聖武天皇の陰陽剣(続)/やまとの謎(10)
聖武天皇の陰陽剣について、由水常雄『正倉院の謎 』中公文庫(8710)が詳しく論じている。
由水氏は、まず正倉院についてのわれわれの持っている通念-正倉院の宝物は聖武帝遺愛の宝物を光明皇后が東大寺大仏に、帝の極楽往生を祈願して奉納したものであり、8世紀以来今日まで勅封によって守られてきた-というのが、誤りではないが、一面の真実に過ぎない、とする。
聖武太上天皇の七七忌は、聖武天皇が創建した東大寺において法要されたのではなくて、藤原氏の氏寺の興福寺において挙行され、文武百官はすべてこれに臨席した。その留守をついて、宮中の宝物、武器、薬、屏風、鏡、陰陽剣類を、ことごとく、大仏に奉献したのであった。大量の武器、ほとんどすべての貴重薬、一○○畳、延べ三六○メートルの空間を覆う屏風、毛氈六○枚、世界最大の鏡一面他一九面の鏡。これらはいったい何を意味するのであろうか。いうまでもなくそれは、藤原仲麻呂が光明皇太后をテコにして実行した藤原氏起死回生のクーデターを示す何ものでもない。正倉院は、藤原仲麻呂と光明皇太后の無血革命を大成功させた一大モニュメントであった。
そして、陰陽剣の意義について次のように説く。
このご不利の宝剣を、『国家珍宝帳』にあたって調べてみると、陽宝剣と陰宝剣は、武器・武具類のリストの冒頭にしるされていて、刀剣の中の最高の名宝であったことが推察されるものである。
・・・・・・
陰・陽の剣は、いうまでもなく、『礼記』(中国の五経の一。周末から秦・漢時代の儒者の古礼に関する説を集めたもの)にいう「楽は陽よりくるものなり。礼は陰よりつくるものなり。陰陽和して万物を得るなり」といういわれにのっとった宝剣であった。当時の平城京は、唐風の政治儀礼が行われており、皇宮の為政の要となっていた三種の神器は、名古屋の熱田神宮に収められていて、宮中になかった。したがって、政治の事始めには、長安の宮殿で行われていたのと同じように、この陰陽剣を合することによyって、議会が始められていたのである。いわば、政務を執行うための不可欠のシンボルとなる宝剣であったのだ。陰陽剣の収奪はいわば国会議事堂の玉座を占拠したようなものであった。この宝剣は、おそらく政治のまつりごとに使われた、由緒ある剣であったにちがいない。そのつくりもすべて純金装飾で、組懸けの紐もすべて最高位を示す紫色である。
この陰陽の宝剣を出蔵したのは、藤原仲麻呂というのが由水氏の結論である。
それにても、平城遷都1300年の年に、このような宝剣の所在が明らかになるとは不思議なものである。
由水常雄氏が2010年5月19日にロータリークラブで行った卓話の内容が、東京早稲田RCのサイトに掲載されている。
http://www.tokyowaseda-rc.jp/?p=715
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