をやりとりする行為であると規定する。
単なる情報伝達でなく、感情を伝え合い分かち合うこともコミュニケーションの重要な役割である、と。

しかし、私は、そもそも情報には、「情」の要素と「報」の要素とがあるのであって、齋藤さんのいう感情を伝え合い分かち合うことは、情報伝達の重要な側面だと思う。
それはとかくとして、コミュニケーションにおいて、意味と感情が重要な要素であることに異論はない。

齋藤さんは、コミュニケーションの日本的形態として、和歌のやりとり挙げる。
確かに、和歌は、意味と感情の媒体として好適である。
「五・七・五・七・七」という形式は、感情の表現に相応しい。
俳句のように、「五・七・五」だけだと、感情表現には物足りない。やはり、花鳥風詠であり、写生のツールである。

和歌によるコミュニケーションの事例として、齋藤さんは、『万葉集』の有名な歌を取り上げる。
Photo_5
http://www1.odn.ne.jp/~cbg28720/manyou/utamo4(2)oi.htm

私も、この相聞歌により、大津皇子ファンとなった。
⇒2007年8月27日 (月):偶然か? それとも・・・②大津皇子
大津皇子処刑の実相については謎が残されているが、こんな返歌を貰ったらのめりこんでいくに違いない。

齋藤さんのコメントは次の通りである。

相手の歌の中の言葉を、自分の歌にアレンジして組み込む。相手の使ったキーワードを用いて話す、という技が和歌のやりとりでは基本技として駆使されている。思いを込めて使った言葉を相手がしっかり受け取り、使って返してくれる。そのことで心がつながり合う。ただそのままの形で返すわけではない。意味を少しずらして別の文脈に発展させて使う。そうすることによって二人の間に、文脈の糸がつながる。

大津皇子の母親の大田皇女の墓にほぼ間違いないとされる古墳が見つかったばかりである。
こちらは、時空を超えたコミュニケーションともいえよう。

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2010年12月14日 (火)

孫に学ぶリハビリ/闘病記・中間報告(17)

私の孫のR君はもうすぐ3歳の誕生日を迎える。
R君がハイハイを卒業して歩けるようになる過程のビデオを見ながら、リハビリをしていく上で、大いに参考になることがあった。
何か?

先ず、「やろう」とする気持である。
彼がハイハイに飽き足らなくなって、2足歩行をしたいと思った動機は分からない。
本能的なものか、他の同じような子供を見てそう思うようになったのかはわからない。
しかし、何が動機になったかはともかくとして、彼が「歩けるようになりたい」と強く思っているのは映像からも分かる。

R君は、一生懸命「立とう」と試みている。
しかし、なかなかバランスが取れず転んでしまう。
何回も何回もトライする。瞬間的に立てるのだが、一歩を踏み出すことができない。
瞬間であっても、立った時には実に嬉しそうな顔をする。しかし、次の瞬間には転んでしまう。
くやしい。
終いには、突っ伏してくやしがる。

私たちは、普段歩くことなどの動作は、特に意識することなく行っている。
しかし、その何気なく行っている動作も、多くの筋肉の協働の上に成り立っている。
それが結構難しいのは、ロボットの動作がぎこちなくなることが証明している。
ロボットの筋力を強くするだけであれば、ことは容易であろう。問題は、その制御である。特に、複数の要素の統合である。
それは、精妙な神経系の形成によって可能になる。

私は、入院中にすっかり筋力がなくなってしまった。
下肢については、目で見たり、触れてみたりすれば、自分でよく分かるほどだった。
最近ようやく、筋力はある程度回復してきたのではないかと思う。見た目にもそう思える。
しかし、歩行はなかなか思うようにいかない。
発症前はまったく意識しないでやっていたことにもかかわらず、である。

R君に学ぶべき第二は、立ち直りの早さである。
突っ伏して、悔しくて身もだえをしているが、しばらくするとまたトライである。
繰り返し飽きずにトライしている。
その結果、半年後に会った時には駆け足らしきレベルになっていた。

リハビリは、かつて何気なく行っていた歩行などの動作を回復することであるから、ともすれば達成感を見失いがちである。
「元の状態には戻れませんが、頑張ってください」。
よく言われる。
頑張っても元に戻れないのでは、モチベーションを維持するのが難しい。

私は付け焼刃で人生を過ごしてきた。そのツケが発症という結果であろう。
Imagesその場に及んでのいわば臨機の対応によっていくつかの難局を切り抜けてきたのだが、それが臨界点に達したともいえる。
しかし、発症という結果が「失敗」であることは間違いない。
そして、発症という結果が表面化するには、その前段に目に見えない小失敗があったことは、失敗学における「ハインリッヒの法則」としてよく知られている。

目標を明確に持ち、失敗続きでも挫けず立ち直ること。
R君は、すべての孫がそうであろうが、癒しの対象である。
同時に、そのひたむきな姿は、私にとって師でもある。

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2010年12月13日 (月)

持統天皇(ⅳ)/やまとの謎(17)

持統天皇を中心にして、すっきりした系図を書けば次のようになる。
Photo_2 すっきりしているのは、情報をそぎ落としたからであるが、この系図からだけでも、彼女の前半生が波乱に満ちたものだったことが窺える。

母方の祖父の蘇我石川麻呂は、乙巳のクーデターで重要奈な役割を負ったが、夫である天智に対する謀反の罪を着せられて自害した。
⇒2008年3月 5日 (水):薬師寺論争…⑬蘇我倉山田石川麻呂
飛鳥の山田寺と深い関係がある。

山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。法号を浄土寺または華厳寺と称する。蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくら(の)やまだのいしかわ(の)まろ)の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。その後、明治25年(1892年)に小寺院として再興されている。
Wikipedia100622

飛鳥資料館に発掘成果が展示されている。
Ws000000
http://www.nabunken.go.jp/asuka/s-annai.pdf

Photo_2山田寺といえば仏頭が有名である。
なぜか、興福寺の所蔵となっている。

奈良市・興福寺に所蔵される銅造仏頭(国宝)は、もと山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部であった。『玉葉』(九条兼実の日記)によれば、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えた。当時の興福寺は平重衡の兵火(治承4年・1180年)で炎上後、再興の途上であった。この薬師如来像は応永18年1411年)の東金堂の火災の際に焼け落ち、かろうじて焼け残った頭部だけが、その後新しく造られた本尊像の台座内に格納されていた。この仏頭は昭和12年(1937年)に再発見されるまでその存在が知られていなかった。
Wikipedia同上
像は興福寺の鎌倉再興期の文治3年(1187)に東金堂本尊薬師如来像として迎えられましたが、応永18年(1411)に堂とともに被災します。幸い残った頭部が応永22年(1415)に再興された現東金堂本尊台座に納められ、昭和12年(1937)に発見されました。造立年代が明らかであるところから、白鳳彫刻の基準作として高く評価されます。
蝋(ろう)型原型から鋳造されたもので、鍍金(ときん)が施されます。伸び伸びと弧を描きながら流れる眉、水平に伸びる下まぶたと、それをおおうように弧を描く上まぶた、額から直線的に伸びる鼻、ふっくらとした唇、顎の張ったたくましい面相は、青年のような若々しさ、すがすがしさを感じさせてくれます。

http://www.kohfukuji.com/property/cultural/064.html
山田寺の仏頭については下記で触れたことがある。
⇒2008年3月 2日 (日):薬師寺論争…⑩山田寺仏頭
白鳳の傑作と評されるもので、9月の旅行で実見することができた。

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2010年12月12日 (日)

持統天皇(ⅲ)/やまとの謎(16)

NHK取材班編『ライバル日本史⑥』角川書店(9508)に、「持統天皇と九人の皇子たち」が取り上げられている。
「九人の皇子たち」というのは、実子の草壁を除いた九人の皇子である。天武の皇位の後継の有資格者という意味でライバル関係として捉えられているわけである。
Photo

天武の後継の有資格者という意味では、天智の皇子も可能性を持っていた。
持統は、当然自分の子供・草壁に天武の後継をさせたかった。
679年、天武は皇后持統と共に、皇位の有資格者と自他が認める6人の皇子たちと吉野の離宮を訪れる。
草壁、大津、高市、忍壁の自分の子供と、川島、芝基という天智の皇子である。

朕、今日、汝等と倶に庭に盟いて、千歳の後に事無からしめんと欲す。いかに

すぐに草壁が応じ、他の皇子が続いた。
皇后持統の眼前で盟約がなされたのである。
草壁が皇太子に選ばれたのは2年後、681年のことだった。

持統は、幼くして母を失い、姉の大田皇女も早くなくなった。
そのため、血縁にこだわりを持っていたのではないかといわれている。
天武の後継者として、草壁の立太子に執着したのも、複雑な人間関係の中で争乱の時代を生きてきたことを考えれば、それは当然のことともいえよう。

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2010年12月11日 (土)

持統天皇(ⅱ)/やまとの謎(15)

やっぱりと言うか案の定と言うか、今朝の「産経抄」が、大田皇女の墓と思われる古墳発掘のニュースを受けて、持統天皇、大田皇女、大津皇子の関係について触れていた。
私の関心とほぼ重なっているので、あえて全文を引用しよう。

天武天皇の第3皇子である大津皇子は今風に言えば何とも格好いいプリンスだった。『日本書紀』によると風貌、体格ともに逞(たくま)しかった。弁舌は明朗で、学問にも秀でていた。当然のごとく当時の人々に人気があったようだ。▼ところが686年、天武天皇が崩御、叔母に当たる皇后、後の持統天皇の時代になると、たちまち、謀反を企てたとして捕らわれる。そして24歳で死を賜る。その妃は髪を振り乱し、はだしで皇子に殉じたとある。古代にはよくある話とはいえ、歴史上に残る悲劇のひとつだった。▼大津皇子の母は持統天皇の同母の姉で、同じ天智天皇の娘の大田皇女(おおたのひめみこ)である。持統天皇が生んだ皇子で病弱だった草壁皇子を天武天皇の後継者にするため、人気の高い大津皇子が排除されてしまった。事件について、そんな推測も昔から行われてきた。▼もうひとつ、大田皇女は皇子を生んだ後、若くして亡くなっている。悲運の娘を哀れんだのか、中大兄皇子時代の天智帝は母、つまり皇女の祖母である斉明天皇の陵の前に葬ったと『書紀』に記される。さらに大津皇子は天智帝の寵愛(ちょうあい)を受け育ったともある。▼天智天皇は古代史の中でも卓越した政治的リーダーだった。だがここらの記述はむしろ天皇の人間味を感じさせる。逆に同じ天皇を父に持つ持統帝にはそれがうとましく思えた。といえば「下衆(げす)の勘繰り」かもしれないが、これまた人間味が漂う。▼その大田皇女の墓と思われる遺構が、明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳のすぐ前から見つかった。『書紀』が書く通りだ。牽牛子塚が斉明天皇陵であることを決定づけるとともに、愛憎劇が1300年余りの時空を超えて甦(よみがえ)った。鼻のあたりがツーンとくる。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101211/acd1012110253001-n1.htm

一方、日経新聞の「春秋」欄は、当時の東アジア情勢を現代と重ね合わせてみる。

▼奈良県明日香村の古墳からも古(いにしえ)の人の心情が伝わる。女帝の斉明天皇と娘の墓だと、多くの考古学者がいう牽牛子塚(けんごしづか)古墳の隣で石室が出土した。墓の主は斉明天皇の孫娘とみられている。のちの天武天皇に嫁ぐが、天武帝の即位前に早世した。薄幸の皇女は安らかに眠れるよう、家族のそばに埋葬されたと思える。
・・・・・・
▼斉明天皇が在位していた7世紀中ごろは東アジアが激動期にあり、日本の転換期だった。中国の唐が強大になり、白村江の戦いで日本と百済の連合軍は、唐と新羅連合に一敗地にまみれた。それを機に日本は律令国家への歩みを急いだ。中国の勢力拡大に揺れ動く姿は現在と似ている。どんな治世だったのだろう。

http://www.nikkei.com/news/editorial/article/g=96958A96889DE3EBE5E7E5E0E4E2E3E3E3E0E0E2E3E29F9FEAE2E2E2;n=96948D819A938D96E08D8D8D8D8D

斉明天皇の実子とされる天智(中大兄皇子)と天武(大海人皇子)の姻戚関係は複雑である。
天智天皇の娘4人が、叔父の嫁になっており、現代からみると異様ではないかと思える。
そのこともあって、天智-天武の非兄弟説が唱えられている。
⇒2008年1月26日 (土):天智と天武…諡号考
⇒2008年10月25日 (土):小林惠子氏の高松塚被葬者論…①天智・天武非兄弟説

天智-天武の兄弟関係の真偽はともかく、下図に見るように、鸕野皇女(持統天皇)には自分以外に、夫と夫婦関係にある女性が7人いたことになる9。
そのうち、大田皇女は、同じ遠智娘(蘇我石川麻呂の娘)の子であり、実姉になる。
遠智娘は、乙巳のクーデターを企てるに際し、石川麻呂を味方に引き入れるために政略的に婚姻したとされるが、石川麻呂は後に中大兄に対する謀反の疑いで自害に追い込まれる。遠智娘も後を追うように亡くなっている。
大田皇女と鸕野皇女(持統天皇)にとっては、夫(天智天皇=中大兄皇子)は、母や祖父の仇でもあった。
複雑で頭の中が混乱するが、図示しているサイトがあるので引用しよう。
Photo_2

http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter1-6.html

池上彰さんでも、なかなか「そうだったのか!」とはいかないだろうけど、『日本書紀』の記述等によれば、上記のようになる。
持統天皇(鸕野皇女)は、このような複雑な網の目の中を生き抜いたのだ。

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2010年12月10日 (金)

大田皇女の墓?/やまとの謎(14)

奈良県明日香村の牽牛子塚古墳に隣接して、新たな古墳が発見された。
牽牛子塚古墳は、先に八角形の石敷きが発見されて、斉明天皇陵である可能性が高まったとして注目を集めたばかりである。
⇒2010年9月10日 (金):牽牛子塚古墳は、斉明陵か?

Photo_4 石室の位置関係などが、斉明天皇の墓の前に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)の娘「大田皇女(おおたのひめみこ)」が葬られたとする奈良時代の歴史書「日本書紀」の記述と符合しており、専門家は日本書紀の記述を裏付ける歴史的な発見として注目している。
・・・・・・
大田皇女は飛鳥時代の政治改革「大化の改新」の立役者・中大兄皇子の娘。夫は中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)だが、夫の即位前、2人の子どもを残して他界したとされている。

http://www.asahi.com/culture/update/1209/OSK201012090100.html

Photo_7 3_2

一昨日、持統天皇に触れたばかりだったので、ひときわ興味を惹かれる。
大田皇女は、持統天皇とは同父母の姉である。
天武天皇との間に、大伯皇女、大津皇子の姉弟を産んだ。
早く亡くなったが、持統天皇(鸕野皇女)と立場が入れ替わったとしても不思議ではない女性である。

大津皇子は、私が古代史に魅せられるきっかけとなった人物である
⇒2007年8月27日 (月):偶然か? それとも・・・②大津皇子
⇒2007年9月 1日 (土):大津皇子処刑の背景・・・②上山春平説
⇒2008年5月21日 (水):大津皇子処刑の背景…③林青梧説
⇒2008年11月13日 (木):岡本正太郎氏の高松塚被葬者論…⑤大津皇子について
⇒2008年10月29日 (水):小林惠子氏の高松塚被葬者論…⑤大津皇子と朱鳥(朱雀)年号

大伯皇女は、大来皇女とも書く。弟を愛する心が伝わってくる歌により『万葉集』の歌人の中でもファンが多いと思われる。
⇒2007年12月24日 (月):当麻寺…①二上山
⇒2008年1月30日 (水):大来皇女

牽牛子塚古墳は、天皇クラスの墓に限定される八角形墳であることが今年9月にわかり、被葬者が斉明天皇(在位655~661年)であるとほぼ確定したとされる。
今回見つかった石室は「横口式石槨」という構造で、牽牛子塚古墳の約20メートル南東で出土。地名から越塚御門(こしつかごもん)古墳と名付けられた。
667年、斉明天皇陵の前に孫の大田皇女を埋葬したと記している『日本書紀』の内容と一致する。
 

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2010年12月 9日 (木)

鳩山兄弟と小沢、舛添-この懲りない面々

民主党の小沢一郎元代表、鳩山由紀夫前首相と実弟で無所属の鳩山邦夫元総務相、新党改革の舛添要一代表が8日夜、東京・麹町のすし店で会談したという。いずれも、元々自民党で活動していたが、諸般の事情で離党し、政党の再編成をしてきた、もしくはしようとしているが、現在は必ずしも意のようにならず、どちらかといえば不遇の状態にある人たちといえよう。

小沢一郎氏は、検察審査会の2度の起訴相当の議決を受けた身である。これにより、強制起訴が決定したが、指定弁護士(検察官役)によれば補充捜査の関係で、年明けにも強制起訴される見通しだという。
Photo http://www.courts.go.jp/kensin/kiso_image.html

私は、検察審査会の議決のあり方については疑問を持っているが、現行の法制度は遵守すべきだろう。
⇒2010年10月16日 (土):小沢氏の「検察審議決無効」提訴
⇒2010年10月 9日 (土):検察審査会/理念と現実の乖離(4)
⇒2010年10月 8日 (金):冤罪と推定無罪/「同じ」と「違う」(19)
⇒2010年10月 6日 (水):「推定無罪の原則」はどこへ行った?

検察審査会は別として、小沢氏が国民が納得できるような形で説明責任を果たしていないことも事実だと思う。
そのような不信の感情と検察審査会の議決は独立であるべきだが、現実には無関係とはいえないだろう。
小沢氏も、国会の場で説明をするはずではなかったか。

鳩山前首相は、首相経験者が辞めた後まで影響力を持つのは好ましくない、と正論を吐いたことなどすっかり忘れたかのようである。何とかして影響力を行使できる局面がないかと探し求めているような感じである。
鳩山邦夫元総務省は、平成20年、総務大臣に就任して「かんぽの宿」をはじめとした旧郵政関連資産の売却問題や日本郵政の西川社長の進退などを巡って存在感を発揮していたが、自民党離党後は話題になることも少なく影が薄かった。

新党改革の舛添要一代表は、今年の4月自民党を離党して改革クラブに入党。代表に就任すると共に新党改革に党名を変えた。
しかし、新党といい改革といい、いささか手垢にまみれた言葉である。
かつては、総理にしたい人の第1位にランクされたりしたが、国民の期待感が盛り上がってこない。

こうしてみると、いずれもかつて華やかな脚光を浴びた人たちである。
しかし、今現在は中心から外れたところに位置しているといってよい。

会談では「このままでは国がダメになる」などと首相の政権運営を懸念する声が噴出http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101209/plc1012090151000-c.htm

とのことである。菅政権に関する状況判断については同感であるが、この4人で何をしようというのだろうか?

舛添氏をめぐっては、首相サイドも政権基盤の強化策の1つとして、取り込みを図ろうとしている
同上

らしいが、社民党に接近したり、多数派形成に躍起といったところだろう。
もちろん、多数派形成を目指すのは、一般論としては悪いことではない。しかし、状況に追い詰められて、というのでは野合に過ぎないだろう。
顔ぶれをみて「懲りないなあ」と思った。

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2010年12月 8日 (水)

持統天皇/やまとの謎(13)

藤原京に遷都したのは持統天皇である。
飛鳥からはわずかに北へ遷ったことになる。
俯瞰図を見てみよう。
Photo
「百人一首」の2番目に置かれている次の歌は、持統天皇の作とされている。
言うまでもなく、持統天皇は天智天皇の娘であり、親子の歌が、1番目と2番目に位置している。
そのことと、99番目と100番目という閉めの位置に、後鳥羽院と順徳院の親子の歌が置かれていることに、何か意味があるのだろうか?
それが、発症直前の疑問であった。
⇒2009年12月22日 (火):百人一首の構成

秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ  1 天智天皇
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山         2 持統天皇
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は    99 後鳥羽院
百敷や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり     100 順徳院

何の準備もない状態で、とつぜん入院するハメになりその頃の問題意識までなかなか復旧しない。
慌てることはない。誰に頼まれたわけでもないので、マイペースで逍遥することにしよう。
しかし、私が通った高校・大学には、逍遥歌というものがあって、時には一人で、時には友と連れだって、吟じたものだが、最近はどうだろうか?

(天の)香具山は、大和三山の1つである。
12_2009_6_9_2412_2  Photo_2

持統天皇の歌の解釈として、次の解説を引用しておこう。

持統天皇は694年、都を飛鳥浄御原から藤原の地(橿原)に移した。壬申の乱の影響も消え、安定と繁栄の時代を迎えようとしていた。その藤原京の東方にある香具山の山腹に乾されてある衣の際だつ白さを見て、夏の訪れの喜びを詠んだ歌。季節感そのものを歌うという方向もまだ未分化であり、しかも春と秋がことに愛された時代にあって、あまり歌われたことのない夏を、さわやかに歌った点が注目される。
後に「春過ぎて夏きにけらししろたへの衣乾すてふ天の香具山」と形を変え「新古今和歌集」巻3夏に再び録られ小倉百人一首にも選ばれている。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1448555364

藤原京の京域には諸説あるようであるが、現在有力になりつつある大藤原京説では、天香具山は完全に域内ということになる。
Photo_3

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2010年12月 7日 (火)

CareとCure/「同じ」と「違う」(25)

私は介護保険制度の、「第1号被保険者」である。
Photo
http://www.wam.jp/kaigo_guide/category1/index2.html

リハビリ専門病院に入院中に要介護認定の申請を行い、「要介護1」と認定された。
退院後、継続してリハビリを行っている。介護度の改定審査の結果、現在は「要支援2」の判定である。
要介護度が低下したわけであり、喜ばしいことであるのは間違いない。

現在利用しているリハビリ・サービスは医療保険によるもので、介護保険の利用者ではない。
しかし、現実にリハビリをしに行くときは、妻の運転するクルマで通院しなければならず、また日常生活においても、一人では行えないことも少なくない。
まさに「要支援」状態である。

現在の制度上は、医療保険のリハビリと介護保険のリハビリは、同時に利用することができない。
しかも、医療保険の診療報酬の認容額に制限があるため、自分の希望するだけのサービスを受けられていない。
これは制度的な問題であり、利用者個々人や医師、PT・OTなどの努力や裁量ではどうしようもない。
私たちは弱者ではあるが、極度に悲惨なというほどの状態ではない。
どうしても、対応は後回しになってしまうのは致し方がないのだろうが、もうすこしきめ細かく制度設計できるのではないかと思う。

「介護保険」は、辞書を引くと英語では、「nursing care insurance」である。
「nursing」は、「(職業としての)保育, 看護」である。「nurse」は日本語化していると言ってよい。
看護婦のことであるが、最近は看護師という。
女性だけではないからである。

「care」は、「世話, 看護, 養護, 介護, 介助, ケア」とある。
似た単語に、「cure」がある。こちらは「医療;治療(法), 療法」である。
しかし、「医療保険」は、「medical insurance」とある。
「medical」は、「医学[医術, 医療]の 」である。

「care」と「cure」と「medical」は、微妙に意味の「違う」単語のようだ。
その「違い」の本質は何だろうか?

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2010年12月 6日 (月)

菅内閣における「熟議」と「有言実行」の不存在

菅首相は、民主党の代表選で、「『熟議』の民主主義で難局を打開する」と標榜した。
「熟議」とは、漢字で表わせば意味は分かるが、一般にはあまり使われない言葉ではないか。
辞書で確認すると、次のようである。

じゅく‐ぎ【熟議】
よくよく評議すること。

広辞苑第六版

(する)十分に議論すること。deliberation
パーソナル現代国語辞典

さて、先に閉会した第百七十六臨時国会で「熟議」はなされたのだろうか?
その効果は?

菅政権として初の本格論戦の舞台だったが、沖縄県・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件をめぐる対応のまずさや閣僚の失言続きで野党が対決姿勢を強め、法案審議は停滞。新規と継続を合わせた政府提出の一般法案の成立率は37・8%にとどまった。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2010120402000039.html

要は、法案の成立率が低いのは、「熟議」の結果というよりも、内閣の失敗に原因がある、というのが大方の見方だろう。
また、菅首相は、改造内閣を「有言実行内閣」と命名した。
しかし、実際は喫緊の課題を先送りして「逃げ菅」などと呼ばれている状態である。

例えば、米軍普天間飛行場移設問題である。
沖縄県知事選の結果を受け、再選された仲井真知事と2日に会談している。
⇒2010年12月 3日 (金):沖縄にとっての大和/やまとの謎(11)

現時点では、仲井真氏は、移設を容認することはできない立場である。
速やかに沖縄を訪問することが必須だろうが、閣僚間の足並みの乱れと沖縄県側の難色で先送りとなった。
私は、そう簡単に解決する問題ではないと思う。
しかし、先送りすることによって、問題解決の展望が開けてくることはあり得ず、ますます困難化することは確かだ。
「熟議」と「有言実行」は、単なる思い付きの域を出ないということなのだろう。

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2010年12月 5日 (日)

日本文明について

西暦700年ころ、すなわち藤原京の時代が、日本文明史における大きな画期ではないか、というのは上山春平さんの仮説である。
仮説は検証されなければならないだろうが、このようにマクロな仮説は、私のような者には検証のしようがない。
そもそも日本文明史とは、どのような概念なのであろうか?

中西輝政『国民の文明史』産経新聞社(0312)が解説している。

文明史とは、一言でいえば、千年くらいを一つの単位として歴史を考える営みだ、と私は定義することにしている。

つまり、かなり長いスパンで考えるということである。
といっても、ある国や地域の通史を対象とすることではない。
時代や問題のバリヤを越え、「歴史を動かしているもの」に迫ろうとする試みである。

文明史とは何かを、文明論や比較文明学など他のジャンルで比較すると、

あくまで具体的な歴史の文脈に沿って、歴史上の具体的事象をとりあげ、それらの間に、ある種の飛行的関係や類似したパターンを見出していこうとするものである。

つまり、あくまで歴史であるということだ。
そして、歴史において、くり返される基本的パターン、たとえば周期性、に着目し、歴史における法則性を探求する。

(理想的には)全ての領域に目をやり、「歴史を動かす本当の要因とは名に何なのか」を深く考えてゆこうとするものである。

中西さんは、この「歴史を動かす本当の要因」が文明であるとしている。
文明は「世界を構成する単位」である。
世界史では、その中に複数の単位が存在する。
国よりも大きく、かつ意味をなす最小限の大きさが、文明である。

重要なことは、日本という国は「一つの国で一つの文明」をなしていることである。
つまり、国家の問題と文明の課題が直結している。
文明のあり方が問われている現在、日本史を文明史の視点で捉えてみることは重要であろう。
上山さんのいうように、藤原京の時代は、本当に日本文明の画期と考えていいのだろうか。

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2010年12月 4日 (土)

日本文明史と藤原京/やまとの謎(12)

藤原京への遷都は、694(持統8)年の暮のことであるが、別冊宝島『古事記と日本書紀』宝島社(1001)に載っている年表から、該当する時代を切り取ってみよう。
Photo_3 藤原京に密接に係ったのが持統天皇であることがわかる。
同時に、『万葉集』を代表する歌人・柿本人麻呂の生涯や、大宝律令の制定経緯などが、私たちの好奇心の対象として浮かび上がってくる。
藤原京は、短期間ではあったが、日本史上重要な時代であったといえよう。

上山春平『日本の成立』文藝春秋(9407)は、日本史の概説を「サラリーマンのための日本史」の視点を意識して取りまとめられたものであるが、上山さんは、「あとがき」に、「私が、日本史における最も重要なエポックとみる西暦七○○年あたり」という言葉を書いている。
上山さんが重要なエポックというのは、かいつまんで言えば次のようなことである。

日本列島において、「自然社会」から「文明社会」への変化がはっきり認められるのが、西暦700年のあたりである。
ここで、「自然社会」とは、人間が自然環境のなかに埋没するようなかっこうで、海の幸・山の幸の恵みに頼り切って生活しているような社会である。
これに対し、「文明社会」とは、田や畑を切り開いて米や麦を育てたり、人口度の高い都市や国家を作るようになった社会である。

ここで、梅棹忠夫さんの、文明の情報史観を参照しよう。
2009年4月14日 (火):文明の情報史観

文明とは、人間と人間をとりまく装置群とでつくる、ひとつの系である。
・・・・・・
人類が発生した初期の段階では、人類は他の動物とおなじように、自然環境のなかで存在していた。その場合も、人間は自然環境とのあいだでシステムをくんでいた。そのような人間-自然系でつくりだしたシステムを生態系と名づけ、それに対して、その後の人類がつくりだした人間-装置系のことを、文明系とよぶことはゆるされるであろう。そして人類の歴史は、生態系から文明系への進化の歴史であった。

・・・・・・
文明の歴史は、人間・装置系の自己発展の歴史である。人工的につくりだされた環境としての装置群に着目すれば、それは諸装置の開発と蓄積の歴史である。
・・・・・・
人類史におけるひとつのおおきな飛躍は、農地という装置と制度をつくりだしたことであろう。農耕の発生は、人類の文明史における一大転換であった。農耕地と農業の確立によって、人間は、安定した食料生産を可能とする人工的環境をつくりだしたのであった。

このような「自然社会」から「文明社会」への変化は、メソポタミアやエジプトでは紀元前3000年くらいの時期に行われた。
現在の先進国である西欧や日本は、それから4000年ばかり遅れたのだから、たいへんな後進国であった。
この時期に、「日本の歴史の姿が、それ以前は深い霧に包まれたようにボンヤリとしか見えなかったのに、突然、ハッキリ見えはじめる」と上山さんはいう。

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2010年12月 3日 (金)

沖縄にとっての大和/やまとの謎(11)

「宇宙戦艦ヤマト」を実写化した映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」が1日に封切られた。
主人公・古代進を演じているのは、SMAPの木村拓哉さんである。ヒット作となる条件は揃っているが、実際の観客数はどうなるだろうか?

ヤマトは日本のアイデンティティを表している。
本物の戦艦大和は、米軍が沖縄上陸後、米軍砲撃のため沖縄に向かう途中で撃沈された。
沖縄にとって、「大和」は無用の長物だったわけである。

11月28日(日)に行われた沖縄知事選では、現職の仲井真弘多氏が再選された。
前宜野湾市長の伊波洋一氏氏の挑戦を退けた。
確定得票数は以下の通りである。
当 335708 仲井真弘多 無現=[公][み]
   297082 伊波 洋一  無新=[共][社][国]
        13116 金城 竜郎  諸新

この結果を、大差とみるか僅差とみるかは人によりけりだろうが、私は接戦であったと思う。
仲井真氏は普天間基地の移設に関し、辺野古への受入れを条件付きで容認する立場だったが、県内世論の変化などにより、県外移設を要求する立場に変わった。
一方、伊波氏は、日米安保条約を見直し、普天間をグアムへ移設するよう求めていた。
いずれにせよ、政府の方針とは合致しない。
政権与党が、自らの政策推進に賛同する候補者を立てられないのは無責任の謗りを免れないと思う。
⇒2010年11月13日 (土):菅内閣の無責任性と強弁・詭弁・独善的なレトリック

さて、仲井真氏の当選により、普天間基地の問題はどうなるであろうか。
菅首相と仲井真知事が2日会談した。

仲井真氏は冒頭、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の移設問題について「県外移設実現は私の(知事選)公約の大きな部分だ。日米の共同発表をぜひ見直していただきたい」と表明。同県名護市辺野古を移設先とする5月の日米合意を見直し、県外移設を実現するよう求めた。
・・・・・・
これに対し、菅首相は「知事の公約はよく拝見している。政府としては日米合意の中で、何とか方向性を見いだしたい」と述べ、日米合意に基づき、辺野古移設に向け、地元の理解を求めていく意向を表明。
・・・・・・
再選後の会見でも「県内移設はあきらめた方がいい」と強調。政府は沖縄側の軟化を図るため、経済振興と基地負担軽減を協議する沖縄政策協議会(主宰・仙谷官房長官)を通じて、移設実現への糸口を探りたい考えだ。年内にも政策協の部会を開催する方向で調整している。

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20101202dde001010026000c.html

政府は、仲井真氏が、かつて名護市辺野古の移設を容認していたことから、条件さえ揃えば移設容認になるだろうと考えているのかもしれない。
しかし、仲井真氏が移設容認であったのは、当時の名護市が条件付きではあるが、受け入れの意向を示していたからである。
鳩山前首相の無責任な言動でその条件が無くなった以上、仲井真氏も移設を容認することはできないと考えなければならない。

さて、選挙前の「日経ビジネスオンライン」1125号に『争点がぼやけた県知事選で、沖縄は何を訴えるのか』に、「もう、これ以上の失望はしたくない。結果はどちらに出るかわからないが、沖縄県民として、民意の声を大和に届けることだけはしたい」という言葉がある。
大和である。
いわゆる内地(沖縄以外の日本)のことを、沖縄では大和という。内地の人は大和人(ヤマトンチュウ)である。

従来であれば、基地の受け入れによって振興策を日本政府から引き出すことの可否を問うのが、両派の争点となっていた。しかしいまや「基地はいらない」「辺野古移設絶対阻止」で、割れていた島は一致しており、

菅首相の思惑のようにはいかないことは明白というべきだろう。
にもかかわらず、未だ方向性の表明すら行われていない。
弥縫策ではどうしようもない状況になってしまっていると思う。
対応を間違えると、沖縄の人たちは大和からの独立を目指すことになりかねないのではないか。

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2010年12月 2日 (木)

大島渚の闘病生活/闘病記・中間報告(16)

大島渚さんといえば、松竹ヌーベルバーグの旗手として颯爽と映画界に登場した人だ。
学生運動のメッカである京都大学の法学部出身。1932年3月31日生まれ。

京大時代の同窓に推理作家の 和久峻三や、俳優・辰巳琢郎の父親がいる。大学在学中は猪木正道に師事。京都府学連委員長を務めて学生運動を行い、1951年の京大天皇事件や、1953年に松浦玲が放校処分になった荒神橋事件等に関わった。成績が比較的良かったため、法学部助手試験を受験するが、不合格となる。猪木は「君に学者は向きませんよ」と諭したという(『猪木正道著作集』・月報)。ま た、在学中に劇団「創造座」を創設・主宰し、演劇活動も行っていた。
Wikipedia101110最終更新

学生運動の体験が初期の『日本の夜と霧』に投影されているらしいが、この映画は、内容を知って慌てて松竹が上映中止にしたという。残念ながら私も見る機会がなかった。
比較的大衆の目に触れるようになったのは、TVのコメンテーターとしての活躍であろう。『朝まで生テレビ』のレギュラーパネリストとして体制批判的な発言をし、同じく学生運動経験者で保守派の西部邁さんと好対照を成していた記憶がある。

その大島渚さんが、壮烈な介護生活を送っているらしい。
夫人は女優の小山明子さんだが、「新潮45」の1012号に小山さんが介護体験記を載せている。
『私はこうして「会議地獄」を乗り越えた 今いちばん幸せな季節をともに』と題されている。

大島さんが脳出血で倒れたのは1996年2月21日のことだった。
国際交流基金の依頼で講演のために海外に行っていたときである。
直前まで多忙を極めており、「ロンドンへ旅立つ夫の疲れきった顔が目に浮かんだ」と第一報を聞いた小山さんは回想している。

やっぱり過労が要因の1つになっていたのだろう。もうすぐ、満64歳になるところであった。
私も同じような年齢であり、友人によれば、「かなり疲れている様子だった」ということだった。
⇒2010年3月22日 (月):中間報告(2)予知の可能性

海外で倒れた大島さんに小山さんが顔を合わせることができたのは発症から3週間後だった。
いわゆる「面が割れている」小山さんは不用意に動くことを制約されたのだという。
「エネルギッシュで眼光に輝きのある人だったのに、表情はどこか虚ろで、ぼんやりしている」というのが小山さんが見た大島さんの姿だった。

確かに病気になると、自分では意識していても、どこか生気が抜けてしまう。
私も、「顔つきがずいぶん良くなった」と最近ようやく他人に言われるようになった。

小山さんは、介護生活の疲れと将来に対する不安、自らの介護を含む家事の能力への疑問等々が重なって鬱病に罹患してしまう。
大島さんはリハビリに励んだ効果もあって監督として復帰し、『御法度』もクランクアップする。
小山さんは、水泳教室やヨガ教室に通ったりガーデニングで汗を流しながら、鬱を克服していった。

その小康状態も長くは続かなかった。
大島さんが2001年に多発性脳梗塞を発症するのだ。
その後、十二指腸潰瘍穿孔になり、重篤な状態に陥る。

それから10年。
現在の大島さんは、歩行は困難、嚥下も注意を要する状態だという。
かつて超優等生だった大島さんは、超わがまま坊主に変身である。
以下主治医の言葉。

脳卒中の後遺症は、身体的な面だけでなく性格的な変化としても現れます。ご家族がそれを理解し、抱擁してあげることが大切です

我が家では、「そうかも知れないけど、それじゃ周りの人間は堪ったもんじゃないよね」ということになる。
心しなければならないな、と思う。
小山さんは、あえて「にもかかわらず」と付け加えて、「私たち夫婦は、今いちばん幸せな季節をともに過ごしている」という。
自身が鬱になるほどの苦しみを味わった末の深い言葉である。

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2010年12月 1日 (水)

「サトウの切り餅」と 越後製菓の特許/「同じ」と「違う」(24)

「切り餅」に関する特許争訟で、「サトウの切り餅」(佐藤食品工業(新潟市))は、越後製菓(新潟県長岡市)の特許権の侵害には当たらない、との判断が東京地裁より下された。

判決などによると、越後製菓は二〇〇二年十月、切り餅の側面に溝状の切れ込みを入れる発明を特許出願。発明により、焼き途中での膨らみによる内部の吹き出しを防ぎ、焼いた後の見た目が損なわれない餅を実用化、〇八年四月に特許登録した。
佐藤食品は側面だけでなく上下面にも切り込みが入った餅を開発し、〇三年七月に特許出願、〇四年十一月に特許登録した。越後製菓は〇九年三月、特許権を侵害されたとして提訴していた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010120102000025.html

Tky201011300482_4 業界2位の越後製菓は、切り餅をふっくら焼き上げるために餅の側面に切り込みを入れた。
サトウの切り餅は、側面に加え上下の面にも切り込みを入れた。
東京地裁の判断は、越後製菓の特許が、「底面、上面ではなく、側面の切り込み」となっていることから、「サトウの切り餅」は特許侵害にならないとした。

これに対し、越後製菓側は、「底面、上面ではなく」の文言は、単に「側面の切り込みが必須」であることを説明している過ぎないと主張していたものである。
東京地裁の判断は、「二社の特許は、切り込みが入っている部分が異なっており、それぞれ別の特許だ」とした。
図は、http://www.asahi.com/national/update/1130/TKY201011300477.html

越後製菓側が控訴するかどうかは今後の問題であるが、第三者的にみると、やや越後製菓に気の毒なような気がする。
というのは、切り込みは餅が膨張して横にはみ出すのを防ぐための工夫であり、それに対し特許権が成立している。
私の理解では、側面に切り込みがあることが必須条件であり、上下面の切り込みは補助的なものであろう。
東京地裁のように裁定するためには、側面ではない面だけに切り込みを入れたものでなければならないのではないか。
手で割れる等、訴求する効果が違うのであれば、話は別だ。

ちなみに、越後製菓の特許の文言は以下のようである。

Jb4111382b9 角形の切餅や丸形の丸餅などの小片餅体1の平坦頂面や載置底面ではなく上側表面部2の側周表面2Aに、周方向に長さを有する若しくは周方向に配置された一若しくは複数の切り込み部3又は溝部を設けた餅。

「たかが切り餅、されど切り餅」といったところであろうか。

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