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2010年7月21日 (水)

「もの」と「こころ」と「情報」/梅棹忠夫さんを悼む(9)

梅棹忠夫さんは、湯川秀樹さんとの対話において、この碩学の内奥から示唆に富んだ言葉を引き出す。
対談の名手と評される所以である。
人間の持つ最も不思議な「こころ」という現象の、情報との関係について、次のように会話は進展する。

湯川 昔から「もの」と「こころ」というふうに対立するものとして分けていたけれども、しかしそうすると「もの」と「こころ」はどこで結びついているか、物心二元論ではややこしいことになる。しかしそうではなしに、「もの」と「こころ」との中間に情報というものを置いてみる。それで見通した方がわかりやすくなりそうだ。
梅棹 いままでの考え方ですと、情報というものを、たとえば感覚とか思考というような心的過程から切り離すことが大変むつかしかった。ところが今日では、そういう心的過程から切り離された情報概念が次第に確立されつつある。これは大変重要なことだと思うのです。物質化されたという表現はよくないと思いますけれども、「こころ」の話ではない、「もの」と密着した情報概念がだんだん確立しつつある。いや、実はそれが先にあって、それからもう一度ふり返って、「こころ」とは何かということが逆に問われるべき段階にきていると思うんです。「こころ」がなぜ、どんなプロセスを経て出てくるのかということですよ。
たとえばさっきの話で、電気に乗って情報伝達ができるということ。電気に乗ってきた情報が「こころ」に何か意味を持つということは、大変大事なことなんですね。「こころ」というものは、そういうものに乗って出てくるんです。最初に「こころ」があって、それから情報が生まれるのと違うんです。情報的に世界が構成され、つくられてきた結果として、電気という媒体がその「こころ」の発生という段階までくっついて出てくる。そのことを、私はおもしろいと思うのです。
湯川 「こころ」というふうにぱっとつかもうとすると、また逃げてしまうけれども、たとえば言葉を使って考える人間の思考作用の場合、言葉というものは、もうすでに非常にはっきりしたシンボルであり、またそれが情報になっている。これをもう一つ進めて、言葉とは何か、意味とは何かという問題になると、またむつかしいけれども、それを後まわしにして、まずできるだけ情報というような概念の拡張として取り入れられるものを取り入れると、それは何に乗っているかということで、物質につなげることができる。そのつなぎ方は、たとえばデカルトの物心並行論みたいにややこしいものじゃない。自然科学的な方法で分析し、確立できるはずのものなんです。そのへんをもっと追及しなければならないでしょうね。
梅棹 いまの科学にとっての分子生物学の意義は、そのへんのところで非常に高く評価されると思うのです。分子生物学は、生命現象を物質的現象の一種として理解する道をひらいてきたものには違いないけれども、同時に、初めに期待していたのと少し違う意味を持ってきた。やはり、分子生物学の発達によって、いまの情報という概念がだんだんはっきりしつつある。われわれが情報という言葉で表していることの内容がはっきりしてきた。学問の体系ができてゆく過程の中で、対象が逆に限定されてくるという作用がいま進行している最中です。そこのところで、われわれ自身もだんだんはっきり納得がゆくようになりつつある。いま先生がおっしゃいましたシンボルという概念も、このプロセスの中で内容をだんだん限定され、はっきりしてくると思うのです。それと、もう一つ「もの」の形の意味ですね。たとえば分子生物学に出てくる酵素反応の話で、酵素と基質が合鍵をはめるような格好で、すっぽりとはまるというのがありますが、なぜ酵素はそんな形をしているのか、その形の持っている意味というものが、次第にはっきりしてくると思うのです。
湯川 そうですね。情報といっても、いろいろある。一九五○年代に進んできたのは数学的な情報理論です。工学的な応用もあるけれども、それは本来、数学のものを借りただけです。数学的情報理論はどんなものかというと、一次元の線の上に情報を並べてゆく。それを時間的な順序にしたがって伝えてゆくことができる。あるいは二次元、三次元に並べ変えるという操作もやれるけれども、数学的情報理論でもとになるのは、本来、一次元ですね。時間の順序にしたがって一個ずつ整然と情報が出てくるという理論です。電子計算機などもそうだ。紙テープの上に穴があいとって、それを順々に読み取るという形式です。本質的にこれは一次元のものです。
しかし、われわれは頭の中でいろいろなことをしている。絶えず頭の中で何かを砕いたり集めたりしている。それも情報ではないのか。たとえば、なにか図形があれば、それを見て、そこから何かを思いつくというようなことがある。それができるのは、人間の思考作用の中には意識的、無意識的にかかわらず、もうすでに図形化されたものを、まとめて使うということがあるからではなかろうか。形を形としてそのまま受け取るという働き、それが人間の思考に非常に大きな役割を果たしている。知らぬ間に、それが思考の単位みたいな役割を果たすようになっている。そういう側面はわりあい閑却されてきたと思うのです。

人間と他の動物が決定的に異なるのは、「こころ」の持つ比重の大きさである。
「こころ」は、今では脳のはたらきであることが理解さえている。
しかし、物質としての脳が、いかにして「こころ」を宿すようになるのか。
もちろん、未だ脳科学が今日のように隆盛ではなかった時代の限界はあるが、脳のはたらきに関して、きわめて重要だと思われることが語られている。
生物の進化史における大きな画期としての「こころ」の発生を、情報あるいは言葉との関連で捉えようという思考である。

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