何を改革し、何を守るのか?
わが国が、ポツダム宣言を受諾してから65回目の8月15日である。
私自身は1歳になったばかりだったから、その日の記憶はもちろんない。
ただ、その日を境に、日本という国、私が生まれ育ったこの国のあり様が大きく変わったのは知っている。
民主党政権になって、初めての「敗戦の日」である。
例年、靖国神社への公式参拝の是非が話題になるが、菅内閣の閣僚は1人も参拝しないらしい。
それを、どうこういうつもりはない。
そもそも、神社への参拝に、公式も非公式もあるのだろうか、という気がする。
公式参拝か私的参拝かの論議を振り返ってみてみよう。
Wikipedia100815最終更新
これは第66代総理であった三木武夫が1975年8月15日、総理としては初めて終戦記念日に参拝した際に、私的参拝4条件(公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)による「私人」としての参拝を行った以降、特に論じられるようになったものである。靖国神社に対して玉串料などを公費で支出した参拝は、第72代総理であった中曽根康弘による1985年の参拝が訴訟の対象となり(後述)、1992年の2つの高等裁判所判決で憲法の定める政教分離原則に反する公式参拝と認定され、これらが判例として確定、明確に違憲とされており、これ以降の議論は「私人」としての参拝が許容されるものであるかどうかを巡っての解釈の問題となっている。
「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という意見がある。これは、公人であっても人権的な観点から私人の側面を強調視するもので、「首相個人の信仰や信念も尊重されるべきであり、参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」という立場をとっている。「アメリカのように政教分離をうたっていながら、大統領や知事就任式のときに聖書に手をのせ神に誓いをたてることは問題になったことは一度もない」ということも論拠の一つに挙げられている。
一方、「公用車を用い、側近・護衛官を従え、閣僚が連れ立って参拝し、職業欄に『内閣総理大臣』などと記帳するという行為は公人としてのそれであり、政教分離原則に抵触する」という意見がある。こちらは、実効的な観点を重く取り上げ、「首相が在職中に行う行為は私的であっても、多少の差はあれ、全て政治的実効性を持つため、私的参拝であっても靖国神社に実質的に利益を与えるものだ」として問題があるとしている。
第87~89代総理・小泉純一郎は、2001(平成13)年8月13日の首相就任後最初の参拝をした後、公私の別についての質問に対し「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した」と述べた。これ以降、特にこの論点が大きくクローズアップされている。
私の考えは、文言的には、小泉純一郎元首相の発言に近い。
公私の別にこだわらない。
もっといえば、靖国神社にもこだわらない。
「心を込めて」することに、公私の別も、場所の如何も関係ないだろう。
たとえば、8月15日に、戦没画学生の作品を集めた無言館に行く閣僚がいたらいいのではないか、と思う。
あるいは、原爆ドームでもいい。
また、知覧だっていいだろう。
それにしても、65年の間に日本の社会は大きく変貌した。
何事にも光と影の両面があるのだろうが、戦後日本の何を保持し、何を改革するのか?
改革の言葉が踊るなかで、守るべきものは何なのか、最近の世相をみるにつけ、腰を据えた議論が聞きたい。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 暫時お休みします(2019.03.24)
- ココログの障害とその説明(2019.03.21)
- スキャンダラスな東京五輪/安部政権の命運(94)(2019.03.17)
- 野党は小異を捨てて大同団結すべし/安部政権の命運(84)(2019.03.05)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント