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2010年9月13日 (月)

山田潤治氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(4)

『文學界』9911月号は、「『江藤淳の死』再考」という特集を組んで、江藤淳の自死の意味を反芻している。
いかに衝撃的であったかを物語るものであろう。
特集の中で、山田潤治という人が、『自決することと文学の嘘』と題する80枚の力作評論を寄せている。

巻末の執筆者紹介欄によれば、山田氏の略歴は以下の通りである。

評論家。70年生まれ。『喪われた轍』(文藝春秋)。大学入学以来の十年間、自他共に認める「江藤淳の弟子」だったが、江藤氏についてはしばらく書かないつもりだった。しかし、師の死をしっかりと得心することなくしては、前に進めないと意を決し、今月号の原稿を執筆した。「山田君、君は人間の死を知的に処理しようとし過ぎている。それじゃあ駄目なんだよ」という師の生前の言葉が、温顔と共に甦る。

また、次のようなプロフィールの紹介がある。
http://www.ne.jp/asahi/junji/bungei/profile.html

昭和45年京都府生まれ。奈良県東大寺学園高校卒業後、慶應義塾大学総合政策学部(SFC)に入学(一期生)。同大学院政策・メディア研究科に進学後、米国イェール大学大学院に留学。慶大大学院修了後、日本文藝家協会勤務などを経て、現在大正大学講師。専攻は比較文学、日本文学。

江藤の死に対しては、江藤のそれまでの言説との関連で、それを「公」的なものとして考えるのか「私」的なものとして考えるのか、ということが議論の一つの対象になった。
それは、言論人としての江藤淳が言行不一致ではないのか、という問いである。
江藤淳は、戦後民主主義の批判者として認識されていた。
しかるに、『妻と私』を書いて自決に至ったということは、結局は戦後民主主義(愛妻物語)に屈服したのではないか、という投書が「産経抄」に寄せられた。

松本健一氏は、産経新聞「正論」欄で、「公」が成り立つためには、それを支える「私」が必要であり、江藤の場合、その「私」は、彼自身の身体と妻との家庭を土台としていた。
その土台が二つながら失われたと思ったとき、彼は自死を選んだのだ。
つまり、「公」と「私」は、「産経抄」読者のように対立的に捉えるべきではなく、江藤が追求してきたのは、「公」を支える「私」の精神ではないか、と江藤を擁護する文を書いた。

松本氏のこの見解に対して、さらに入江隆則氏が「散文的な、みすぼらしい見方」(『新潮』9910号)と過激に批判した。
「公」を「私」が支えるのではなく、「公」と「私」は相互補完的あるいは相互依存的であって、「私」もなんらかの「公」に支えられていることを認識すべきである。
江藤にとっては、まず日本という国家の「公」が失われ崩壊してしまったという崩壊感があったのではないか。
江藤が生き続ける意欲を失ったのは、「公」と「私」の両方の支えを失ったと感じたからであろう、と。

ところで、何故それほど「公」と「私」の区別に拘る必要があるのか。
山田氏は、それは背後に「私」的に自決したことを忌む思想があるからではないか、と問う。
世の中には確かに、自決は敗北である、とする見方がある。
特に、自決が「公」的なものであればまだ許されうるが、「私」的な自決は決して許されないという見方が。

山田氏によれば、それは例えば過労自殺という概念によく現れている。
過労自殺とは、過労死に至るまでに、精神的・肉体的に追い込まれて精神的破滅を迎え、自裁に至ることをいう。
つまり、過労自殺は過労死の一変種であり、過労死が肉体的破滅であるのに対し、過労自殺は精神的破滅であるという枠組みで捉えられている。
遺族にとっては、死者の名誉が大事である。
過労自殺か否かは法的概念であって、例えば法廷で判定されるようなものであるが、「自分で勝手に死んだ」(=私的な自殺)のではなく、仕事という「公」的な理由で死を選んだ(=過労死の一種)のだ、という判定が重要なのである。

しかし、山田氏は、自殺=過労死とすることが本当の意味での死者の名誉につながるのか、と問題提起する。
つまり、自殺=過労死とは、自殺=自殺とみなさないことである。
自らの意思で死んだその意思をどう考えるのか。
(私的な)自殺は果たして忌むべきことなのか。
過労自殺という判断を、公的に(例えば裁判所で)得ることによって、公的な自殺=善、私的な自殺=悪という枠組みはより強化される。
その結果として、私的な自殺に対する偏見はますます強くなるだろう。
死者の名誉毀損という社会的偏見を晴らすために起こす裁判が、社会的偏見を助長するという悪循環を招く。

生きている者は、どのみち死の核心、死の本質には直接触れることができない。
公私の二項対立はその本質に迫る一つの手掛かりではあろう。
しかし、自決=敗北とする思想で本当に死の本質に迫ることができるのか。

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