吉本隆明氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(7)
追悼文の名手とでもいうべき人がいる。
私の知る限り、『追悼私記』洋泉社(9707-増補版版)の著者吉本隆明氏は、紛れもなくその1人である。
吉本氏の主著と称される『定本 言語にとって美とはなにか』角川ソフィア文庫(0109)、『共同幻想論』角川ソフィア文庫(8201-改訂新版版)、『心的現象論本論』文化科学高等研究院出版局 (0807)などは私の胸に響くことはなかったが、『追悼私記』に収録された文章は、どれもが悼む心が素直に伝わってくるものである。
言い換えれば、吉本氏が「人の心のヒダ」を知悉した人であることを感じさせるものである。
地方の高校出身者であった私は、大学に入るまで吉本隆明という名前を知らなかった。
大学に入って(1963年)間もない頃、生協の本棚で、『抒情の論理』未来社 (1959) を手にしたときの衝撃的な印象は今も記憶にある。
圧巻は「前世代の詩人たち」という批評だった。
壺井繁治などの、それまで良心的な文学者という通説でしか知らなかった詩人の評価を、客観的な証拠をベースに、鮮やかに逆転させるものであった。
今にして思えば、クリティカル・シンキング(クリシン)との出会いだった。
吉本氏は『増補追悼私記』の「増補版のためのあとがき」で次のようにいう。
死者は誰でも悼まれてよい重さを生者の側にのこして立ち去る。ただそれが文章の表現にのこされるかどうかは、偶然の契機がおおいのだとおもえる。文章にする機会に出遭って、わたし自身の心のなかでは、いっそう印象が深く刻まれたことはたしかだ。わたしの文章にそれだけの力はないのだが、この印象の深さが、わたし以外の人々にもひろがってくれれば、これに過ぎることはない。
さて、江藤淳の死には、吉本氏の心ににどのような印象を刻んだか?
『文學界9909』号の「追悼・江藤淳」の特集に、吉本氏は『江藤淳記』と題する文章を寄せている。
江藤淳は脳梗塞の発作のあとの自分は、その前にくらべて形骸にすぎない、だからこの形骸を自分で断つのだと自殺の理由を自己限定している。本当にそうか江藤淳の断定の当否を論ずる知識をもっていない。だがこう断定されてもそうかなあ、という疑問が、どこかに澱んでくることを禁じえない。つまりわたしは江藤淳のいう「病苦」を夫人の死による孤独感、前立腺炎の不快な苦しさ、そして急迫するように加わった脳梗塞、この三重の運命的な強迫に生への姿勢を断念せざるを得なかったのだと解釈したがっているのだ。それならおれにもわかるという思いからだ。
けれど江藤淳の遺書のニュアンスは少しちがう。夫人の病気、死までの看護による極度の疲労、その結果の前立腺炎の発病で心身の不自由はすすんだが、決定的に自害を決意させたのは脳梗塞の発作のあとで自分が形骸にすぎなくなったからだと記しているように受けとれる。
わたしは現在の自分の心身の状態から類推して、おれなら自殺などしないなと確言することができない。これが本音だ。だが必ず江藤淳とおなじように自殺して消えてなくなるだろうとも言えない気がする。この間に介在する一種の偶然の契機のようなものは何なのだろうか。わたしは独りで考え込んできた。
ここに吉本氏の追悼文に対する姿勢が窺える。
つまり、吉本氏は江藤淳の自殺の報に接して、大きな衝撃を受けた。
吉本氏には、「文藝春秋」五月号に掲載された「妻と私」という江藤淳の手記の読後感が生々しく残っていた。
それは、夫人を看取るの記に加えて、自身の排尿不能、入院、手術それから退院までの記録が書かれており、前立腺炎で入院したことのある吉本氏にとって、重いものであった。
そのうえで、『遺書』を読み、自分で独りで考え込む。
自分である程度の得心がいくまで考えるのだ。
吉本氏の追悼文が胸に響いてくるのは、根本にこの自分で考え抜く力があるからだろう。
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