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2010年7月 3日 (土)

「恐竜の脳」の話(6)山椒魚(3)

「山椒魚」といえば、日本人にはチャペックの『山椒魚戦争』よりも、井伏鱒二の短編小説『山椒魚』の方が馴染み深い。
作品は、「山椒魚は悲しんだ。」という簡明にして印象的なフレーズで始まる。
棲家にしていた岩屋から、頭がつかえて外に出られなくなってしまったのである。
2年間に彼の体が発達したからであるが、そのことは山椒魚を狼狽させかつ悲しませた。
予期せぬ事態に直面し、どうしようもないことを知ると、人間だって同じである。
脳梗塞により後遺症が避けられないと理解したとき、私もまた相当うろたえていたはずである。

山椒魚は、目を閉じ、目蓋を開こうとしなかった。
彼に残された自由はそれ位しかなかったのだ。
そして、目を閉じることが、彼を暗闇の世界に閉じ込め、悲嘆にくれさせた。
そのことが、かれの性質をよくないものにした。
そして、岩屋に迷い込んできた蛙にいじわるをし、言い争いになる。

この作品は、短編であるがゆえに、多様な読み方が可能である。
中学校の国語の教科書にも取りあげられたから、読者の裾野も広い。
井伏鱒二の代表作の1つとも目される。
1929年に、「文芸都市」に発表されたのが初出である。

井伏鱒二は、推敲(加筆修正)を重ねることで有名な作家であった。 
この『山椒魚』も、1985年(初出から56年後)に、『井伏鱒二自選全集』(新潮社)に収録するに際して、大胆な推敲(改変)を行い、末尾の部分をすべて削除してしまった。
末尾は一般に読後感に最も影響を与える部分であるが、その箇所の、全体の約1割相当の分量をカットしてしまったのである。
このことを巡っては、当然さまざまな論議が交わされた。
果たして、妥協を許さない作家精神として称揚すべきことなのか?
それとも、既に中学校の教科書にまで採用されている作品を、作者だからといって、読後感が変わってしまうほど改変することが許されるのか?
それは、権利の濫用ともいうべき暴挙ではないのか?

おそらく、改編前の作品と改変後の作品とでは、読者の解釈は異なってるであろう。
筑摩書房版現代日本文学大系65の『井伏鱒二・上林暁集』(7008)の解説で、武田泰淳も、後に削除された部分のさらに最終部の、空腹で動けない蛙と山椒魚の会話の様子を取り上げている。

「それでは、もう駄目なようか?」
相手は答えた。
「もう駄目なようだ」
よほど暫くしてから山椒魚はたずねた。
「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」
相手は極めて遠慮がちにに答えた。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」

この三つの「よう」について、武田泰淳は、「性急な表面的断言を嫌って、底にこもった苦悩をひかえ目ににじみ出させる、触媒の作用を持たされている」と解説する。
つまり、山椒魚や蛙にいかにも相応しい「スラスラした雄弁には無い、音響ならびに光線の屈折の含有」を読む。
この会話は、いわば『山椒魚』という作品のキモであると位置づけている。

また、この部分から、山椒魚と蛙の和解が暗示されている、と解釈した読者がいたとする。
読書感想文には、その類が多かったのではないかというのは、あながち的外れな推測とは言えないと思われる。
しかし、それは作者の意図するところではなかったのかも知れない。
作者の真意が誤解されて解釈されていたとすれば、誤読を招かないように推敲するというのは理解できる。
それで、末尾の部分をカットした。
しかし、そこは作品の最も重要な箇所であった。

一般論として、作品の意図を守るのが作家の権利だ、というのは正しいであろう。
しかし、作者の意に反して、「誤読する」こともまた読者の権利なのではなかろうか?

いずれにせよ、私たちは現在、改稿前と後の2つの作品を読むことができる。
文庫版など、現在市場に出ているのは改稿後のものであろうが、図書館等には改稿前の版が収蔵されているはずである。
私は余りムキにならないで、どちらの方が自分の好みにフィットするかという楽しみが増えたと考えればいいのではないかと思うが、如何だろうか。

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