« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月

2010年8月31日 (火)

いまさら「トロイカ体制」か?

記録的な猛暑だというのに、寒々とした思いがしている。
その原因は、最近の政治状況にある。
歴史的な政権交代から1年。
あの熱気はどこに消えたのだろう。所詮無いものねだりの白昼夢だったのだろうか?

9月1日の民主党代表戦告示を前にして、鳩山前首相が菅首相に、挙党体制体制構築に向け、小沢氏を含めた3人の「トロイカ体制」の原点に立ち戻ることを要求し、首相も「全く異存ない」と応じたと報じられている。
これにより、小沢氏の出馬が見送られる可能性もあるという。
もし、このような展開によって代表戦が回避されたとしたら、密室の談合の謗りを免れない。
「トロイカ体制」となれば、菅首相は、小沢氏にもしかるべきポストを用意するということであろう。
ちょうど10年前、森喜朗首相が誕生した時に逆戻りしたような感じである。

森氏は、2000年4月5日、3日前に脳梗塞で倒れ緊急入院した小渕恵三首相の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。
森氏の首相就任は、当時の自民党の有力議員五人組(森喜朗本人、青木幹雄、村上正邦、野中広務、亀井静香)が密室で談合して決めたではないかと疑惑を持たれている。
密室でのできごとは、何があったのか所詮推測に過ぎない。
冤罪の発生を防ぐために取り調べの可視化が言われているのも、密室化を避け、取り調べの状況が第三者にも分かるようなるためである。
もし、再び密室での調整が行われるようだと、われわれは10年間何をしていたのか、ということになる。

夜のニュースによれば、小沢氏はやはり出馬することになったらしい。
菅-小沢会談の様子は良く分からないが、選挙をやることになって良かったと思う。
ここまで来たら、選挙で決着をつけたほうがいい。

世論は菅氏と小沢氏の比較において、首相としては圧倒的に(8割がた)菅氏の方がふさわしい、としているようである。
しかし、私はあえて言う。
小沢VS菅の比較は、毒があっても効きそうな薬(政治家)と、毒はないが全く効力のない薬(政治家)のどちらを選ぶことにたとえられる。
天下泰平ならば後者でいいかも知れないが、状況がどうであるかは、いうまでもない。

それにしても、鳩山氏の行動基準は分からない。
小沢氏を道連れにして総理の座を投げだし、政界からの引退と影響力の自粛を表明してからまだ3ヶ月である。
菅氏支持も一夜にして小沢氏支持に豹変した。
かと思えば、今度は対決回避に動く。

菅氏も同様である。
参院選で大敗しても、いち早く政権に執着することを表明。
日本経済の状況には無頓着に、代表戦対策に腐心。
それを批判する空気を察知すると、アリバイ作りのような実効性のない対策を打ち出す。
「脱小沢」を標榜して、断固その路線で突っ走るかと思うと、「トロイカ(+輿石氏)体制」に異存なしだという。

俳句甲子園の首里高校の大将の作をもう一度引用しよう。

白地図に国境引くや沖縄忌

代表戦の勝者には、沖縄の基地問題を解決しようという姿勢をみせてほしい。
ちなみに沖縄忌は季語として認知された言葉である。
http://cgi.geocities.jp/saijiki_09/kigo500d/371.html

六月二十三日。太平洋戦争の終わりの頃、沖縄は日米の最後の決戦地になり、多くの民間人が犠牲になった。沖縄の日本軍が壊滅した昭和二十年六月二十三日のこの日を、沖縄県慰霊の日とした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月30日 (月)

俳句甲子園

富士山は、固有名詞である。
しかし、全国各地に「○○富士」と呼ばれる山があるように、普通名詞的にも用いられる。
⇒2009年8月 3日 (月):固有名詞としての富士山と普通名詞としての富士山

甲子園にも同様な使い方がある。
阪神甲子園球場は、名の通り、阪神タイガースの本拠地であるが、通称として、単に甲子園球場と呼ばれることが多い。
私の叔父一家も、かつて阪急の西宮北口駅近くに住んでいたこともあって、熱狂的なタイガース・ファンいわゆるトラキチである。

甲子園のもう1つの顔は、高校野球である。
大学野球が神宮球場にちなんで「神宮」と称されるように、「甲子園」といえば高校野球の代名詞になっている。
Wikipediaの阪神甲子園球場(100827最終更新)に、次のような記述がある。

この球場の名称である「甲子園」が高校野球全国大会の代名詞となっており、そのことに端を発して今や野球に留まらず高校生の各種全国大会の代名詞として「○○甲子園」などと使われることがある。

「クイズ甲子園」「書道甲子園」などと並んで「俳句甲子園」も良く知られたイベントであろう。
つまり、「甲子園」も、阪神甲子園球場という特定性から離れて、高校生の全国大会を意味する名詞として用いられている。

「俳句甲子園」は、今年で第13回の歴史を持つ。
愛媛県松山市で、毎年夏に開催されている。
NPO法人俳句甲子園実行委員会が主催し、松山市の共催となっている。
松山市は、いうまでもなく、近代俳句の始祖正岡子規や巨人高濱虚子の出身地である。

Acd1008082032008n1_28月30日の0時50分から、日本テレビの系列で「NNNドキュメント’10俳句甲子園 ~夏キラリ 17文字の MY SOUL~」という番組が放映された。
「俳句甲子園」は、1チーム5人で争う。
あらかじめ定められたお題(兼題)に対する作品の優劣と共に、作品の善し悪しだけでなく、その俳句に対する議論(鑑賞の力量)も採点される。
鑑賞の力量は、いわゆるディベートで行われ、審査員が勝者を判定する。

今年の決勝戦は、沖縄の首里高校と東京の開成高校との間で行われた。
本家の野球では、沖縄の興南高校が春夏連覇を果たした。
同高校選手の優勝インタビューで、「沖縄県民と一緒に獲得した」と強調していたのが印象的だった。
俳句では、首里高校は決勝戦で敗れた。
兼題は白。
勝負は副将戦で終わった。

開成 陶枕の全き白に小さき罅
首里 白熱のロックのギターの弦灼くる

開成高校生の作品は高校離れた出来だとは思うが、好みが分かれところだろう。
私は、勝負の枠外であった首里高校の大将の次の作品が心に残った。

白地図に国境引くや沖縄忌

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月29日 (日)

後遺症の現状/闘病記・中間報告(13)

5月末にリハビリ専門病院を退院してから、3ヶ月が過ぎた。
現在は、比較的通院に便利な病院で、外来としてリハビリを続けている。
脳血管障害の場合、回復期リハビリ病院への入院は150日が上限とされている。
150日程度で回復の度合いが飽和するから、とされる。

医療保険のリハビリ診療の時間(保険で認める時間数)が6ヶ月を基準としているのも同じことだろう。
急性期の治療に1ヶ月要するとすれば、整合している。
しかし回復度合いには、もちろん個人差がある。
それで、医療保険の診療に関しても、医師の判断で時間の制約にはこだわらなくてもいいことになっている。
さすがに介護保険や年金の制度的な問題で苦労してきた厚生労働省である。
制度的には良くできているように見える。
アトは医師の裁量の問題である。

現実の医療現場はどうなっているか?
標準的な診療報酬の規定をこえてリハビリを認めている医師、あるいはリハビリを実施している病院はどのくらいあるだろうか?
ゼロではないが、限りなくゼロに近い少数だろう。
医師の中には、弾力的な規定がされていること自体が不案内というケースもあるようである。
つまり、医療リハビリは発症後6ヶ月まで、以後は介護保険による、という棲み分けの図式の浸透である。

すくなくとも、病院側から積極的にリハビリ医療の時間拡大をPRすることはない(ように見受けられる)。
医療保険の診療事務は都道府県単位なので、都道府県によって異なるのだろうか?
リハビリに関する統計データはどうなっているのだろうか?
私のリサーチ力では、残念ながら良く分からない。

リハビリの効果はどうか?
後遺症の現状はどうか、現時点での状態を自分なりに分析しておこう。

1.全般
発症後8ヶ月を経過した。
後遺症は、ゆっくりしたペースではあるが、未だ改善途上にある。
この状態を、回復期とみるか維持期とみるかは、人それぞれだろう。
しかし、改善が続いている間は、医療保険の適用を、“積極的に”認めるべきではないだろうか?
治るものは治した方が、社会全体が負担するコストも低くなるはずである。

2.血圧等の状態
リハビリ病院退院後もカロリーコントロールは続けている。
その結果、体重は61kg前後で推移している。
発症前は73kg程度あったので、他人は見違えるようだという。
「若返った」という人もいる。30歳代ごろの値だろうか?
血液検査の項目は、問題になるような項目はない。
降圧剤を使用してではあるが、血圧も120程度である。
ただし、注意は必要である。
飲酒は控えている。毎晩なにがしかのアルコール類を手にしていた発症前とは様変わりである。
先日、ビールをグラスに半分ほど飲んでみた。
やはり血圧は上昇していた。
余り本気になって議論するのも避けた方がいいらしい。
マンションの大規模修繕の件で、某理事の認識が明らかに違っていたので、発言をした。
発語が不自由なこともあったが、自宅で血圧測定をしたところ、160程度に上昇していた。
瞬間的に上昇することを理解した。

3.上肢
大きな動きに関しては大分改善されたと自分では思っている。
問題は、指の可動性である。
閉じる(いわゆる結んでの状態)には、ゆっくりとではあるが動く。
しかし、「開いて」の方向の動きが困難である。
きわめて遅々としているが、ストップしているわけではないと思う。

4.下肢
まだ左右同じようにというわけではないが、ずい分改善されたと思う。
近場の散歩であれば、装具ナシ杖ナシで、30分程度歩ける。歩数にすれば約3000である。
麻痺側(右)がどうしても外に向かって振り出してしまうが、これも改善されつつある。
階段は、1段ずつ昇降すれば何とかなる。
雑踏は、東京駅を2回体験したが、杖を持っていると他人が気を付けてくれることもあって、エスカレーターも含め障害はとりあえずなかった。
下肢に関しては、歩く機会を増やすことが肝要であると思う。
余り思いカバン等を持つこともないので、腰痛も小康状態である。

5.言語
脳外科の医師によれば、MRIの画像からは、梗塞が起きた部位は失語症等の後遺症が出やすいところらしい。
日常生活に障害があるというほどではないが、私も構音障害がある。
現時点でも症状は消えないが、先日、病気のことを全く知らなかった中学時代の同級生と電話で話をしたとき、彼は、特に違和感は無かったと言っていた。
もちろん、気遣いも多分にあるだろうが、本来能弁には程遠かったことにもよる。
しかし、発声練習と音読は毎日続けている。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2010年8月28日 (土)

非実在年金受給者

行方不明あるいは安否のわからない高齢者は、調査が進むに従い増加している。
⇒2010年8月13日 (金):行方不明高齢者
厚生労働省によれば、高齢の年金受給者に対するサンプル調査で、85歳以上の年金受給者770人のうち、死亡したり行方がわからないまま、年金を受け取っていた人が23人いた。

調査の概要は以下の通りである。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00183352.html
厚労省は、死亡後の年金の不正受給を調べるため、年金記録と住民票の住所が違う年金受給者のうち、85歳以上の770人についてサンプル調査を行った。
このうち、安否が確認できたのは695人だった。
一方、死亡していたことが確認されたのは48人、行方不明の可能性のある人は27人だったが、このうち23人には、依然として年金が支給されていた。
厚労省は、死亡していた1人の年金支給を止め、行方不明者22人に関しては、本人の安否確認が取れなければ、年金支給を一時差し止めるとしている。

Photo

これはあくまでサンプル調査である。
年金原簿の住所などが住民基本台帳と違ったりして生存確認を行っている85歳以上の年金受給者は、全国で約2万7千人いる。
サンプル調査の比率を単純に当てはめると、生存確認ができない年金受給者は800人程度と推計される。
http://www.caremanagement.jp/news+article.storyid+7874.htm

それにしても、原資が不足するといわれている年金が、なぜ非実在者に支払われているのだろうか?
年金受給者が死亡した場合には、役所と日本年金機構の両方に死亡届を出すことになっている。
機構は住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)と照合しており、役所に死亡届が出されれば、支給はストップする。
ただし、住基ネットと照合されるようになたのはH18年以降であり、それ以前のケースでは照合されていない。
悪意の第三者が「現況届」を出せば、年金を受け取ることもできるらしい。
厚労省は来年2月以降、75歳以上の高齢者で、1年間で一度も医療機関の受診がなく、所在が確認できなかった場合、給付を一時停止するという。
ある自治体の担当者は「年金の不正受給は以前から指摘されていた。暴力団やヤミ金業者が関与していると
いう話もある。今回の調査結果は氷山の一角で、まともに調べたらかなりの数が出てくる」としたうえで、「国は
パンドラの箱を開けてしまった」と指摘した。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100828/crm1008280018000-n1.htm

そもそもこの問題の発端となったのは、足立区の戸籍上は111歳の人(加藤宗現さん)がミイラ化した遺体で見つかった事件だった。
Photo加藤さんが死亡して以降も、引き続き老齢福祉年金を受給し、加藤さんの妻が死亡して以降はより支給額の多い遺族年金に切り替えていた(左図は産経新聞100828)。
もちろん、確信的な行為であり、刑事責任の問題である。
しかし、保護責任者遺棄致死罪や死体遺棄罪などは時効だという。

今回の生存確認対象者数は、85歳以上の高齢者に限定しての調査である。
年齢制限を外したら、不正受給者はどれくらいの数になるのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2010年8月27日 (金)

カン違いしたのは、菅首相かわれわれか?

民主党の代表戦に、小沢一郎前幹事長が出馬表明し、菅首相と一騎打ちの構図が明らかになった。
1年前の総選挙で、政権交代が実現してから、民主党への期待は一貫して裏切られ続けてきたが、ここ数週間の経過はその集大成であった。
鳩山前首相が小沢氏を道連れにして辞任して一時的に支持率は上昇したが、参院選で大敗したにもかかわらず正面からその敗因を分析することはなかった。
⇒2010年7月12日 (月):日本の政治はどうなるのだろうか?
⇒2010年7月13日 (火):タレント候補擁立に象徴される民主党の民意の読み違い

菅首相は、内憂外患が山積しているにもかかわらず、代表戦の対応に終始し、政治的なモラトリアム状態に陥っていた。
「政治とカネ」の問題で身を引いたはずの2人が、主役のような態度で振舞っている。
影響力の行使を差し控えるはずだった前首相が、精一杯影響力を行使しようとしている。
1年の間に3人も首相が変わるのは対外的が信用が失われるという消極的な理由「だけ」で、つまり積極的な理由なしで続投が支持される。

このような状況をみて、民主党「にも」愛想を尽かした人も多いのではないか。
民主党「にも」というのは、そもそも政権交代は自民党が愛想を尽かされた結果だと思うからである。
小沢氏の出馬表明により、代表戦の状況については次図のように解説されている(図は、夕刊フジ100828)。
Img_2
小沢氏が出馬を最終的に判断したのは、鳩山氏が支援を約束したからだといわれる。
もちろん、代表戦は党規約の上からも実施されなければならないし、菅首相支持派が、「脱(反)小沢」を軸にしている以上、小沢氏もしくはその代理人が出馬することは必然でもあろう。

残念だったのは、菅首相の対応振りであった。
私は、市民運動家であった菅氏に、ある種のアマチュア性を期待していた。
⇒2010年8月10日 (火):政治におけるアマチュアの可能性
世襲政治家とは違って、日本社会を覆っている閉塞感に穴を開ける突破力があるのではないかとみえたのである。

しかし、参院選に大敗し、代表戦に没頭する姿から、わが国をどうにかしようという気迫を感じることはできない。
TVに映る顔からは精彩さが失われ、目は虚ろにさえ見えた。
市民運動家が大衆迎合的であるのは必然かも知れない。
しかし、一国のリーダーには、「千万人と雖も吾往かん」という気概が欲しいではないか。
そんな場合か、という気もするが、かくなる上は現在の政党の枠を超えて、政界再編成に進むのが一番いいのかも知れない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年8月26日 (木)

男女共同参画社会/理念と現実との乖離(3)

総理府に男女共同参画局という組織がある。
男女共同参画社会基本法を推進し、男女共同参画社会を実現することをミッションとしている。
男女共同参画社会基本法とは、どういう法律か?
Wikipedia(100521最終更新)の説明は以下の通りである。

男女平等を推し進めるべく、2000年(平成12年)に施行された日本の法律。男女が互いに人権を尊重しつつ、能力を十分に発揮できる男女共同参画社会の実現のために作られた。
3章26条によって構成されており、家庭生活だけでなく、議会への参画や、その他の活動においての基本的平等を理念とする。また、それに準じた責務を政府や地方自治体に求めるものである。

法律は、第三条~第七条で、基本理念ともいうべき条項を定めている。
総理府男女共同参画室では、これを次のように図解している。
Photo
この基本理念は、日本の社会には男女不平等があったと考えられるので、反対すべきものではないと思う。
しかし、現実にはどうか?
男女共同参画が実現されるべき場として、次の3つが掲げられている。
職場、家庭、地域である。
Photo_2
私は、男女平等であることは当然であると思う。
しかし、それは男女イコールということではないだろう。
基本法では、家庭生活において、次のように規定している。

(家庭生活における活動と他の活動の両立)
第六条 男女共同参画社会の形成は、家族を構成する男女が、相互の協力と社会の支援の下に、子の養育、家族の介護その他の家庭生活における活動について家族の一員としての役割を円滑に果たし、かつ、当該活動以外の活動を行うことができるようにすることを旨として、行われなければならない。

ごく当たり前のように思われる。
しかし、この条項を男女の役割分担の否定であるかのように解していることがある。
いわゆる「男らしさ女らしさ」を求めることが否定される。
滑稽なのは、どこかの自治体で、トイレのサインが男女を区別しているのが問題だ、として同じサインに替えたところ、分かりにくいという苦情が出て元のサインに戻したという話である。
家庭において、夫婦が役割分担することを否定するのは、トイレのサインを男女同一のものにしようということに似ている気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月25日 (水)

“家族の絆”は弱まっているか?

“家族の絆”という言葉は、次第に死語になりつつあるのか?
続発する幼児虐待のニュースや年老いた親の死亡届を出さずに、年金をもらい続ける事例が後を絶たない。
もっとも、これらにニュースバリューがあるということは、衝撃度が高いことの証明である。
衝撃度が高いのは、それが滅多に起こらないからである。
⇒2010年7月24日 (土):情報とエントロピー/梅棹忠夫さんを悼む(12)
そういう意味では、ニュースバリューのある間は、報じられる事象が例外的なできごとであることを示していることになる。

しかし、統計データがあるかどうかは別として、心象的には家族の凝集力は弱まる傾向にあるのではないか。
言い換えれば、家族解体化のトレンドである。
そういうトレンドは、実際にあるのか?
とすれば、その要因は何か?

家族の核になるのは、夫婦である。
それは、1対の男女の組み合わせである。
日本では、同性同士の婚姻は法律上認められていない。
先ず考えられるのは、夫婦の絆が弱まっているのではないか、ということであろう。

例えば、夫婦別姓志向である。
姓すなわちfamily nameがアイデンティティを示すものなら、別姓は、アイデンティティが失われた状態ということになる。
夫婦別姓志向が仮に増大しているとしても、問題は、それが絆すなわち凝集力を弱めている原因ではなく、両者に共通する原因があるのではないか、ということである。

夫婦が男女関係をもとにしているとして、そもそも男女関係が変化しているのではないか?
そういえば、少し前から、草食系男子なる言葉を耳にする。
私も、高血圧や高コレステロール対策のために、すっかり野菜中心の食生活を強いられている。
以前とは様変わりである。
しかし、私の場合は、再発予防ということであり、社会的なトレンドとは無関係である。

草食系男子とは何か?
Wikipedia(100704最終更新)では次のように説明している。

2006年10月に深澤真紀が『日経ビジネス オンライン』で連載している「U35男子マーケティング図鑑」(2007年に『平成男子図鑑』として単行本化)で「草食男子」として命名され、2008年4月5日発売の『nonno』で、深澤の監修で「草食男子」特集を掲載して話題になった。
2008年7月に森岡正博『草食系男子の恋愛学』が刊行され、2008年11月に牛窪恵『草食系男子「お嬢マン」が日本を変える』が刊行され、「草食系男子」が注目を集めることとなった。2009年に入って、テレビだけでなく、読売・毎日・朝日・産経などの主要新聞が文化面・家庭面にて特集記事を掲載するようになり、マスメディアにおいても認知されたとみられる。日本国外でも、CNN、ロイター、新華社などが報じている。
草食系男子の定義は論者によって異なる。深澤は、「草食男子」を、『恋愛やセックスに「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした「草食男子」』と定義した。森岡は、「草食系男子」を、「新世代の優しい男性のことで、異性をがつがつと求める肉食系ではない。異性と肩を並べて優しく草を食べることを願う草食系の男性のこと」と定義した。牛窪の定義は深澤の『平成男子図鑑』の論旨とほぼ同様。森岡は、その後、「草食系男子とは、心が優しく、男らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」と再定義した。
パートナーエージェントが30代未婚男女400人を対象におこなった調査によると、「どちらかといえば草食男子」(61%)、「完全に草食男子」(13%)と、「自分は草食男子」と思う男性は75%にのぼった。
この言葉を最初に取り上げたマスメディアは『読売新聞』2008年8月19日である。そこにおいては「男女関係の新たな時代を感じさせる」と肯定的な評価がなされている。その後、新聞・テレビにおいて流行語として頻繁に取り上げられるようになった。2009年には新語・流行語大賞トップテンを獲得した。

単なる流行語か、それとも社会の深層底流の変化を表わしているのか?
考えられるのは、男女の差異をなくそうという考え方の普及である。
私は、もちろん男女同権であるべきであると思う。
しかし、性差そのものまで否定するのは間違いではないか。
男らしさや女らしさは否定されるべきなのか?

ジェンダーフリーということがいわれる。
ジェンダーとは、生物学的性別(セックス)とは別の、文化や社会によって生まれた性差をいう。
その差異を解消しようというものである。
すべてのジェンダーが否定されるべきか?

個人的な体験であるが、私は若いときに妹を亡くして以来、フェミニストのつもりである。
しかし、ジェンダーフリー主義には同調し難い感じを持っている。
first nameにも、男女の違いがあるように思う。
しかし、私の世代では、女ならば圧倒的に「○子」が多かったのが、明らかに変化している。
⇒2010年8月21日 (土):family name
ジェンダーフリー化の一環だろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年8月24日 (火)

夫婦の姓と家族のアイデンティティ

私は、どうしても夫婦別姓でありたいと願う夫婦がいるならば、別姓を可能なように法律を変えてもいいと思う。
しかし、なぜ同姓だとイヤなのか?
いまいち納得的でない。
多分、問題は家族観の根底に触れるテーマだろう。

現在の法律では、婚姻に際し、夫の姓か妻の姓を選択することになる。
つまり、夫か妻のいずれかが改姓しなければならない。
そして、現実には9割以上は夫の姓を選択している。
それが法律を改変しなければならない程不合理なことか?

現実に9割以上が夫の姓を選択している。
そのこと自体が、男女平等の原則に違背する?
しかし、夫の姓を選択するのは結果であって、それを強制するものではない。
どちらかの姓を選択することが強制されているだけであって、どちらを選ぶかは自由である。

改姓すると、それまでの実績(人事考課、社会的評判など)が途絶えることが、不利益だということが反対の理由の1つである。
しかし、実績はあくまでその「人」のものであって、「姓」に依存するものではないはずだ。
例えば、通称として旧姓を使っている人もいる。
それで解決するなら、積極的に通称を使えばいいだろう。

健康保険証や運転免許証は、当然戸籍上の姓を用いることになる。
それが不便だ、ということもあるだろう。
しかし、基本的には、説明すれば事足りる問題ではないか。
それ位の不便さは受忍すべき範囲だろう。

姓は、英語のfamily nameに相当する。
夫(もしくは妻)のfamilyとみなされることがイヤなのか。
しかし、結婚とは、本来新しい家族を形成するものである。
姓が家族のアイデンティティを表わすものとしたら、結婚した夫婦が同姓であることの方が自然ではないか。

新しく第三の姓を選択して、夫婦共にそれを使うということも考えられる。
いわば、創氏である。
しかし、共に改姓することになり、姓の出自を表示するという性質が失われるし、改姓の不利益が2人に発生することになる。
現実的な方策とは言い難い。

改姓することによって、今までの自分のアイデンティティが失われるからか?
結婚とは、もともとそういう性格のものであろう。
今までとは異なるアイデンティティを選択するということである。
夫婦が個人とは異なるのは当たり前である。

私には、別姓にしたい、あるいはすべきである、という積極的な理由は分からない。
どちらかといえば、同姓派である。
しかし、どうしても別姓のままいたい、という夫婦はそうすればいいと思う。
別姓に賛成するわけではないが、そうできるように改変することにも積極的に反対はしない(消極的賛成?)、という立場である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月23日 (月)

夫婦同姓VS夫婦別姓

夫婦同姓か夫婦別姓かの論議は、多様な論点を含んでいる。
双方の主な主張を見てみよう。
なお、一般的には、夫婦同(別)姓という語が用いられることが多いが、法律用語としては夫婦同(別)氏が正しい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E5%88%A5%E5%A7%93

<夫婦別姓派の主張>
・職業上、氏の変更が業績の連続性にとって損害となる場合がある
・ 氏名は自己を表すものとして、氏にアイデンティティを感じる人がいる。婚姻によって氏が変わると自己を否定された感覚を持つ人がいる
・ 配偶者の父母と同じ氏となることにより、配偶者の実家に組み入れられたように感じると同時にそのように扱われることが苦痛である
・妻の側が改氏する割合が全体の97%といわれており、男女平等に反する
・女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約により夫婦別氏の推進が要求されている
・国民の意識が変化しつつあり別氏が選択できないため事実婚で我慢している人たちがおり、彼らにも平等に婚姻の権利を与える必要がある
・中国や朝鮮半島など東アジアでは夫婦別姓の国が多く、同じ文化圏として日本も考慮すべき
・例えば、佐藤博美と鈴木博美という男女が結婚したときに不都合が生じる

<夫婦同姓派の主張>
・選択的夫婦別氏制度にしなければならない切実な理由がない
・職業上の不便などはおおむね旧姓の通称使用で解決が可能である
・ 2001年の世論調査によると夫婦別氏の実践を希望する人の割合は7.7%しかない
・ 夫婦同氏は日本の伝統である
・日本におけるかつての別氏や、中国や韓国の別姓は古い氏族制度の伝統に基づいた家父長的なものであり、別氏の伝統を復活させた場合女性差別に繋がりかねない(ただし前述したとおり中国や韓国の姓は父系の氏族を表すものである一方、日本の名字は家を表すものであるため、単純にかつての日本における別名字の習慣と、中国・韓国における別姓の伝統を同一視するべきではない)。
・現行の制度は近代的な理念に基づき夫婦一体性を強調したもので、別氏にすると女性の実家との結びつきを優先する傾向に拍車をかけることになる。氏は家族の絆である。別姓主張の理由が家族・家庭より個人を過度に優先する思想であり、現今問題となっている家庭崩壊を促進する惧れがある
・ 夫婦別姓が認められれば婚姻時に夫婦間で同姓にするか別姓にするか意見が対立する可能性があり、対立した場合は結婚を諦めるケースも出てくると思われ夫婦別姓で結婚をする夫婦以上に夫婦別姓で結婚を諦める夫婦の方が多くなり、かえって婚姻数が減少する可能性がある
・氏が指し示す対象を変更する必要性がない
・子供の姓も選択制であることから子供・孫の姓の取り合いになり、場合によっては深刻な対立に発展する可能性がある。特に一人っ子同士の結婚の場合、両家の両親が「孫をうちの姓にしてくれないと家が途絶える」と主張するケース、由緒・名誉・財産など両家の比較によって子供の姓を決めるケース、対立を解決する為に金銭の授受が起きるケースなどの弊害が発生する可能性が指摘されている。また金銭の授受が発生するケースでは「お金のある方の家が子供・孫の姓を手にすることができる」ようになることで、「子供・孫の姓の選択にまで格差社会にするつもりか」といった批判がある
・結婚時に同姓か別姓かの選択、子供の出生時に子供の姓の選択、などの精神的な負担を万人に負わせる可能性がある
・キリスト教の教会論において、福音派の指導者マーティン・ロイドジョンズは、キリストの花嫁であるキリスト教会がキリストの名前を与えられ、クリスチャンがキリストの名で呼ばれる神秘と特権から、女性も結婚した時に自分の名字を放棄して、夫の名前を与えられるのは、花嫁に与えられた特権であり、これが聖書的であるとし、非聖書的なフェミニズムを退けている

これらの論点が絡み合って簡単に結論を下せない。
しかし法案が上程されれば、否応なく賛否を示さなければならない。
政党としての態度表明の状況は以下の通りである。

<夫婦別姓法案に賛成>
・民主党
・公明党
・社会民主党
・日本共産党
<夫婦別姓法案に反対>
・国民新党[3]
・たちあがれ日本
<賛否不明確>
・自由民主党 - ただし総裁である谷垣禎一は2009年9月28日に慎重な立場を表明[5]。
・新党日本
・新党大地
・新党改革
・みんなの党

私(と配偶者)は、さしあたって夫婦同姓であることに、不都合はない。
夫婦別姓にする動機がないのである。
しかし、夫婦別姓にしたいという人がいる以上、そうできるように法律を変えてもいいのではないかと思う。
個人の自己決定できる裁量の範囲は、なるべく制約しない方がいいと思うからだ。
そして、現実に別姓にする人がそれほど多いとも思えない。
夫婦別姓にして起こる可能性のある問題は、ほとんど技術的に解決できるのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月22日 (日)

夫婦別姓の主張

夫婦別姓の是非が論議されている。
私の身の回りでは、夫婦同姓のために問題があるから別姓を可能なようにしたい、という事例は聞かない。
しかし、夫婦別姓をどうしても実現したい(すべきだ)と思っている人がいて、法律改正の準備をしている。
はじめに、夫婦別姓の定義を確認しておこう(Wikipedia100807最終更新)。

夫婦別姓(ふうふべっせい)とは婚姻時に両者の氏(姓)を統一せず、夫婦それぞれが婚姻前の氏(姓)を名乗り続けることである。またはその制度。夫婦別氏とも呼ばれる。

現行制度では、民法で、婚姻時に夫または妻のいずれかの姓(氏)を選択することとしている。
「夫婦同氏原則」(民法750条)である。
夫婦同姓(氏)は、婚姻届の必須の形式要件である(戸籍法74条1項)。

女性が、専業主婦として家事と育児に専念するのが圧倒的に多い間は、同姓の強制は大きな問題とはならなかった。
結婚後も職場で働き続ける女性が増えるに従い、姓(氏)を変えることによる業績の断絶や連絡の混乱などの弊害が起こるようになってきたのが夫婦別姓運動の主動因のようだ。
つまり、夫婦別姓問題は、女性の社会進出に伴って生まれてきた問題である。

結婚による改姓の不都合を回避する方法としては、旧姓による氏名を、戸籍上の氏名とは別の通称として使い続ける方法がある。
しかし、通称の適用範囲は限られており、健康保険証や運転免許証などの公的証明書では戸籍上の氏名を使わなければならない。

夫婦別姓を貫くとすれば、婚姻届を出さない事実婚により、夫婦関係を内縁関係に留めるという方法がある。
この場合、戸籍上も旧姓のままでいることができるが、家族が、扶養控除や配偶者控除の対象にならないとか、法定相続権がないために、遺言で遺産相続をしようにも、贈与扱いとなり、税金は二割り増しになるなど、法的に不利な扱いを受ける。

夫婦の姓をどう考えるかは、その人の家族観を反映しているだろう。
代表的な論者である福島瑞穂社民党党首の主張はどうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%91%9E%E7%A9%82

「家族制度」に反対の立場をとっており、著書では「私は、子供が18歳になったら“家族解散式”というのをやろうと思っている」「子どもが18歳になれば、『ごかってに』と言いたい。365日、24時間、他人の干渉なしに生きて、自分でも白紙の人生をどう生きるか考えたらいいし、私もそうしたい。私の場合は、子どものごはんや休みのいろんなやりくりをすることから『解放』されたいのだ。バンザーイ。」などと述べている。

ここでは、家族は、構成員を束縛するものと捉えられており、それから解放されることが意義のあることだとされている。
つまり、家族は、「なければない方がいい」ということになる。
本当にそうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月21日 (土)

family name

署名などの場合、日本語では姓→名の順に書く。
たとえば、山田(姓)太郎(名)などである。
これに対し、英語では、Taro Yamadaのように、名→姓の順に書く
日本以外にも中国、韓国・朝鮮、ベトナムといった東アジアや、ヨーロッパでもハンガリー、また西アフリカの一部の地域、インド南東部のアーンドラ・プラデーシュ州のテルグ人などでは同様に姓→名の順で表記する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%93

first nameといえば、太郎(Taro)のことである。
英語では分かりやすいが、日本語では「どっちのことだっけ」と一瞬考えてしまう。
first nameに対し、姓はlast nameという。
last nameは、family nameである。あるいはsurnameという。
first nameは、given nameともいう。
生まれた子供の名をどうするかは、親の最初の大仕事である。

この「名づけ」という行為にも、世相が反映してくる。
私の同級生には、勝の字を用いた名前が比較的多い。
今の時点からみれば、日本の敗色が既に濃かったのではないかと思うが、当時は戦争に勝つことが国民共通の願いであった。
八紘という名前の同級生もいた。
八紘一宇からとったものと思われる。
たしかヒロシと呼んだが、八紘一宇の意味はWikipedia(100812最終更新)には次のように説明されている。

八紘一宇(はっこういちう)とは、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」から作られた言葉で、大意としては天下をひとつの家のようにすること。転じて第二次世界大戦中に大東亜共栄圏の建設の標語のひとつとして用いられた。

今では殆ど使用されることのないスローガンである。
最近の流行は、男の子では、航、海斗、悠真、女の子では、葵、結衣、七海がベスト3である。
音では、それぞれハルト、ユウキ、リョウスケおよびアヤカ、アオイ、ハナとなっている。http://baby.goo.ne.jp/member/ninshin/naming/1/

family nameは、韓国では250種程度、中国では4100種程度といわれる。
これに対し、日本では30万種にも上る(字体や読みの異同のカウントの仕方によって変わる)。

日本人のfamily nameのランキングは、以下の通りである。
Photo_2
first nameもlast nameも、その人のアイデンティティを表わしている。
first・given nameが、かくあって欲しいという価値観を示しているのに対し、last・family nameは、出自を示すものといえよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月20日 (金)

物質の状態変化

家族の状態について、纏綿状態と遊離状態という2つの概念的な区分けが考えられる。
物質には、いわゆる三態変化という状態変化がある。
物質の多くは、温度(と圧力)によって、固体、液体、気体の3つの状態を移り変わる。
水の場合には、大気圧下で、0℃以下で氷(固体)として存在し、0℃以上にすると融解して水(液体)になり、さらに温度をあげて100℃以上(0℃の定義の変更により、厳密には99.974℃らしい)にすると水蒸気(気体)になる。
Photo
http://www.suntory.co.jp/company/mizu/jiten/know/kn_01_01.html

物質は、原子や分子から成り立っている。
水の場合は、水素原子(H)2つと酸素原子(O)1つが結合して、水分子を構成している。
この水分子1個だけでは液体にも固体にもならない。水分子がたくさん連なることが必要である。

物質を構成する分子と分子がつながるための力には各種ある。
水分子の場合は酸素側がマイナスの電荷、水素側がプラスの電荷を持つようになり、いわば磁石のような働きを持っているために、正負で引き合う電気的な力によって結合する(水素結合)。
この水素結合により、水分子間がつながり、水分子の集合(水クラスター)が形成される。
常温の水では、5~6個から十数個の分子がクラスターを形成している。

物質が温度を示すというのは、原子・分子が運動していることの反映である。
物質の状態変化は、運動と分子間力のかねあいの問題である。
固体の状態では、熱運動が弱く、分子はそれぞれの位置で振動している。
温度を上げて行くと、熱運動が大きくなって、分子はそれぞれの位置を離れて動くようになる。
つまり、固体が融解して液体になる。
さらに温度を上げると、熱運動が分子間力を完全に振り切るようになる。
すなわち沸騰して気体になる。

家族の状態も同じようなことがいえるのではないだろうか。
すなわち、家族は分子数個より成るクラスターである。
分子(構成員)の間には、ある種の引力が働いている。
また、分子は運動エネルギーを持っている。
両者のかねあいで、家族のまとまり方に差異が生じる。
纏綿状態の家族は、引力が強く分子の自由度が小さい(氷に近い)。
遊離状態の家族は、運動エネルギーがまさっていて、分子はバラバラになりがちである(水蒸気に近い)。
問題は、家族を結びつける引力の正体は何か、それが戦後史においてどう変容してきたのか、ということである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月19日 (木)

家族の状態

家族とは何か?
分かりきっているようで、厳密な定義をしようとすると、結構考えてしまう。
Wikipediaでは、次のように説明されている(100818最終更新)。

家族(かぞく)とは、居住を共にすることによってひとつのまとまりを形成した親族集団のことである。また、「産み、産まれる」かかわりの中から生じた親と子という絆、そうしたものによって繫がっている血縁集団を基礎とした小規模な共同体が、家族である。同じ家屋に居住する血縁集団に限定して使う場合もあり、現代日本では直系親族を中心とする単家族のことを指す場合もある。

いずれにしろ、個人と社会の中間にある特定の小集団である。
家族の状態を理解するためには、家族を構成する個人相互の関係と家族と社会との関係を理解することが必要である。

家族のまとまりの状態は、概念的には、纏綿(てんめん)状態と遊離状態という2つの極限状態を考えることができる。
http://www.fuanclinic.com/kazoku/kazoku03.htm

”纏綿状態”とは家族メンバーが一つの塊のように融合した状態である。
各人もしくはサブシステム(夫婦・親子・兄弟等)間の境界が曖昧となり、それぞれの自立性が損なわれてしまっている。
このような状態にある家族は、家族全員、もしくは数人のメンバーが、自他の区別がついていないかのような同じ感じ方や考え方をしがちである。
家族以外の人たちの考え方や社会の出来事への関心が薄く、家族に起きる問題は極めて限られた情報に基づき、その家族にだけ通用する考え方で処理され、事態の一層の悪化を招くことがある。

纏綿状態で特に問題なのは、あるメンバー間の密着性と特定メンバーに対する依存性である。
あるメンバー間の密着性は外のメンバーとの離反をもたらし、依存性はメンバーの自立を損なわせることになる。
問題は、纏綿状態が必ずしも文字どおり結びあっているわけではないということである。
相互に一見親密な関係を作っているようにみえて、その奥には微妙な食い違いが潜んでいたり、愛情面の不満を内向させていることがある。
纏綿状態の
家族は、社会に対して閉鎖的で、家族本位となりやすい。

”遊離状態”とは家族メンバー間やサブシステム間に、相互関係をもたらすコミュニケーションが働いていない状態である。
それぞれが厚い壁を作ってしまっていて、家族としてのまとまりがみられない。
遊離状態にある家族メンバーは、お互いにまったく関わりがないように動いたり、特定のメンバー同士が強く結び付き他のメンバーを除外したりして、家族内緊張や不安を高めてしまう。
たとえば夫婦仲が悪く、そのかわり母子密着を一層強めているとか、親の不仲に不安を抱いた子供が学校に行けなくなるとか、様々な家族問題を引き起こすことになる。
このような家族も、家族外からもたらされる情報やアドバイスを、自らの家族問題解決に役立たせることは極めて困難になる。

纏綿状態と遊離状態は家族のまとまり具合の両極であって、いずれも問題を発生しがちである。
纏綿状態は、家族全体が1つの主体として環境としての社会に対し、遊離状態は家族を構成する個人それぞれが社会に対している。
いずれも、家族という単位が機能していない状態である。
このような状態に陥らないためには、家族同士の日頃のコミュニケーションを絶やすことなく、相互理解に努めるとともに、社会に対して開かれていることが必要である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月18日 (水)

戦後史と“家族の絆”の行方

私たちは、配偶者、親子、兄弟・姉妹、祖父母、孫などに、特別の感情を抱く。
いわゆる家族であり、その他の人たちとは差異のある存在だと思っている。
その根源になにがあるのかはよく分からないが、「家族の絆」とでもいうべきものがあって、それが家族を結びつけているのだろうと思う。

私がリハビリの歩行訓練をする道沿いの水辺に、「絆」と題する像が設置されている。
いわゆる“ふるさと創生事業”の一環として制作・設置されたものである。
そういえば、典型的な“バラマキ”政策であるこの事業は、現在、どう評価されているのだろう。

Photo_3
見たとおり、若い母親がみどりごを抱きかかえている。
みどりごの手は、母親に向かって、何かを求めるように伸びている。
母親の目は、慈愛に満ちてみどりごを見つめている。
私にとっての「家族の絆」の原像である。

毎日のように、行方不明高齢者や幼児虐待などのニュースが報道されている。
「家族の絆」はどうなってしまったのか?
平均寿命と1人当たりGDPという指標で見る限り、わが国は長寿と「豊かな社会」を実現した。
⇒2010年8月16日 (月):天皇の戦争責任について
国敗れて以来65年、荒廃した山河に、いまや敗戦の痕跡を見出すのは難しい。

倉本聡さんのTVドラマ『帰国』(旧字体を使用)が、8月14日放映された。
http://career.oricon.co.jp/news/77195/full/

8月15日終戦記念日の深夜、静まり返った東京駅のホームに、ダイアには記載されていない1台の軍用列車が到着。そこに乗っていたのは60余年前の戦争中、南の海で玉砕し、そのまま海に沈んだ英霊達。彼らが現代によみがえった目的は、平和になった故国を目撃すること。そして、かの海に漂う数多の魂にその現状を伝えること。永年夢見た帰国の時、故国のために死んだ彼らは、現在の日本に何を見たのかを描く。

私たちの獲得した「長寿」や「1人当たりGDP」によって、果たして現在の日本は、“英霊たち”の期待に応え得ているのか?
“英霊たち”は、満足しているのか。
私は、どこかでボタンを掛け違えたような、チグハグな感じを拭えない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年8月17日 (火)

源頼朝の挙兵

治承4(1180)年8月17日の深夜、源頼朝は、北条時政と謀って平氏討滅の兵を挙げた。
今から830年前のことである。
「平治の乱」に敗れて後、流人生活は20年に及んでいた。
挙兵の事情は以下の通りである。
Wikipedia100808最終更新

治承4年(1180年)、高倉宮以仁王平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発し、4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられる。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死するが、頼朝は動かずしばらく事態の成り行きを静観していた。しかし平氏は令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、その動きを知り自分が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけた。
挙兵の第一攻撃目標は伊豆国
目代山木兼隆と定められ、治承4年(1180年)8月17日頼朝の命で北条時政らが伊豆国韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃し、兼隆を討ち取った。
伊豆を得た頼朝は
相模国土肥郷へ向かう。従った者は北条義時工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、さらに三浦義澄和田義盛らの三浦一族が頼朝に参じるべく三浦を発した。しかし三浦軍との合流前の23日に石橋山の戦いで、頼朝らは平家に仕える大庭景親渋谷重国熊谷直実山内首藤経俊、伊東祐親ら三千余騎と戦い、三百騎を率いる頼朝は敗れ、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、8月28日に真鶴岬から船で安房国へと向かう。

ここで、頼朝は「奇跡」の復活を果たす。
29日、安房国平北郡猟島に上陸すると、直ちに態勢を立て直し、9月13日、鎌倉に向けて進軍を開始した。
鎌倉入りを果たしたのは、20日余後の10月6日のことである。
Photo_2 
図は、杉橋隆夫『源頼朝、復活の「奇跡」』(「週刊街道をゆくNo.05三浦半島記」所収)

頼朝の成功の要因は、第一に彼の将としての器であろう。
それが、この地の武士たちの間に鬱積していた平氏に対する不満を、「国中京下の輩においては、悉く以て搦め進すべし」というスローガンによって統合した。

そして伊豆、房総、三浦の3つの半島の地政学という要因が頼朝の勝利に与った。
司馬遼太郎氏は次のように書いている。
『三浦半島記』

頼朝の初期の成功は、地形論として単純だった。この三つの半島が、連動したのである。
やがて頼朝は三浦半島にもどって、鎌倉に府を定める。この三つの半島が関連しあって、旗揚げ早々の頼朝の基礎勢力を創った。半島のもつ玄妙さといっていい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月16日 (月)

天皇の戦争責任について

政府主催の全国戦没者追悼式が、16日、日本武道館で行われた。
天皇、皇后両陛下や菅首相のほか、戦没者遺族や政府関係者ら計6000人が参列した。
先の戦争では、300万人を超える人が亡くなった。 
私の身近な友人にも、父親が戦死した人がいる。
私たちの世代にとっては、戦没者はそう遠い存在ではない。
あと20年くらい早く生まれていたら、私自身が特攻死していた可能性も小さくないだろう。
そういうことを考えると、戦没者を心から鎮魂したい気持ちになる。

式典に臨席した天皇陛下は、次のようなお言葉を述べられた。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/100815/imp1008151315002-n1.htm

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に六十五年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

まことに終戦以来65年、今日のわが国は、敗戦などなかったかのように、繁栄している(ように見える)。
例えば、平均寿命と1人当たりGDPをみれば以下の通りである。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1620.html
Photo

長生きは、幸福の1つの指標と考えていいだろう。
わが国は、紛れもない幸福大国である。
そして、上図に見るように、平均寿命は、1人当たりGDPとほぼ相関している。
端的にいえば、豊かな国ほど長生きできる、ということである。
つまり、繁栄が幸福をもたらしたのだ。
天皇陛下のお言葉の通り、国民のたゆみない努力を賞賛すべきだろう。

それでは、かつての戦争は、すべて清算されてしまったと考えていいのだろうか。
敗戦時に1歳だった私は、戦争と無関係だったとしてしまっていいのだろうか。
式典における菅首相の式辞をみてみよう。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100815-OYT1T00809.htm

……
先の大戦では、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えました。深く反省するとともに、犠牲となられた方々とそのご遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。
戦後、私達国民一人一人が努力し、また、各国・各地域との友好関係に支えられ、幾多の困難を乗り越えながら、平和国家としての途を進んできました。これからも、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を語り継いでいかなければなりません。
……

日本人として、他国に与えた損害と苦痛をどう考えるか。
今の繁栄している(かのような)日本は、戦争を遂行した大日本帝国とは別の存在と考えていいのだろうか。
一部の戦争指導者だけの責任に帰していいのだろうか。
責任を有する戦争指導者とは、A級戦犯のことか。
彼らを合祀している靖国神社には、参拝すべきか否か。

これらの問題を考えていくと、どうしても、天皇の戦争責任をどう考えるか、という問いに行き着く。
65年という歳月は、天皇の戦争責任という問題を、客観的に論じるに十分な長さではないか。
開戦にいたった責任、戦争の終結を遅らせた責任、敗戦したことの責任。
おそらくは、自然人としての天皇がどうかということよりも、制度としての天皇の問題であると思う。
しかし、責任を負えるのは自然人しかいないのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月15日 (日)

何を改革し、何を守るのか?

わが国が、ポツダム宣言を受諾してから65回目の8月15日である。
私自身は1歳になったばかりだったから、その日の記憶はもちろんない。
ただ、その日を境に、日本という国、私が生まれ育ったこの国のあり様が大きく変わったのは知っている。

民主党政権になって、初めての「敗戦の日」である。
例年、靖国神社への公式参拝の是非が話題になるが、菅内閣の閣僚は1人も参拝しないらしい。
それを、どうこういうつもりはない。
そもそも、神社への参拝に、公式も非公式もあるのだろうか、という気がする。
公式参拝か私的参拝かの論議を振り返ってみてみよう。
Wikipedia100815最終更新

これは第66代総理であった三木武夫1975年8月15日、総理としては初めて終戦記念日に参拝した際に、私的参拝4条件(公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)による「私人」としての参拝を行った以降、特に論じられるようになったものである。靖国神社に対して玉串料などを公費で支出した参拝は、第72代総理であった中曽根康弘による1985年の参拝が訴訟の対象となり(後述)、1992年の2つの高等裁判所判決で憲法の定める政教分離原則に反する公式参拝と認定され、これらが判例として確定、明確に違憲とされており、これ以降の議論は「私人」としての参拝が許容されるものであるかどうかを巡っての解釈の問題となっている。
「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という意見がある。これは、公人であっても
人権的な観点から私人の側面を強調視するもので、「首相個人の信仰や信念も尊重されるべきであり、参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」という立場をとっている。「アメリカのように政教分離をうたっていながら、大統領や知事就任式のときに聖書に手をのせに誓いをたてることは問題になったことは一度もない」ということも論拠の一つに挙げられている。
一方、「公用車を用い、側近・護衛官を従え、閣僚が連れ立って参拝し、職業欄に『内閣総理大臣』などと記帳するという行為は公人としてのそれであり、政教分離原則に抵触する」という意見がある。こちらは、実効的な観点を重く取り上げ、「首相が在職中に行う行為は私的であっても、多少の差はあれ、全て政治的実効性を持つため、私的参拝であっても靖国神社に実質的に
利益を与えるものだ」として問題があるとしている。
第87~89代総理・
小泉純一郎は、2001(平成13)年8月13日の首相就任後最初の参拝をした後、公私の別についての質問に対し「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した」と述べた。これ以降、特にこの論点が大きくクローズアップされている。

私の考えは、文言的には、小泉純一郎元首相の発言に近い。
公私の別にこだわらない。

もっといえば、靖国神社にもこだわらない。
「心を込めて」することに、公私の別も、場所の如何も関係ないだろう。
たとえば、8月15日に、戦没画学生の作品を集めた無言館に行く閣僚がいたらいいのではないか、と思う。
あるいは、原爆ドームでもいい。
また、知覧だっていいだろう。

それにしても、65年の間に日本の社会は大きく変貌した。
何事にも光と影の両面があるのだろうが、戦後日本の何を保持し、何を改革するのか?
改革の言葉が踊るなかで、守るべきものは何なのか、最近の世相をみるにつけ、腰を据えた議論が聞きたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月14日 (土)

ジョージ・オーウェルの『1984年』-個人情報の監視と保護

既に述べたように(2010年8月12日 (木):転換点としての1985年)、1985年は、戦後史の1つの転換点だったと思われる。
しかし、時間は連続しているわけで、1985年は1984年の翌年であるし、1986年の前年である。
1984年は、フィクションの形ではあるが、重要なメセージをひめた年であった。
それは、ジョージ・オーウェルの『1984年』と題する小説によってもたらされた。

オーウェルの履歴等は、下記の通りである(Wikipdia100801最終更新)。

ジョージ・オーウェル英語: George Orwell, 1903年6月25日 - 1950年1月21日)は、イギリスの作家、ジャーナリスト。生誕地はイギリスの植民地時代のインド。本名はエリック・アーサー・ブレア(英語: Eric Arthur Blair)。全体主義ディストピアの世界を描いた『1984年』の作者で知られる。『1984年』のような世界を描いた社会を「オーウェリアン」(Orwellian)と呼ぶ。

英語の副読本等に用いられる『動物農場(Animal farm)』は、広い読者を持っているはずである。
1984年』は、次のように、文学作品として高い評価を得ており、オーウェルの代表作といってよいであろう(Wikipedia100704最終更新)。

トマス・モアユートピア』、スウィフトガリヴァー旅行記』、ザミャーチンわれら』、ハクスリーすばらしい新世界』などのディストピア(反ユートピア)小説の系譜を引く作品で、スターリン体制下のソ連を連想させる全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている。なお、著者などは言及していないが「1984年」という年号は、本作が執筆された1948年の4と8を入れ替えたアナグラムであるという説が一般的である。これによって、当時の世界情勢そのものへの危惧を暗に示したものとなっている。
出版当初から
冷戦下の英米で爆発的に売れ、同じ著者の『動物農場』やケストラーの『真昼の闇黒』などとともに反全体主義、反集産主義のバイブルとなった。
1998年にランダム・ハウス、モダン・ライブラリーが選んだ「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」、2002年にノルウェー・ブック・クラブ発表の「史上最高の文学100」[1]に選出されるなど、欧米での評価は高く、思想・文学・音楽など様々な分野に今なお多大な影響を与え続けている。

あらすじは以下のようである(Wikipedia100704最終更新)。

1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。1984 作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョンによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。
ロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。また、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジューリアと共に過ごした。さらにウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライアンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。
ところが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、オブライエンによる尋問と
拷問を受けることになる。彼は「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら"心から"党を愛すようになるのであった。

この小説には様々な読み方が可能であろうが、端的には、旧ソ連に代表される(た)社会主義国の思想統制の危険性と虚しさ、そして、にもかかわらず個人としての反抗や抵抗には限界や弱さがあることを表現していると考えられる。
東欧やソ連の社会主義体制が崩壊した今日から見れば、その権力機構を多分に戯画化して過大に描いているのではばいかとも思われるが、漏れ聞く北朝鮮の状態などは、本質的におなじものであろう。

さて、実際の1984年はどうであったか?
幸いにして、北朝鮮などを除き、『1984年』を実現することなく過ぎたと言えよう。
その後、80年代の終期から90年代の初期にかけて、旧社会主義体制の国は次々と崩壊し、東西冷戦は終わりを告げた。

しかし、オーウェルの指摘が杞憂であったかというと、そうでははない。
内面の自由とかプライバシーの保護、一方で国民の安否把握などのテーマは、現代社会の重要課題えいることは、最近の世相が示すとりである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月13日 (金)

行方不明高齢者

100歳を超える高齢者の行方が分からなくなっている例が、全国的に広がっている。
例えば、下表のようである。
Photoいささか食傷気味の感はあるが、所在確認のできない人の数は、調査が進展するに従って増えている。
最終的な数は、何を目処に判断するのだろう。
事情はそれぞれであると思われるが、例えば、川崎市の男性の状況は以下のようである。

川崎市幸区に住民登録され、所在不明になっている神奈川県で男性最高齢の百九歳について、男性の五女(74)ら家族四人が六日、埼玉県内で幸区の担当者に面会した。家族は「(男性は)一九八七年八月に出て行ってしまい、幸署に捜索願を出した。その後は音信不通。約十年前に失踪(しっそう)宣告を請求しようとしたが、捜索願を出したことを証明できなかった」と説明。埼玉への転出届は「事情があり出さなかった」と話したという。
東京新聞100807

これらの行方不明高齢者の中には、当該市区町村で最高齢である(はず)の人も含まれている。
私は、人口統計は最も信頼できる統計データだと思ってきた。
かつて、中国では戸籍があてにならず、正確な人口は分からないと言われていたが、これでは日本も同じことではないか。

東大阪市の場合、市役所の対応は次のように報じられている。
読売新聞100805

18人の所在不明が判明したのは、毎年実施する厚生労働省の統計目的の調査で、100歳以上の高齢者を対象に、6月から電話で所在確認調査を進めた結果、男女18人の行方がわからず、家族にも連絡が取れなかった。市はこの18人の介護保険の利用状況などを調査し、うち3人については今年度の介護保険料の納付やサービスの利用を確認した。しかし、残る15人中10人は長期間にわたって介護保険料の納付などはなく、長期所在未確認の事例として住民基本台帳から抹消するかどうかについて、以前から担当の市民課に相談していたという。

市役所の中の連携が悪いということであろうか。
100歳以上の高齢者が、全く介護サービスを受けた形跡がないとしたら不自然である。
ここにも個人情報保護法の問題が絡んでいるようである。
かつては、長寿番付というものが発表されていた。
「金さん、銀さん」の姉妹や泉重千代さんの名前は、全国的に知られていた。

行方不明にもかかわらず、年金が支払われ続けている例もある。
自治体の担当者は、死亡が確認されない限り、生存していると推定するようである。
しかし、もし故意に死亡届を出さないで年金を受給していたとすれば、詐欺罪に相当する。

厚労省は年金受給者については本人確認を実施することを決めたが、対象者は110歳以上という極めて狭い枠にとどめている。
「厚労省は、年金受給者と人口の数すら合っていないのを把握しているんです。これを全て調べたら莫大な規模の相違が出てしまい、職務怠慢を追及され責任問題にも発展するので小さいまま終わらせたいんでしょう」と同関係者。

http://www.cyzo.com/2010/08/post_5182.html

いったい、100歳以上というような年齢制限を外したら、生死の定かでない人はどれくらいいるのであろうか。
日本は長寿大国と言われてきたが、その実態も怪しくなる。
勝谷誠彦さんが指摘するように、死んだ人の死亡届が出されていない事実は、生まれた子供の出生届が出されていない可能性を暗示させる。
せめて人口データくらい精度の高い数値であってほしいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年8月12日 (木)

転換点としての1985年

JAL123便が御巣鷹山に墜落した事故から25年が経つ。
「25年=四半世紀」というのは、既に歴史的に振り返ることのできる年月である。
と同時に、未だ記憶が鮮明な同時代の出来事でもある。

ベストセラーになった横山秀夫さんの『クライマーズ・ハイ』という小説は、この事故を題材にしている。
概要は以下の通りである。(Wikipedia100801最終更新)

2003年1月、『別冊文藝春秋』に掲載され、8月に文藝春秋から単行本が刊行された。週刊文春ミステリーベストテン2003年第1位、2004年本屋大賞第2位受賞。著者が上毛新聞記者時代に遭遇した日本航空123便墜落事故を題材としており、群馬県の架空の地方新聞社を舞台に未曾有の大事故を取材する新聞記者の奮闘を描く。「クライマーズ・ハイ」とは、登山者の興奮状態が極限まで達し、恐怖感が麻痺してしまう状態のことである。

映画化され、2008年に公開された。
私も見たが、原田眞人監督のテンポのよい演出が、新聞社という舞台によくマッチしていた。
私は、JAL機の事故のことは、子供たちと信州へキャンプに行った帰り、家の近くで外食をしようかとクルマの中で話をしていたとき、ラジオで第一報を聞いた。

吉崎達彦『1985年』新潮新書(0508)は、この年に起きた7つの出来事を通じて、歴史を輪切りにしてみたものである。
7つの出来事として、以下が選ばれている。
1.政治-中曽根政治とプラザ合意
2.経済-いまだ眩しき「午後2時の太陽」
3.世界-レーガンとゴルバチョフの出会い
4.技術-つくば博とニューメディア
5.消費-「おいしい生活」が始まった
6.社会-『金妻』と『ひょうきん族』の時代
7.事件-3つのサプライズ

3つのサプライズの1つが、JAL機の墜落事故である。
1985年8月12日午後6時発のボーイング747SR機は、予定より12分遅れで離陸した。
乗員定数528名はほぼ満席状態だった。乗客509名、乗員15名、合わせて524名。
午後6時24分、機体に異常発生。6時56分墜落。
生存者は4名。乗客の中に、歌手の坂本九さんや阪神タイガース球団社長中埜肇さんなどの有名人がいた。
ちなみに、この年、阪神タイガースは20年ぶりに優勝した。
3つのサプライズのうちの1つで、もう1つは、現職の大臣だった河本敏夫氏が実質的なオーナーである三光汽船が、戦後最大(当時)の負債額で倒産したことである。

上記の7つの出来事は、もちろん独立の事象ということではない。
80年代後半は、バブル経済が日本中を席巻したが、プラザ合意はその引き金を引いたとされ、「おいしい生活」はその現象形態ということができよう。
「午後2時の太陽」は経済的に、レーガンとゴルバチョフの出会いは国際政治的に、つくば博とニューメディアは技術的に、『金妻』と『ひょうきん族』は気分的に、バブルを可能にした条件だったとみることができる。

言い添えれば、1985年は、マイクロソフトのOS:WINDOWSがデビューした年である。

Microsoft Windows(マイクロソフト ウィンドウズ)は、マイクロソフトのオペレーティング システムまたはオペレーティング環境で、1985年11月に初めてリリースされた。
Microsoft Windowsは、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) を採用し、主にインテルのx86系のマイクロプロセッサ(CPU)を搭載したコンピュータで動作するオペレーティングシステムである。現在では一般向けのパーソナルコンピュータの大半で使用されている。また組み込みシステムやスマートフォンやサーバーの一部でも、Windows系のオペレーティングシステムが使用されている。

Wikipedia100809最終更新

JALは経営破綻するなど、1985年から時代は大きく変貌した。
1985年は、社会経済の大きな節目となる年であったのではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月11日 (水)

大阪市2幼児放置致死事件の衝撃

胸が痛くなるような幼児虐待のニュースが後を絶たない。
わが子を洗濯機にかけて回したり、木箱に入れて監禁したりというような信じられないことが報道されているが、大阪の2人の幼児が、放置されたまま死にいたったと見られる事件は衝撃的であった。
3歳と1歳の2人の子供が、母親によって外に出られないように粘着テープで目張りまでした部屋に放置され、餓死した。
この母親も、出産当初は子供を可愛がっていたようである。
しかし、いつか、わが子が飢え死にするであろうことを予測しつつ、遊び歩くほうを選択していた。

大阪府警は、不作為の殺人にあたると判断し、殺人容疑で再逮捕したと報じられている。
餓死にいたる間、子供の心には、どのようなことが去来したのだろうか?
私の想像を超えている。
母親は、これから後悔の念に苛まれるだろうが、失われた命はもう戻ることはない。

逮捕された母親は、「死んでいるかもしれないと思った」と供述しているという。
育児放棄(ネグレクト)などということではなく、やはり殺人というしかないであろう。
衝撃度が大きいので特殊な事件と思い勝ちであるが、背景事情は普遍的かもしれない。
それは、母親が、孤独であったことだ。
周りに相談相手もいなかったのであろう。

虐待の対象は、幼児ばかりではない。
都立高校の1年の女子生徒が、4月に実母による虐待を疑われる事例があった。
学校は児童相談所へ通告していず、生徒はその後も虐待を受けたが、7月に児童相談所の介入により保護されたという。
学校も、結局他人事である。
校長は、「子どもと違って、高校生なのだから……」と言っているが、恐怖の本質を理解していないと言わざるを得ない。
大人だって、恐ろしさゆえに表に出せないでいるケースはいくらでもあると思う。

プライバシーとか個人情報保護とかいわれる。
確かに情報化の進展により、興味本位で他人の私生活を覗き見するような事例もある。
しかし、実母による虐待というのは、それ以前の、緊急避難的な対応を要する問題ではなかろうか。

児童虐待防止法が制定されたのが2000年。
爾来10年が経過した。
虐待は減少傾向にあるか?
少なくとも、図(大久保真紀「児童虐待防止法制定後の虐待の現状」(『月刊福祉1009』全国社会福祉協議会所収))にみるように、児童相談所の対応件数は増加する一方である。
「相談件数=虐待件数」とはいえないが、ニュースで報じられる虐待事件が、氷山の一角であることは間違いない。Photo_2

児童虐待でよく耳にするのは、「しつけのつもりだった」という親の言い訳である。
しかし、区別がつかないのは当人くらいのもので、常識に照らせば差異は明瞭である。
2008年4月の法改正で、児童相談所は、最終的に強制的に住居に立ち入る臨検・捜査ができることになった。
しかし、実際には手続きが煩雑であったり、親との摩擦を避けたい配慮が働いたりして、臨検は遅れがちであるようである。

本来可愛いはずの子供をどうして虐待してしまうのか?
育児疲れや一人親家庭、継父母の場合、経済苦や夫婦不和など、さまざまなケースがあると想像される。
親のストレス、いらだちなどが、家庭内における最も弱い存在である子供に向かうのだろう。

「子ども手当」のあり方が議論になっている。
子供の虐待を根絶することは難しいかも知れない。
しかし、少なくとも虐待件数(相談件数で代理してもいい)を減少に転じさせることの方が優先課題ではないか。
一方で痛ましい虐待が報じられるなかで、子供は社会で育てるものだといって「子ども手当」を支給するのには、何となく釈然としないものを覚える。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2010年8月10日 (火)

政治におけるアマチュアの可能性

長野県知事選は、政治におけるプロとアマの戦いであったといえよう。
当選した阿部守一氏は、民主党、社民党、国民新党の推薦を受け、連合長野も積極的に支援した。
特に、民主党は参院選における敗勢を盛り返そうと必死の取り組みだった。
細野豪志幹事長代理、前原誠司国土交通相、原口一博総務相ら、マスメディアで知名度の高い政治家を動員して勝利をもぎ取った。

敗れた腰原愛正氏は、自民党と公明党の支援を受けた。
長野県市長会長などの履歴から推察すると、地方政界に有力な地盤を持っていた。
一昔前なら、長野県といえども腰原氏が楽勝のケースであろう。
ただ、長野県民主党は、羽田孜元総理の影響力が強いといわれる。
多分に自民党的体質を有する羽田氏の存在も、阿部氏に有利に働いたのではないか。
詳細は投票行動の分析を待たねばならないが。

阿部、腰原の両氏は、自身が政治家だったか政治家予備軍としてのキャリア官僚である。
支援組織も、政党や労組などの、政治のプロ集団であった。
対する松本猛氏は、美術館長という前職からして政治の世界とは縁遠い人である。
もちろん、日本共産党というプロ組織の支援を受けたが、当落という基準で考える限り、共産党の支援は必ずしもプラスには作用しないであろう。

いわば、プロ2人に、アマチュアが戦いを挑んだようなものである。
結果は、負けて当然ということだろう。
しかし、松本氏Photo の獲得した票は、決して死に票ではないのではないか。

最終的な各氏の得票数は、左表の通りである。
阿部氏と腰原氏は文字通り僅差であり、松本氏は両氏の約半分である。
これを惨敗とみるか、善戦とみるか。
私は、決して無視することができない数だと思う。
さしたる地盤も看板もなく、ましてカバンの中身も豊富とは思えない松本氏が、長野県という広い選挙区で、19万人近くの人にその名前を書かせたのである。

梅棹忠夫さんに、「アマチュア思想家宣言」という文章がある。
雑誌『思想の科学』の創刊号(5404)に掲載され、その後、「思想の科学の主題」という特集号(6205)に再録された。
初出の時点は、今から50年以上も前になる.。
『中央公論』の9月号に、加藤秀俊さんが追悼文を書いているが、「アマチュア思想家宣言」が梅棹さんの言論活動の原点であると位置づけている。

梅棹さんは、「思想はなんの役にたつか」という「問い」に対して、「そもそも思想はいつでも役にたたねばならぬものかどうか」と問い直す。
人間はいろいろなことを考えてしまうから、その中には役にたつことも、役にたたないこともあるだろうと。
思想に対する対し方に、「思想を論ずる」と「思想をつかう」の2種類がある。
思想を論ずるのは、頭のスポーツみたいなもので、思想家はスポーツマンである。
この場合、思想は何の役にたつかと問いかけることが無意味であり、強いていえば人間の思想の発展に役だつ。

思想を使う場合には、思想は何の役にたつか、という問いは実質的な意味を持つ。
この場合は、思想は創造的な作品である必要はなく、既製品でも使いなれたものがあればいい。
思想を論ずるのは思想家の仕事であり、思想をつかうのは民衆の仕事である。
思想を論ずるのはいわばプロの立場である。
首尾一貫した体系が要求される。

思想をつかう立場は、別に一貫した体系が求められるわけではない。
プロにとっては生活よりも体系が大事だが、アマチュアにとっては使えるものを勝手に使えばいい。
そのような認識にたって、梅棹さんはみずからをアマチュア思想家と規定する。
そこから出発して、質と量の両面においてプロの思想家をはるかに凌駕する仕事を残した。

政治の場合にはどうであろうか。
プロの政治家とは、政治を目的化している人といえないだろうか。
言い換えれば、政治のため政治である。
これに対し、アマチュアの政治家は、国民・市民の生活のための政治である。
菅直人という政治家に期待したのは、この意味でのアマチュア性であった。
しかるに、最近の菅氏は、民主党の代表戦に勝つことを第一に考えているかのようである。
世襲や高級官僚出身者は、もともとプロの体質をもっている。
いかにもプロらしい人たちのなかで、毅然としてアマチュア的であることは難しいかも知れない。
しかし、長野県知事選にアマチュアの時代の萌芽をみた感じがするのは、果たして私だけだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 9日 (月)

長野県知事選をめぐる感想

長野県知事選で、民主、社民、国民新が推薦する元副知事の阿部守一氏(49)が当選した。
前副知事の腰原愛正氏(63)に競り勝った。
他県のことではあるが、この知事選の結果には関心を持っていた。
それは、第一に、阿部氏と腰原氏が共に副知事経験者であって、政権交代時の与野党対決の図式が再現したかの感があったことである。

腰原氏は、村井仁前知事の副知事である。
大町市長や長野県市長会長などを務めた。
自民党と公明党が実質的に支援した。
旧来型の政治家の典型のような履歴である。

阿部氏は、旧自治省出身のキャリア官僚である。
田中康夫氏が知事の時代に、長野県副知事になった。
山口県、岩手県、神奈川県、愛媛県など自治体現場での勤務経験を持つ地方自治の専門家だ。
構想日本の事業仕分け人でもある。

参院選で雲行きの怪しくなった民主党政権の今後を占う意味もある。
田中氏の掲げた「脱ダム」の理念の評価という意味もある。
結果は、僅差ではあるが、阿部氏が制した。
この2人の対決だけに限れば、私は阿部氏が勝ってよかったと思う。
私は、ダムを含めて公共事業全般を否定するものではない。
しかし、「脱ダム」の旗を掲げた田中康夫氏の功績は大きいと思う。
政権交代を具現化することになる大きな一石だったと思う。

私の関心は、もう一人の候補者松本猛氏にあった。
松本氏は、5月まで安曇野にある、いわさきちひろ美術館の館長を務めていた。
母はいわさきちひろさんで、父は元日本共産党衆議院議員の松本善明氏である。
善明氏は共産党の論客として知られたが、猛氏の経歴に政治志向は窺えない。
阿部氏と腰原氏が、共に政治家を志してきたのとは対照的である。

私は、いわさきちひろファンである。

いわさきちひろは子どもを生涯のテーマとして描き続けた画家でした。
モデルなしで10カ月と1歳のあかちゃんを描き分けたちひろは、その観察力とデッサン力を駆使して、子どものあらゆる姿を描き出しています。

松本猛氏は、母いわさきちひろの作品を守る美術館と県立の信濃美術館の館長を兼任していた。
入館者数を飛躍的に伸ばしてきた実績があるが、役所の中にいてものごとを改革していくのがいかに難しいかを痛感してきたという。
そのことが今回の立候補の動機にもなった。
松本氏は、共産党の応援を受けていた。
民・社民・国民新VS自・公の図式に対しては、父親との関係もあって当然のことかも知れない。

松本氏の応援団に、窪島誠一郎氏や勝谷誠彦氏がいる。
勝谷氏は、自身のメルマガで次のように語っている。

なかでも窪島さんの話は私の胸を打った。ご存じのように水上勉さんのご子息である窪島さんは松本さんと同じく美術館というものを運営する立場として、それがいかに「アナログ」なものかを語った。いかにウェブが発達しても実物を観せることに美術館は命をかけるのである。そしてそれは、知事として現場に触れることにほかならないと。そのことを識っている松本さんはきっといい知事になるだろうというのだ。
そこまではわかった。しかし、そのあと窪島さんはほとんど涙ぐみながら「いまもっとも辛い時代を迎えている美術館の世界から、松本さんという人を喪うことは辛い」と訴えたのだ。まさに本音であった。と同時に美術館という組織の「経営者」としてまことに成功している松本さんの手腕を讃えることでもあり、それがひとつの県の知事としても発揮されるであろうということを聴衆の心にしみ込ませたのだ。

勝谷氏は、TVの討論番組ではかなり荒っぽい議論をする人のような印象を受ける。
しかし、書いたものを読むと、繊細な精神の持ち主であることが分かる。
今度の選挙に彼を駆り立てたのもそういう精神によるのだろう。
⇒2007年9月 2日 (日):偽装国家

窪島誠一郎氏は、上田市の戦没画学生のための美術館・無言館の館主である。
⇒2007年12月 8日 (土):血脈…②水上勉-窪島誠一郎
⇒2009年8月15日 (土):無条件降伏か、有条件降伏か?
結果は、大政党に敵うべくもなかったが、松本氏のような人が首長になる土壌は少しずつできているのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 8日 (日)

人生の転機?

今日は私の誕生日である。
百歳を超える長寿者ならば安否はしっかりと把握しろというところだろうが、中途半端な高齢者なので、誕生日といっても昨日や明日と特段変わるものではない。
しかし、私にとっては、いささか感慨深いものがある。
去年までは全く想像しなかった重度身体障害者の境遇で迎える誕生日である。
あと、何回誕生日があるだろう、と考えてみたりする。

今年の年明けは、救急病院で迎えた。
脳梗塞の発症後1週間で、まだ安静が必要な状態だった。
入院患者の中にも、外泊を許可されて、つかの間の家族との団欒を楽しむことのできる人がいた。
しかし、それを羨ましいと思うゆとりもなかったのだ。
まだ、発症という現実が受け入れられず、しても仕方のない後悔を繰り返した。

5月末まで、病院で過ごすことになった。
生まれて初めての入院が、かくも長期にわたるとは、発症前にはまったく夢想だにしなかったことである。

だから、こうして自宅で誕生日を迎えられるのを、可とすべきだろう。
紙一重の違いで、致命的な事態になったり、一生ベッドの上で暮らさなければならなかったかも知れないのだ。
後遺症も、薄皮を剥ぐように改善されてきている(と思う)。
目にはさやかに見えねども……、という感じである。

本人は、じれったいと思う。
しかし、しばらく会っていない人は、「ずいぶん良くなりましたね。顔つきも前と変わらないようで……」などと言ってくれる。
確かに、病人の顔つきだったと思う。
現在、日常生活に、さほど支障があるわけではない。
ネクタイは結べないが、幸いにしてその必要もない。
友人にホテルのコース料理をご馳走になったが、パンをちぎってもらったほかは、箸のみで対応できた。
ナイフとフォークは使えないけど、洋食でも左手の箸で十分味わえる。

左手に箸を持った最初の頃は、食べること自体に集中せざるを得ないので、何を食べたか記憶に残らなかった。
記憶回路が壊れたかと思ったが、最近は多少の余裕を持てるようになった。
食事は、栄養価(カロリー)だけで評価するものではない。
アルコール類は慎んでいる。
もう二度と飲まないとは断じて思わないが、ノンアルコール飲料で今のところ十分である。
アル中ではないことが立証されたと思っている。
記憶力の低下自体は、加齢もあって、ある程度やむを得ないだろう。
周りの人たちも、結構、説明なしに、「アレが……」などと言っている。

しかし、やはり動かさないと症状は悪くなる。
たとえば、口である。
リハビリの診療点数の関係で、ST(Speech Therapy)の治療は断念せざるを得ない。
喋る機会が少なくなると、構音障害が目立ってくる。
もともと能弁ではないので、他人は余り気にしないかも知れない。
しかし、口が動きにくくなっているのが、はっきりと自覚できるのだ。

後遺症といえども、おそらくは手や足も、積極的な回復努力を継続しないと、症状が進行するだろう。
日常生活を過ごすうちに、次第に良くなっていく、というのは幻想でしかない。
だから、回復期リハ病棟を退院したら、今度は介護保険で、という今の制度設計には疑問を抱かざるを得ない。
リハビリは治療だ。医療なのである。
リハビリを打ち切ることにより、より充実した人生を送る機会が失われている。
医療保険の期限の制約を撤廃すべきである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年8月 7日 (土)

知的生産者たち/梅棹忠夫さんを悼む(18)

日経新聞100730夕の「追想録」欄に、梅棹忠夫さんがとりあげられている。
中沢義則編集委員の署名記事である。
記事は、石毛直道さんから贈られた梅ジャムの話題から始まっている。
石毛さんは、梅棹さんが、人文科学研究所の助教授時代にはじめて採用した助手である。

石毛さんは、『梅棹忠夫著作集』の編集委員長のほか、民族学博物館の館長を務め、文字通り梅棹さんの直系の人である。
梅棹忠夫に挑む』中央公論新社(0812)を、小山修三さんと一緒に編集している。
同書は、梅棹さんの米寿を記念するシンポジウムの記録であり、シンポジウムでは、石毛さんがイントロダクションを担当したとある。石毛さんは梅棹さんの生涯を、次のように振り返っている。

山を愛し、未踏の地に挑む探検家だった。学問の世界でも人が踏み分けていない領域を切り開く。知の探検家であリ続けた

梅棹忠夫さんの数多い著作の中でも、『知的生産の技術』岩波新書(6907)ほど、世の中全般に幅広い影響を与えたものはないであろう。
「NPO法人知的生産の技術研究会」のHPに次のように書かれている。

1969年に発刊された梅棹忠夫先生の名著『知的生産の技術』(岩波新書)の影響を受け、1970年に八木哲郎前理事長は「知的生産の技術」研究会を結成しました。

八木哲郎さんが、「梅棹忠夫著作集 月報15」(9202)に、「私の運命を変えた一冊」という文章を書いている。
八木さんは、1968年に大宅壮一氏の主宰していた大宅マスコミ塾に入塾した。
漠然と、マスコミの大家たちの物書き術の勉強法を教える学校のようなものをやりたいと考えていた考えていた八木さんは、『知的生産の技術』を読んで、直ちに反応した。
そして、書名を無断借用して、「知的生産の技術」研究会をスタートした。

梅棹さんが、岩波書店の『図書』の「続・知的生産の技術」で同会のことに触れていることを知り、八木さんは京都に駆けつけ、無断借用を詫びた。
梅棹さんの反応は、「べつに商標登録しているわけではないからそんなことは構いませんよ。大いにおやりになったらよろしい」。

同じ「月報」に、山根一眞さんも「怖いフレーズ」という文章を寄せている。
山根さんは、「山根式袋ファイル」などのユニークな情報整理法で知られる。
山根式袋ファイルは、京大型カードに挫折した山根さんが編みだしたもので、いわゆる角2の封筒を利用した情報整理の方法で、私も参考にさせていただいている。

山根さんが梅棹さんと面談した際、京大型カードに挫折した経緯を白状した。
梅棹さんは、「そうや、それでええのや」と答え、「それにより、各人が自分なりに情報整理とはどういうものかを学ぶことに意味がある」と話したという。
山根さんは、梅棹さんの懐の深さに感じ入っている。

NPO法人知的生産の技術研究会の現在の理事長は、久恒啓一多摩大学教授である。
久恒さんは、図解の技法の開発と普及に精力的に取り組んでいる。
多摩大学では、学長室長として、寺島実郎学長の補佐役である。
多摩大学のHPは、久恒さんの主導で(おそらく)、図解型にリニューアルされている。
久恒さん自身のHP(http://www.hisatune.net/)は、図解満載で、アクセス数も多い。

日経新聞の『追想録」では、石毛さんと並んで久恒さんへの次の言葉が紹介されている。

梅棹先生は学者の専売特許だった知の世界、学者の秘技とされていた知的生産を一般に解放した革命家だった

秘書の目を通して、京大人文科学研究所時代の梅棹研究室の様子を記録しているのが、藤本ますみ『知的生産者たちの現場』講談社(8402)である。
この本の「あとがき」に、出版社の編集者から聞いた面白いエピソードが書かれている。

執筆者が東大系の先生方の場合は、編集者の仕事は、わりに簡単だというのです。つまり、どなたか大先生おひとりにおねがいして、親分の“おゆるし”をいただきますと、あとはお弟子さんのひとりひとりをたずねてまわらなくても、執筆をひきうけてもらえるのだそうです。
ところが、京都ではそうはいきません。教授の先生がおひきうけになっても、それはその先生ひとりがOKしたということで、若い先生がたにも、執筆者ひとりひとりの承諾がなくてはかいてもらえないというのです。京都は、いわゆる親分・子分的な人間関係でうごいている社会ではないからでしょう。

私が知る限り、必ずしも全部が全部そうとは言えないようであるが、少なくとも人文研の雰囲気の一部を伝えているのだろう。
知的生産の技術』の刊行当時と最も変化したのは、文書を書くツールではないか。
同書では、「ひらがなタイプライター」に力点が置かれている。
そして、せめてカタカナが欲しいと書いている。
いまのかな漢字変換のワープロソフトのありさまからすれば、想像しにくいが、半世紀近くの間の目覚しい技術革新である。
乾電池で駆動する「ポメラ」は、インターネット(クラウド)環境が利用できないときも、知的生産を可能にする「いつでも、どこでも」を実現した文書作成ツールである。
⇒2010年8月 5日 (木):障害者に優しいツール:ポメラ/中間報告(10)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 6日 (金)

京大探検部/梅棹忠夫さんを悼む(17)

京都大学の異称として、“探検大学”という呼び方がある。
AACK(京都大学学士山岳会)などを中心とする登山と海外遠征が、他大学に比べ際立った実績を残したからである。
AACKのHPより、その歴史をみてみよう。

1931年、今西錦司をはじめとする京都旅行部の現役、OBは、 それまでの国内山行にあき たらず、海外遠征を計画していた。
そして目標をカブルー(7338m)におき、1932年の実現にむけて、準備を開始した。
そのとき遠征隊の母体組織が必要になり、創設されたのが、AACK(Academic Alpine Club kyoto)である。
  (京大学士山岳会の名称は戦後つけられた ものである。)
当時は会員数も二十数人であった。その創設のいきさつからも分かるように、
AACKはヒマラヤ初登頂を前提として作られた。
当時から会員も京大出身に限定せず、 志を同じくする者の会であった。
戦争のためにカブルー計画は実現しなかったが、会の結成は遠征登山のきっかけを作った。
……

軍部のしめつけの中、ヒマラヤを常に視野にいれて、 海外へその活動を広げた動きは、自由を求めた精神の具体化であり、これがすべて 戦後のAACKの学術登山活動につながっている。
戦後の混乱期を経て、'51年西堀はネパールに入り、マナスルの許可をとるが、 このときまだAACKは再建されて いない。
再建されたのは'52年春である。マナスルは日本山岳会に移譲されたが、53年にはAACK初のヒマラヤ遠征隊(今西寿雄隊長)をアンナプルナ2峰に送った。

私は、小学生の頃に、京大が派遣した学術探検隊の記録映画を見た記憶がある。
農村の小学校だったが、年に数回、教育上有用と判断される映画を上映することがあった。
その1つとして、同映画が上映されたのである。

昭和三十年五月、京都大学の木原均博士を隊長とする学術探検隊一行十二名の、イーストマン・カラー色彩による記録映画作品、全九巻。五月十五日、パキスタンのカラチに到着した一行は、木原博士を隊長とするヒンズークシ隊(隊員七名)と、今西博士が指揮をとるカラコルム隊(隊員五名)に分れ、植物・地質・人類の三つの立場から各種の調査を行うべく夫々の目的地に向った。

映画の内容はあらかた忘れてしまったが、ヒマラヤの空の青さが印象的であったのを覚えている。
子供心に漠然と、海外への憧れのような気持ちを抱いた。
この探検隊は、第二次大戦後初めての海外学術調査であった。
費用は、文部省、朝日新聞社、募金がそれぞれ3分の1である。
のちの文部省海外学術調査助成金の道を開いたと評価される(京大探検者の会編『京大探検部「1956‐2006」―部創設50周年記念出版』新樹社(0603))。

梅棹忠夫さんはこの探検隊の一員として、パキスタンおよびアフガニスタンに行き、西ヒンズークシの山中に住むモゴール族の調査研究をおこなった。
その記録が、『モゴール族探検記』岩波新書(5609)である。
梅棹さんの一般向けのはじめての著書である。
出発の前に、岩波書店との間で、旅行記を書く約束をしていたのである。

今では、学生の活動組織として、探検部がある大学は多い。
しかし、最も早く創設されたのは、京大探検部である。
梅棹さんの『行為と妄想 わたしの履歴書 』中公文庫(0204)から、創立前後の事情をみてみよう。

(AACKの)なかにも多少ことなる傾向の二派が見られたのである。ひとつは、ひたすらに高峰をめざす純粋登山派である。もうひとつは水平思考もふくんで、未知を探究する探検派である。これはしばしば南北朝の対立にたとえられた。登山団体としての純粋性からいうと、登高派が本流であろう。これは南朝で、その代表は四手井綱彦教授である。かれは後醍醐天皇と称せられ、鈴木信が忠臣楠木正成であった。それに対し探検派は北朝で、その代表が今西錦司氏である。かれは足利尊氏と称せられた。もちろんわたくし自身もその一派と見られていたであろう。
京大山岳部は戦後にできたものであるが、それは南朝の正統をひくものである。ところが、学生のなかにも北朝派がいて、それが山岳部から独立して探検部をつくった。一九五六年のことである。その前年のカラコラム・ヒンズークシ学術探検隊がおおきな刺激になったのであろう。
……
探検部創立の立役者は本多勝一や高谷好一らであった。本多はのちに朝日新聞社に入社して、ルポルタージュ記者として大活躍する。高谷は京大教授になる。今西さんをはじめ、吉良竜夫、藤田和夫、川喜田二郎、そしてわたしやそのほかの数名が探検部の顧問ということになった。
……
一九九六年五月、京大探検部は創立四○周年記念の集会をもよおした。部員たちはそれぞれ社会的にも名をなしている。大学教授や研究所員が目だつが、ジャーナリストになったものもおおい。商社に就職したのもいるが、かれらもその経験を生かして海外で活躍している。

梅棹さんは、京大探検部の象徴的存在である。
前掲の、京大探検者の会編『京大探検部「1956‐2006」』新樹社(0603)は、部創設50周年記念出版と銘打たれているが、冒頭に、「<梅棹忠夫インタビュー>探検部創設のころ」が置かれている。
未知を探究する探検精神は、梅棹さんの膨大な仕事の原動力であろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 5日 (木)

障害者に優しいツール:ポメラ/闘病記・中間報告(12)

多田富雄さんの文章の一節に、次のようにある。

リハビリを続けたお陰で、何とか左手だけでパソコンを打ち、人間らしい文筆生活を送っている。

私の場合、文筆生活などといえるレベルではないが、このブログも、左手だけのPC操作で書いている。
発症前は、ブラインドタッチとは言えないまでも、両手でキーボードから入力していた。
今は、キーボードはおろか、マウスの操作にも右手は使えない。
結果的に、文章作成速度は、10分の1くらいである。

そんな状態だから、長めの文章を投稿した時など、疲れるのではないかと心配してくれる人がいる。
しかし、ブログの更新自体をリハビリの一環として位置づけているので、ある程度の負担は織り込んでいる。
それにテキストデータのメモ作成用に、有難いツールが誕生した。
キングジム社から発売されている「ポメラ」という商品である。
ポメラというのは、ケット・モ・イターの略である。
メーカーは、事務用品で馴染み深いキングジム社。

別にキングジムの宣伝に強力するつもりはないが、入院する前から気になる商品であった。
回復期リハビリ病棟に入院している時、病室にインターネット環境がないのをみた友人が、「それではポメラをプレゼントしよう」と言ってくれたので、喜んでいただくことにした。

商品概要は、当該サイト(https://www.kingjim.co.jp/pomera/)を参照してもらう方が早いが、次の絵が特徴を表現している。
Ws0000012

要は、メモ書きに特化したモバイルギヤだということである。
ネットにつながるわけでも、画像を扱えるわけでもない。
ある意味で、徹底的に機能を絞り込んだのが特徴だといえる。

私にとって、具体的にどういうメリットがあるか?
先ず第一に、左手だけで、すべての操作ができる。
特にマウスがないのが、ありがたい。
カーソルの位置の移動は、上下左右向きのキーで行う。

次に、乾電池で駆動するというのが、斬新である。
モバイルとしてのPCの弱点は、バッテリーにあると思う。
随分と省電化されてきてはいるが、電池のモチには未だ不満がある。
携帯電話ですら、頻繁に充電しなければならない。
ポメラは、単4の乾電池2本で駆動する。
1週間程度は十分にもつが、乾電池は汎用品なので、どこでもスペアが入手しやすいし、単4ならばペンケースにも入る。

起動も速いので、「いつでも、どこでも」メモを作成することができる。
キーボードは折りたたみ式で、十分なピッチ幅を有する。
打鍵感も満足できるものである。
メモ書きに特化した、文房具メーカーならではのコンセプトが成功したといえよう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年8月 4日 (水)

迫力欠く菅首相の国会論戦

菅首相にとって、就任後はじめての国会論戦をTV中継で視聴した。
衆院予算委員会での一問一答式の論議である。
参院選の敗北の影響もあるだろうが、切れ味に欠ける印象を否めなかった。
国難に対して、先頭に立って立ち向かおうという迫力が感じられなかった。

参院選で示された民意について、自民党谷垣総裁が問うと、「消費税の提起が唐突感をもって受け止められた。前のめりに発言をしたことを反省している」と答弁した。
しかし、税制改革を含む財政再建の道筋については、党を超えて議論したいとするに留めた。
私見では、消費税問題は、民主党の敗因の本質ではない。
⇒2010年7月13日 (火):タレント候補擁立に象徴される民主党の民意の読み違い
⇒2010年8月 1日 (日):民主党におけるマネジメントの不在

Photo_3確かに、菅首相は、唐突に消費税改革を打ち上げ、なおかつその後の発言はブレ続けた、といわざるを得ないだろう。
日経新聞100803が、首相の消費税増税をめぐる発言の経緯を整理している。
今もって10%という根拠は説明されていず、低所得者への負担軽減策も説明不足である。
国民が納得しなかったのは、増税そのことというよりも、増税の論理であろう。
言い換えれば、大多数の国民は、合理性のある税負担をNOと言ったわけではないと思う。
それにしても、菅首相は、本当に消費税改正の提起が敗因の第一と考えているのだろうか。
あるいは、鳩山前首相や小沢前幹事長に対する遠慮が、このような発言になるのだろうか。
「政治とカネ」の問題について、一定の政治的なケジメはついた、との認識で押し通すつもりのようであるが、十分であると思っている国民はほとんどいない、というのが世論調査の結果である。
荒井聡国家戦略相の事務所費問題を含め、積極的に究明していこうという姿勢は見られなかった。
また、石破政調会長の普天間問題についての質問についても、受け身で曖昧な議論に終始した。
この問題は、事実上、11月の沖縄知事選後に先送りしようということらしいが、それによって得られるメリットは何もないだろう。
鳩山前首相が、先送りした結果、事態をさらに紛糾させることになった経緯から学ぶことが必要ではないか。
日米合意の期日はどう考えているのか。
国家戦略室の位置づけについても、納得的な答弁がなかったとせざるを得ない。
「格下げ」という報道の仕方を非難する一方で、予算編成には財務省の大部隊が必要で、そこまで官邸でやるつもりはないとした。
どうも、民主党政権は、できない約束を軽々にするのではないか、という疑念を抱かせるものである。
現下の困難な状況におけるリーダーとして適性とは思えない。
かつて、厚労相としての菅さんは、もっとリーダーシップを発揮していたのではないだろうか。
総じて言えば、「骨太の方針」が感じられないということになろうか。
あるいは、国家像に対するゆるぎないビジョンというべきか。
それとも、衆参のねじれ現象という現実に、ひたすら低姿勢で臨もうということか。
市民運動家としての出自を考えれば、「失うものは何もない」はずである。
9月の民主党代表選のことも気になるところであろうが、王道を進むしかない。
乾坤一擲の気迫を持って政局を乗り越えて欲しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 3日 (火)

太陽光発電の問題点/理念と現実の乖離(2)

低炭素社会実現の切り札として、太陽光発電に大きな期待が寄せられている。
地球が果たして温暖化しているのかどうか、温暖化しているにしてもCO2の影響はどの程度なのか、さまざまな論議がある。
しかし、石油などの炭素資源は有限であり、低炭素化を実現していくこと自体は重要な課題であろう。

低炭素社会を実現する上で大きな期待が寄せられているのが、太陽光発電であろう。
太陽光発電システムの効果のイメージおよび資源の可採年数を次図に示す(Newtonムック「太陽光発電のすべて」ニュートン・プレス(1001)。
Img2
政府は温室効果ガスを2020年までに90年比で25%削減させる目標を掲げている。
このため、環境省案では太陽光発電システムを20年までに1千万世帯に普及させる考えだ。
太陽光発電の導入促進をはかるべく、さまざまな補助金が用意されている。

国内太陽電池市場は、環境配慮への意識の高まりや、昨年再開された国の補助金制度などが後押しし、住宅用が全体の市場を牽引している。
民間調査会社の富士経済によると、2020年の国内太陽電池市場は09年比約3.5倍の4871億円に膨らむ。
現在主流の「結晶型」が98%(09年)を占めるが、原材料のシリコンの使用量が結晶型の100分の1程度で済む「薄膜型」やシリコンを使わない「化合物型」など新しいタイプがそれぞれ5~16%を占める見通しだ。
http://www.sankeibiz.jp/business/news/100803/bsc1008030504016-n1.htm

順調に市場の拡大が進むかのようであるが、太陽光発電装置は、意外に故障率が高いことが分かった。
NPO法人太陽光発電所ネットワークがとりまとめたところによると、現状の太陽光発電装置には以下のような問題がある。
http://www.asahi.com/national/update/0723/TKY201007230729.html

会員が、平成5~15年にかけて設置した太陽光発電装置483台について調べた。
2調査結果によると、483台にうちに149台(31%)が、太陽光発電パネルかパワーコンディショナー(電力変換器)のいずれかが、交換か修理が必要になっていた。
詳しく調べた32台については、部品の劣化などにより発電量が低下していた。
実際の発電量が、設置住宅用の太陽光発電装置の約3割が設置後12年以内に故障しているという調査結果が発表された。
また、10年以内で約4割下がった事例もあった。

同ネットワークの都筑建事務局長は、「10~20年故障しないと言って販売されるケースが多いが、実際は注意が必要だ」と呼びかけている。
そして、「販売業者の説明が不十分で、経年劣化などに気づかない消費者が多い。大量普及させるなら、業者の説明義務を徹底させたり、メーカーの製造技術を向上させたりすることが必要だ」としている。
低炭素社会実現の切り札にもまだまだ問題は多いようである。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2010年8月 2日 (月)

理想と現実との乖離(2)/社民党の場合

社民党の辻元清美氏が、7月27日離党届を提出した。
今後については「まったく白紙」だという。
離党の契機は、社民党が5月に連立から離脱したことだった。

政党には、それぞれ活動のバックボーンに、理念がある。
特に、社民党は、「私たちには理念があります」とオフィシャルサイトで広言するくらい、理念を大事にしてきた(はずである)。
それは、ひと言でいえば「社会民主主義」である。
そこから、次のような政策の基本が生まれる。
http://www5.sdp.or.jp/policy/policy.htm

“改革”と称して格差・貧困・不平等を拡大させ、“自己責任”と称して支援を打ち切り、人々に未来への不安を与えてきた自公政権による新自由主義。こうした流れに対し、社民党は社会民主主義の理念で、まずは“壊れた”日本社会のセーフティネットを構築し、すべての「人」が、「人」として生き、安心して暮らしていける社会を作っていきます。

連立離脱に関しては、党として、次のような声明を発表している。
http://www5.sdp.or.jp/comment/2010/dannwa100530.htm

1.福島党首の閣僚罷免は社民党の意思の否定であるとともに、沖縄県民の声を踏みにじるものである。鳩山内閣がそれを強行したことは連立政権を自ら壊すものであり、政権を共有できないことは自明の理である。したがって、政権離脱を確認する。
2.
10項目の政権政策合意等の実現は、向こう4年かけた3党の国民への公約である。これについて政府ならびに与党にその意思を確認する必要がある。その結果によって古い政治に戻したくないとの多数の国民の意思を踏まえつつ、選挙協力の是非も検討する。

福島氏が閣僚を罷免されたのは、日米合意書へ閣僚として署名できない、としたため。
これについて、「社民党の『1丁目1番地』の平和と基地の問題に関し、(沖縄県名護市の)辺野古の海に基地をつくる政治に加担することはできない」とし、「筋を通してよかったとみんなから言われた。新しい政治を切り開きたい。これからは『与党』というわけにはいかない」と記者会見で語っている。
いわば、理念に殉じて与党の椅子を捨てたわけである。

一方、辻元氏は、離党の経緯について、自身のブログで次のように説明している。
http://www.kiyomi.gr.jp/blog/2010/07/27-2007.html

この間、連立政権への参加、普天間問題をめぐる政権離脱、そして参議院選挙という一連の出来事がありました。振り返って社民党の政権離脱は基本方針に照らしてやむをえなかったことでありました。私は、政治の場で筋を通す意義を大切に思います。市民の運動と連携していく重要性も十分認識し、共に行動してきました。一方で小さな政党にとって政権の外に出たら、あらゆる政策の実現が遠のいていくことも心配でした。何がこの先、社民党の正しい方向なのか最後まで悩みました。
……
私は国土交通副大臣を経験させていただきました。それは現実の矛盾の塊への挑戦であり、利害調整の最前線でした。
……
そんな中で、私は、現実との格闘から逃げずに国民のための仕事を一つずつ進めていきたいという思いが強くなりました。

結局、理念をとるか、現実をとるか、が社民党と辻元氏の岐路だったといえる。
連立離脱の際にも言われたが、苦渋の選択だったはずだ。
社民党が連立離脱をして「筋を通してよかったとみんなから言われた。」というのも政治のあり方の1つだろうし、福島氏が「現実との格闘から逃げずに……」というのも、別の形での政治のあり方だろう。

私は、現実的な有効性を第一に考えたい。
理念は重要だが、常に現実により検証されなければならない。
理念の維持が目的化すると、教条主義に陥るだろう。
特に政権与党の場合は、柔軟に対処すべきだろう。

とはいえ、最近の民主党の動きには疑問に感じるところが少なくない。
余りに原則に欠けるのではなかろうか。
国家戦略室の位置づけもそうである。
確固としたビジョンがあってこそ、柔軟性が意味を持つ。
いたずらに状況に振り回されて、その都度弁解やら言い訳を繰り返すのは見苦しいというべきだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 1日 (日)

民主党におけるマネジメントの不在

企業という組織の運営管理において、マネジメント・サイクルの考え方は、いまや基本のキ、当たり前のコンコンチキの常識といっていい。
たとえば、次のように説明されている。
http://gms.globis.co.jp/dic/00225.php

企業が目的を達成するために、多元的な計画を策定し、計画通りに実行できたのかを評価し、次期への行動計画へと結びつける一連の管理システム。
そもそもは約100年前の、アメリカの鉄道建設に起源があるといわれている。当時は、過酷な労働環境のため鉄道建設従事者にストライキが多く、思うように建設が進まなかった。
その解決策として、作業目標を事前に定め、目標を達成できた者には、賃金が割り増しで支払われる能力給の制度が採用され、目標との間に差異が生じた場合には必要な修正が施された。
これにより、鉄道建設の生産性が向上したことから、次第に企業経営にも取り入れられるようになり、広く普及した。

ところが、政党という組織においては、このような当たり前のことが行われないらしい。
民主党の議員総会における参院選の総括の報道に接しそう思った。
総会で、執行部は、ひたすら平身低頭で陳謝を繰り返したという。
しかし、問題はその中味である。

民主党執行部は、参院選の結果について、次のような文書を用意した。

菅政権誕生で「V字回復」したが、消費税問題の提起が唐突感と疑心を持って受けとめられ、首相発言への信頼性、全体構想の生煮え感などを惹起させた。支持率の低落と「みんなの党」が無党派層を引きつけたことなどで議席を逸した。

確かに敗因の一面ではあるだろう。
消費税問題の提起の仕方は、戦術的にきわめて拙劣だったともいえる。
しかし、敗因の本質をこのように総括するのは、「分かっていない」と言わざるを得ないのではないか。
むしろ、財政再建は喫緊の課題であり、多くの国民は迅速に対処すべきだし、その中で消費税問題も避けて通ることができないと思っているだろう。

私は、民主党の敗因は、鳩山政権を含め、政権奪取後本当に真摯に国民の声に耳を傾けてこなかったことに尽きると思う。
個別の問題は多々ある。
口蹄疫への対処、高速道路の料金問題、子供手当て問題等々いろいろあるが、何と言っても「普天間基地問題」と「政治とカネ」の問題である。

社民党の連立離脱を招いた「普天間基地問題」は、菅政権になっても解決の道筋が見えてこない。
アメリカと沖縄の要求を両立させる解があり得るだろうか?
私には思いつかないが、菅首相は鳩山前首相の路線を継承しているようである。
最近の報道(産経新聞100731)によれば、自公政権下の現行案を下記のA、B2案の修正案に絞り込み、年内に最終案を政治決着させるという。
2
しかし、このシナリオ通りに行くのかどうか。

また、「政治とカネ」の問題については、首相と幹事長を辞職したことでケジメをつけたことになっているらしい。
まったく主体的な説明がないままに、である。
ケジメがついたと思っている国民は、圧倒的な少数に過ぎないだろう。

党勢の再構築は、マネジメントの原点に戻り、Planと現実とのギャップを的確に認識することから始めるべきだろう。
Planとは、昨年の衆院選のマニフェストであり、参院選における議席獲得目標である。
ギャップは何によってもたらされたのか?
真剣に問い直さないと、再び支持率が向上することはないのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »