人生の転機?
今日は私の誕生日である。
百歳を超える長寿者ならば安否はしっかりと把握しろというところだろうが、中途半端な高齢者なので、誕生日といっても昨日や明日と特段変わるものではない。
しかし、私にとっては、いささか感慨深いものがある。
去年までは全く想像しなかった重度身体障害者の境遇で迎える誕生日である。
あと、何回誕生日があるだろう、と考えてみたりする。
今年の年明けは、救急病院で迎えた。
脳梗塞の発症後1週間で、まだ安静が必要な状態だった。
入院患者の中にも、外泊を許可されて、つかの間の家族との団欒を楽しむことのできる人がいた。
しかし、それを羨ましいと思うゆとりもなかったのだ。
まだ、発症という現実が受け入れられず、しても仕方のない後悔を繰り返した。
5月末まで、病院で過ごすことになった。
生まれて初めての入院が、かくも長期にわたるとは、発症前にはまったく夢想だにしなかったことである。
だから、こうして自宅で誕生日を迎えられるのを、可とすべきだろう。
紙一重の違いで、致命的な事態になったり、一生ベッドの上で暮らさなければならなかったかも知れないのだ。
後遺症も、薄皮を剥ぐように改善されてきている(と思う)。
目にはさやかに見えねども……、という感じである。
本人は、じれったいと思う。
しかし、しばらく会っていない人は、「ずいぶん良くなりましたね。顔つきも前と変わらないようで……」などと言ってくれる。
確かに、病人の顔つきだったと思う。
現在、日常生活に、さほど支障があるわけではない。
ネクタイは結べないが、幸いにしてその必要もない。
友人にホテルのコース料理をご馳走になったが、パンをちぎってもらったほかは、箸のみで対応できた。
ナイフとフォークは使えないけど、洋食でも左手の箸で十分味わえる。
左手に箸を持った最初の頃は、食べること自体に集中せざるを得ないので、何を食べたか記憶に残らなかった。
記憶回路が壊れたかと思ったが、最近は多少の余裕を持てるようになった。
食事は、栄養価(カロリー)だけで評価するものではない。
アルコール類は慎んでいる。
もう二度と飲まないとは断じて思わないが、ノンアルコール飲料で今のところ十分である。
アル中ではないことが立証されたと思っている。
記憶力の低下自体は、加齢もあって、ある程度やむを得ないだろう。
周りの人たちも、結構、説明なしに、「アレが……」などと言っている。
しかし、やはり動かさないと症状は悪くなる。
たとえば、口である。
リハビリの診療点数の関係で、ST(Speech Therapy)の治療は断念せざるを得ない。
喋る機会が少なくなると、構音障害が目立ってくる。
もともと能弁ではないので、他人は余り気にしないかも知れない。
しかし、口が動きにくくなっているのが、はっきりと自覚できるのだ。
後遺症といえども、おそらくは手や足も、積極的な回復努力を継続しないと、症状が進行するだろう。
日常生活を過ごすうちに、次第に良くなっていく、というのは幻想でしかない。
だから、回復期リハ病棟を退院したら、今度は介護保険で、という今の制度設計には疑問を抱かざるを得ない。
リハビリは治療だ。医療なのである。
リハビリを打ち切ることにより、より充実した人生を送る機会が失われている。
医療保険の期限の制約を撤廃すべきである。
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