“家族の絆”は弱まっているか?
“家族の絆”という言葉は、次第に死語になりつつあるのか?
続発する幼児虐待のニュースや年老いた親の死亡届を出さずに、年金をもらい続ける事例が後を絶たない。
もっとも、これらにニュースバリューがあるということは、衝撃度が高いことの証明である。
衝撃度が高いのは、それが滅多に起こらないからである。
⇒2010年7月24日 (土):情報とエントロピー/梅棹忠夫さんを悼む(12)
そういう意味では、ニュースバリューのある間は、報じられる事象が例外的なできごとであることを示していることになる。
しかし、統計データがあるかどうかは別として、心象的には家族の凝集力は弱まる傾向にあるのではないか。
言い換えれば、家族解体化のトレンドである。
そういうトレンドは、実際にあるのか?
とすれば、その要因は何か?
家族の核になるのは、夫婦である。
それは、1対の男女の組み合わせである。
日本では、同性同士の婚姻は法律上認められていない。
先ず考えられるのは、夫婦の絆が弱まっているのではないか、ということであろう。
例えば、夫婦別姓志向である。
姓すなわちfamily nameがアイデンティティを示すものなら、別姓は、アイデンティティが失われた状態ということになる。
夫婦別姓志向が仮に増大しているとしても、問題は、それが絆すなわち凝集力を弱めている原因ではなく、両者に共通する原因があるのではないか、ということである。
夫婦が男女関係をもとにしているとして、そもそも男女関係が変化しているのではないか?
そういえば、少し前から、草食系男子なる言葉を耳にする。
私も、高血圧や高コレステロール対策のために、すっかり野菜中心の食生活を強いられている。
以前とは様変わりである。
しかし、私の場合は、再発予防ということであり、社会的なトレンドとは無関係である。
草食系男子とは何か?
Wikipedia(100704最終更新)では次のように説明している。
2006年10月に深澤真紀が『日経ビジネス オンライン』で連載している「U35男子マーケティング図鑑」(2007年に『平成男子図鑑』として単行本化)で「草食男子」として命名され、2008年4月5日発売の『nonno』で、深澤の監修で「草食男子」特集を掲載して話題になった。
2008年7月に森岡正博『草食系男子の恋愛学』が刊行され、2008年11月に牛窪恵『草食系男子「お嬢マン」が日本を変える』が刊行され、「草食系男子」が注目を集めることとなった。2009年に入って、テレビだけでなく、読売・毎日・朝日・産経などの主要新聞が文化面・家庭面にて特集記事を掲載するようになり、マスメディアにおいても認知されたとみられる。日本国外でも、CNN、ロイター、新華社などが報じている。
草食系男子の定義は論者によって異なる。深澤は、「草食男子」を、『恋愛やセックスに「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした「草食男子」』と定義した。森岡は、「草食系男子」を、「新世代の優しい男性のことで、異性をがつがつと求める肉食系ではない。異性と肩を並べて優しく草を食べることを願う草食系の男性のこと」と定義した。牛窪の定義は深澤の『平成男子図鑑』の論旨とほぼ同様。森岡は、その後、「草食系男子とは、心が優しく、男らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」と再定義した。
パートナーエージェントが30代未婚男女400人を対象におこなった調査によると、「どちらかといえば草食男子」(61%)、「完全に草食男子」(13%)と、「自分は草食男子」と思う男性は75%にのぼった。
この言葉を最初に取り上げたマスメディアは『読売新聞』2008年8月19日である。そこにおいては「男女関係の新たな時代を感じさせる」と肯定的な評価がなされている。その後、新聞・テレビにおいて流行語として頻繁に取り上げられるようになった。2009年には新語・流行語大賞トップテンを獲得した。
単なる流行語か、それとも社会の深層底流の変化を表わしているのか?
考えられるのは、男女の差異をなくそうという考え方の普及である。
私は、もちろん男女同権であるべきであると思う。
しかし、性差そのものまで否定するのは間違いではないか。
男らしさや女らしさは否定されるべきなのか?
ジェンダーフリーということがいわれる。
ジェンダーとは、生物学的性別(セックス)とは別の、文化や社会によって生まれた性差をいう。
その差異を解消しようというものである。
すべてのジェンダーが否定されるべきか?
個人的な体験であるが、私は若いときに妹を亡くして以来、フェミニストのつもりである。
しかし、ジェンダーフリー主義には同調し難い感じを持っている。
first nameにも、男女の違いがあるように思う。
しかし、私の世代では、女ならば圧倒的に「○子」が多かったのが、明らかに変化している。
⇒2010年8月21日 (土):family name
ジェンダーフリー化の一環だろうか?
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