倭から日本へ/やまとの謎(4)
古代において、日本は倭と呼ばれていたことはよく知られている。
邪馬台国論争でお馴染みの「魏志倭人伝」は、中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称であり、日本において一般に知られる通称である。
江戸時代の漢学者の中で『三国志』という書名を用いず『魏志』『蜀志』『呉志』などと称する慣習があったため、この通称が用いられた。
正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」である。
倭の由来や意味などについては諸説あるが、日本という国号が使われたのは大宝律令からであるとされる。
現在、日中関係のあり方が問われているが、古代においても同様であったようだ。
大国唐の冊封体制下から、いかにして独立性を高めるかが課題であった。
そのために、律令と年号の整備が行われた。
年号については、「大化」がよく知られているが、問題視する研究者も少なくない。
⇒2008年3月27日 (木):大化改新…①概観
⇒2008年3月31日 (月):大化改新…④否定論
年号が連続的に使われるのは、701年の「大宝」からである。
同じく律令についても、この年に「大宝律令」が整備された。
「701年」は、日本が独立を果たす上での大きなマイルストーンであったということができる。
同じく律令についても、この年に「大宝律令」が整備された。
「701年」は、日本が独立を果たす上での大きなマイルストーンであったということができる。
「認識のズレ」も歴史が長いという他ない。
文武天皇の時代であり、この年、倭から日本へ国号が変わったとされる。
しかし、その事情は必ずしも明らかであるとは言えないようだ。
そしてなぜか、倭も日本も「やまと」と訓じる場合があるのである。
しかし、その事情は必ずしも明らかであるとは言えないようだ。
そしてなぜか、倭も日本も「やまと」と訓じる場合があるのである。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)(2019.03.13)
- 日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)(2019.02.24)
- 秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)(2019.02.11)
- 自然と命の画家・堀文子/追悼(136)(2019.02.09)
「日本古代史」カテゴリの記事
- 沼津市が「高尾山古墳」保存の最終案/やまとの謎(122)(2017.12.24)
- 薬師寺論争と年輪年代法/やまとの謎(117)(2016.12.28)
- 半世紀前に出土木簡からペルシャ人情報/やまとの謎(116)(2016.10.07)
- 天皇制の始まりを告げる儀式の跡か?/天皇の歴史(9)(2016.10.05)
- 国石・ヒスイの古代における流通/やまとの謎(115)(2016.09.28)
「やまとの謎」カテゴリの記事
- 元号と改元と日本建国/やまとの謎(125)(2019.01.10)
- どんどん焼き・左義長/やまとの謎(124)(2019.01.07)
- 今上天皇在位最後の誕生日/やまとの謎(123)(2018.12.23)
- 沼津市が「高尾山古墳」保存の最終案/やまとの謎(122)(2017.12.24)
「邪馬台国」カテゴリの記事
- 「壹・臺」論争は決着したのか?/やまとの謎(96)(2014.08.25)
- 邪馬台国と金印/やまとの謎(72)(2012.12.20)
- 邪馬台国所在地問題の陥穽/やまとの謎(70)(2012.12.13)
- 魏使の行程のアポリアとしての「水行十日陸行一月」/邪馬台国所在地論(2012.12.07)
- 「邪馬台国=西都」説/オーソドックスなアプローチ(2012.11.20)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
>倭も日本も「やまと」と訓じる場合がある
おそらく、字面が「日本」となっても、それは字面だけのこと、つまり大陸向けの改変であって、自分たちの国が「やまと」であるという意識は変わらなかったのでしょうね。
投稿: 三友亭主人 | 2010年11月 2日 (火) 05時37分
『日本書紀』は、独立宣言のようなもの、という説を目にしたことがあります。属国である「倭」ではないが、「やまと」としての継続性は保持しているぞ、という感じでしょうか。その場合、「やまと」の意識というのはどういうことなのかな、と思います。
投稿: 夢幻亭 | 2010年11月 2日 (火) 17時37分