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2010年7月14日 (水)

『行為と妄想』と「飲酒と安息」/梅棹忠夫さんを悼む(4)

梅棹忠夫さんは、かなりの酒飲みだったらしい。
梅棹さんが酒飲みになったいきさつについて、梅原猛さんが面白いエピソードを書いている。
日本経済新聞100707『独創の知、颯爽たる行動』

いつだったか町でばったり出会って、いきなり「梅原君、君は酒をべらぼうに飲むそうだね。くだらんからやめなさい」と言われた。私は梅棹さんの言葉に従わず、60歳になってからやめた。梅棹さんは45歳くらいから飲み始め、一時はウィスキーを一ビン空けるほどになったという。私は「酒なんかやめなさいよ」と言ってやろうかと思ったけど、言えなかった。
梅棹さんが酒飲みになったいきさつについて、ある話が伝わっている。アフリカのキリマンジャロに登ることになり、尊敬する豪傑の今西錦司さんから、「酒もやらないようじゃ、山登りはできんぞ」と言われたからだというのだ。もっとも、桑原武夫さんの話だから、できすぎている気がするが。

人文科学研究所を中心とする「京都学派」の碩学たちの、密度の濃い交友を感じさせるエピソードである。
その京都学派の人たちも多くの人が既に鬼籍に入られているが、その頃の人文科学研究所は、さながら知の梁山泊といった趣きである。
『産経抄』100709に、「梅棹の家はみんな大酒のみ」という、梅棹さんの証言が紹介されている。

昼食はレストランでビール1本、夕食にも晩酌2合を楽しみ、深夜目覚めて、ウィスキーの水割りを飲みながら、妄想にふけるのが、「至福のひとときである」と自伝を結ぶ。

自伝が『行為と妄想』というちょっと変わったタイトルであるのも、行動の人である梅棹さんが、「妄想にふけるのが至福のとき」であれば、納得的である。
同書に次のような文章がある。

しかし、タートすなわち行為には、かならず夢想が先行する。むしる妄想というべきかもしれない。行為と妄想とは、あいともなっているのである。青年時代に愛読したドイツの山岳文学にオスカー・エーリッヒ・マイヤーという人の『でいうタート・ウント・トラウム』という本があった。文字通り訳すれば、『行為と夢想』である。ここでいう「行為と妄想」もおなじである。行為のまえには、かならず情熱的な夢が先行しているのである。その種のイマジネーションにもとづく情熱がなければ、ことははじまらない。

行為に先行する情熱的な夢。
颯爽たる行動の人は、夢想家でもあるのだ。
しかし、行動家にとって、失明が致命的なダメージになることは容易に想像されよう。
だが、梅棹さんは、失明して以後も驚異的な質と量の知的生産活動を続け、第三者にダメージを感じさせない。
梅棹さんが失明したのは、65歳の時である。
私も65歳にして脳梗塞を発症し、右半身不随となった。
不便この上ないが、失明に比べればダメージは軽い。
酒を飲んで至福のひとときを味わうのはしばらく控えざるを得ないが、梅棹さんの生きる姿勢には学ぶことが多い。

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