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2010年9月 9日 (木)

江藤淳の『石原慎太郎論』

江藤淳と石原慎太郎氏は、互いに良き理解者であり、ライバルでもあったといえよう。
石原氏の江藤淳の『遺書』に対する評価は既に紹介したが、同じ福田和也氏との対談で次のように語っている。

文壇に出てから僕を発見してくれたのは三島由紀夫と江藤淳ですよ。江藤は伊東静雄の詩を引いて『太陽の季節』には死の匂いがある、と言ってくれたけれど、僕自身だって「へえ、なるほどなあ」と感心したくらいだもの。

江藤淳の、伊東静雄の詩をひいた『石原慎太郎論』は、『中央公論』の59年12月号に発表された。
26歳のときである。

《……
今歳水無月のなどかくは美しき。
軒端を見れば息吹のごいとく
萌えいでにける釣しのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ
六月の夜と昼のあはひに
万象のこれは自ら光る明るさの時刻。
遂ひ逢はざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪へがたかればわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ,
わが水無月のなどかくはうつくしき》

1956年に、『太陽の季節』で衝撃的にデビューした石原氏は、一般には、文字通りキラキラと輝く「陽」の人と認識されていたであろうから、江藤が『水中花』(上記の詩)を引いて、「死」や「孤独」などについて論じたのは、かなり奇異に感じられたらしい。
慧眼な批評家の日沼倫太郎でさえ、「あまり『真昼』の世界の住人でありすぎると私が考えていた石原氏の作品を論じるにあたって、なぜ対極の『死』についてわざわざ江藤氏が語らなければならなかったのかが……さっぱりわからなかった」と述べている((『石原慎太郎文庫3「挑戦 死の博物誌」』の「解説」(河出書房(6501))。

しかし、伊東静雄のこの詩は、6月に脳梗塞を発症し、7月に自ら命を絶った江藤淳にこそふさわしいのではないだろうか。
江藤は、この詩句を引用しつつ、以下のようにのべている。

「美」の基準をなしているのは「死」である。「死」の到来が予感されることによって、時は停り、現在だけが残る。
……
「死の思想」を奉じるものは、かぎりなく「自由」である。すべてが許されていて、なにも恐れることはない。彼にとって、自分を相対化する他者などというものは存在しないからである。
大空襲のとき、美しく炎上する東京の空を眺めながら、私はあの下に一軒の家ものこっていなければよい、東京が全く滅亡していればよい、と希ったことがあった。あたかも「東京」という名前がが滅びることによって現実が一変するとでもいうように。

江藤はここで、小林秀雄が言うように、「批評とは竟に己の夢を懐疑的に語る事」であるとすれば、石原氏を材料に己の夢を語っているのかもしれない。
しかし、子供の頃から病気がちだったとはいえ、売り出し中の25、6歳の若者が、同世代のこれまたスター的人物を評するのに、「死の思想」を以てするだろうか。

1999年7月21日、鎌倉地方を襲った激しい雷雨の中で、江藤の心の中に40年前に抱いた「死の思想」が去来したのではないか、と確認しようのないことを考えたくなる。
“滅びゆくものはすべて美しい……”
江藤淳は、己の「死の思想」に拠り所を求めたのではないか。

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