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2010年11月30日 (火)

ヤマトタケル(続)/やまとの謎(10)

ヤマトタケルは実在した人物か?
名前からしても、実在性は疑わしいと考えられる。
ヤタトタケル=ヤマト(倭・日本)のタケル(勇猛な人)というネーミングであるから、モデルは考えられるとしても、実在の人物の事績とは考えにくい。
それでは、モデルとなったのはどういう人物か?

アエラMookシリーズの『古代史がわかる。』朝日新聞社(0208)に、青木周平『悲劇的英雄のモデルは誰か?』という解説が載っている。
青木氏は、4世紀の歴史的事実を反映しているとは考えられないが、『古事記』や『日本書紀』に一人の人物として描かれていることは事実であり、歴史的には、蝦夷征討の時期や伊勢神宮の成立との関係が重要であるとしている。
青木氏は、まず上田正昭『日本武尊 (人物叢書 新装版) 』吉川弘文館(8512)を踏まえ、次のように論を進める。

古代前期(奈良時代以前)のタケルは3つのタイプに分けられる。
1.地方首長でタケルを称するもの・・・吉備氏や熊襲・出雲タケル
2.タケルを日本風諡号にもつ雄略天皇
3.中央豪貴族の祖先たちでタケル号をもつもの・・・阿部氏や蘇我氏
これらの伝承像が、各地における建部設置や語部たちの奏上を通して、宮廷伝承として定着した。

2.の雄略天皇については、稲荷山古墳出土鉄剣銘がワカタケル(ノ)大王とよめることにより、その実在性が立証されたといわれている。
倭王武である。
これについては異論もあるが、大勢はそう見ているとしていいだろう。
⇒2007年9月 6日 (木):偽装の原点?

青木氏は、ヤマトタケルは、『古事記』や『日本書紀』に定着する以前のある時期において、天皇として構想されていたとする説を首肯している。
そして、ヤマトタケルという名前が献上された場面を取り上げる。
西征において熊曾建兄弟を殺そうとしたとき、熊曾建が「大倭国」に自分たち以上に「建き男」がいたといって、「倭建御子」という名を献上したとある(『古事記』)。
倭建は、熊曾建の「建」と共通するイメージであり、大倭国る。

『日本書紀』では名前を奉ったのは「川上梟師」で、「尊号」として「日本武皇子」を奉ったとされる。
梟師は、蕃族・異族のことである。
すなわち、『古事記』のヤマトタケルは一地方を代表する勇者、すなわち1.に近く、『日本書紀』のヤマトタケルは日本全体を代表する皇族将軍、すなわち2.の雄略天皇に近いイメージということになる。

青木氏はさらに次のように言う。
ヤマトタケルの悲劇的英雄というイメージからすると、皇位につく資格を持ちつつ天皇になれず死んでいった皇子、たとえば、有間皇子、大津皇子、『万葉集』の高市皇子などがヤマトタケルとの関連を考えられるという。

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