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2010年9月

2010年9月30日 (木)

権力の世襲と権威の世襲/「同じ」と「違う」(15)

28日に開かれた朝鮮労働者党代表者会と党中央委員会総会は、金総書記の三男のジョンウン氏を、党中央委員と党軍事委員会副委員長に選出するなどの人事を決定し、一日で閉幕した。
いかにも慌ただしい。
関係者らによれば、水面下で「軍」「党」「親族」の3つの勢力の駆け引きがあったようだ。

結果的には、「党が管理する先軍政治」ということだ。
先軍政治は、次のように解説されている。
Wikipedia100511最終更新

北朝鮮で出版された文献をみると、ほかの社会主義国は、労働者階級の党(共産党など)がまず建設され、それに基づき軍が建設されるという「先党後軍」の「先労政治方式」を採っているが、北朝鮮では逆に、金日成によって朝鮮人民軍の前身である朝鮮人民革命軍がまず創建され、祖国解放を成し遂げた後に朝鮮労働党が創建され、続いて軍を正規武力に強化発展させ、建国偉業を成し遂げたとしている。また、ソ連やルーマニアの社会主義政権崩壊を例に挙げ、それらの国々では軍事の問題を正しく解決しなかったことで、軍が反革命に同調してしまい、政権崩壊に導いたと分析している。

つまり、先ず「軍」というこである。
この結果、経済分野でも軍の影響力が大きくなり、傘下の企業を通じて正規の輸入から密輸までを手掛けるようになり、市場に出回る物資を握った。
相対的に「党」の力は弱くなる。
党が主導した昨年11月のデノミは、軍が物資流通を減らしたために失敗したといわれる。

軍の肥大化を警戒し、党が軍を監視する枠組みを、実妹の金慶姫氏や彼女の夫の張成沢氏が進言した。
昨日の図にも示したように、実妹らが党内要所に配置され、先軍政治の旗は降ろさないが、党が管理する体制になったというわけである。
しかし、軍にも相応の配慮をしている。
李英浩軍参謀総長を政治局常務委員とする一方で、張成沢氏を政治局員候補にとどめた。
微妙なバランスである。
Photo
日本経済新聞100929

ところで、このような「最高権力の世襲」というのは、近・現代国家としては異例である。
世襲を正当化するものは何か?
その家系が他に比べ、特別に秀でているということであろう。
言い換えれば、貴種の存在を認めるということである。

わが国でも、憲法で次のように元首の世襲が規定されている。

第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。

大日本帝国憲法では次のようであった。

第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

皇室典範の見直し論議は沈静化しているが、世襲によって地位が受け継がれるというのはどう理解すべきだろう。
天皇は権威であって権力ではない、ということのようだが。

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2010年9月29日 (水)

北朝鮮の権力承継

北朝鮮が、金正日総書記の後継を、三男のジョンウン氏としたようだ。
ジョンウンの漢字表記は、正雲または正銀と書くらしい。
家系図は以下の通りである。
Imagescatr6a0x

朝鮮日報紙は以下のように報じている。
http://www.chosunonline.com/news/20100929000011

北朝鮮が28日、近・現代では世界的に例を見ない、まるで封建時代のような、3代にわたる権力の世襲を正式に発表した。北朝鮮メディアはこの日早朝、金正日(キム・ジョンイル)総書記(68)の三男ジョンウン氏(27)に対し、「朝鮮人民軍大将」の称号を授与した、と一斉に報じた。また、金総書記の妹の敬姫(ギョンヒ)氏(64)もこの日、北朝鮮初の「女性大将」となった。朝鮮中央放送は、「金正日同志が、金敬姫氏、ジョンウン氏、崔竜海(チェ・リョンへ)氏、玄永哲(ヒョン・ヨンチョル)氏、崔富日(チェ・ブイル)氏、金慶玉(キム・ギョンオク)氏の6人に対し、大将の軍事称号を授与された」と報じた。北朝鮮の内外に向けた発表に、「キム・ジョンウン」という名前が登場したのは今回が初めてだ。
統一部の関係者は、「金総書記がジョンウン氏と敬姫氏に対し、同時に大将の称号を与えたのは、『軍と親族』を通じ、3代にわたる世襲を実行するという意思表示だと考えられる」と語った。一方、敬姫氏の夫の張成沢(チャン・ソンテク)労働党行政部長(64)は今年6月、北朝鮮の最高権力機関である国防委員会(委員長:金総書記)の副委員長に任命された。なお、今回大将の称号を授与された6人のうち、ジョンウン氏、敬姫氏と崔竜海氏(党組織指導部第1副部長に昇任と推定)、金慶玉氏(党組織指導部第1副部長)の4人は、軍隊での経歴がない。玄永哲・第8軍団長と崔富日・副総参謀長だけが現役の軍人だ。これについて、安全保障関連省庁の関係者は、「ジョンウン氏に対し、党の役職よりも先に軍の称号を与えたり、『キム・ジョンウン時代』の中心人物となる民間人4人に大将の称号を与えたことは、『先軍政治』を維持していくという政治的な意味がある。先軍政治の旗の下に、軍部は核開発も続けていくとみられる」と語った。

注目されるのは、金敬姫の名前である。
上図に見るように、金総書記の妹であり、正雲からするとおばにあたる。
党中央委軽工業部長の肩書を持つが、今回、女性ながら「大将」の称号を与えられ、夫の張成沢・国防副委員長(党行政部長)と共に、正雲をサポートするミッションを持つと考えられる。

金正日総書記の健康問題については、以前からいろいろ推測されてきた。
以下は、金正日のWikipedia (100928最終更新)の「健康と後継問題」に関する記述である。

元専属料理人の藤本健二や脱北者から伝わってくる贅沢な生活ぶりと体型の変化から、生活習慣病説や健康悪化説がメディアで流れることがある。実際、ドイツの医療チームに心臓の手術を受けたという情報や、心臓の他、糖尿病、肝臓病、糖尿合併症による腎臓病も患っており、短い時間でも立つのが困難という。 韓国の聯合通信TVニュース(YTN)は2009年7月13日、すい臓がんである事を報道した。すい臓がんの再発率は非常に高く、すい臓がんをすべて摘出する場合、体内でインシュリンを作れなくなってしまうので、すい臓を摘出した後は糖尿病になる。 2008年秋に入ると、2008年9月9日に行われた建国60周年記念の軍事パレードに出席しなかったこと、当初建国以来最大規模とも伝えられていた軍事パレードが、労農赤衛隊などの民兵のみのパレードにとどまったこと、その他動静の報道が一時途絶えたことから金正日の重病説が広く報道された。例として、
・8月に脳卒中で倒れ、半身不随になった。
・金正日は脳卒中で倒れた後、2008年9月現在も四肢に障害が残っている状態であり、回復には相当な期間の静養とリハビリが必要。
といったものがある。 しかし、あくまでも説なので、信憑性は低いとされている。
これに先立ち8月に重村智計が死亡説・影武者説を提起している。
……
2008年9月、代行と言う形で権力を握っているのは義弟で外戚の張成沢であるが、後継の政治指導体制がどのようになるのか(3代にわたる世襲か、軍部による集団指導体制か、あるいは朝鮮労働党の実力者が権力を握るのか)という話題に関心が集まっている。
……

結果的には、金総書記が、父親の金日成主席から受け継いだ独裁政権を息子のジョンウン氏に委譲する3代権力世襲となったわけである。
産経新聞ソウル支局長・黒田勝弘氏は次のように書いている。
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/100929/kor1009290306002-n1.htm

北朝鮮の権力世襲と家族支配は“金王朝”を思わせる。皮肉にも国名の「朝鮮民主主義人民共和国」に反する、21世紀の現代世界ではきわめて特異な国家というしかない。権力世襲や家族支配など血縁主義は朝鮮半島の伝統的風景だ。北朝鮮で金日成・金正日一家がそれを活用してきたのは、それが権力維持にもっとも効果的と信じているからだ。実際、国民はそれに納得(?)させられ、2代目金正日体制は今にいたる。しかし北朝鮮の現状は、周知のように飢餓を招くほどの国家的困窮状態にある。

世襲は正統性の根拠になり得るだろうか。

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2010年9月28日 (火)

吉本隆明氏の読み(続)/江藤淳の『遺書』再読(8)

吉本隆明氏は、江藤淳の『遺書』に強い自己限定の意思を読み取る。
それは偶然とみられやすい契機を否定する意思である。
森鴎外が、友人に託した遺言書で、自分は石見の国の人、森林太郎として死にたいという自己限定と似ている。
軍医総監や博物館長等の職業、あるいは文学者としての評価は不要という自己限定である。

吉本氏は、森鴎外の遺言書を、生涯のうちの何らかの粉飾的なことを抹殺したいという自己限定による意志的な死後の自殺と理解する。
同じように、江藤淳の『遺書』も、「病苦」に自死の理由を集約する意志力を感じる。
死後に自殺するか(森鴎外)、自殺によって死をもたらすか(江藤淳)を別にすれば、二人は共通である。
江藤淳は、「病苦」に刀折れ矢尽きたが、なお自己限定の意志を捨てなかった。

吉本氏の江藤淳に対する追悼文(『文學界9909』号)の末尾を引用しよう。

江藤淳とわたしとは文芸批評のうえでも、時事的な評論のうえでも、よく似た問題意識をもってきたが、大抵はその論理の果ては対極的なところに行きついて、対立することが多かった。たぶん読者もまたそういう印象だったろう。

わたしもそのような読者の一人だった。
およそ対立的な立場にあると思われる二人が、共に相手を敬愛し、尊敬し合う風が感じられた。
最初は違和感を覚えたが、山田宗睦『危険な思想家―戦後民主主義を否定する人びと 』光文社(1965)に対して、吉本氏が厳しい批判を加えているのを読んで得心した記憶がある。
詳しいことは忘却の彼方であるが、当時の進歩的知識人の立場から、“保守派”の言論人を批判したものであった。

批判されていたのは、林房雄、三島由紀夫、石原慎太郎、竹山道雄氏らである。
江藤淳も批判された1人だった。
『週刊金曜日』の「風速計」という欄で、佐高信氏が次のように言っている。
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=630

“危険な思想家”佐藤優の面目躍如だろう。山田宗睦が『危険な思想家』(光文社)を書いた時、たしか、名指しされた江藤淳は、思想はもともと危険なものであり、“安全な思想家”とはどういう存在だと開き直った。この江藤の反論には、やはり、真実が含まれている。

もっとも、山田宗睦氏自身もその後転回している。

1965年『危険な思想家』で、石原慎太郎、三島由紀夫、福田恒存など「保守」と見られる知識人を批判し、ベストセラーとなった。しかしその後、自らその単純さを認め、「今から思えば「危険な思想家」など先が見えぬまま書いた恥ずかしい本でしてね」と述懐した(「朝日新聞」1989年10月27日夕刊)。その頃からは、『古事記』『日本書紀』の現代語訳や注釈に手を染めている。
Wikipedia090125最終更新

吉本氏の文章を続けよう。

なぜかわたしには対極にあるもの特有の信頼感と、優れた才能に対する驚嘆と、時々思いもかけぬラヂカルナな批評をやってのける江藤淳に対する親和感があった。江藤淳との最後の対談の日、今日もまた対立かなと思って出掛けたが、対談がはじまるとすぐに、江藤淳がもうかんかんがくがくはいいでしょうと陰の声で言っているのがわかった。わたしの方もすぐに感応して軌道を変えたと思う。かれはその折、雑談のなかでふと、僕が死んだら線香の一本も」あげてくださいと口に出した。同時代の空気を吸っていたとはいえ、わたしの方が年齢をくっているのに、変なことを言うものだなとおもって生返事をしたように記憶している。眼と足腰がままならず、線香をあげにゆくこともできなかった。この文章が一本の線香ほどに、江藤淳の自死を悼むことになっていたら幸いこれに過ぎることはない。

達人は達人を知るということであろうか。
吉本氏は、ラジカルな批評家として知られる。
ラジカルという言葉は、さまざまな分野でさまざまに用いられているが、語源は、ラテン語のradicis、radixという言葉であり、植物などの根(根っこ)という意味である。
吉本氏に冠せられる場合は、60年安保の際の共産主義者同盟(ブント)に同調する立場から、政治的な急進主義を指していたが、むしろより語源的な意味と解するべきであろう。
そして、その意味で江藤淳も十分にラジカルであったといえると思う。

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2010年9月27日 (月)

“やまと”の謎(2)

竹村公太郎氏は、『土地の文明 地形とデータで日本の都市の謎を解く』PHP研究所(0506)において、中国史家の宮崎市定氏の「交流軸の都は栄える」という言葉を、日本の地域で実証しようと試みる。
そして、滋賀県の繁栄がこのテーゼを実証しているとする。
しかし、交流軸の上で繁栄する事例だけでは十分ではない。交流軸から外れて滅んだ都市の事例はないだろうか。
このような問題意識をもって、奈良市の人口の歴史的推移を調べる。
Photo_2

結果は上図の如くであった。
奈良の興亡、繁栄と衰退の様子が一目瞭然である。
奈良盆地は、古墳時代の飛鳥京や藤原京、平城京の奈良時代を通じて日本の中心として栄えた。
それは、奈良盆地が大いなる交流軸の上にあったからである。

大いなる交流軸とは?
シルクロードである。
ヨーロッパとアジアを結ぶシルクロードは、ユーラシア大陸から東シナ海へ続き、さらには日本海へあるいは瀬戸内海へと続いた。
瀬戸内海の沿岸部には文明が成り立つような土地がなく、東へ東へと進んだ。
縄文時代の近畿地方の地形図をコンピュータで再現すると下図のようになる。
2 
縄文時代には、海面が現在より5m上昇していたと推定される。

瀬戸内海を東に進んだ終着地に、当時海だった大阪の主要部がある(上町台地に囲まれて湾を形成していた-河内湾)。
上図ではやや分かりにくいので、別図を引用する。http://www.city.settsu.osaka.jp/cmsfiles/contents/0000001/1289/86inisie.pdf
Ws000000
東の湾奥に、大和川が奈良盆地から流入していた。
大和川を遡上すると、当時は湿地水面だった奈良盆地に入る。
当時の奈良盆地は、舟運の便に優れた水郷だった。
つまり、シルクロードの終着点が奈良盆地だったのである。

世界の文明と繋がる地である奈良が繁栄しないわけがない。
飛鳥京、藤原京、平城京といった本格的な都市が建設された。

桓武天皇による京都への遷都により、奈良は交流軸の主軸から外れた。
中世から近世にかけての約千年の間、奈良は衰退を余儀なくされる。
明治になり鉄道が敷設されると、奈良は千年の眠りから覚める。
しかし、社会インフラのないままの目覚めであった。
それが、旅館・ホテル客室数最下位の背景である。

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2010年9月26日 (日)

“やまと”の謎(1)

平城京に遷都(710年)してから1300年ということで、今年はさまざまなイベントが行われている。
平城遷都1300年祭ホームページ
私も、数年前から、古代史ファンの1人として、この節目の年に奈良の地を訪ねたいと思い、楽しみにしていた。
ところが、昨年末来の入院生活で、すっかり予定が狂ってしまった。
しかし、まだ期待を放棄したわけではない。

そんなわけで、関連資料は折に触れ目にしている。
かねてから、何で「奈良(≒やまと)」の地に古代宮都が置かれたか、という疑問を持っていた。
“やまと”の優位性は何か?

竹村公太郎『土地の文明 地形とデータで日本の都市の謎を解く』PHP研究所(0506)に、びっくりするような図が載っている。
Photo
都道府県別の、旅館・ホテルの客室数の図である。

H9年度のデータであるが、なんと奈良県が最下位なのだ。
私のイメージとこのグラフは全く合わない。
奈良といえば京都と並んで、観光のメッカである。
私は違かったが、修学旅行の定番の土地である。
ちなみに、1位、2位は、東京と北海道であり、これはまあ納得的である。
わが静岡県が3位に入っているのは意外(?)であるが、山と海に恵まれ、温泉なども多いからであろうか?

それにしても、奈良県は歴史遺産の宝庫であるはずだ。
邪馬台国の有力な候補地であるし(私は現時点では九州説であるが)、纏向遺跡の頃から、聖徳太子の頃の飛鳥や斑鳩、藤原京や平城京まで、奈良は日本古代史の重要な土地だった。

今年は、全国10の地域でエイペックが開催される。
奈良市においても、「観光大臣会合」が、9月22日、23日に終了したばかりである。
http://apec2010nara.jp/meeting/
つまり、奈良は日本を代表する観光地という位置づけである。
その奈良が、なぜ最下位?

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2010年9月25日 (土)

尖閣諸島事件の船長を釈放

何とも釈然としない感じが残った。
尖閣諸島の事件で逮捕されていた中国人船長が、唐突に釈放された。

尖閣諸島沖の日本領海内で中国漁船と石垣海上保安部の巡視船が衝突した事件で、同保安部が公務執行妨害の疑いで逮捕した中国人船長について那覇地検は処分保留のまま釈放した。中国のチャーター機で帰国の途に就いた。
日ごとに両国の関係が泥沼化するのは双方に不利益をもたらす。日中両国にとって早期決着が求められる事案だったわけだが、解決の在り方には疑問が残る。
那覇地検は「国民への影響や今後の日中関係を考慮すると、これ以上身柄の拘束を継続して捜査を続けることは相当でない」と日中関係に言及した。捜査機関が外交問題を理由に挙げるのは異例である。高度な政治的判断があったことをうかがわせる。
拘置期限前の決定だが、那覇地検は福岡高検、最高検と協議。巡視船の損傷は航行に影響がない、乗組員が負傷していない、衝突はとっさに取った行動で計画性は認められない―ことなどを挙げた。
……
仙谷由人官房長官は釈放決定を検察の判断としているが、検察が外交問題に口を挟むのは常識では考えられない。民主党外交の危うさを露呈してしまった。
尖閣諸島は歴史的にみても、日本固有の領土である。
1885年以降再三、現地調査を行い、無人島で清国の支配が及んでいないことを確認した上で、95年1月に閣議決定し、正式に日本領土に編入したというのが政府の見解である。
……
今回の決着は、国際社会に日本外交は中国の圧力に屈したと映ったのは間違いない。

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-09-25_10513/

釈然としない理由はいくつかある。
その第一は、那覇地検の説明である。
説明の通りだとすると、地検が政治的判断をした、ということになる。
これまでの報道では、検察ならびに政府は、日本の法律に照らして、証拠に基づき粛々と処分するという方針だった。

フジタの社員が河北省で拘束され、人命の危険もあるとの判断だったようだ。
しかし、本来全く別の事象であるはずである。
そこに真因があるのならば、内閣の判断で行うべきであり、結果的にバーターの材料とするにせよ、交渉の過程をオープンにすべきである。

仙石官房長官は、地検独自の判断であり、それを了とする、と説明した。
柳田法務大臣も、指揮権は発動していない、と話している。
しかし、常識的に考えてそんなことはあり得ないだろう。
法と証拠に基づき捜査を進めるとしていた検察当局が、「国民への影響や今後の日中関係を考慮」し、独自の判断をした?
明らかに政府の意向が反映しているはずである。

そうだとすれば、官房長官は重大な虚偽の説明をしていることになる。
「検察一体」という言葉がある。
那覇地検の説明は、検事総長の説明でもある。
検事総長に指示できるのは、指揮権を持った総理大臣と法務大臣である。

海上保安庁も気の毒である。
事実上、自分の職務を否定されてしまったのだ。
那覇地検も同じである。
苦しい説明を強いられただけでなく、ハシゴを外されてしまった。

たまたま(?)菅総理大臣も、前原外務大臣も海外滞在中である。
外交のトップ2人が不在の時に、かくも重要な問題を決定してしまっていいのか。

国家の要件は、領土、人民、主権である。
今回の決定は、国家存立の基盤に係わるものである。
三たび、「菅首相続投で、本当にいいのだろうか?」と問いたい。
⇒2010年9月11日 (土):菅首相続投で、本当にいいのだろうか?
⇒2010年9月21日 (火):再び問う、「菅首相続投で、本当にいいのだろうか?」

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2010年9月24日 (金)

吉本隆明氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(7)

追悼文の名手とでもいうべき人がいる。
私の知る限り、『追悼私記』洋泉社(9707-増補版版)の著者吉本隆明氏は、紛れもなくその1人である。
吉本氏の主著と称される『定本 言語にとって美とはなにか』角川ソフィア文庫(0109)、『共同幻想論』角川ソフィア文庫(8201-改訂新版版)、『心的現象論本論』文化科学高等研究院出版局 (0807)などは私の胸に響くことはなかったが、『追悼私記』に収録された文章は、どれもが悼む心が素直に伝わってくるものである。
言い換えれば、吉本氏が「人の心のヒダ」を知悉した人であることを感じさせるものである。

地方の高校出身者であった私は、大学に入るまで吉本隆明という名前を知らなかった。
大学に入って(1963年)間もない頃、生協の本棚で、『抒情の論理』未来社 (1959) を手にしたときの衝撃的な印象は今も記憶にある。
圧巻は「前世代の詩人たち」という批評だった。
壺井繁治などの、それまで良心的な文学者という通説でしか知らなかった詩人の評価を、客観的な証拠をベースに、鮮やかに逆転させるものであった。
今にして思えば、クリティカル・シンキング(クリシン)との出会いだった。

吉本氏は『増補追悼私記』の「増補版のためのあとがき」で次のようにいう。

死者は誰でも悼まれてよい重さを生者の側にのこして立ち去る。ただそれが文章の表現にのこされるかどうかは、偶然の契機がおおいのだとおもえる。文章にする機会に出遭って、わたし自身の心のなかでは、いっそう印象が深く刻まれたことはたしかだ。わたしの文章にそれだけの力はないのだが、この印象の深さが、わたし以外の人々にもひろがってくれれば、これに過ぎることはない。

さて、江藤淳の死には、吉本氏の心ににどのような印象を刻んだか?
『文學界9909』号の「追悼・江藤淳」の特集に、吉本氏は『江藤淳記』と題する文章を寄せている。

江藤淳は脳梗塞の発作のあとの自分は、その前にくらべて形骸にすぎない、だからこの形骸を自分で断つのだと自殺の理由を自己限定している。本当にそうか江藤淳の断定の当否を論ずる知識をもっていない。だがこう断定されてもそうかなあ、という疑問が、どこかに澱んでくることを禁じえない。つまりわたしは江藤淳のいう「病苦」を夫人の死による孤独感、前立腺炎の不快な苦しさ、そして急迫するように加わった脳梗塞、この三重の運命的な強迫に生への姿勢を断念せざるを得なかったのだと解釈したがっているのだ。それならおれにもわかるという思いからだ。
けれど江藤淳の遺書のニュアンスは少しちがう。夫人の病気、死までの看護による極度の疲労、その結果の前立腺炎の発病で心身の不自由はすすんだが、決定的に自害を決意させたのは脳梗塞の発作のあとで自分が形骸にすぎなくなったからだと記しているように受けとれる。
わたしは現在の自分の心身の状態から類推して、おれなら自殺などしないなと確言することができない。これが本音だ。だが必ず江藤淳とおなじように自殺して消えてなくなるだろうとも言えない気がする。この間に介在する一種の偶然の契機のようなものは何なのだろうか。わたしは独りで考え込んできた。

ここに吉本氏の追悼文に対する姿勢が窺える。
つまり、吉本氏は江藤淳の自殺の報に接して、大きな衝撃を受けた。
吉本氏には、「文藝春秋」五月号に掲載された「妻と私」という江藤淳の手記の読後感が生々しく残っていた。
それは、夫人を看取るの記に加えて、自身の排尿不能、入院、手術それから退院までの記録が書かれており、前立腺炎で入院したことのある吉本氏にとって、重いものであった。
そのうえで、『遺書』を読み、自分で独りで考え込む。
自分である程度の得心がいくまで考えるのだ。
吉本氏の追悼文が胸に響いてくるのは、根本にこの自分で考え抜く力があるからだろう。

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2010年9月23日 (木)

しつけと虐待/「同じ」と「違う」(14)

児童・幼児に対する虐待のニュースが多い。
⇒2010年8月11日 (水):大阪市2幼児放置致死事件の衝撃
自分の体験に照らしてみれば想像できないことであるが、社会のあり方が変容してきていることの1つの結果なのだろう。
⇒2010年8月25日 (水):“家族の絆”は弱まっているか?

最近近よく耳にする言葉は、「しつけ」のつもりだった、というものである。
「親がしつけをして何が悪いのか?」「子供がわがままに育ったら子供のために良くない」……。
「しつけ」と「虐待」には明瞭な境界が存在するのか?
産経新聞で、「なぜ親は一線を越えるのか」という連載記事がある。
100922日の記事に、「しつけ」と「虐待」の境界について、岡山大学が宮崎市の父母を対象に、「しつけ」と「虐待」の線引きを尋ねた調査結果が載っている。
2_2
判断が分かれる微妙な行為は、「頭をたたく」「ベランダなど家の外に出す」「押入れなど一室に閉じ込める」などである。
これらの行為は、文字面的にはどの親でも行っているのではないだろうか。
問題は、どういう状況で行われたか、である。
記事では、虐待か否かの判断基準として、児童虐待の先駆者の一人、故坂井聖二医師の言葉が引用されている。
「加害者の動機・行為の質によらず、子供が安全でないという状況判断」
「あるコミュニティーの中で最低限、親に要求される育児の範囲を逸脱したもの」
「しつけ」と「虐待」は、本来截然と区別されるべきものである。
その境界が不分明になるのは、「体罰」という概念の存在による。
「体罰」が「罰」として意識的に行われていれば、それは当然コントロールされたものであるはずだ。
しかし、往々にして感情に走り、抑制が効かなくなりがちである。
そして、大人とは本来感情の抑制のできる人のはずであるが、最近の傾向として、感情のコントロールができない大人が増えているのではなかろうか。

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2010年9月22日 (水)

クリシンはどこへ行った?

クリシンと言えば、多くの人が栗本慎一郎氏を思い浮かべるだろう。
学者として、タレントとして、国会議員として、といったようにマルチな才能で知られた人である。
Wikipedia100803最終更新によって、略歴をレビューしておこう。

雑誌『現代思想』1977年3月号をきっかけに論壇にデビューし、その後、いわゆる「ニューアカ(ニュー・アカデミズム)」ブームの先鋒をつとめた。新人類という言葉を作り出したり、議論の技術を向上させるディベートを普及するため朝まで生テレビに出演するなど、積極的にマスコミに顔を出すとともに、糸井重里、吉本隆明、丸山圭三郎ら多くのタレント、文化人、学者と分野を超えて交流し、多数の対談・共著を出版した。
カール・ポランニーの弟分である高名な経営学者ピーター・ドラッカーから突如電話を受け、それがきっかけで「ブダペスト物語」を執筆したり、過去には歌手として織田哲郎プロデュースの下『平成若者大音頭』をリリースするなど幅広く活動。

だが、とつぜん華々しい舞台から遠ざかることになる。

1999年10月頃、脳梗塞になる。朝起きると左半身が動かなくなり、日課のウォーキング中で道が分からなくなる、病院に行こうとタクシーに乗るも、呂律が回らず運転手に行き先が伝わらない等の症状が出る。一命は取り留めたものの左半身麻痺となってしまい、リハビリに励むも中々上手くいかない。ある日、リハビリで左手を動かそうとすると右手が動く事に気付いた栗本は、箱の真ん中に鏡を置き、箱の中に右手を入れ、鏡で右手を映しながら動かし、それと同時に妻が左手を同じ様に動かすという、鏡に映った右手を左手だと栗本の脳に錯覚させるという独自のリハビリを試した結果、2ヵ月後には症状が良くなり、現在はゴルフや車の運転が出来るほどに回復した。

闘病生活をベースに、脳卒中に対する注意を喚起し、リハビリのあり方を提言した『栗本慎一郎の脳梗塞になったらあなたはどうする―予防・闘病・完全復活のガイド』たちばな出版(第1刷0105/第7刷0903))は、私も入院中に読んだ。
⇒2010年4月11日 (日):中間報告(3)初期微動を捉えられるか
⇒2010年4月18日 (日):中間報告(4)初動対応と救急車の是非

ところで、ここではマスコミへの露出がへった栗本氏に対して「クリシンはどこへ行った」と問いかけるものではない。
クリシンのもう一つの用法であるクリティカル・シンキングについてである。
クリティカル・シンキングの重要性は、今では広く世に浸透している。
ビジネス・パーソンの必須スキルとして数多くの参考図書が出版されているし、ビジネス・スクールでも講義されている。
しかし、道田泰司&宮元博章/(まんが)秋月りす『クリティカル進化(シンカー)論―「OL進化論」で学ぶ思考の技法』北大路書房(9904)が出版された頃は、それほど一般的ではなかったように思う。
私も、周りの人間に「ビジネスパーソン必読の書」として推奨したが、実際に購読した人はそれほど多くないのではないか。
クリティカル・シンキング(クリシン)とは、直訳の日本語で言えば「批判的思考」である。
つまり、物事を判断するのに、①正しい根拠に基づき、②妥当な推論を行うことである。
上掲書から図解を引用しよう。
Photo 
クリティカル思考(クリシン)は、とりわけ刑事裁判等において重要である。
根拠としての「事実」は、いわゆる証拠である。
正しい証拠は、刑事裁判の出発点である。
あろうことか、大阪地検の特捜部という、本来クリティカル思考の牙城であるべきところで、証拠の改竄という信じがたいことが行われたらしい。
検察の面目丸つぶれである。
今の時点では、報道に頼るしかないが、あまりにありうべからざることなので、もう一段奥に隠れた事実があるのではないかと疑心暗鬼になるほどである。

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2010年9月21日 (火)

再び問う、「菅首相続投で、本当にいいのだろうか?」

改造菅内閣がスタートした。
⇒2010年9月18日 (土):改造菅政権のスタート
世論の支持率も上々のようである。

産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)は18、19の両日、合同世論調査を行った。菅内閣の支持率は前回調査(8月28、29日実施)から18・2ポイント上昇して64・2%となり、政権発足後最高を記録した。不支持率は21・2%(18・6ポイント減)。民主党代表選後の党役員人事、内閣改造で小沢一郎元幹事長を登用しなかったことを「評価する」と答えた人が74・8%に上っており、“脱小沢人事”が奏功した形だ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100920-00000509-san-pol

ちなみに、内閣支持率の推移は下図のようである。
100921
産経新聞100921

折角の支持率上昇に水を指すつもりはないが、「脱小沢」を評価して、というのが主な理由ではいささか心許ない。
田中秀征元経済企画庁長官も、菅氏は、自民党と小沢さんの不人気に便乗して続投したと辛口のコメントを寄せている。

1つは自民党政権に戻したくない。2つ目は小沢さんを復活させたくない。3つ目は首相がコロコロ代わるのは好ましくない。そんな世論に巧みに便乗している。
だが、このような消極的な支持では政権を担当するだけの求心力は生まれない。小沢さんがいなくなれば菅内閣はすぐにつぶれてしまうだろうな。

産経新聞100921「単刀直言」欄

同感である。
田中氏は、菅首相は、就任してから強いメッセージを発していない、と指摘する。
「最小不幸社会」や「元気な日本」など、菅首相の発したキーワードを、「まったく胸に響かない」と切り捨てる。
内閣改造後の記者会見で、重点課題として〈1〉金融・財政対策〈2〉国際社会での活動〈3〉地域主権改革――の3点を挙げた。
⇒2010年9月18日 (土):改造菅政権のスタート
ところが、田中氏は、次のようにいう。

彼の関心事といえば、相撲で言えば土俵の整備だ。「二大政党制」「選挙制度」「クリーンでオープンな政治」とか。でも土俵でどんな相撲を取るかがはっきりしない。国にとって一番大事な経済、外交、地方が、彼の関心事から欠けている印象がある。

菅首相が重点課題としているものが、いずれも彼の関心の外にあったということだ。
具体論や迫力にかけるのは、そのためだったのか、と思ってしまうほど重なっている。
消費税発言については、このブログでも折に触れ言及してきた。
⇒2010年7月12日 (月):日本の政治はどうなるのだろうか?
⇒2010年8月 1日 (日):民主党におけるマネジメントの不在

田中氏も次のように手厳しい。

彼は霞ヶ関を倒す奇兵隊内閣などと言ったが、財務省に取り込まれて今や霞ヶ関幕府を守る新撰組になってしまった。

田中氏は、自民党は老朽住宅、民主党は仮設住宅で、どっちも永住する気になれない、ダメだと分かった政権を続ける必要はない、という。
私は、代表戦の前に、菅氏優勢との状況分析に対し、「菅首相続投で、本当にいいのだろうか?」と問うた。
⇒2010年9月11日 (土):菅首相続投で、本当にいいのだろうか?
支持率上昇を目にして、もう一度同じことを問いたいという思いに駆られる。

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2010年9月20日 (月)

新聞折込のポテンシャル

消費市場の低迷が続いている。
8月の消費動向調査の概要は以下の通りだった。

消費者マインドを示す消費者態度指数(全国、一般)は、42.4(前月差▲0.9pt)となった。これで2ヶ月連続での低下となり、回復が続いていた消費者のマインドに頭打ち感が見え始めている。①経済対策の押し上げ効果の弱まり、②海外経済減速や円高進行によって景気減速懸念が高まりつつあること、③株安の持続などが消費者心理の改善に歯止めをかけていると考えられる。
Photo
○消費者の慎重姿勢は続く
雇用環境の回復が緩慢なものに止まっていることに加え、年度後半からは景気の減速感が強まってくると予想されることなども踏まえれば、先行き消費者マインドも弱含み傾向が続く可能性がある。こうした中で経済対策の押上げ効果が剥落することは、個人消費にとって大きな懸念材料といえるだろう。
エコカー補助金は、9月7日をもっての支給終了が発表された。同時に行われているエコカー減税は継続されるが、最大25万円と金額の多い補助金制度が終了する影響は大きい。同対策は一年以上に及んで新車販売を大きく押し上げてきたため、10-12月期以降の新車販売は大幅な反動減が見込まれる。また、10-12月期はたばこの値上がりによる販売減少なども予想されており、これらの要因によって個人消費は大きな減速を示すこととなりそうだ。

http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/rashinban/pdf/et10_155.pdf

そういう中で、供給側としては、有効な広告媒体に絞った出稿にシフトすることになる。
何が有効かは、業種や商品によって異なるであろう。
新聞折込も、次のような特性が再評価されているように思われる。
①生活者・消費者に密着した媒体であること。
②時間的・地域的にフレキシブルな出稿が可能であること。
③豊富な情報量を掲載できること。
④保存性があること。

しかし、新聞折込の実態(生活者・消費者が具体的にどういう接触をしているか)について、定量的な分析を行っている資料はほとんどないようだ。
株式会社エム・エス・エス折込センター企画編集『新聞折込広告効果測定調査』(0603)は、その意味で貴重な資料集であろう。
同書によれば、各種広告媒体は、次のように位置づけられる。

まず、印象については次表の通りである。
Photo_3 

これにより、各媒体のポジショニングをすれば次図の通りである。
Photo_5 

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2010年9月19日 (日)

新聞の未来と折込チラシ広告

i-Padが人気を呼んでいる
教育に利用しようという動きがあるし、野球賭博問題で窮地に追い込まれた相撲協会では、各部屋にi-Padを配布して、コミュニケーションの円滑を図るという。
私も、知人のi-Padをいじらして貰って、その視認性の良さに驚いた。
果たして、タブレット型の電子機器は、紙媒体を駆逐いていくであろうか?

i-Padの視認性は、新聞を違和感なく読める。
拡大縮小が自由なので、一面全体を俯瞰して興味を惹く記事をピックアップすることが容易にできるし、特定の記事をじっくり読むこともできる。
切り抜いて、ストックしておくことも簡単にできそうだ(私はまだ試していないが、evernote等のクラウドサービスとなじむという)。

身体障害者にとって、タブレット型機器は便利のように思える。
操作は片手でできる。
ページを繰るのも指1本で可能だ。
しかし、i-Padを手にした実感では重すぎる。
電車の中で片手で持つなどは不可能である。
私のような右上肢マヒ者にとっては悩ましい。
どうしたものだろう、と考え中である。

というところで、昨日新聞を玄関ポストから引き抜こうとして驚いた。
折込チラシがずっしりと重いのだ。
ようやくマヒしている右手で、新聞をポストから引き抜くことができるようになってきた。
機能回復訓練の一環のつもりでやっている。

ところが、昨日は、とても私の右手では支えきれなかった。
土曜日だったからじっくりと折込チラシを手にしてくれるだろう、というのが出稿者側の狙いだろう。
内容的にはどんな業種・商品のものか?
広告業界には特有の分類があるのだろうが、素人の分類による数量(枚数)は次の通りだった。

電気・通信機器関係…9
住宅・不動産関係……9
食品・レストラン等……9
服飾衣料品・靴等……4
パチンコ等遊戯関係…4
自動車関係…………・3
その他………………10
     計…………・48
その他というのは、複数の広告主が相乗りで紙面を構成しているものが中心で、業種や商品を特定できないものである。

折込チラシというのは、いかにもオールドメディアである。
しかし、地域密着型のメディアとして根強い人気を持っていることを再認識した。
折込チラシは、文字通り新聞に折り込んで配達される。
新聞配達店にとって大きな収入源である。

新聞と折込チラシは共生関係にあるといえよう。
とすれば、「折込チラシの媒体」として、新聞はそう簡単に電子メディアに置き換わられることはないのではないか。
なんだか本末転倒のような気もするが……。

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2010年9月18日 (土)

改造菅政権のスタート

改造菅内閣がスタートした。
課題は多いが、記者会見では、次のように表明した。

首相は民主党政権の1年を「試行錯誤を繰り返した内閣だった」と述べ、「具体的なことを実行する有言実行内閣を目指す」と表明した。
その上で、重点課題として、〈1〉金融・財政対策、(2〉国際社会での活動、〈3〉地域主権改革――の3点を挙げた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100917-00000988-yom-pol

人事的には、〈1〉金融・財政対策担当として海江田万里氏が経済財政大臣に、(2〉国際社会での活動担当として前原誠司前国土交通大臣が外務大臣に、〈3〉地域主権改革担当として片山善博慶應大学教授(元鳥取県知事)が総務大臣に就任した、といえよう。
その他の閣僚については余り知らない人もいるが、重点課題対応としては期待し得る人事といえるだるう。
問題は、首相のリーダーシップである。
ブレることなく、有言実行してもらいたい。

特に、代表戦においても、「一に雇用、ニに雇用、三に雇用」と雇用対策に注絵力する決意を強調していたが、どうやって雇用を創造するか、という具体論の提示はなかった。
今後の司令塔は海江田氏ということになるのだろうが、速やかに、具体化していくことを期待する。

不安要素としては、菅首相のブレのほかに、財務省との関係である。
菅首相の経済政策の基本が、財務省の手の内にあるように感じられる危惧があることは既に述べた。
⇒2010年9月11日 (土):菅首相続投で、本当にいいのだろうか?

今にして思えば、財務大臣だった1月下旬、参議院で、「子供手当て」の乗数効果をめぐって、自民党の林芳正氏の質問に明快に答えられなかった。
理系の出身にとって、乗数効果などというマクロ経済学の用語など馴染みがないのは当然である。
財務大臣としては如何なものかと思うが、知らないことは知らないでもいい。
と思うが、菅氏にとっては、その時に財務官僚に助け舟を出してもらったことが、トラウマになってしまったのだろう。
唐突に消費税論議を持ち出したことに象徴されるように、財務省に傾いた姿勢が著しいのではなかろうか。

6月18日に閣議決定された「新成長戦略」が、経済運営の指針になるのだろうか?

菅改造内閣発足後の初閣議を首相官邸で開き、5項目からなる「内閣の基本方針」を決めた。6月の菅内閣発足直後の基本方針を踏襲した上で、「直近の円高・デフレ状況に対する緊急な対応を行う」「新成長戦略の着実かつ早急な実現を図る」を新たに加え、経済重視の姿勢となっている。他の項目は「省益にとらわれず政策課題に取り組む」「行政の透明化推進」「政務三役と官僚は役割分担と責任を明確にし、一体となって政策運営に取り組む」など。
http://mainichi.jp/life/money/news/20100918k0000m010078000c.html

「新成長戦略」については、実現可能性の低いドリームプランとの批判もあるようである。
今後の施策に注目しよう。

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2010年9月17日 (金)

山田潤治氏の読み(2)/江藤淳の『遺書』再読(6)

山田潤治氏は、死を迎えようとする江藤淳の脳裏に何が浮かんだのかを、問い直したいと『自決することと、文学の嘘』の論考を始める。
「なぜ、自決したのか」と理由を問うことには、意味がない、と考えるからである。
そして、死に向かう過程としては、石原慎太郎氏や福田和也氏などが推測しているように、7月21日の夕刻に鎌倉を襲った雷雨が、江藤淳の精神に何らかの作用を及ぼしたことに始まるのではないか、としている。
問題は、その後である。

江藤家出入の庭師・鈴木久雄氏が江藤家を訪れたのが午後6時過ぎ。
8時過ぎには遺体となって発見されている。
2時間足らずの間に、江藤淳は、死に際しての支度をすべて整え、身体を処決した。
死出の道行きを決めた後の江藤淳は、普段と変わらぬ頭脳の冴えを見せている。
判断にいささかも狂いはない。
みずから死を選ぶという決断を下したことに満足していただろう。

しかし、江藤淳は、手首を切り損なっている。
江藤淳はなにをためらったのか?

山田氏もデュルケムの『自殺論』に言及しているが、デュルケムの分類は直接的な原因による区分であり、自殺それ自体の性質を考えるには不十分であるとする。
そして、次のような対比軸を設定し、特定の自殺の持つ性格や意味を明確化しようとする。

1)他殺-自殺
目の前に迫った死に対して、みずからの身体をどう処決するか、という選択である。
例えば、信長に叛旗をひるがえして信貴山城に籠もって戦った松永弾正の、信長の垂涎の茶釜-信長から降伏して差し出すことを命ぜられた名器「平蜘蛛の釜」-を城の上から叩きつけて自害するという主体的な選択としての死、あるいは壇ノ浦で知盛の「見るべき程の事は見つ、今は自害せん」と言い残して海に没したとされる主体的な選択としての死、などである。
彼らは、死すべき運命を感知し、それに逆らわず死を甘受する意思を示すかのように、みずから命を絶った。
「他殺」と「自殺」という選択肢(いずれ死は逃れられない)から「自殺」を選ぶという選択である。
他人の手に掛からず、運命の手に掛かることを選んだという意味で、自然死に近い死に方とも言える。

2)自然死-自殺
自然死の対極にある概念として自殺を捉える考え方である。
自然死という運命に逆らって先取りする自殺であり、「生」と「死」の選択肢において、「死」を選ぶという選択である。
この場合、必ずしも死は逃れられないという状況ではない。
死ぬことによってどのような評価が得られるか、他人にどのように理解されるかを判断した上での自殺である。
つまり「名」を残すために「死」を選ぶのであり、自覚的な自殺と言うことができる。

近代の進歩主義は、進化論的な考え方、言い換えれば「適者生存」の思想を基盤として成立している。
江藤は子供の頃から病弱だった。
そして大人になっても長い間結核に罹患して病床にあった。
江藤は、『漱石とその時代・第一部』において、「必ず無用の人と、なることなかれ」という訓戒が、幼き日の夏目金之助(漱石)に強く作用したことを指摘しているが、その訓戒の抑圧をさらに重く受け止めていたのが江藤自身だったのではないか。
脳梗塞に見舞われた江藤が、「無用の人」となる可能性のある自分を処決しようと考えたとしても不思議ではない。

その意味で、彼にとって、「江藤淳」署名の遺書で「死」の理由として挙げた病苦は、「私」的な理由ではなく「公」的な理由としてあった。
つまり、江藤淳という「名」を残すための死である。
脳梗塞による障害を背負いつつ生きて行くことと、その時点で生を断ち切ることを比較考量し、死を覚悟したとき、江藤の心はむしろ平安だったのではなかろうか。

山田氏は、江藤淳が手首を切り損なったことに拘ってその意味を考える(直接の死因は水死とされている)。
そして次のように総括する。
理想主義的な側面に突き動かされて、自決へと向かった江藤淳が、最後に「死」を懼れ、リアリズムの人に戻った瞬間があったことは、私(山田氏)にとって、江藤淳の自決を考える時の、この上ない安心材料である。

とはいえ、いやだからこそと言うべきか、死を決断してから2時間ほどの間に、必要であると思われる事務的な処理を完了するという冷静さを保ちつつ、三島由紀夫のような介錯人なしで、自決して果てることは、やはり誰にでもできることではないだろう。

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2010年9月16日 (木)

民主党の代表選結果の感想(続)

民主党の代表選の結果について様々な論評がなされている。
気になるもののいくつかをピックアップしておこう。
先ずは、選挙そのものに関してである。
日経ビジネスオンラインの「【番外編】武田斉紀の『住みたくなる日本のつくり方』」の「菅さん、国民はあなたを選べなかったのですよ。」と題する記事からである。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100914/216231/
筆者の武田 斉紀氏は、企業理念コンサルタントで、ブライトサイド コーポレーション代表取締役社長である。

武田氏は、先ず「民主党代表選挙は、本当に選挙だったの?」と問う。

選挙という以上、「選ぶ自由」が保障されていなければならない。菅氏と小沢一郎氏が、叫び、媚び、最後は「態度を早く決めないと後で後悔するぞと迫った」(中間派議員のコメント)相手は、国民ではなく党所属の議員だった。国民はただ舞台を横目で見るだけで、一国の首相を選ぶことができなかったのだ。これが果たして「国民のための選挙」といえるだろうか。

そして、「選ぶ自由」を可能にする選挙として、次のようなイメージを提示する。

方法はこんな感じだ。国政への立候補者は、現状の政策ごとに自分の考えを選んで登録する。国民も同じように選ぶと、自分と最も考えの一致した人から順に候補者が表示される。人柄や実績など、政策以外の要素もあるから、上位表示の中から誰にするかを選べばいい。
選ばれた議員は政策論議を大いにやる。民主党案や自民党案をまとめるのではなく、防衛については防衛で、農業については農業で、考え方の近い人たちが集まって政策の質を高めていく。分野ごとにいくつかの政策グループができるだろう。政党の数の論理ではなく、党派を超えて様々な意見が交換される。
それらが分野ごとにいくつかまとまって国民に提示される。国民は議員たちの政策論議を聞きながら、最後に残ったいくつかの選択肢の中から投票する。ある分野では保守的な選択になり、ある分野では革新的な選択になっても大いに結構。紙の選挙だと毎回大変だが、パソコンや携帯からなら可能だ。

思考実験としては面白いが、現実には難しいだろうなあ。
朝日新聞の社説は以下のように主張する。
http://www.asahi.com/paper/editorial.html

民主党代表選を通じて、いまの政党政治の仕組みに潜む不具合が改めてくっきり見えた。そのことを考えたい。
第一に、一政党の議員や党員だけで事実上、首相を選ぶことになってしまっていいのかという疑問である。
……
第二に、民意と国会議員の意思とのずれをどう考えるか。
小沢一郎前幹事長は、世論の逆風を受けながら、国会議員の支持を得て激しい戦いを展開した。
……
世論に迎合せよと言うのではない。支持率が下がると人気の出そうな首相に代える昨今の風潮には問題がある。
世論の支持が低くても、確信を持っているなら説得を試みればいい。民意とは本来、その時々の気分や印象ではなく、議論を通じ時間をかけて醸成されるべきものだ。有権者に説明し、対話を重ね、民意形成を促すことこそ、政治家本来の役割である。

朝日新聞の社説は、正論のように思える。
しかし、「その時々の気分や印象」に最も大きな影響を与えるのが他ならぬマスコミであることを棚上げしていては如何なものか、と思う。
先の大戦において、マスコミが、戦争の大義を論じ、後に戦犯となる戦争指導者を賛美してきた歴史もあるのだ。

日経ビジネスオンラインでは、高橋 洋の『菅政権が掲げるべきは「脱・政治主導」/政治家の誤解が政権の迷走を招く』が、言葉に踊らされてはいけないことを想起させた。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100914/216226/

2009年9月の歴史的な政権交代以来、民主党政権は「政治主導」をキャッチフレーズに掲げ続けている。一方でこの1年間の成果については、「政治主導が実行されていない」と不満を持っている国民が多く、それが参議院選挙の敗北にもつながったと考えられる。筆者はあえて主張したい。この「政治主導」という言葉について、民主党は大きな誤解をしている。それがこれまでの政権の迷走の一因にもなっていることを。

高橋氏は、「政治主導」には次のような類型があるとする。
Photo_2

そして、民主党のいう政治主導とは、本来「内閣主導」と呼ぶべきである、とする。

内閣主導に近い言葉が、2009年のマニフェストでも言及された「官邸主導」である。合議制である内閣が一致団結して意思決定を行うためには、内閣の首長たる総理大臣が一定のリーダーシップを発揮することが不可欠である。国務大臣は各省庁の行政長官として官僚に操られる危険性があるため、内閣として総合的な観点から判断するために、総理に直属するブレーンである国家戦略室を設けたことは、官邸主導であり、内閣主導につながる。両者は若干力点が異なるものの、官僚主導や政党優位と比べれば、方向性に矛盾はない。
……
菅内閣が誕生してから3カ月が経過するが、結局何を一番やりたいのか理解できていないのは、私だけではあるまい。財政再建のために消費税増税を行いたいのか、その前に国会議員が襟を正すために議員定数の削減を行いたいのか、社会保障サービスを充実させたいのか、それともグリーンイノベーションを重点的に進めたいのか。総理大臣が拘る政策の大きな方向性を明らかにし、優先順位を付けて国民に示すことが、今求められているのである。総理が抱いている理念や情熱が見えないことが、鳩山由紀夫前総理も含めた民主党政権の最大の失敗だったのではないか。

結果が出てしまっているので何とも虚しいが、代表選前の菅氏と小沢氏の演説を対比して、小沢氏に軍配を上げているのが田中康夫氏である。
http://www.asyura2.com/10/senkyo95/msg/162.html

而(しか)して、以下の一文に改めて、日本のバークたる小澤一郎を感じたのです。
「私には夢が有ります。役所が企画した、丸で金太郎飴の様な街ではなく、地域の特色に合った街作りの中で、お年寄りも小さな子供達も近所の人も、お互いが絆で結ばれて助け合う社会。青空や広い海、野山に囲まれた田園と大勢の人達が集う都市が調和を保ち、何処でも一家団欒(だんらん)の姿が見られる日本。その一方で個人個人が自らの意見を持ち、諸外国とも堂々と渡り合う自律した国家日本。そのような日本に創り直したいというのが、私の夢であります」。
フランス革命を否定した保守政治家、と日本では浅薄に「評価」され勝ちなバークは実は、人々の革命への要求を先取りするような、その結果、人々が革命など必要としなくなるような賢明な政治こそ抱くべき矜恃、と看破していました。とまれ、「記者クラブ」メディアの中で何故か産経新聞のみが全文をウェッブ掲載する決意表明は、歴史の審判に耐え得る哲学と覚悟の作品なのです。

ちなみに、産経のWEBとは以下のサイトである。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100914/plc1009141532010-c.htm
代表選後の菅政権の課題についても様々な論議があるが、とりあえず代表選そのものに言及したもので、管見に触れたものを上げた。

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2010年9月15日 (水)

民主党の代表選結果の感想

民主党の代表には、菅直人氏が選ばれた。
総理大臣にも菅氏が就任することになる。
開票結果は以下の通りだった。
Photo_2 
今週中にも閣僚や党人事が決まるということであり、私たちは、とりあえずそれに委ねるしかない。

今回の選挙では、マスメディアの報道の傾きが顕著だった。
<小沢氏批判=菅氏に肩入れ>という図式である。
そのような中での、この結果をどう見るか?
国会議員がほぼ等分されているのに比べ、党員・サポーター票は約5倍という大差がついている。
これを、民意と称するのであろうか?
民主党国会議員は、民意と異なる判断をしたということか?

渡部恒三氏などは、全体として世論に違わぬ結果である、としている。
党員・サポーターが、国民の偏りのない反映だとしたら、そうも言えるだろう。
しかし、国の有権者全体を母集団として考えた場合、党員・サポーターという集団が偏りがないとは言い切れない。
というよりも、特定の主義主張を反映しているだろうから、偏りがあると考えた方が妥当ではないだろうか?
民主党の代表を選ぶだけだったら特に問題にすることもないだろう。
しかし、事実上総理大臣を選ぶ選挙である。
代表選の有権者の範囲について、再考を要するだろう。

それは置いておくとしても、一国民としては納得し難い点が少なからずあった。
第一に、選択肢が菅氏と小沢氏しかなかったことである。
そもそも、政局的混迷の根本要因は、参院選における民主党の大敗にある。
衆参のねじれ現象が容易に想像され、国会運営はきわめて難しいものとなるだろう。

その参院選の責任は誰が負ったのか?
菅氏は政権の座に居続けた。
代表選に勝利したことによって、いわゆる“みそぎ”を済ませたことになるのだろう。
枝野幹事長の処遇は現時点では分からないが、今さら参院選の責任論を持ち出す人はいないだろう。

参院選から2ヵ月以上が過ぎるが、この間日本の内閣はほとんど機能していなかったといっていいだろう。
田中秀征氏は、菅首相が参院選の結果にもかかわらず引責辞任を回避したことが、小沢氏出馬を誘発し、空白と混乱と不毛な選挙を招いたとして、次のように的確に指摘している。

代表選での菅首相の勝因は、その資質や政策への積極的な期待とは思えない。勝因を2つ挙げれば、小沢氏の不人気と「首相がころころ代わるのは好ましくない」という世論だ。こんな消極的な支持で政権運営をできるのか。不安は消えない。
……
首相の「後追いの現実主義」では到底乗り切れない局面だ

日本経済新聞100915

菅氏の自分の責任を棚上げした代表戦出馬表明と、それを追認した有力議員たちには、真剣に国民の声に耳を傾ける姿勢が感じられなかった。
確かに、コロコロ首相が替わるのは見栄えのいいものではない。
しかし、不適格な人が続けるほうが、もっと具合が悪い。
⇒2010年8月27日 (金):カン違いしたのは、菅首相かわれわれか?

菅氏と小沢氏の調整を試みた鳩山氏など、幕間に登場するピエロのようだった。
⇒2010年8月31日 (火):いまさら「トロイカ体制」か?

また、屋山太郎氏も次のように書いている。

もともと今回の代表選は「器量のない人」と「資格のない人」との戦いといわれてきた。
……
菅氏は財務相時代から財務官盧に洗脳され、国家戦略局を「室」に落とし、さらに「シンクタンク」で良いといい出している。予算の一律削減といい、補助金の交付金化反対といい、菅氏は完全に財務省路線に乗せられている、国会議員はそれが見えるからこそ、小沢氏支持に回ったのだ。『国家戦略局」を早急に創設し予算の全面組み替えをやるべきだ。

静岡新聞100915「論壇」

私も同様の感想を記したばかりである。
2010年9月11日 (土):菅首相続投で、本当にいいのだろうか?
菅政権の前途は多難だと思われる。

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2010年9月14日 (火)

宮本光晴氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(5)

わが国の自殺者数は、ここ10年以上にわたって、3万人を超える水準で推移している。

平成21年現在、日本の自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)は25.8人で総自殺者数は32845人である。これは同年の交通事故者数(4914人)[3]の6.7倍に上り、その深刻さが伺える。
これは日本国外と比べて極めて大きい値で、日本の自殺率はアメリカ合衆国のそれ2倍に相当する(2002年)。 自殺率は主要国G8諸国、OECD加盟国、双方とも日本が自殺率1位となっている。なお、国別の自殺率でみると日本は4位で、日本以外の上位7カ国はガイアナを除けばすべて旧社会主義国(旧ソ連)が占めている。特に男性中高年層では、自殺率の水準は世界でもトップレベルである 。
日本において自殺は主要な死因の一つであり、平成18年度の場合、悪性新生物(癌の事。30.4%)、心疾患(16.0%)、脳血管疾患(11.8%)、肺炎(9.9%)、不慮の事故(3.5%)に次ぐ6位で、2.8%が自殺により死亡している。特に20代から30代にかけては死因のトップで、平成15年の場合、死亡者のうち15.8%(20代前半)、20.9%(20代後半)、22.8%(30代前半)、25.0(30代後半)が自殺している。
……
統計的にも、失業要因が「安定して有意に男性自殺率を増加させる方向に作用しかつ寄与度も大き」く、したがって、「98年以降の30歳代後半から60歳代前半の男性自殺率の急増に最も影響力があった要因は、(中略)雇用・経済環境の悪化である可能性が高い」事が年齢階層別データ分析、都道府県別年齢階層別データ分析の双方において確認できる。

Wikipedia100912最終更新

特に、中高年男性の自殺は、ゆゆしき問題だろう。
それによって男性の平均寿命が低下している程だというから、胸を衝かれる。
このような事態にもかかわらず、政府(自公も民主も)は格別の問題意識を持っていないらしい。
サラリーマンを中心とする中高年男性が自ら死を選ぼうと思う要因はどのように考えられるであろうか。

江藤淳の自殺の後に、さまざまな論考が書かれたが、宮本光晴『サラリーマンのアノミー的自殺』(『発言者』9911号)は、この中高年男性の自殺の急増という事象を、フランスの社会学者エミール・デュルケムが『自殺論』(1897)で提示したフレームに基づいて考察している。
デュルケムによれば、自殺には「自己本位的自殺」「集団本意的自殺」「無規範(アノミー)的自殺」の3つの類型がある。

近代化とは、個人を拘束する力や制度を解体し、そこから個人を解放することである、というのがデュルケムの基本的な認識である。
つまり近代化によって、自我や欲望の自制や抑制の解除が進む。
自我や欲望に対する制約が除かれた社会は、自我や欲望を無際限に増殖させる社会となりがちであろう。
その結果として、欲求不満は益々昂進する可能性がある。
「キレる」とか「ムカつく」と叫ぶ子供の犯罪は、そういう欲求不満を表現していると考えることができる。
とすれば、「キレる子供」が犯罪に走るのに対して、「キレる大人」は自殺に走るという図式が成り立つであろう。
それはデュルケムのいうアノミー的自殺に他ならない。

近代社会の原理でもある進歩主義が、ある意味で必然的にアノミー的自殺を生み出しているのである。
そして、いま、日本的経営の集団主義は否定され、特に小泉-竹中改革以降、自己責任の個人主義が声高に語られる時代である。
自立した個人や自己責任の個人主義という言葉に取り囲まれたサラリーマンは、自己の無力を思い知る。
無力と絶望から過労自殺に追い込まれるとすれば、それはエゴイズム的自殺の一種とも言える。
中高年に見られる自殺は、デュルケムの設定したもう一つの類型である集団本位的自殺である、と解釈することも可能である。
大銀行や官庁などにおいてエリートとしての立場にあった人たちにおいて見られる例は、組織を防衛する意図であるか、潔白を証する意図であるかは別として、組織との一体化という側面を持っているように感じられることは事実である。

問題は、近代化によって進む集団の拘束力や凝集力の解体が、アノミー的自殺やエゴイズム的自殺を生みだし、他方では集団の拘束力や凝集力が強ければ集団本位的自殺の要因となるという背反性である。
日本企業は、集団としての拘束力や凝集力を解体する方向に進みつつあるが、本当にそれが良いことなのか。
アノミーとエゴイズムの支配を許容するとするならば、日本的経営とは異なる、例えば大陸ヨーロッパに見られるような、職業ごとにメンバーの条件を定めメンバーの仕事の保障と競争の排除を行う専門職集団、のような新たな職業集団の形成を真剣に考える必要がある。
それは集団としての凝集力によって、アノミー的自殺やエゴイズム的自殺を阻止する機能は持つであろうが、同時に職業の硬直性をもたらすであろうことも容易に想像される。
そのプラスとマイナスを天秤にかけてどう判断するのか。あるいは、他の方策があり得るのか。

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2010年9月13日 (月)

山田潤治氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(4)

『文學界』9911月号は、「『江藤淳の死』再考」という特集を組んで、江藤淳の自死の意味を反芻している。
いかに衝撃的であったかを物語るものであろう。
特集の中で、山田潤治という人が、『自決することと文学の嘘』と題する80枚の力作評論を寄せている。

巻末の執筆者紹介欄によれば、山田氏の略歴は以下の通りである。

評論家。70年生まれ。『喪われた轍』(文藝春秋)。大学入学以来の十年間、自他共に認める「江藤淳の弟子」だったが、江藤氏についてはしばらく書かないつもりだった。しかし、師の死をしっかりと得心することなくしては、前に進めないと意を決し、今月号の原稿を執筆した。「山田君、君は人間の死を知的に処理しようとし過ぎている。それじゃあ駄目なんだよ」という師の生前の言葉が、温顔と共に甦る。

また、次のようなプロフィールの紹介がある。
http://www.ne.jp/asahi/junji/bungei/profile.html

昭和45年京都府生まれ。奈良県東大寺学園高校卒業後、慶應義塾大学総合政策学部(SFC)に入学(一期生)。同大学院政策・メディア研究科に進学後、米国イェール大学大学院に留学。慶大大学院修了後、日本文藝家協会勤務などを経て、現在大正大学講師。専攻は比較文学、日本文学。

江藤の死に対しては、江藤のそれまでの言説との関連で、それを「公」的なものとして考えるのか「私」的なものとして考えるのか、ということが議論の一つの対象になった。
それは、言論人としての江藤淳が言行不一致ではないのか、という問いである。
江藤淳は、戦後民主主義の批判者として認識されていた。
しかるに、『妻と私』を書いて自決に至ったということは、結局は戦後民主主義(愛妻物語)に屈服したのではないか、という投書が「産経抄」に寄せられた。

松本健一氏は、産経新聞「正論」欄で、「公」が成り立つためには、それを支える「私」が必要であり、江藤の場合、その「私」は、彼自身の身体と妻との家庭を土台としていた。
その土台が二つながら失われたと思ったとき、彼は自死を選んだのだ。
つまり、「公」と「私」は、「産経抄」読者のように対立的に捉えるべきではなく、江藤が追求してきたのは、「公」を支える「私」の精神ではないか、と江藤を擁護する文を書いた。

松本氏のこの見解に対して、さらに入江隆則氏が「散文的な、みすぼらしい見方」(『新潮』9910号)と過激に批判した。
「公」を「私」が支えるのではなく、「公」と「私」は相互補完的あるいは相互依存的であって、「私」もなんらかの「公」に支えられていることを認識すべきである。
江藤にとっては、まず日本という国家の「公」が失われ崩壊してしまったという崩壊感があったのではないか。
江藤が生き続ける意欲を失ったのは、「公」と「私」の両方の支えを失ったと感じたからであろう、と。

ところで、何故それほど「公」と「私」の区別に拘る必要があるのか。
山田氏は、それは背後に「私」的に自決したことを忌む思想があるからではないか、と問う。
世の中には確かに、自決は敗北である、とする見方がある。
特に、自決が「公」的なものであればまだ許されうるが、「私」的な自決は決して許されないという見方が。

山田氏によれば、それは例えば過労自殺という概念によく現れている。
過労自殺とは、過労死に至るまでに、精神的・肉体的に追い込まれて精神的破滅を迎え、自裁に至ることをいう。
つまり、過労自殺は過労死の一変種であり、過労死が肉体的破滅であるのに対し、過労自殺は精神的破滅であるという枠組みで捉えられている。
遺族にとっては、死者の名誉が大事である。
過労自殺か否かは法的概念であって、例えば法廷で判定されるようなものであるが、「自分で勝手に死んだ」(=私的な自殺)のではなく、仕事という「公」的な理由で死を選んだ(=過労死の一種)のだ、という判定が重要なのである。

しかし、山田氏は、自殺=過労死とすることが本当の意味での死者の名誉につながるのか、と問題提起する。
つまり、自殺=過労死とは、自殺=自殺とみなさないことである。
自らの意思で死んだその意思をどう考えるのか。
(私的な)自殺は果たして忌むべきことなのか。
過労自殺という判断を、公的に(例えば裁判所で)得ることによって、公的な自殺=善、私的な自殺=悪という枠組みはより強化される。
その結果として、私的な自殺に対する偏見はますます強くなるだろう。
死者の名誉毀損という社会的偏見を晴らすために起こす裁判が、社会的偏見を助長するという悪循環を招く。

生きている者は、どのみち死の核心、死の本質には直接触れることができない。
公私の二項対立はその本質に迫る一つの手掛かりではあろう。
しかし、自決=敗北とする思想で本当に死の本質に迫ることができるのか。

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2010年9月12日 (日)

今年の夏も異常気象か?

台風9号は、静岡県にも甚大な被害をもたらした。
小山町で建物の全半壊11棟が判明するなど、県や市町の確認作業が進むにつれ、深刻な被害実態が明らかになってきた。
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http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100910/CK2010091002000135.html?ref=rank
また、伊東市の川奈港に、小山町などに大きな被害をもたらした台風9号の影響とみられる大量の流木やごみが押し寄せ、港内を埋め尽くしている。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shizuoka/news/20100910-OYT8T01082.htm
Photo
http://www.youtube.com/watch?v=_4HO1BD4Ipc

今年の夏は、「史上最も暑い夏」だったといわれる。
⇒2010年9月 5日 (日):熱中症と「災害の階級性」と「『強い社会保障』の実現」政策
地球温暖化化の影響かどうか、異常気象が常態化しつつある。
⇒2009年8月 5日 (水):今年の夏は、やはり異常気象か?

異常気象とは異常高温、大雨、日照不足、冷夏などの通常とは異なる気象の総称である。
異常の程度を、気象庁では、「過去30年の気候に対して著しい偏りを示した天候」と定義している。
世界気象機関では、「平均気温や降水量が平年より著しく偏り、その偏差が25年以上に1回しか起こらない程度の大きさの現象」を異常気象と定義している。

しかし、指標のとり方によって、偏りの程度は異なるのではないか。
例えば、気温については30年に1回しか起こらない程度だとしても、降水量については10年に1度程度のことはあるだろう。
また、1時間当たり降水量が30年に1回程度だとしても、1日降水量としてみれば10年に1度程度のことはあるだろう。
こういう場合、どう考えるのだろう。

上記の川奈港の場合、30年以上漁師をやっている人が、こんなことは初めてだとTVで言っていた。
気象そのものではなくて、その結果が及ぼす事象が、「著しい偏り」を示すことがある。
おそらく、この場合は、異常気象のカテゴリーには入らないだろうが、生活に対する影響は甚大である。
いずれにしろ、災害は身近なところにある。
「忘れた頃」ではなく、「記憶が新しい」うちに次々とやってくるような気がする。

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2010年9月11日 (土)

菅首相続投で、本当にいいのだろうか?

民主党代表戦の期日も間近である。
今日、地方議員と党員・サポーターの郵便投票が締め切られ、14日の臨時党大会で開票される。
党大会で、国会議員が投票し、過半数を得た方が党代表に、そして首相になる。
この終盤情勢では、菅首相の再選の見通しが高いと報道されている。

私は、党員でもサポーターでもないから、この選挙に何らの投票権もない。
民主党の代表を選ぶならばそれでも構わないが、事実上の首相選挙であるから、国民の1人として、結果に注目せざるをえない。
選択肢が他にないのだから、菅氏に投票するか小沢氏に投票するしかない。
菅氏が首相に選ばれたのは6月4日である。
未だ3ヵ月ちょっとである。

3ヵ月という期間は、長いか短いか?
もちろん、首相の在任期間としては短いというべきだろう。
菅氏自身もそう考えているようだ。
「菅政権の本格始動はこれからだ」と。

しかし、器(適性)をみるためには、3ヵ月は十分な長さであるともいえる。
この間の実績として何が挙げられるか?
私の印象では、参院選の敗北と代表戦の対応がほとんどで、国家政策にみるべきものがあったとは思えない。

参院選のさ中に、財政再建のためには消費税のアップが必要だとして、自民党案にすりよって10%案を打ち出した。
しかし、それが支持を得られそうもないとみると、選挙期間中に、ブレた。
柔軟な思考をすることとブレることとは違う。
あまりにブレる人は、リーダーとしての適性を欠くだろう。

私は、民主党に大いに期待した。
その期待はほとんど裏切られたが、それを象徴しているのが菅氏ではないだろうか?
⇒2010年7月12日 (月):日本の政治はどうなるのだろうか?
⇒2010年8月 1日 (日):民主党におけるマネジメントの不在
⇒2010年8月 4日 (水):迫力欠く菅首相の国会論戦

国民が託した期待の1つが、政策の決定における官僚の主導からの脱却であろう。
しかし、菅首相は、すっかり財務省の手の内に入ってしまったようだ。
消費税問題がそうであが、国家戦略室の位置づけも、予算の立て方も財務省の意を汲んでいるようにみえる。
財務大臣在任中に、財務省の立場で考えるようになったのか?

菅氏と小沢氏の支持率における在来メディアとウエブサイトの差については既に触れた。
⇒2010年9月 4日 (土):菅VS小沢の支持率/マスメディアとネットの落差
どうやら、この傾向は一般的らしい。
産経新聞100910に次のような比較図が載っていた。
Photo
産経新聞によれば、「YAHOO!JAPN」は「ネット上の投票者は自らID(本人証明)を登録して政治コーナーに入り支持候補を選択する。政治に積極的にかかわりたい人たちの声だ」と分析する。
政治に積極的にかかわりたいかどうかは別として、差異は明瞭に存在する。
この差異の要因は何か。

ウエブサイトの回答者は無作為抽出された人ではないだろう。
回答を一種の重み付けと考えることもできる。
つまり、回答しようという主体的意思の存在である。
政治的な調査の場合、無作為抽出という方法がいいのかどうか疑問であるが、新聞・TVの調査結果が新聞・TVによって報道され、それがアナウンス効果を生む。
自分が投票権のある議員だったら、どの調査を参考にするだろうか?

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2010年9月10日 (金)

牽牛子塚古墳は、斉明陵か?

牽牛子塚古墳が、斉明天皇陵である可能性が極めて高くなったという。

20100910k0000m040059000p_size5奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)で、墳丘を八角形に囲む凝灰岩の石敷きが発掘され、八角形墳と確認された。9日発表した村教委によると、石造埋葬施設の周りに巨大な切り石を立て並べ、墳丘表面も石で覆った特異な石造の古墳とみられる。八角形の墳丘は飛鳥時代の天皇陵の特徴で、斉明天皇が被葬者であることが確定的となった。牽牛子塚古墳は、巨大な凝灰岩をくりぬいた埋葬施設の横口式石槨(せっかく)が露出し、過去の調査で貴人に用いるひつぎ「夾紵棺(きょうちょかん)」などが出土していたが、墳丘の構造は未確認だった。
墳丘のすその発掘で幅約1メートル、深さ約20センチの溝の中に凝灰岩の切り石(長辺約40~60センチ、短辺約30~40センチ、厚さ約30センチ)を敷き並べているのが見つかった。石敷きは  9メートルの1辺と、135度の角度でつながる左右2辺の一部が確認され、墳丘を八角形に囲んでいることが分かった。八角形の対辺の長さは22メートルで、石敷きの外側の小石が敷かれた部分を含めると対辺32メートル以上。
日本書紀によると、斉明天皇は661年に死去。667年までに娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)と合葬された。続日本紀は、陵が699年に修造されたと伝えている。
http://mainichi.jp/enta/art/news/20100910ddm001040027000c.html

斉明天皇は、名は宝。舒明天皇の皇后として、中大兄皇子(後の天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)らを産2む。642年、舒明没後に即位(皇極天皇)。645年、大化の改新で蘇我入鹿らが滅ぼされると、弟(孝徳天皇)に 譲位したが、その死後の655年、再び皇位に就く(斉明天皇)。これが日本史上初の譲位であり、初の重祚とされる。朝鮮半島・百済救援のため福岡へ赴いて同地で没し、皇位は天智に引き継がれた。

左の系図に見るように、大化改新から白村江の戦い、壬申の乱など激動の時代の核に位置する女帝である。

斉明天皇の墓の候補としては、牽牛子塚のほか、近くの岩屋山古墳(7世紀中頃)、宮内庁が斉明陵に指定している約2.5キロ南西の車木ケンノウ古墳(奈良県高取町)が挙げられてきた。
車木ケンノウ古墳が指定されたのは幕末。「天皇山」という地名がついていたためだという。ただ、同古墳は未調査で実態は不明だ。岩屋山古墳も八角形墳の可能性があり、斉明天皇の没年に近いが、石室は1室しかない。牽牛子塚古墳は石室が二つに分かれた合葬墓で、調査現場に足を運んだ河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は「八角形の石敷きを見た瞬間、斉明陵で決まりだと思った。他に被葬者の候補は見当たらない」と話す。専門家のほとんどが同意見だ。

http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20100910-OYO1T00583.htm?from=top

宮内庁は、専門家の意見が確定的だとしても、天皇陵の比定を変える気配はない。

陵墓課の福尾正彦・陵墓調査官は「これで斉明陵が確定したとみなすのは難しい。興味深い古墳なので調査の推移は注視したいが、宮内庁として対応をとることはない」と静観の構えだ。
(読売新聞100910)

皇極(斉明)天皇は古代史の鍵を握る天智天皇、天武天皇の母親という重要な人物である。
このブログでも何回か触れた。
⇒2008年3月15日 (土):天智天皇…⑥系譜(ⅱ)母・皇極(斉明)天皇
⇒2008年3月16日 (日):天智天皇…⑦系譜(ⅱ)母・皇極(斉明)天皇(続)
⇒2008年1月29日 (火):持統天皇…(ⅱ)関裕二説②
⇒2008年1月15日 (火):砂川史学…①大海人皇子(1)
⇒2009年10月 3日 (土):近江は「天ざかる夷」なのか? 
⇒2008年10月25日 (土):小林惠子氏の高松塚被葬者論…①天智・天武非兄弟説

20100910dd0phj000004000p_size5と共に、不思議な女帝でもある。
現在までに重祚した天皇は二人しかいない。
皇極-斉明と孝謙-称徳である。
長野市の善光寺の『善光寺縁起』には、地獄に堕ちたという伝説が残されている。
そして、『日本書紀』には、斉明(皇極)天皇が鬼につきまとわれたという不可解な記述がある。
梅澤恵美子『女帝 古代日本裏面史』ポプラ社(0707)
これらの意味することは何か?

皇極(斉明)天皇の実像をはっきりさせることは、古代史の霧を晴らすための必須要因である。
この重要な天皇の陵墓を、曖昧な状態にしておく宮内庁のような態度が妥当な措置といえるだろうか?
疑問が残る。

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2010年9月 9日 (木)

江藤淳の『石原慎太郎論』

江藤淳と石原慎太郎氏は、互いに良き理解者であり、ライバルでもあったといえよう。
石原氏の江藤淳の『遺書』に対する評価は既に紹介したが、同じ福田和也氏との対談で次のように語っている。

文壇に出てから僕を発見してくれたのは三島由紀夫と江藤淳ですよ。江藤は伊東静雄の詩を引いて『太陽の季節』には死の匂いがある、と言ってくれたけれど、僕自身だって「へえ、なるほどなあ」と感心したくらいだもの。

江藤淳の、伊東静雄の詩をひいた『石原慎太郎論』は、『中央公論』の59年12月号に発表された。
26歳のときである。

《……
今歳水無月のなどかくは美しき。
軒端を見れば息吹のごいとく
萌えいでにける釣しのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ
六月の夜と昼のあはひに
万象のこれは自ら光る明るさの時刻。
遂ひ逢はざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪へがたかればわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ,
わが水無月のなどかくはうつくしき》

1956年に、『太陽の季節』で衝撃的にデビューした石原氏は、一般には、文字通りキラキラと輝く「陽」の人と認識されていたであろうから、江藤が『水中花』(上記の詩)を引いて、「死」や「孤独」などについて論じたのは、かなり奇異に感じられたらしい。
慧眼な批評家の日沼倫太郎でさえ、「あまり『真昼』の世界の住人でありすぎると私が考えていた石原氏の作品を論じるにあたって、なぜ対極の『死』についてわざわざ江藤氏が語らなければならなかったのかが……さっぱりわからなかった」と述べている((『石原慎太郎文庫3「挑戦 死の博物誌」』の「解説」(河出書房(6501))。

しかし、伊東静雄のこの詩は、6月に脳梗塞を発症し、7月に自ら命を絶った江藤淳にこそふさわしいのではないだろうか。
江藤は、この詩句を引用しつつ、以下のようにのべている。

「美」の基準をなしているのは「死」である。「死」の到来が予感されることによって、時は停り、現在だけが残る。
……
「死の思想」を奉じるものは、かぎりなく「自由」である。すべてが許されていて、なにも恐れることはない。彼にとって、自分を相対化する他者などというものは存在しないからである。
大空襲のとき、美しく炎上する東京の空を眺めながら、私はあの下に一軒の家ものこっていなければよい、東京が全く滅亡していればよい、と希ったことがあった。あたかも「東京」という名前がが滅びることによって現実が一変するとでもいうように。

江藤はここで、小林秀雄が言うように、「批評とは竟に己の夢を懐疑的に語る事」であるとすれば、石原氏を材料に己の夢を語っているのかもしれない。
しかし、子供の頃から病気がちだったとはいえ、売り出し中の25、6歳の若者が、同世代のこれまたスター的人物を評するのに、「死の思想」を以てするだろうか。

1999年7月21日、鎌倉地方を襲った激しい雷雨の中で、江藤の心の中に40年前に抱いた「死の思想」が去来したのではないか、と確認しようのないことを考えたくなる。
“滅びゆくものはすべて美しい……”
江藤淳は、己の「死の思想」に拠り所を求めたのではないか。

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2010年9月 8日 (水)

石原慎太郎氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(3)

石原慎太郎東京都知事が、江藤淳の永年の盟友であったことはよく知られている。
2人は同じ年の生まれで、共に湘南中学(現高校)に学んだ。
江藤淳:1932年12月25生まれ
石原慎太郎:1932年9月30日生まれ

江藤淳は、1946年、神奈川県藤沢市の旧制湘南中学に入学した。
1級上に石原氏がおり、石原氏との交際は生涯続いた。
同年生まれであるにもかかわらず、江藤が一級遅れて入学したのは、戸山小学校のときに、病弱な上に教師と合わず、不登校になったためと思われる。

石原氏は、『文學界9909』の福田和也氏との追悼対談『俗と崇高をつなぐ人』で次のようにいう。

あれは後追い心中ですよ。そう解釈したらもう、ただただ認める以外に無い。日本人なんだからできたんだろうな。美しいじゃないか。今さら何を言っても詮ないね。

後追い心中というのは、前年(1998)年11月7日に、妻の慶子さんを喪っているからである。
その死に至る看病の記録が『妻と私』文藝春秋(9907)である。
同書によれば、江藤は、最愛の妻を亡くすという悲しみのさ中に、急性前立腺炎を発症する。
蓄積した過労によるものだと推測されるが、一刻も早く大病院に入院して加療することが望ましい、というのが専門医の意見だった。
ところが、そうできる状況ではなかった。
妻の葬儀の喪主を務めなければならなかったからだ。

仮通夜、密葬、本通夜、告別式と4日間の喪主を務めて、病院の処置室に直行した。

処置室には、Jという名前の若い医師が待ち構えていた。いうまでもなく、泌尿器科の処置室である。ズボンを脱がされ、あらためて患部をつくづく見ると、排泄器官全体が異様にグロテスクに腫れ上がり、大腿部の皮膚が真赤に熱をもっている。
「どうしてこんなになるまで、放って置いたんですか?」
と、J医師がなじるようにいった。

江藤淳が、「こんなになるまで、放って置いた」事情は、上記の如く、葬儀の日程で止むを得ない事情である。
江藤淳はなお、死と対決する意思をみせる。

こんなところで、死んでたまるものか。何としてでも慶子の遺骨を、青山のお墓に納めなければならない。やがては墓誌も、建てなければならない。這ってでも書斎に戻り、『漱石とその時代』を完成させなければならない。ここで死んでしまえば、大学で院生の研究指導をすることも叶わなくなってしまうではないか。
これらすべてのしなければならぬことは、みなあの日常性と実務の時間のなかに存在している。そこへ戻らなければならない

オペは11月17日に行われた。
病室内歩行が可能になったのが、12月21日、膀胱からの導尿が終わったのが翌日である。
翌年(1999年)1月8日に退院、『妻と私』の執筆開始が2月5日、原稿が上がったのが3月14日である。
『妻と私』は、『文學界9905』に掲載された。
単行本の「あとがき」の日付が5月13日、第1刷の日付が7月7日である。

この間、石原氏が福田氏との対談で言っているように、「生と死の尾根の上を一人で歩いて」いたのだろう。
石原氏が後追い心中だというのは、次のくだりを読むと首肯できる。

ついにここまで来てしまったよ、慶子、と脳裏に浮かんだ家内の幻影に呼び掛けたのは、多分その頃だったに違いない。いつも一緒にいるということは、ここまで付いて来るということだったのだ。君が逝くまでは一緒にいる。逝ってしまったら日常性の時間に戻り、実務を取りしきる。そんなことが可能だと思っていた私は、何と愚かで、畏れを知らず、生と死の厳粛な境界に対して不遜だったのだろう。

江藤淳の妻は末期癌であった。
彼には、それを告知するべきか否かという問題があった。
『妻と私』は、「癌告知」の是非という重い問題からはじまる。
医者は本人には「脳内出血」だと説明している。
つまり、江藤は、みずから救うことのできない妻に対して、告知の責任は負え、と迫られるのである。
結局、彼は告知しないという道を選んだ。

江藤夫婦には、子供がいなかった。
石原氏のいうように、「美しい」かどうかは保留するとしても、後追い心中の性格を持っていたことは確かだろう。

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2010年9月 7日 (火)

草森紳一氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(2)

故草森紳一氏が、江藤淳の遺書が掲載されている『文學界9909』号に、遺書の書体について触れている。
草森氏は、莫大な数の蔵書を保有していたことで知られる評論家であるが、2008年3月20日に亡くなった。
遺された蔵書を整理するプロジェクトが進んでいる。
http://members3.jcom.home.ne.jp/kusamori_lib/about_lib.html

終の棲みかとなった門前仲町のマンションに遺された蔵書は、推定で約3万冊。帯広の生家に建てられた書庫「任梟盧(にんきょうろ)」に収められたものを加えると、その倍以上にはなると思われます。
その蔵書を整理し、目録を作り、可能ならば寄贈先を探そうというのが、「草森紳一蔵書整理プロジェクト」です。

草森氏の足許にも及ぶものではないが、私も居住スペースとの対比において蔵書の整理に苦慮している。
格別の愛書家というわけではないが、かなり思い切った整理を試みても、書棚はオーバーフローしてしまう。
野口悠紀雄『超「超」整理法』講談社(0809)に倣ってデジタル・オフィスにトライしようとしているが、未だ途遠し、である。
妻と娘は、私の入院中に、「どうせ、もう今までのようにはいかないのだから……」と自分たちだけで処分を考えたらしいが、さすがに実行はしなかった。

草森氏は、江藤淳が自裁したころ、「書」の足跡から、人間の劇を見る仕事をしており、それを知っていた「文學界」の編集者が、遺書のコピーを送るので、感想を記してほしい、という。
それが、『薫風がわたって行く/江藤淳の「遺書」の足跡』という文章である。
そこで、草森氏は次のように書いている。

宛名のない四百字詰原稿用紙に書かれた江藤淳の「遺書」の内容は、簡潔を窮めている。文に乱れがない。「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。いっさいの前置きなく、すっと迷いなく単刀直入にはじまっている。全体は漢文脈で押し切っている。

草森氏は、声に出して読んでみたという。
短文の中で「形骸」の字を二度用いている。
視覚だけでなく、音韻にかなうもので、自裁の決意を伝える技術だとする。
「自ら処決して」の「処決」は、ひとりでにペンの先から滑り、躍り出た語のようだ。

万年筆で書かれ、原稿用紙の桝目の中にきっちりと捌かれている。
書姿は、「綺麗」「清純」である。
楷書のやや崩れた字で、行書にまでなっていない。

書体は、全体としてみると、右肩上がりでも左肩上がりでもない。正面主義である。
以下、個別の字について。
苦:文字通り苦しそうである。右へぶらーんと傾いている船体のようだ。
堪:右肩上がりで、苦と逆に、左から海の中に沈没しかかっているように見える。
諸・諒:左肩上がりではあるが、行ごとにみるとそれほど顕著ではない。
全体として、なかなかの書家である、というのが草森氏の評価である。

草森氏は、江藤淳のペン書きによる書形が早くから完成されていたのは、学位論文の肉筆からもあきらかである、という。
熟していない固い渋柿であるが、書形はさだまっている。
特徴的なのは、書の線をつながないところである。
これが、文字が優雅に浮遊する印象を与える。
遺書でいえば、「不自由」の「自」の中にある二本の横線である。
ただし、味わいには差があって、若い時は硬質で、晩年は柔和である、というのが草森氏の総括である。

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2010年9月 6日 (月)

江藤淳の『遺書』再読

江藤淳が自ら命を絶ったのは、1999年7月21日のことだったから、もう11年が過ぎたことになる。
この鋭敏な文芸批評家の死に接して、いろいろなことを考えた記憶がある。
遺書には次のように書かれていた。
雑誌(『文學界』9909)からのコピーであるが、不鮮明なので活字化したものを併記する。
 

江藤淳の遺書は、江藤淳名義のものが上記の1通とその他に江頭淳夫(本名)名義のもの3通があったという。
2
この江藤淳名義の遺書をどう読むか?
「諒」とするのかどうか?
とうぜん、人によってさまざまであろう。

当時の私は、「諒」としたいと考えた。
私は、男が齢を重ねれば、自らの判断で人生の終止符を自分の手で打ちたくなるような時があることを、自分の体験に照らして知っていた。
笹倉明『新・雪国』廣済堂出版(9907)の主人公・芝野の次のような述懐が他人事とは思えなかった。

人はいずれ死ぬ。例外なくいつかは死んでいくとすれば、一生の長短はその中身とくらべればあまり意味がない。大事なのは中身と、そして終わるときだ。それが最もむずかしい。死ぬと決めても、いかにして、という問題がある。それを解決できさえすれば、いつでもよろこんで死んでいける、と芝野は思った。みずから死を選ぶこと自体についてはさしたる抵抗はない。ちゃんと始末をつけることができるなら、それに越したことはないと思うけれど、遅かれ早かれいずれ滅びる命を潮どきとみさだめて、実行にうつすことができる人間はそうざらにはいない。狂気の果てに命を断つ者はいくらでもいるが、終わるべきときを自覚して、この世に別れを告げることができる者はやはり少数にかぎられるだろう。

「終わるべきときを自覚して、この世に別れを告げ」た人の心の中の動きについて、現に生きている人間が後から憶測して、あれこれ言ってみてもしょうがないような気がしたのである。

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2010年9月 5日 (日)

熱中症と「災害の階級性」と「『強い社会保障』の実現」政策

「史上最も暑い夏」だという。

気象庁は1日、今夏(6~8月)の全国の平均気温が平年より1.64度高く、1898(明治31)年の統計開始以来最高だったと発表した。特に8月は平年を2.25度も上回った。暑さは9月も続く見通しで、1日も気象庁が観測する921地点中242地点で9月の観測史上最高気温を記録。157地点で35度以上の猛暑日、789地点で30度以上の真夏日となった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100902-00000006-maiall-soci

皇居外苑で堀の水の濁りが進み、宮殿に近い二重橋堀などで、普段は緑がかってみえることが多い水が茶色に「変色」している。
Imp1009050045000n1
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/100905/imp1009050045000-n1.htm

この夏の記録的な猛暑について、気象庁の異常気象分析検討会は3日、「30年に一度の異常気象」との見解を発表した。日本付近を流れる偏西風の蛇行や今春まで続いたエルニーニョ現象が主な原因という。今後も9月末まで平年より気温が高い状態が続く可能性があるとの見通しを示した。
検討会によると、この夏は梅雨明け後に日本付近の上空を流れる偏西風が北側に大きく蛇行し、太平洋高気圧と大陸からのチベット高気圧の勢力が強まった。さらに、南米ペルー沖で春まで続いたエルニーニョ現象と今夏に新たに起きたラニーニャ現象の影響が重なって、北半球の中緯度地域の空気が暖められたことが記録的な気温の上昇をもたらしたという。

http://www.asahi.com/national/update/0903/TKY201009030466.html

そのため、熱中症によって搬送される人の数も記録的だった。

今年8月の1か月間に、熱中症で救急搬送された人は2万8269人で、昨年同月(6495人)の4倍超に上ったことが、総務省消防庁の調べ(速報値)で分かった。死者数は64人で、昨年同月(8人)の8倍。搬送者数と死者数ともに、調査を開始した2008年7月以降で最も多かった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100903-00000004-cbn-soci

Tky2010072203572 熱中症による死者は増加傾向だ。厚生労働省の人口動態統計によると、1999年から2008年までの10年間に「自然の過度の高温」で3954人が死亡した。69年から78年(658人)の6倍に増えている。
京都女子大学の中井誠一教授(運動衛生学)によると、最近の死者の65~70%は65歳以上のお年寄りで、「体力が弱っていたり、持病などがあったりすると死に至りやすい。冷暖房などに慣れ、気温の急激な変化に対応する力が衰えている可能性もある」とみている。

http://www.asahi.com/health/news/TKY201007220356.html
全国の広い範囲で梅雨明けした7月17日から8月30日までに、熱中症がきっかけとみられる死者が全国で少なくとも496人に上ることが31日、消防や警察、自治体に対する時事通信社の取材で分かった。気象庁の統計で、8月の平均気温がほぼ全国で戦後最高を記録する猛暑となったことが影響した。9月も厳しい残暑が続く見通しで、同庁などは引き続き注意を呼び掛けている。
この死者数は、2004年の新潟県中越地震や台風23号による死者・行方不明者をはるかに上回る。大阪府吹田市が市内4消防署の会議室などを「熱中症シェルター」として市民に開放したほか、栃木県や静岡県がインターネットで熱中症注意を呼び掛けるなど、新たな対策も始まった。日本は長期的な温暖化傾向にあり、猛暑・熱中症対策の強化が望まれる。(2010/08/31-20:02)

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201008/2010083100920

異常気象とはいうものの、いまや常態に近い。
⇒2009年8月 5日 (水):今年の夏は、やはり異常気象か?

この事態はもはや災害というべきであろう。
特に、高齢者の比率が高いことに注意すべきだと思われる。
ここでも、生活弱者が犠牲になるという「災害の階級性」の構図が見られる。

私は、鳩山さんから菅さんに首相が交替したとき、「国民の生活が第一」という民主党のスローガンに本気で取り組むのではないか、と期待した。
世襲政治家のお坊ちゃんよりも、市民運動家の方が生活感覚があると思ったからである。
首相就任時の所信表明演説でも、次のように言っている。

現在まで続く閉塞感の主たる要因は、低迷する経済、拡大する財政赤字、そして、信頼感が低下した社会保障です。新内閣は、「強い経済」「強い財政」「強い社会保障」の一体的実現を、政治の強いリーダーシップで実現していく決意です。
……
こうした施策に加え、今、私が重視しているのは、「孤立化」という新たな社会リスクに対する取り組みです。
……
人は誰しも独りでは生きていけません。悩み、くじけ、倒れたときに、寄り添ってくれる人がいるからこそ、再び立ち上がれるのです。わが国では、かつて、家族や地域社会、そして企業による支えが、そうした機能を担ってきました。それが急速に失われる中で、社会的排除や格差が増大しています。ネットカフェに寝泊まりする若者や、地域との関係が断ち切られた独り暮らしの高齢者など、老若男女を問わず、「孤立化」する人々が急増しています。従来のしがらみからの解放は、強者にとっては自由を拡大するものかもしれませんが、弱い立場の人にとっては、孤独死で大切な人生を終えてしまう恐れがあるのです。

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201006/2010061100502

菅首相のいう「強い社会保障」の実現、特に「『孤立化』という新たな社会リスクに対する取り組み」という政策課題は、果たして実現の方向に向かっているのだろうか。
「インターネットで熱中症注意を呼び掛ける」ことも悪くはないだろう。
しかし、それも自治体レベルでの散発的な実施である。
なおかつ室内で熱中症で死亡する「独り暮らしの高齢者」などは、そもそもインターネットなどは無縁の生活者であろう。

菅首相は、軽井沢で夏休みを過ごしてきたという。
首相とはいえ、ワーク・ライフ・バランスは重要である。
しかし、どうやら弱者の立場に立って考える人ではなかったようだ。

夕べの事、ふと、駅売りの日刊ゲンダイに目をやって驚いた。
菅さん夫妻が軽井沢プリンスホテルで夏休みを過ごしてきたという記事なんだけど、この白ずくめファッションには驚いた。


しかし、日刊ゲンダイが批判しているのは、服装ではなくて、そのイメージとはかけ離れた夏休みのあり方だ。
小泉さん御用達だったプリンスなんて行くもんだから、「限りなく自民党化する菅政権」なんて書かれちゃって、庶民感覚が薄れてきたとか、円高が進んでるのを放っといてとか、突っ込まれ放題だ。

http://blog.goo.ne.jp/ebisu67/e/5759dc48f0e3559348a59336f83b1352

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2010年9月 4日 (土)

菅VS小沢の支持率/マスメディアとネットの落差

新聞やTVなどのマスメディアが伝える「次の首相にはどちらがいいか」といった類の世論調査では、7~8割が菅氏支持である。
⇒2010年8月31日 (火):いまさら「トロイカ体制」か?

民主党代表選をめぐり、世論調査は菅直人首相の「続投」を求める声が圧倒的で、小沢一郎前幹事長に厳しい評価を突きつけた。代表選の勝敗を左右するといわれる地方議員票、党員・サポーター票に大きな影響を与え、国会議員の「心」も徐々に揺さぶられていきそうだ。
……
産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が実施した合同世論調査で民主党支持者だけを抽出すると、「首相にふさわしい」人物で菅首相を選んだのは74・9%と、調査全体の60%より14ポイント上回った。

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100830/stt1008302331021-c.htm

社説などにおいても、小沢氏はバッシングに近い扱いを受けている。

小沢氏出馬へ―あいた口がふさがらない
(朝日 8月27日付 社説)
社説:民主党代表選 大義欠く小沢氏の出馬
(毎日新聞 2010年8月27日 社説)
小沢氏出馬表明 日本の針路を競う代表選に
(8月27日付・読売社説)

各紙の公約数的見解は以下のようだ。

1.小沢氏と鳩山氏は、ダブル辞任したのに、3ヶ月もしないうちに戻ってきた。
2.小沢氏が首相になれば、1年で3人目の首相となる。
3.「政治とカネ」の問題について、国会できちんと説明責任を果たしていない。
4.小沢氏は起訴を逃れるため首相になる。
5.世論調査の結果、国民は、小沢総理誕生を望まない。

http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-2227.html

ところが、ネット上のアンケートでは、明らかにこれと異なる結果が出ている。
例えば「きっこのブログ」では以下の通りである。

2
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/

メディアの論調は、「小沢氏は立候補の資格がない」というに近いが、同じマスメディア系の調査でもネット調査(読売オンライン)では以下のような結果になっている。

Photo_2
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-2227.html

果たして、この乖離は何によるものだろうか?
あるブロガーは、次のように言う。

こうしてテレビが必死に反小沢キャンペーンを張りながら、一方で通信社や新聞社が誘導尋問の「世論調査」をする。となれば当たり前の話だが菅続投を支持する率が圧倒的に高い。これをもって、「小沢は世論と敵対するのか」と迫る。
「誰も通らない裏道」
http://fusenmei.cocolog-nifty.com/top/2010/08/post-e96e.html

そもそも、新聞社などの緊急アンケート調査などは、どのような方法で行われるのだろうか?
おそらくは、電話による聞き取り調査であろう。
ということは、固定電話が対象と考えられる。
いくら無作為抽出等の手続きを踏んだとしても、そもそも母集団そのものに偏りがあるのではないか?
⇒2009年12月11日 (金):「同じ」と「違う」(12)母集団と標本
そうとでも考えなければ、つじつまが合わない。

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2010年9月 3日 (金)

民主党代表戦と西南戦争/「同じ」と「違う」(20)

民主党の代表戦をめぐって、次のような記事が目に入った。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010090100977

菅直人首相は1日夜、都内で開かれた野田佳彦財務相のグループの会合であいさつし、不平士族に担がれ西南戦争で政府軍に敗れ、自刃した西郷隆盛に言及した。出席者によると、首相は「明治維新には西郷さんの力が必要だった」「西南戦争があって本格的な明治政府ができた」と指摘し、「政権交代以降、西郷さんはああいう末路を迎えた。これが大事だ」と述べた。
小沢一郎前幹事長に民主党への合流を勧めたのは首相自身。首相はかねて、その政治手法に疑問を呈しつつ、「小沢氏がいたからこそ政権交代できた」と話している。首相としては自身を大久保利通、小沢氏を西郷隆盛に例え、今回の代表選で同氏に勝利して、影響力を完全に排除することで、政権交代が完結すると言いたかったようだ。(2010/09/01-22:30)

菅首相の発言の正確な文脈は分からない。
しかし、この発言に接して違和感を感じたのは事実である。
それは、「代表戦が終わればノーサイド」という言葉との整合性を問題にしようということではない。
同一政党内の戦いであるから、ノーサイドが原則であるのは当然である。

菅内閣の発足時、みずからの内閣を“奇兵隊”になぞらえたことは記憶に新しい。http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100608/plc1006081924042-n1.htm

「私自身は草の根から生まれた政治家でありますので、草の根の政治という表現がひとつ浮かぶわけですが、もう少し元気が良いところで言えば、そうですね、まあ私の趣味で言えば『奇兵隊内閣』とでも名付けたいと思います。私は今は坂本龍馬が非常に注目されていますが、長州生まれであります。高杉晋作という人は逃げるときも早い、攻めるときも早い。果断な行動をとって、まさに明治維新を成し遂げる大きな力を発揮した人であります。今、日本の状況はまさにこの停滞を打ち破るためには果断に行動することが必要だ。そして、奇兵隊というのはまさに武士階級以外からもいろいろな人が参加をして奇兵隊をつくったわけですから、まさに幅広い国民の中から出てきたわが党の国会議員、これが奇兵隊のような志を持って、まさに勇猛果敢に戦ってもらいたいという期待を込めて『奇兵隊内閣』とでも名付けてもらえればありがたいと思っています」

よほど明治維新がお気に入りのようであり、政権交代を明治維新になぞらえたいようである。
私は鹿児島を本社とする会社の設立に関係していたことがあり、鹿児島には数えきれないほど足を運んだ。
特に、加治屋町の近くに事務所があったので、明治の英傑ともいうべき人物の多くが狭い町内で生まれ育ったことを知り、興味深かった。
Photo_2

さて、民主党代表選は、西南戦争と「同じ」であろうか?
小沢氏は、西郷隆盛のような最後をむかえるのだろうか?
菅首相が、組閣時には内閣を奇兵隊になぞらえ、代表選では自陣を官軍にたとえたことが違和感の主因のような気がするが、やはり西南戦争とは「違う」と思う。
ここでは、同じように小沢氏を西郷隆盛にたとえている勝谷誠彦氏のメルマガを引用しよう。

西南戦争では西郷は敗れた。しかし、平成の西南戦争ではあの時とは決定的に違うことがある。「幕府が生き残っている」のだ。幕府とは自民党のことである。
戊辰戦争では明治政府は徹底的に幕府を抹殺した。さきほども触れたようにだからこそ革命は成就したのだ。実は、小沢さんは民主党を掌握していた時には、同じことをしようとした。残酷なほどに自民党を追い込み、もう少しであそこは解党せざるをえなかったかもしれない。それは革命とはそういうものだと知っていたからだ。だが業半ばにして、菅・仙谷売国コンビは小沢さんを追った。
このことが明治の西南戦争とは違う複雑な展開を今後のことに与えると私は思う。
明治維新のころの幕府にも「いい幕臣、悪い幕臣」がいた。たとえば勝海舟とは西郷は気脈を通じて江戸開城に導いた。自民党もまたそうである。面白いことにいま、利権談合共産主義者たちが党内で急速に力を失いつつある。象徴的なのが森遅漏だ。息子の逮捕によって求心力がなくなり、安倍晋三さんの下克上が進んでいるらしい。日本国のためにはまことにいいことである。
2010年8月26日号。<自ら育てたチルドレン「私学校生徒」たちに迫られる小沢西郷は「平成の西南戦争」に決起するか>。

菅首相は、小沢氏を西郷に擬すとして、自分は誰をイメージしているのだろうか?
大久保利通?
小沢氏も尊敬する人物として大久保利通を上げていた記憶がある。
それはどうでもいいが、いつまでも明治維新気取りでいるのは終わりにして、喫緊の課題に全力投球してもらいたい。

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2010年9月 2日 (木)

東海大震災は防げるか?

集中豪雨が凶暴化している。
各地で記録破りの豪雨により、被害が発生している。
しかし、自然災害の被害の大きさは、原因となる自然事象の激烈さに必ずしも比例しない。
社会的条件に左右される要素も少なくないからである。

往々にして、富者よりも貧者により厳しい被害が集中する。
貧者の住環境の方が災害抵抗力が弱いためである。
阪神淡路大震災でも、そういう傾向がみられた。
次の文章は、被害が大きかった長田地区の小学生の作文である。

Photo_3
http://comrade.at.webry.info/201001/article_8.html 
被害が弱者に集中する傾向は、「かみさまのいじわる」というよりも、「災害の階級性」というべきかも知れない。

9月1日の「防災の日」は、関東大震災の発生の日に由来する。
地球の表面が下図に示したような何枚かの固い岩板(プレートと呼ぶ)で構成されており、このプレートが対流するマントルに乗って互いに動いているとするプレートテクトニクスが地球科学の定説になっている。
大陸でさえも、プレートに乗って移動するのである。

日本列島は、4つのプレートに取り囲まれ、プレートの交差点のような場所に位置している。
http://www.e-quakes.pref.shizuoka.jp/why/b-01.htm
Photo_8そのため、日本は世界でも有数の地震国である。

地震による被害は、防災の準備によって大きく変わる。
いつ起きてもおかしくない、と言われているのが東海地震である。
政府は東海地震対策として、1988年に「大規模地震対策特別措置法」を制定し、これまでに大きな被害を受けろ可能性のある8都県、160市町村を防災対策強化地域に指定している。

東海地震が、予知の取り組みが最も進んでいる。
静岡・愛知両県の21カ所に「前兆滑り:プレスリップ」をとらえるための「ひずみ計」を設置している。
観測データは地震学者らで構成する判定会議で検討する。
予兆が疑われる場合、次の3段階の情報を出し、防災体制に入る。
1.予知情報
2.注意情報
3.観測情報

これまで、予知情報、注意情報が発せられたことはない。
観測情報は、昨年8月の駿河湾沖を震源とする地震(マグニチュード6.5)の発生を受けて出されたが、東海地震との関連はないとして解除されている。
⇒2009年8月11日 (火):駿河湾を震源とする地震が発生

日本付近で起きる大地震は、下記のほぼ4種類に分類することができる。

(1)プレート境界型地震 (例=1994年三陸はるか沖地震)
(2)浅い場所でのプレート内部破壊による地震  (例=1994年北海道東方沖地震)
(3)深い場所でのプレート内部破壊による地震  (例=1993年釧路沖地震)
(4)地表近くの活断層による地震      

(例=1995年兵庫県南部地震)

Photo_5予想されている東海地震は(1)のプレート境界型である。
フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に潜り込む場所で発生が予想されており、駿河湾内の最深部(「駿河トラフ〔トラフとは浅い海溝のこと〕と呼ばれるところ)で起きるので「海溝型地震」とも呼ばれる。

地震の被害と予知の有無については、次のように想定されている。
静岡県人としては、予知の精度が上がり、被害が局限されるのを願うのみである。
Photo_9

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2010年9月 1日 (水)

「防災の日」と「風の盆」

今日は「防災の日」である。
いうまでもなく、関東大震災の発生した日にちなんでいる。
関東大震災とは何だったか?
Wikipedia(100830最終更新)では以下の通りである。

1923年(大正12年)9月1日(土曜日)午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震)による災害である。

これ以外にも、いわゆる210日(立春から数えて210日目)の頃は、台風の襲来が数多いことでも知られる。
いわゆる「厄日」とされている。
多くの年が、9月1日が210日にあたる。
防災の日が策定された背景である。
今年も、210日は9月1日である。

この台風の災害除けの祈願として、農作物を守るために風を鎮めるための風祭りが全国各地に残っている。
なかでも有名なのが富山の越中八尾「おわら風の盆」である。
「おわら風の盆」のサイトをみてみよう。
http://www.yatsuo.net/kazenobon/
(写真は、今年のポスター)2owara_2010

おわらの里・富山県富山市八尾町は、富山平野の南西部にあり、平野から飛騨の山脈に連なる街道筋の富山県と岐阜県との県境に位置します。八尾の名称の由来は、飛騨の山々から越中側へのびる八つの山の尾に拓かれた地を意味するといわれています。
……
おわら風の盆は旧町と呼ばれる「東新町、西新町、諏訪町、上新町、鏡町、東町、西町、今町、下新町、天満町」と「福島」を合わせた合計11の町で行われます。
11の町が自分の町を中心にそれぞれ自主的に行っており、一堂に会するような事はありません。従って、全国に名の通った民謡行事としては観光イベント的な要素は少なく、皆様をもてなすことはあまり上手ではありません。近年は、山懐の小さな町には余る人並みで混雑を極めています。満足におわらの良さをご覧いただくことも困難になっています。

私も、高橋治さんの『風の盆恋歌』新潮社(新装版0306)の愛読者として、何年か前に親しい友人たちと八尾を訪れたことがある。
人気スポット化していることは承知していたが、想像をはるかに超える人出だった。
小説のイメージを味わうには程遠くなってしまっている。
あの雑踏を考えると、もう一度という気はなかなか起こらない。

しかし、高橋治さんをはじめ、風の盆フリークともいうべき人は少なくない。
確かに、胡弓の音色と八尾の風景はマッチしていると思う。
何より、災害がなく、地方色豊かなイベントを訪れるの人が多いのは決して悪いことではないだろう。

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