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2010年7月10日 (土)

日本語のコミュニケーション/梅棹忠夫さんを悼む(3)

梅棹さんは、略年譜に記したように、1986年に、突然視力を失う。
原因は良く分かっていないようであるが、モンゴル滞在時に特殊な菌に侵されたらしい。
梅棹さんは、有力な日本語のローマ字論者(ローマ字化推進論者)で、社団法人日本ローマ字会会長でもある(WIKIPEDIA100706最終更新)。
ローマ字表記を推進しようとした理由は、はじめは、漢字混じりの日本語を、タイプライターで書くのが難しいことからであった。

PCのワープロ機能で、ローマ字変換が確立し、ローマ字入力が一般化した現在では、かつて日本語タイピストという職業があったことすら想像し難い。
しかし、私が30台の頃までは、重要な提案書や報告書などの清書は、タイピストに外注していたのである。
本人の手で機械入力できれば……。
文書作成という最も重要な知的生産行為に携わる人間には、梅棹さんと同様の願望があったはずである。
しかし、梅棹さんのように、徹底してこだわった人は珍しい。

ローマ字表記は、後に失明したことにより、日本語のより本質的な問題に繋がる。
自伝である『行為と妄想 わたしの履歴書 』中公文庫(2204)に、次のような文章がある。

もちろん、「漢字かなまじり」の現代日本語の文章を、いきなり表音文字のローマ字で書きあらわすには、さまざまな困難がある。たとえば、おびただしい同音異義語をどう処理するのか。とても不可能におもえてくる。しかし、わたしは青年時代にローマ字書き日本語を実践した経験をもっている。手紙も日記もすべてローマ字で書いた。すこしくふうすれば、それはじゅうぶんに可能なのである。とにかく、いちど日本語をローマ字で書くことをおおこのひとにすしめたいとおもっている。実践してみれば、どこにどういう問題点があるかもわかってくる。
……
幸か不幸か失明したことによって、わたしはすべての日本語を音だけで理解しなければならなくなった。字をみて意味を判断することができなくなったのである。世のなかには、耳で聞いただけでは意味のわからない言葉が氾濫している。耳で聞いて意味のわかる日本語であれば、ローマ字で書いても、完全に意味がわかるはずである。そういう言語に日本語がそだってほしいのである。この老人のねがいと努力をあたたかく見まもっていただけるであろうか。

言語は、民族のアイデンティティを担保するものである。
その意味で、私も美しい日本語の伝統を守りたいと思う。
しかし、次のような問題もある。

EPA(経済連携協定)に基づきインドネシアとフィリピンから来日した外国人看護師・介護福祉士候補者の中途帰国が相次ぎ、受け入れが始まった2008年以降、計33人(今年7月1日現在)に上っていることがわかった。
日本の国家試験突破の難しさなどから、将来の展望が見いだせずに就労をあきらめた人が少なくないと見られる。
候補者は、これまで998人が来日。国内の施設で働きながら勉強し、3~4年の在留期間に国家試験に合格すれば本格的に日本で就労でき、そうでなければ帰国するのが条件だ。しかし、漢字や難解な専門用語が試験突破の壁になり、合格者は昨年がゼロで、今年は看護師3人のみ。
……
また、政府は6月に閣議決定した「新成長戦略」で、2011年度中に実施すべき事項として「看護師・介護福祉士試験の在り方の見直し(コミュニケーション能力、母国語・英語での試験実施等の検討を含む)」と明記、外国語による国家試験実施の可能性に言及している。
読売新聞100709
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100709-OYT1T00108.htm

看護師や介護福祉士は、日本人だけでは充足されず、外国人に頼らざるを得ない、という現状がある。
外国人とはいえ、とりわけこれらの職業では、コミュニケーションが重要である。
そこで、「日本語の壁」にぶつかる。
確かに、「褥瘡(じょくそう)」などの言葉は、日本人だって難しい。
耳で聞いて分かるどころか、漢字を見ても分からない。
「褥瘡」は、たとえば「床ずれ」などと言い換えてもいいだろう。
しかし、言葉には、多くの場合、必然性がある。
その言葉が必要だから、その言葉が生まれたという、誕生の理由を持っている。

言葉の伝統を守ろうとすれば、閉鎖的になりがちである。
極論すれば、江戸時代のように、鎖国した方がいい、ということになりかねない。
しかし、一方で、グローバリゼーションも必然の流れである。
クローズとオープンの折り合いをどうつけるか。
何事も、程合いの問題であるが、それが結局は難しい。
個人の自由は保証しつつ、ルール・制度は最大公約数で、ということであろうか。

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コメント

外国人看護師 日本語を非関税障壁にするな
厚生労働省は26日、経済連携協定(EPA)のもとでインドネシアとフィリピンから受け入れた外国人看護師のうち3人が、日本の看護士国家試験に合格したと発表した。
合格したのはインドネシア人2人とフィリピン人1人で、受け入れ事業が始まってから初の合格者となった。しかし残りの251人は不合格となった。全員が母国ですでに看護師の資格を持っているので、日本語が壁になったとみられる。同じ試験を受けた日本人受験者の合格率は約90%だった。

我々日本人は、英語を通して世界中の人々に理解されている。
かな・漢字を通して理解を得ているわけではない。
我が国の開国は、英語を通して日本人が世界の人々から理解してもらえるかの努力に他ならない。
我が国民のメンタリティを変えることなく、ただ、法律だけを変えて交流したのでは、実質的な開国の効果は得られない。
この基本方針を無視すると、我が国の開国も国際交流もはかばかしくは進展しない。
この基本方針に関して、我々には耐えがたきを耐え忍びがたきを忍ぶ必要がある。

英米人は、「我々は、どこから来たか」「我々は、何者であるか」「我々は、どこに行くか」といった考え方をする。
我々日本人にしてみれば、奇妙な考え方であるが、彼らにしてみれば当然の考え方になる。
それは、英語には時制というものがあって、構文は、過去時制、現在時制、未来時制に分かれているからである。
3時制の構文は考えの枠組みのようなものとなっていて、その内容は白紙の状態にある。
その穴埋め作業に相当するものが、思索の過程である。

ところが、日本語には時制というものがない。
時制のない脳裏には、刹那は永遠のように見えている。
だから、構文の内容は、「今、ここ」オンリーになる。新天地に移住する意思はない。
思索の過程がなく能天気であるので、未来には筋道がなく不安ばかりが存在する。
TPPの内容に、行き着く先の理想と希望がないので改革の力が出せない。

必要なものは自分で手に入れるのが大人の態度である。
だのに日本人には意思がない。それで、意思決定はできない。無為無策でいる。
常に他力本願・神頼みとなる。
意思がなければ、意思疎通もはかどらない。それで、察しを遣う。
だから、日本人の独りよがりは避けられない。

http://e-jan.kakegawa-net.jp/modules/d/diary_view.phtml?id=288248&y=2009&m=11&o=&l=30

投稿: noga | 2011年2月12日 (土) 17時34分

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