源頼朝の挙兵
治承4(1180)年8月17日の深夜、源頼朝は、北条時政と謀って平氏討滅の兵を挙げた。
今から830年前のことである。
「平治の乱」に敗れて後、流人生活は20年に及んでいた。
挙兵の事情は以下の通りである。
Wikipedia100808最終更新
治承4年(1180年)、高倉宮以仁王が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発し、4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられる。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死するが、頼朝は動かずしばらく事態の成り行きを静観していた。しかし平氏は令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、その動きを知り自分が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけた。
挙兵の第一攻撃目標は伊豆国目代山木兼隆と定められ、治承4年(1180年)8月17日頼朝の命で北条時政らが伊豆国韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃し、兼隆を討ち取った。
伊豆を得た頼朝は相模国土肥郷へ向かう。従った者は北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、さらに三浦義澄、和田義盛らの三浦一族が頼朝に参じるべく三浦を発した。しかし三浦軍との合流前の23日に石橋山の戦いで、頼朝らは平家に仕える大庭景親、渋谷重国、熊谷直実、山内首藤経俊、伊東祐親ら三千余騎と戦い、三百騎を率いる頼朝は敗れ、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、8月28日に真鶴岬から船で安房国へと向かう。
ここで、頼朝は「奇跡」の復活を果たす。
29日、安房国平北郡猟島に上陸すると、直ちに態勢を立て直し、9月13日、鎌倉に向けて進軍を開始した。
鎌倉入りを果たしたのは、20日余後の10月6日のことである。
図は、杉橋隆夫『源頼朝、復活の「奇跡」』(「週刊街道をゆくNo.05三浦半島記」所収)
頼朝の成功の要因は、第一に彼の将としての器であろう。
それが、この地の武士たちの間に鬱積していた平氏に対する不満を、「国中京下の輩においては、悉く以て搦め進すべし」というスローガンによって統合した。
そして伊豆、房総、三浦の3つの半島の地政学という要因が頼朝の勝利に与った。
司馬遼太郎氏は次のように書いている。
『三浦半島記』
頼朝の初期の成功は、地形論として単純だった。この三つの半島が、連動したのである。
やがて頼朝は三浦半島にもどって、鎌倉に府を定める。この三つの半島が関連しあって、旗揚げ早々の頼朝の基礎勢力を創った。半島のもつ玄妙さといっていい。
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