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2010年7月27日 (火)

シンクタンク/梅棹忠夫さんを悼む(15)

日本のシンクタンクの元締め的存在に、総合研究開発機構(NIRA:National Institute for Research Advancement)がある。
ちなみに、シンクタンクとは、以下のような性格の組織である。

シンクタンク (Think tank) は、諸分野に関する政策立案・政策提言を主たる業務とする研究機関。19世紀後半に「社会改良運動」を目指して英国で創設されたフェビアン協会、20世紀初期に「米国型リベラル思想」に基づいて創設されたブルッキングス研究所などが、シンクタンクの始まりと言われている。現在も、欧米においては、そのほとんどが非営利団体という形態を取り、政策研究を展開し続けている。
直訳[think-tank]すると、頭脳集団。 よって、頭脳集団という意味での民間企業も多くある。
Wikipedia:100718最終更新

そのNIRAの設立当初の研究員として活動した大内浩芝浦工業大学教授が、「梅棹忠夫著作集 月報21」(9304)に、「NIRAの研究と梅棹先生」と題する一文を寄せている。
大内氏によれば、NIRAは、財界の支援と田中内閣のきもいりで創設された半官半民のシンクタンクで、初代の理事長に向坂正男氏が、非常勤の理事に梅棹忠夫さんと岸田純之助さん(当時朝日新聞論説委員)が就任した。
創立間もないNIRAは、21世紀のヴィジョンを描くプロジェクトを実施した。
プロジェクトリーダーは岸田氏で、大内氏はコ-ディネート役だった。
成果は、『事典・日本の課題』という成書として学陽書房から刊行された。
「文化立国」や「環太平洋」などのキーワードは、後に大平正芳総理大臣の政策に取り入れられることになった。

1970年代後半に、全国の自治体に「文化行政」という言葉が広まった。
大内氏によれば、その仕掛人が梅棹さんで、調査隊が京都のシンクタンクCDI、応援団がNIRAであった。
CDI(株式会社シィー・ディー・アイ (Communication Design Institute)) は、1970年に設立された文化に関わるテーマを専門領域とするシンクタンクで、大阪万博のブレーンとなった京都・東京の学識経験者を中心として京都で産声をあげた。
その設立のいきさつは、以下のようである。
http://www.cdij.org/wiki/?history

1970年4月、業界最年少(42歳)で京都信用金庫の理事長に就任するに際して、榊田喜四夫氏は、長年いだいてきた「コミュニティ・バンク」の理想を実現するために、それまでの信用金庫が一般的にもっていた泥臭いイメージを一新して、ロゴ・マーク、通帳、制服、店舗などあらゆるデザインを、スマートで清新溌剌としたものにしたい、優秀で洗練され国際的な人材を金庫職員として育てたい、自分の理想をバックアップしてくれる学者・文化人ブレーンを持ちたい、という希望をもっていた。どうしたらいいか、その相談を以前から親交のあった加藤秀俊にもちかけた。
その二人のどちらからシンクタンクを作ろうという話が出たのか聞いていない。ちょうど日本ではシンクタンクの設立が相次ぎ、第1次シンクタンクブームとよばれる時期でもある。どちらからその話が出ても不思議はない。そして加藤秀俊はシンクタンクの設立の相談を、日本万国博覧会や、未来学会などで、つきあいの深い梅棹忠夫(当時京大教授)、小松左京(作家)、川添登にもちかけた。
川添登はその当時44歳であったが、早稲田大学卒業後、今和次郎の助手をつとめたあと、『新建築』の編集長をへて、日本で初めて建築評論家として身をたて、インダストリアルデザイナーの栄久庵憲司、グラフィックデザイナーの粟津潔、建築家の大高正人、菊竹清訓、黒川紀章、槙文彦らとともに、「メタボリズム」というデザイン運動を1960年に起こしていた。メタボリズムというのは生物の新陳代謝ということであるが、都市や建築を生物のアナロジーで考え、環境の変化に応じて主体的に新陳代謝をしていけるようにデザインしておくべきだというアイデアである。こうしたデザイン活動とは別に、日本文化に関する評論・著作も活発に行っていたが、それが京大の人文科学研究所のリーダーである桑原武夫先生に評価され、加藤秀俊に引き合わされた。その親交が日本万国博覧会のテーマ委員会や、未来学研究会(林雄二郎、梅棹忠夫、小松左京、加藤秀俊、川添登)、国立民族学博物館の設立構想など、さまざまの共同作業につながり、そしてCDIの設立にもつながっていった。
すなわちCDIは、京都信用金庫の理事長榊田喜四夫氏の肝煎りで、加藤秀俊とその友人である学者グループと、川添登とその友人である建築家・デザイナーグループによって株主が構成され、1970年10月に発足したのであった。CDI(コミュニケーションデザイン研究所)という命名も、中心になった榊田喜四夫・加藤秀俊・川添登の3人の相談で決められたようである。加藤秀俊はコミュニケーション論、川添登はデザイン論で名を成していたが、単にふたりの専門を併記したのではなく、これからやろうとすることはすべて「より良いコミュニケーションをデザインする」という言葉で包括できると考えたからである。

上記のように、梅棹さんはCDIの設立にも深くかかわっているが、その当時、国立民族学博物館(民博)の創設に忙殺されていた。
民博は学術研究機関であり、NIRAは政策提言機関であって、その性格が異なる。
外部の知恵を政策にどう反映させるか。
難しい問題である。官僚組織そのものがシンクタンクの要素を持っていると共に、重要な情報も官僚組織に握られているからである。
政治主導を標榜し、脱官僚を宣言した民主党も、実態は官僚主導のようである。
いまこそ、力のある優れたシンクタンクが求められているのではないだろうか。
そのためには、梅棹さんのような、組織力と先見性のある研究指導者が必要である。

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