« 裁判員裁判と死刑の求刑 | トップページ | ヤマトタケル/やまとの謎(5) »

2010年11月 1日 (月)

倭から日本へ/やまとの謎(4)

古代において、日本は倭と呼ばれていたことはよく知られている。
邪馬台国論争でお馴染みの「魏志倭人伝」は、中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称であり、日本において一般に知られる通称である。
江戸時代の漢学者の中で『三国志』という書名を用いず『魏志』『蜀志』『呉志』などと称する慣習があったため、この通称が用いられた。
正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」である。

倭の由来や意味などについては諸説あるが、日本という国号が使われたのは大宝律令からであるとされる。
現在、日中関係のあり方が問われているが、古代においても同様であったようだ。
大国唐の冊封体制下から、いかにして独立性を高めるかが課題であった。
そのために、律令と年号の整備が行われた。

年号については、「大化」がよく知られているが、問題視する研究者も少なくない。
⇒2008年3月27日 (木):大化改新…①概観
⇒2008年3月31日 (月):大化改新…④否定論

年号が連続的に使われるのは、701年の「大宝」からである。
同じく律令についても、この年に「大宝律令」が整備された。
「701年」は、日本が独立を果たす上での大きなマイルストーンであったということができる。
ところが、中国側の認識はこれと違っていた。
2
徹底図解飛鳥・奈良』 新星出版社 (2008/12)
「認識のズレ」も歴史が長いという他ない。
文武天皇の時代であり、この年、倭から日本へ国号が変わったとされる。
しかし、その事情は必ずしも明らかであるとは言えないようだ。
そしてなぜか、倭も日本も「やまと」と訓じる場合があるのである。

|

« 裁判員裁判と死刑の求刑 | トップページ | ヤマトタケル/やまとの謎(5) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

日本古代史」カテゴリの記事

やまとの謎」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

>倭も日本も「やまと」と訓じる場合がある

おそらく、字面が「日本」となっても、それは字面だけのこと、つまり大陸向けの改変であって、自分たちの国が「やまと」であるという意識は変わらなかったのでしょうね。

投稿: 三友亭主人 | 2010年11月 2日 (火) 05時37分

『日本書紀』は、独立宣言のようなもの、という説を目にしたことがあります。属国である「倭」ではないが、「やまと」としての継続性は保持しているぞ、という感じでしょうか。その場合、「やまと」の意識というのはどういうことなのかな、と思います。

投稿: 夢幻亭 | 2010年11月 2日 (火) 17時37分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 倭から日本へ/やまとの謎(4):

« 裁判員裁判と死刑の求刑 | トップページ | ヤマトタケル/やまとの謎(5) »