「藤原」とはいかなる意味か?/やまとの謎(7)
藤原京を構想し、造営に着手したのは天武天皇である。
『日本書紀』によれば、天武6(676)年条に、次の文章がある。
この年、新木(大和郡山市新木)に都を造ろうと思われた。予定地の田畑は公私を問わず耕作されなかったので、たいへん荒廃した。しかしついに都は造られなかった。
天武天皇は、歴代遷宮から脱却し、恒久的な都を築いて、そこで直系の子孫が皇位を継承していくことを目論んだとされる。
新木は、新城すなわち新しい都と考えられている。
その構想は、最終的に藤原京の形で成案となった。
しかし、天武は686年に藤原京の完成を見ることなく死を迎える。
天武の構想を引き継いだのは、次の天皇となった妻の持統天皇である。
持統は、694年、まだ建設途上にあった藤原京に遷都する。
藤原京は、それまでの概念を一新した造都理念に基づいて発想された都であった。
その理念とは、次の2つである。
①天皇一代限りではなく、永代の都とすること
②道路を碁盤目状に敷設し、施設を計画的に配置すること
⇒2008年1月 2日 (水):藤原京の造営
持統は、自分の子供である草壁皇子を後継にしたいと願ったが、草壁は689年に28歳で夭折してしまう。
そこで孫の軽皇子を皇位につける。697年、軽が15歳の時であった。
『日本書紀』は、持統の文武への皇位継承の表現で巻を閉じている。
(十一年)八月一日、天皇は宮中での策(みはかりごと)を決定されて、皇太子(ひつぎのみこ:文武天皇)に天皇の位をお譲りになった。
律令制は、701年の大宝律令の制定により整えられる。
文武天皇の誕生と律令制の整備に大いに尽力したのが藤原不比等であった。
不比等は、自分の娘の宮子を文武に嫁がせている。
つまり、文武への皇位継承は不比等の望むところでもあった。
不比等の立場は、草壁皇子が身につけていた「黒作懸佩刀」を託されたことでも明らかとされる。
これを文武に引き渡し、文武の死に際しては、再び託されて聖武に引き継いだ。
藤原不比等は、中臣鎌足の二男である。
中臣氏が藤原氏になったのは、中臣鎌足が亡くなる前日に、天智天皇がその功績を称えて、藤原の氏を賜ったということになっている。
(八年十月)十五日、天皇は東宮太皇弟(ひつぎのみこ:大海人皇子)を藤原内大臣(鎌足)の家に遣わし、大織の冠を大臣の位を授けられた。姓を賜わって藤原氏とされた。これ以後、通称藤原内大臣といった。十六日、藤原内大臣(鎌足)は死んだ。
しかし、死の前日というのはどういう意味だろうか。
「これ以後」とはいうものの、生前には称されなかったというに等しい。
藤原不比等に関しては、上山春平氏の『埋もれた巨像』岩波書店(7710)などによって、実像が明らかにされつつあるが、しかしいまだ謎の人物と言っていいのではなかろうか。
⇒2007年9月 1日 (土):大津皇子処刑の背景・・・②上山春平説
⇒2007年9月 7日 (金):藤原不比等
天智天皇はなぜ「藤原」という姓を鎌足に与えたのか?
その後の藤原家の隆盛とどういう関係があるのか?
そして、藤原氏と藤原京との関係は?
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