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2010年8月 6日 (金)

京大探検部/梅棹忠夫さんを悼む(17)

京都大学の異称として、“探検大学”という呼び方がある。
AACK(京都大学学士山岳会)などを中心とする登山と海外遠征が、他大学に比べ際立った実績を残したからである。
AACKのHPより、その歴史をみてみよう。

1931年、今西錦司をはじめとする京都旅行部の現役、OBは、 それまでの国内山行にあき たらず、海外遠征を計画していた。
そして目標をカブルー(7338m)におき、1932年の実現にむけて、準備を開始した。
そのとき遠征隊の母体組織が必要になり、創設されたのが、AACK(Academic Alpine Club kyoto)である。
  (京大学士山岳会の名称は戦後つけられた ものである。)
当時は会員数も二十数人であった。その創設のいきさつからも分かるように、
AACKはヒマラヤ初登頂を前提として作られた。
当時から会員も京大出身に限定せず、 志を同じくする者の会であった。
戦争のためにカブルー計画は実現しなかったが、会の結成は遠征登山のきっかけを作った。
……

軍部のしめつけの中、ヒマラヤを常に視野にいれて、 海外へその活動を広げた動きは、自由を求めた精神の具体化であり、これがすべて 戦後のAACKの学術登山活動につながっている。
戦後の混乱期を経て、'51年西堀はネパールに入り、マナスルの許可をとるが、 このときまだAACKは再建されて いない。
再建されたのは'52年春である。マナスルは日本山岳会に移譲されたが、53年にはAACK初のヒマラヤ遠征隊(今西寿雄隊長)をアンナプルナ2峰に送った。

私は、小学生の頃に、京大が派遣した学術探検隊の記録映画を見た記憶がある。
農村の小学校だったが、年に数回、教育上有用と判断される映画を上映することがあった。
その1つとして、同映画が上映されたのである。

昭和三十年五月、京都大学の木原均博士を隊長とする学術探検隊一行十二名の、イーストマン・カラー色彩による記録映画作品、全九巻。五月十五日、パキスタンのカラチに到着した一行は、木原博士を隊長とするヒンズークシ隊(隊員七名)と、今西博士が指揮をとるカラコルム隊(隊員五名)に分れ、植物・地質・人類の三つの立場から各種の調査を行うべく夫々の目的地に向った。

映画の内容はあらかた忘れてしまったが、ヒマラヤの空の青さが印象的であったのを覚えている。
子供心に漠然と、海外への憧れのような気持ちを抱いた。
この探検隊は、第二次大戦後初めての海外学術調査であった。
費用は、文部省、朝日新聞社、募金がそれぞれ3分の1である。
のちの文部省海外学術調査助成金の道を開いたと評価される(京大探検者の会編『京大探検部「1956‐2006」―部創設50周年記念出版』新樹社(0603))。

梅棹忠夫さんはこの探検隊の一員として、パキスタンおよびアフガニスタンに行き、西ヒンズークシの山中に住むモゴール族の調査研究をおこなった。
その記録が、『モゴール族探検記』岩波新書(5609)である。
梅棹さんの一般向けのはじめての著書である。
出発の前に、岩波書店との間で、旅行記を書く約束をしていたのである。

今では、学生の活動組織として、探検部がある大学は多い。
しかし、最も早く創設されたのは、京大探検部である。
梅棹さんの『行為と妄想 わたしの履歴書 』中公文庫(0204)から、創立前後の事情をみてみよう。

(AACKの)なかにも多少ことなる傾向の二派が見られたのである。ひとつは、ひたすらに高峰をめざす純粋登山派である。もうひとつは水平思考もふくんで、未知を探究する探検派である。これはしばしば南北朝の対立にたとえられた。登山団体としての純粋性からいうと、登高派が本流であろう。これは南朝で、その代表は四手井綱彦教授である。かれは後醍醐天皇と称せられ、鈴木信が忠臣楠木正成であった。それに対し探検派は北朝で、その代表が今西錦司氏である。かれは足利尊氏と称せられた。もちろんわたくし自身もその一派と見られていたであろう。
京大山岳部は戦後にできたものであるが、それは南朝の正統をひくものである。ところが、学生のなかにも北朝派がいて、それが山岳部から独立して探検部をつくった。一九五六年のことである。その前年のカラコラム・ヒンズークシ学術探検隊がおおきな刺激になったのであろう。
……
探検部創立の立役者は本多勝一や高谷好一らであった。本多はのちに朝日新聞社に入社して、ルポルタージュ記者として大活躍する。高谷は京大教授になる。今西さんをはじめ、吉良竜夫、藤田和夫、川喜田二郎、そしてわたしやそのほかの数名が探検部の顧問ということになった。
……
一九九六年五月、京大探検部は創立四○周年記念の集会をもよおした。部員たちはそれぞれ社会的にも名をなしている。大学教授や研究所員が目だつが、ジャーナリストになったものもおおい。商社に就職したのもいるが、かれらもその経験を生かして海外で活躍している。

梅棹さんは、京大探検部の象徴的存在である。
前掲の、京大探検者の会編『京大探検部「1956‐2006」』新樹社(0603)は、部創設50周年記念出版と銘打たれているが、冒頭に、「<梅棹忠夫インタビュー>探検部創設のころ」が置かれている。
未知を探究する探検精神は、梅棹さんの膨大な仕事の原動力であろう。

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