科学技術思想家/梅棹忠夫さんを悼む(16)
「梅棹忠夫著作集 月報21」(9304)には、大内浩さんの他に、岸田純之助さんが「三つの回想」、柴谷篤弘さんが「六○年の交友」と題する文章を寄稿している。
私が無知なだけかも知れないが、岸田さんも柴谷さんもその著書を読んだことがあるにもかかわらず、梅棹さんの旧い友達であることを知らなかった。
岸田さんは、朝日新聞の花形科学技術ジャーナリストとして、柴谷さんは、生物学をベースにした科学論の急先鋒として、社会人になって化学技術者としての自分の職業の社会的意義に疑問を感じ始めていた頃、著書を手にした記憶がある。
しかし、40年以上昔のことであり、その内容はすっかり忘却してしまっている。
岸田純之助さんの略歴は次の通りである。
http://kotobank.jp/word/%E5%B2%B8%E7%94%B0%E7%B4%94%E4%B9%8B%E5%8A%A9
1920-昭和後期-平成時代の科学ジャーナリスト。
大正9年3月22日生まれ。海軍で航空機設計に従事,昭和21年朝日新聞社にはいる。「科学朝日」編集部員,論説委員をへて,52年論説主幹となる。60年日本総合研究所会長。平成6年日本科学技術ジャーナリスト会議会長。鳥取県出身。東京帝大卒。著作に「技術文明論」など。
私も、30年近い昔、企業の将来像を探求する研究プロジェクトで謦咳に接したことがある。
「三つの回想」によれば、岸田さんと梅棹さんの出会いは、京都の旧制第三高等学校(三高)である。
三高は、旧制高校のいわゆるナンバースクールの1つであるが、三高生は現在の京都大学の学生よりもはるかにエリートとしての位置づけをもっていた。
一高(東大の前身の一部)が「自治」を標榜していたのに対し、「自由」を標榜した校風だった。
岸田さんは、「楽しく、実り多い、刺激に満ちた三年だった」と回想している。
三高の逍遥歌(寮歌)「紅萌ゆる」や三高ボート部の「琵琶湖周航の歌」などは、廃校後も長く多くの人に愛唱され続けた。
私が高校生の頃は、これらの旧制高校の寮歌の類を憧れを持って高唱する風潮が残っていたが、今ではおそらく歌われる機会もないだろう。
岸田さんと梅棹さんは、三高理科甲類で同級生だった。ちなみに、甲類は焼酎の区分ではなく、第一外国語が英語のクラスである。
他に、川喜田二郎(東京工業大学教授などを歴任。KJ法の創始者として知られる)、吉良竜夫(大阪市立大学教授などを歴任した生態学者)さんが一緒だった。
梅棹、川喜田、吉良の3人は、共に山岳部に所属し、学業には余り熱心ではなかった。
岸田さんによれば、「梅棹は、私が三高に在学した三年間、ずっと二年生だった」。
梅棹さんが旧制高校の頃から優れた文筆家だったことは、岸田さんが引用しているクラス雑誌の一文からも理解できる。
東大を経て、朝日新聞社に就職した岸田さんは、『科学朝日』の記者として、科学界の取材・調査を行ってきた。
岸田さんと梅棹さんは、NIRAで再び机を並べることになる。
私は、梅棹とともに、初代の非常勤理事になった(常勤理事の三名は、自治省、通産省のOB,興業銀行からの出向)。経済企画庁OBの初代理事長向坂正男氏が、非常勤理事は、関西と、ジャーナリストから、といった理由をつけて、私たちを選んだのである。
……
最初のころ、こうした政策志向型のシンクタンクの持つべき性格、また、そこにいる研究者の具えるべき能力について話したことがある。まず、一六九六年はじめ、ランドコーポレーションを訪れた際に貰った資料をもとに、「政策志向、独立性、学際性、視野の広さ、未来志向」の六つが不可欠だと述べた。つづいて、私が一九六五年から七○年まで、朝日新聞安全保障問題調査会で作業をした時の感想をもとに、取材能力、報告書の構想力と文章力の重要性についても指摘した。
話しながら、私は、これらのすべての能力を合せ備えている梅棹のような研究者こそが、シンクタンクに最も必要とされる指導者なのだ、とつけ加えたいような気になった。
柴谷さんの略歴は以下の通りである。
Wikipedia:100207最終更新
柴谷 篤弘(しばたに あつひろ、1920年8月1日 - )は日本の生物学者、評論家。専門は分子生物学。理学博士・医学博士。
大阪府生まれ。1946年、京都帝国大学理学部動物学科卒業。ミノファーゲン製薬研究部、大阪大学を経て、山口県立医科大学教授、広島大学原爆放射能医学研究所教授、オーストラリア連邦科学産業研究機構上級主任研究員、関西医科大学教授、ベルリン高等学術研究所客員研究員、京都精華大学教授、同学長などを歴任。京都精華大学名誉教授。
当初はオーソドックスな研究者であったが、オーストラリアでの研究生活を経た後、「反科学論」、「生態学」、「構造主義生物学」(池田清彦と共に)、「差別論」、「旧ソ連沿海州における植民地主義批判」など、多彩な分野での著作・評論活動を行う。
「六○年の交友」には、「専門がちがうので、梅棹と柴谷の交友のことを、知らぬ人が多いらしいが、……」とある。
柴谷さんは、雑誌『生物科学』の発刊(1949)年に関わっていたが、その創刊号に、「オタマジャクシの社会的干渉の理論と実験」に関する梅棹論文を掲載した。
梅棹さんの学位論文になる研究である。
柴谷さんは、日本において、分子生物学・生物物理学という新しい学問分野を振興する役割を担っていた。
1966年にオーストラリアに移住した柴谷さんは、1968・69年に世界を席巻した大学闘争に学んで自己改造を図り、『反科学論』を執筆する。
雑誌『みすず』に連載した『反科学論』は、1973年に単行本として刊行され反響を呼んだ。
「六○年の交友」の執筆時、柴谷さんは、京都精華大学の学長職にあったが、民族学博物館の館長として、際立った実績を残した梅棹さんと対比しつつ、管理職(研究のマネジメント)と自身の研究活動のあり方という永遠の課題に思いを巡らしている。
類は友を呼ぶ、ということだろうか、梅棹、岸田、柴谷の3人に共通するのは、優れた文章家である点である。
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