「情報産業論」の時代/梅棹忠夫さんを悼む(6)
梅棹忠夫さんが「情報産業論」を発表したのは、1963(昭和38)年のことであった。
その年、私は高校を卒業し、大学に入学した。
つまり、「情報産業論」を、ほぼ同時代的に体験してきたといってよいであろう。
私は、大学では、工学部の工業化学系の学科に入学した。
今年は、「60年安保」から50年という節目の年である。
安保改定反対運動が空前の盛り上がりを見せた1959年から1960年は、中学から高校への進学期にあたる。
田舎の中学生にとって、新聞記事で見る安保闘争は、ほとんどリアリティのない世界だった。
東大の樺美智子さんが亡くなった「6・15」は、高校に入った直後のことだった。
衝撃はあったが、私の高校で政治的な活動をする人は、殆どいなかったように見えた。
安保条約の改定の批准が自然承認され、岸信介首相が退陣すると、改定反対運動は潮が引くように鎮静化していった。
岸に替わって首相に就任した池田勇人は、所得倍増計画を打ち出し経済成長路線を邁進した。
政治の季節から、経済の季節に時代の相が変わったのだった。
高度成長を牽引するのは技術革新であり、銀色のパイプとタンクの石油コンビナートの景観はその象徴であった。
大学に入学した1963年には、反安保の高揚はすでに鎮まっていた。
学生運動は混乱と低迷の時期を迎えていた。
大学に入ったらデモに行くものだと思っていたが、初めて参加した集会で、日本共産党系の活動家と反日共系の活動家が激しく主導権争いをするのを目にし、その後のデモ行進では機動隊に追い散らされた。
大学のクラスメイトも、殆どデモや集会に参加しなくなっていった。
それにしても、その後の激しい敵対関係を考えると、日共系と反日共系が同じ集会に参加していたこと自体が信じ難い気がする。
修士課程を終えて社会人になったのが1969年。
その前(前)年から、学生運動は再び高揚していた。
低迷を打ち破ったのは、またしても「学生の死」の衝撃だった。
1967年10月の、佐藤訪ベト阻止羽田闘争において、京大生・山崎博昭君が亡くなった。
1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するため中核派、社学同、解放派からなる三派全学連を中心とする部隊は羽田周辺に集結した。
はじめてヘルメットと角材で武装した。
社学同、解放派部隊900人は鈴ケ森ランプから高速道路上を進撃。ゲバ棒を振るい、60年安保闘争以来はじめて機動隊の阻止線を撃破し実力で突破した。さらに空港に通じる穴守橋上を固める機動隊と激しく衝突し、橋をふさぐようにおかれた7台の警備車に放火するなど現場は大混乱となった。
また、1000人の中核派部隊は弁天橋に進撃。迎え撃った機動隊を撃破し、激しい放水の中、弁天橋上で警備車を奪うなど激しい乱闘を繰り返した。
この闘いで中核派の京大生山崎博昭が殺され、重軽傷者600人あまり、逮捕者58人が出た。街頭での反体制運動で死者がでたのは、60年安保闘争時の樺美智子以来のことで、社会に多大の衝撃を与え、同時に警察力に押え込まれ沈滞していた学生運動が再び高揚する契機となった。
この闘い以後、いわゆる三派全学連は勇名を馳せヘルメットとゲバ棒で武装した新左翼のデモ隊と機動隊との激しいゲバルトが一般化した。
http://zenkyoto68.tripod.com/haneda01.htm
日本大学における不正経理問題、東京大学医学部における学生の処分問題等をめぐって、運動は大衆的な広がりを見せる。
いわゆる「70年安保」と、学内のアンフェアな執行体制に対する不満がリンクした。
1969年1月の東大安田講堂の封鎖解除をめぐる攻防戦は、この時期のシンボルとして位置づけられる。
テレビで全国に実況放送されたが、高い視聴率が国民的関心事だったことを示している。
私の大学生活の最後期である69年1~3月は、学内が混乱と高揚とで、一種の無秩序状態に陥っていた。
授業は殆ど行われず、教官と学生・院生が徹夜で議論することも珍しくなかった。
記憶に残っているのは、雪の降りしきる夜のキャンパスにおける、投擲された火炎瓶の軌跡である。
非現実的な夢のような景色だったが、多くの学生が負傷した。
結局、修士論文発表会も、自主開催ということになって、怠け者にとっては有り難かったが、達成感に乏しい学生生活となった。
大勢のままに、化学系の製造業に就職した。
就職担当の教授に、候補先として、当時独立企業として発足したばかりの野村総合研究所の名を挙げると、「工学部の卒業生は、実業の世界に進むべきだ」と言われ、それに従った。
いま、就職氷河期などと言われるが、未だ高度成長期で、企業の方が学生の囲い込みに必死だった。
新兵の補充の意味で使われていたリクルートという言葉が、企業戦士に援用された。
企業説明会に出席すると、鰻の弁当が振舞われた。
貧乏学生にとっては滅多にありつけないご馳走で、鰻の弁当目的で説明会に参加したこともある。
就職した年に、梅棹さんの『知的生産の技術』が岩波新書で刊行された。
技術者にとっても創造性開発は重要なテーマで、同書も発刊後間を置かず購入して読了した。
話題の京大型カードも購入してみたが、ご多分に漏れず長続きしなかった。
4年半ほど製造業に在籍し、コンサル系のシンクタンクに転職したが、その直後に第一次オイルショックが起きた。
時代は、物質とエネルギーを中心とする中胚葉産業の時代から、脳と神経系を中心とする外胚葉産業の時代に転換しようとしていた。
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