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2010年7月

2010年7月31日 (土)

リハビリテーションの期限制限について/闘病記・中間報告(11)

シンプルに考えてみよう。
医療保険によるリハビリテーションの標準的算定日数には、180日という期限がある。
これ以後は、月に13単位、すなわち260分までは算定できる。
もしくは、二者択一的に、介護保険のリハビリサービスを受けることになる。
ただし、医者が認める場合には、180日を超えて医療保険の診療報酬として算定できる。

180日というのは、どういう日数か?
まあ、リハビリの効果は180日ぐらいで頭打ちだろう、ということである。
専門職の人数などを基準として、2000年に「回復期リハビリ病棟」という概念が導入された。
2010年5月 9日 (日):中間報告(5)回復期リハビリについて

回復期リハビリ病棟に入院できる日数は、脳卒中なら一般に150日、大腿骨などの骨折や、手術後などの筋力低下による身体の衰え(廃用症候群)は90日、股関節や膝関節あどの神経や靱帯損傷は60日と、病気の種類ごとに決まっている。
急性期における入院日数を勘案すれば、回復期リハビリ病棟を退院する頃には、ほぼ医療保険の標準的算定日数を使い尽くしていることになる。
私の場合は、急性期が3週間程度、回復期リハ病棟が約4ヵ月半であった。

後遺症の現状と見通しはどうか?
患者の側の主観的判断にならざるを得ないが、最低限の日常生活を送ることができる程度には回復した。
しかし、右半身のマヒは継続している。
特に、上肢は、依然として全廃状態である。
回復期リハビリとしては、それで十分であり、それ以上の医療サービスは不要ということだろうか?

リハビリの効果は、遅々としてではあるが良くなっている。
療法士も、いくらかは患者のモチベーション向上のための意識もあるだろうが、「随分良くなった」と評価している。
家族も、1ヶ月前に比べれば、歩き方がはるかに良くなった、と喜んでいる。
友人たちも、ビックリするくらいである。
「リハビリの速度」ということを考えてみよう。
身体機能の状態を、時間で微分するのである。
それは、微小な数値ではあるが、けっして0ではない。プラスの値である。

日々の改善効果は実感できなくても、1ヶ月単位で見れば明らかに違いを認識できる。
患者本人が、である。
つまり、患者は医療サービスとしてのリハビリを望んでいる。
療法士も、患者の状態が良くなることは喜びだろう。
しかし、医療としてのリハビリはこの程度でいいだろう、というのが現状の制度である。
日常生活を超えた生活の質(QOL:Quality Of Life)を望んではいけない、ということである。
もちろん、制度上の趣旨としては、厚生労働省の職員が親切に説明してくれたように、さらなるサービスを受けることは可能である。
しかし、医療の現場では、それは望むべくもないのである。

リハビリの日数の制限は、いわゆる「小泉・竹中」改革の一環として行われたものである。
その後、政権交代があって、このような人道に反する「改革」は元に戻ったか?
現状はそうではない。
長妻大臣に是非お願いをしたい。
医療リハビリを、現実的に打ち切らざるを得ないような現在の仕組みは変えるべきだ。
日本共産党は、前向きに取り組んでいるようである。
次のような記事があった。

2010年6月9日(水)「しんぶん赤旗」
リハビリ 日数制限なくして
患者らが国会内集会

「リハビリを受けて一歩でも多く歩きたい。この気持ちを踏みにじらないで」―。医療保険のリハビリ日数制限撤廃を求めて8日、国会内で集会が開かれ約80人が参加しました。患者、医療関係者、研究者でつくる「リハビリテーション診療報酬改定を考える会」の主催。

患者会の代表が実態を報告しました。

脳卒中患者は、「床から立ち上がれない重い状態の人が、病院から退院させられ地域に戻り亡くなる人も多い」と深刻な実態を告発。事故や病気で脳が傷つくことによって起こる高次脳機能障害の患者は、「患者によって障害は多様なのに総合的リハビリが受けられない。また数年にわたるリハビリが必要なのに180日で介護保険のリハビリに移され専門的措置が受けられない」と訴えました。

「考える会」の道免和久氏が、「民主党政権になっても日数制限は撤廃されない。菅新政権に迫っていこう」と述べました。

日本共産党の小池晃参院議員、高橋ちづ子衆院議員が参加。小池氏は、「リハビリは医療行為というのが大原則。その内容も期間も保険医の判断によってなされるべきだ。日数による機械的打ち切りは撤廃しなくてはいけない」とあいさつしました。

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2010年7月30日 (金)

多田富雄さんのリハビリテーション期限撤廃運動/闘病記・中間報告(10)

多田富雄さんという著名な免疫学者がいた。
今年の4月21日に、癌性胸膜炎により亡くなった。享年76歳だった。
免疫の意味論』青土社(9304)で広く脚光を浴び、大佛次郎賞を受賞した。

2001年、滞在していた金沢で脳梗塞を発症。
右半身不随となった。
しかし、その後も旺盛な執筆活動を続け、日本エッセイスト・クラブ賞、小林秀雄賞などを受賞した。
知的活動を志す脳梗塞患者にとって、希望の星のような存在だった。

多田さんは、2006年の厚生労働省による「リハビリ日数期限」制度に、自らの境遇を踏まえて反対運動を展開した。
以下に、朝日新聞に掲載された多田さんの文章を添付する。Asahi_tada_low2 

医療保険のリハビリテーションの期限については、撤廃を求める運動が行われている。
http://www.craseed.net/

その後診療報酬制度は、どう変わったか。
毎年改定が行われ、私のように医事の門外漢には、はなはだ分かり難い。
ここでは以下のコメントを引用するに留め、もう少し学習することにしよう。
http://hoken.tamaliver.jp/e47635.html

2009年02月12日
医療保険でリハビリに関する問題が起きていることをご存知の方はどのくらいいらっしゃるでしょうか?
介護保険制度や後期高齢者医療制度など、医療や社会保険制度にまつわる問題があんまり多いものですから、この医療保険とリハビリに関する本題を取り上げる報道は少なく、ご存じない方ももしかしたらいらっしゃるかもしれません。
2006年4月に線府の進める一連の医療改革の一環として行われた医療制度の改定の中で、診療報酬の改定も行われたのです。その内容は色々あるのですが、大きな問題として浮上したのは医療保険とリハビリの問題なのです。
……
今回問題になっているのは診療報酬の改定によって、医療保険でリハビリ費用を賄えるのには〝有効期限〟が設けられたという事です。
それまでのリハビリ治療と言うのは、〝治るまで〟無制限で治療を受けられ、それが医療保険で賄う事ができましたので、3割の自己負担で、完全にリハビリの必要がなくなるまで、1年でも2年でも永久的にリハビリ治療を受けられました。ところが、診療報酬の改定後は、医療保険でリハビリ治療が出来るのは原因になった病気にも因りますが、最長180日で打ち切りになってしまうのです。
もし医療保険打ち切り後にもリハビリ治療を続けた場合は、それにかかる費用は10割自己負担になってしまうのです。政府はこのリハビリ治療の有効期限が設けられた理由について、医療保険と介護保険の役割を明確にするとか、高齢者の社会復帰を積極的に促すためとか、いかにももっともらしい理由をいくつか述べていますが、もっとも大きな理由で、それが本音なのだろうと思われるのが、〝医療費の抑制〟です。リハビリは身体機能の回復を目的とした治療ですので、介護保険の範疇には入りますが、介護保険の非保険年齢に達しない若者でも交通事故などでリハビリに励んでいる人もいますし、180日あれば大抵のリハビリは終るだろう、と現場をロクに知らない役人たちが適当に考えた問題の多い制度だと言わざるをえません。

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2010年7月29日 (木)

維持期リハビリテーションと医療保険/闘病記・中間報告(9)

5月末に回復期リハビリの専門施設を退院し、在宅で外来という形で通院してリハビリ治療を受けている。
発症後の経緯を一般化すると下図のようになるが、もちろんその経緯は人によってさまざまである。
2010年5月 9日 (日):中間報告(5)回復期リハビリについて

2_2 5月末に退院して自宅へ戻ったということは、左図でいえば、回復期から維持期へ移行した、と一応は考えられる。
つまり、回復期のリハビリを成功裡に終了することができたわけである。
「めでたし、めでたし」と喜んでいいのであろうか?
どうも、そうはいかないようである。

回復期と維持期は、概念的には線引きできるが、現実に回復期はここまでで、これからは維持期だ、というように、明確に区分できるものではない。
しかし、2006年の診療報酬改定により、ある意味でその境界が明確化された。
医療・介護の両保険制度におけるリハビリの役割分担が、原則として医療保険は改善を主体に、介護保険は維持を目的とすることになった。
そして、改善とは、急性期と回復期であるとされ、脳血管疾患の場合、医療保険の標準的算定日数が180日と定められた。

私が発症したのは、昨年の12月23日だから、180日は6月20日になる。
標準的算定日数を超えた患者については、1月に13単位に限りリハビリテーションの所定点数を算定できる、とされている。
1単位というのは、20分のことである。
つまり、維持期とみなされる患者は、1月に20分×13=260分に限り、医療保険の適用を受けることができる。
言い換えれば、それだけしか受けられない、ということである。
13単位が何によって決まったのか、療法士もよく分からないらしい。

要は、標準的算定日数を超えて継続的にリハビリを行う場合は、介護保険によるべし、ということらしい。
しかも、介護保険を利用開始後は、医療保険を利用することはできない、とされている。

もちろん、次のような規定もある。

ただし、特掲診療料の施設別基準等別表第九の八第一号に規定する「その他別表第九の四から別表第九の七までに規定する患者であって、別表九の九に掲げる場合については、標準的算定日数を超えた場合であっても、標準的算定日数の期間と同様に算定できるものである。

そして、次のように補足説明がある。

特掲診療料の施設別基準等別表第九の八第一号に規定する「その他別表第九の四から別表第九の七までに規定する患者であって、リハビリテーションを継続して行うことが医学的に認められる者」とは、別表第九の四から第九の七までに規定する患者であって、リハビリテーションを継続することにより状態の改善が医学的に認められる者をいうものである。

一読しただけでは何のことかと思うようなもってまわった表現であるが、要するに、医者が必要と認めればよろしい、ということである。
しかし、現場では、それは例外中の例外らしい。
実際は、煩雑なリハの計画書が必要で、診療機関では面倒なことはしたくないということらしい。
そして、そうなっているのは、制限を撤廃すると、医療保険制度が破綻するおそれがあるというのだ。
逆に言えば、それだけ多くの患者がより充実したリハビリを望んでいるということだろう。

知り合いの医者に聞いてみると、ほとんどの医者がリハビリの期限や量に対する制限には反対らしい。
しかし、医療保険を維持するために、現行制度のような制限は止むを得ないと考えているとも。
しかし、素朴に考えて、制度は患者の治癒に寄与するように設計すべきものではないだろうか。
制度維持(医療保険の破綻を防ぐ)ために治療に制限を設けるようなことは、まさに本末転倒ではないかと思うが、如何だろうか。

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2010年7月28日 (水)

科学技術思想家/梅棹忠夫さんを悼む(16)

「梅棹忠夫著作集 月報21」(9304)には、大内浩さんの他に、岸田純之助さんが「三つの回想」、柴谷篤弘さんが「六○年の交友」と題する文章を寄稿している。
私が無知なだけかも知れないが、岸田さんも柴谷さんもその著書を読んだことがあるにもかかわらず、梅棹さんの旧い友達であることを知らなかった。
岸田さんは、朝日新聞の花形科学技術ジャーナリストとして、柴谷さんは、生物学をベースにした科学論の急先鋒として、社会人になって化学技術者としての自分の職業の社会的意義に疑問を感じ始めていた頃、著書を手にした記憶がある。
しかし、40年以上昔のことであり、その内容はすっかり忘却してしまっている。

岸田純之助さんの略歴は次の通りである。
http://kotobank.jp/word/%E5%B2%B8%E7%94%B0%E7%B4%94%E4%B9%8B%E5%8A%A9

1920-昭和後期-平成時代科学ジャーナリスト
大正9年3月22日生まれ。海軍航空機設計従事,昭和21年朝日新聞社にはいる。「科学朝日編集部員,論説委員をへて,52年論説主幹となる。60年日本総合研究所会長。平成6年日本科学技術ジャーナリスト会議会長。鳥取県出身。東京帝大卒。著作に「技術文明論」など。

私も、30年近い昔、企業の将来像を探求する研究プロジェクトで謦咳に接したことがある。
「三つの回想」によれば、岸田さんと梅棹さんの出会いは、京都の旧制第三高等学校(三高)である。
三高は、旧制高校のいわゆるナンバースクールの1つであるが、三高生は現在の京都大学の学生よりもはるかにエリートとしての位置づけをもっていた。
一高(東大の前身の一部)が「自治」を標榜していたのに対し、「自由」を標榜した校風だった。
岸田さんは、「楽しく、実り多い、刺激に満ちた三年だった」と回想している。
三高の逍遥歌(寮歌)「紅萌ゆる」や三高ボート部の「琵琶湖周航の歌」などは、廃校後も長く多くの人に愛唱され続けた。
私が高校生の頃は、これらの旧制高校の寮歌の類を憧れを持って高唱する風潮が残っていたが、今ではおそらく歌われる機会もないだろう。

岸田さんと梅棹さんは、三高理科甲類で同級生だった。ちなみに、甲類は焼酎の区分ではなく、第一外国語が英語のクラスである。
他に、川喜田二郎(東京工業大学教授などを歴任。KJ法の創始者として知られる)、吉良竜夫(大阪市立大学教授などを歴任した生態学者)さんが一緒だった。
梅棹、川喜田、吉良の3人は、共に山岳部に所属し、学業には余り熱心ではなかった。
岸田さんによれば、「梅棹は、私が三高に在学した三年間、ずっと二年生だった」。
梅棹さんが旧制高校の頃から優れた文筆家だったことは、岸田さんが引用しているクラス雑誌の一文からも理解できる。

東大を経て、朝日新聞社に就職した岸田さんは、『科学朝日』の記者として、科学界の取材・調査を行ってきた。
岸田さんと梅棹さんは、NIRAで再び机を並べることになる。

私は、梅棹とともに、初代の非常勤理事になった(常勤理事の三名は、自治省、通産省のOB,興業銀行からの出向)。経済企画庁OBの初代理事長向坂正男氏が、非常勤理事は、関西と、ジャーナリストから、といった理由をつけて、私たちを選んだのである。
……
最初のころ、こうした政策志向型のシンクタンクの持つべき性格、また、そこにいる研究者の具えるべき能力について話したことがある。まず、一六九六年はじめ、ランドコーポレーションを訪れた際に貰った資料をもとに、「政策志向、独立性、学際性、視野の広さ、未来志向」の六つが不可欠だと述べた。つづいて、私が一九六五年から七○年まで、朝日新聞安全保障問題調査会で作業をした時の感想をもとに、取材能力、報告書の構想力と文章力の重要性についても指摘した。
話しながら、私は、これらのすべての能力を合せ備えている梅棹のような研究者こそが、シンクタンクに最も必要とされる指導者なのだ、とつけ加えたいような気になった。

柴谷さんの略歴は以下の通りである。
Wikipedia:100207最終更新

柴谷 篤弘(しばたに あつひろ、1920年8月1日 - )は日本生物学者、評論家。専門は分子生物学理学博士医学博士
大阪府生まれ。1946年、京都帝国大学理学部動物学科卒業。ミノファーゲン製薬研究部、大阪大学を経て、山口県立医科大学教授、広島大学原爆放射能医学研究所教授、オーストラリア連邦科学産業研究機構上級主任研究員、関西医科大学教授、ベルリン高等学術研究所客員研究員、京都精華大学教授、同学長などを歴任。京都精華大学名誉教授
当初はオーソドックスな研究者であったが、オーストラリアでの研究生活を経た後、「反科学論」、「
生態学」、「構造主義生物学」(池田清彦と共に)、「差別論」、「旧ソ連沿海州における植民地主義批判」など、多彩な分野での著作・評論活動を行う。

「六○年の交友」には、「専門がちがうので、梅棹と柴谷の交友のことを、知らぬ人が多いらしいが、……」とある。
柴谷さんは、雑誌『生物科学』の発刊(1949)年に関わっていたが、その創刊号に、「オタマジャクシの社会的干渉の理論と実験」に関する梅棹論文を掲載した。
梅棹さんの学位論文になる研究である。
柴谷さんは、日本において、分子生物学・生物物理学という新しい学問分野を振興する役割を担っていた。

1966年にオーストラリアに移住した柴谷さんは、1968・69年に世界を席巻した大学闘争に学んで自己改造を図り、『反科学論』を執筆する。
雑誌『みすず』に連載した『反科学論』は、1973年に単行本として刊行され反響を呼んだ。
「六○年の交友」の執筆時、柴谷さんは、京都精華大学の学長職にあったが、民族学博物館の館長として、際立った実績を残した梅棹さんと対比しつつ、管理職(研究のマネジメント)と自身の研究活動のあり方という永遠の課題に思いを巡らしている。
類は友を呼ぶ、ということだろうか、梅棹、岸田、柴谷の3人に共通するのは、優れた文章家である点である。

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2010年7月27日 (火)

シンクタンク/梅棹忠夫さんを悼む(15)

日本のシンクタンクの元締め的存在に、総合研究開発機構(NIRA:National Institute for Research Advancement)がある。
ちなみに、シンクタンクとは、以下のような性格の組織である。

シンクタンク (Think tank) は、諸分野に関する政策立案・政策提言を主たる業務とする研究機関。19世紀後半に「社会改良運動」を目指して英国で創設されたフェビアン協会、20世紀初期に「米国型リベラル思想」に基づいて創設されたブルッキングス研究所などが、シンクタンクの始まりと言われている。現在も、欧米においては、そのほとんどが非営利団体という形態を取り、政策研究を展開し続けている。
直訳[think-tank]すると、頭脳集団。 よって、頭脳集団という意味での民間企業も多くある。
Wikipedia:100718最終更新

そのNIRAの設立当初の研究員として活動した大内浩芝浦工業大学教授が、「梅棹忠夫著作集 月報21」(9304)に、「NIRAの研究と梅棹先生」と題する一文を寄せている。
大内氏によれば、NIRAは、財界の支援と田中内閣のきもいりで創設された半官半民のシンクタンクで、初代の理事長に向坂正男氏が、非常勤の理事に梅棹忠夫さんと岸田純之助さん(当時朝日新聞論説委員)が就任した。
創立間もないNIRAは、21世紀のヴィジョンを描くプロジェクトを実施した。
プロジェクトリーダーは岸田氏で、大内氏はコ-ディネート役だった。
成果は、『事典・日本の課題』という成書として学陽書房から刊行された。
「文化立国」や「環太平洋」などのキーワードは、後に大平正芳総理大臣の政策に取り入れられることになった。

1970年代後半に、全国の自治体に「文化行政」という言葉が広まった。
大内氏によれば、その仕掛人が梅棹さんで、調査隊が京都のシンクタンクCDI、応援団がNIRAであった。
CDI(株式会社シィー・ディー・アイ (Communication Design Institute)) は、1970年に設立された文化に関わるテーマを専門領域とするシンクタンクで、大阪万博のブレーンとなった京都・東京の学識経験者を中心として京都で産声をあげた。
その設立のいきさつは、以下のようである。
http://www.cdij.org/wiki/?history

1970年4月、業界最年少(42歳)で京都信用金庫の理事長に就任するに際して、榊田喜四夫氏は、長年いだいてきた「コミュニティ・バンク」の理想を実現するために、それまでの信用金庫が一般的にもっていた泥臭いイメージを一新して、ロゴ・マーク、通帳、制服、店舗などあらゆるデザインを、スマートで清新溌剌としたものにしたい、優秀で洗練され国際的な人材を金庫職員として育てたい、自分の理想をバックアップしてくれる学者・文化人ブレーンを持ちたい、という希望をもっていた。どうしたらいいか、その相談を以前から親交のあった加藤秀俊にもちかけた。
その二人のどちらからシンクタンクを作ろうという話が出たのか聞いていない。ちょうど日本ではシンクタンクの設立が相次ぎ、第1次シンクタンクブームとよばれる時期でもある。どちらからその話が出ても不思議はない。そして加藤秀俊はシンクタンクの設立の相談を、日本万国博覧会や、未来学会などで、つきあいの深い梅棹忠夫(当時京大教授)、小松左京(作家)、川添登にもちかけた。
川添登はその当時44歳であったが、早稲田大学卒業後、今和次郎の助手をつとめたあと、『新建築』の編集長をへて、日本で初めて建築評論家として身をたて、インダストリアルデザイナーの栄久庵憲司、グラフィックデザイナーの粟津潔、建築家の大高正人、菊竹清訓、黒川紀章、槙文彦らとともに、「メタボリズム」というデザイン運動を1960年に起こしていた。メタボリズムというのは生物の新陳代謝ということであるが、都市や建築を生物のアナロジーで考え、環境の変化に応じて主体的に新陳代謝をしていけるようにデザインしておくべきだというアイデアである。こうしたデザイン活動とは別に、日本文化に関する評論・著作も活発に行っていたが、それが京大の人文科学研究所のリーダーである桑原武夫先生に評価され、加藤秀俊に引き合わされた。その親交が日本万国博覧会のテーマ委員会や、未来学研究会(林雄二郎、梅棹忠夫、小松左京、加藤秀俊、川添登)、国立民族学博物館の設立構想など、さまざまの共同作業につながり、そしてCDIの設立にもつながっていった。
すなわちCDIは、京都信用金庫の理事長榊田喜四夫氏の肝煎りで、加藤秀俊とその友人である学者グループと、川添登とその友人である建築家・デザイナーグループによって株主が構成され、1970年10月に発足したのであった。CDI(コミュニケーションデザイン研究所)という命名も、中心になった榊田喜四夫・加藤秀俊・川添登の3人の相談で決められたようである。加藤秀俊はコミュニケーション論、川添登はデザイン論で名を成していたが、単にふたりの専門を併記したのではなく、これからやろうとすることはすべて「より良いコミュニケーションをデザインする」という言葉で包括できると考えたからである。

上記のように、梅棹さんはCDIの設立にも深くかかわっているが、その当時、国立民族学博物館(民博)の創設に忙殺されていた。
民博は学術研究機関であり、NIRAは政策提言機関であって、その性格が異なる。
外部の知恵を政策にどう反映させるか。
難しい問題である。官僚組織そのものがシンクタンクの要素を持っていると共に、重要な情報も官僚組織に握られているからである。
政治主導を標榜し、脱官僚を宣言した民主党も、実態は官僚主導のようである。
いまこそ、力のある優れたシンクタンクが求められているのではないだろうか。
そのためには、梅棹さんのような、組織力と先見性のある研究指導者が必要である。

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2010年7月26日 (月)

感覚情報産業について /梅棹忠夫さんを悼む(14)

梅棹忠夫さんは、「農業→工業→情報産業」という産業の発展の法則性を、生物進化の過程とのアナロジーで捉えた。
しかし、「内胚葉産業→中胚葉産業→外肺葉産業」という図式は、生物学の素養が不十分な者にとっては、いささか分かりづらい。
「情報産業論への補論」(『梅棹忠夫著作集 第14巻 情報と文明』中央公論社(9108)所収)を参考に、動物の「発生」について、もう少し詳しく見てみよう。

「発生」は、受精卵が成体なるまでの経過である。
受精卵は、細胞分裂を重ねて、しだいに1つの生物体としての形態を形成していく。
受精卵の細胞分裂は卵割とよばれるが、卵割をくりかえして、やがて表面に小細胞がならんだ中空のボール状になる。
そのうちに、球の一方の側がへこんで陥入する。
そして、陥入した方を内側に、ボールの表面を外側にして、筒状が形成される。
外壁が外胚葉になり、内側が内胚葉になる。
発生がすすむと、外胚葉と内胚葉の間に別の細胞群があらわれ、中胚葉を形成する。

内胚葉からは、消化器官系が形成される。
中胚葉からは、筋肉、骨格、循環器官系、血液などが形成される。
外胚葉からは、脳神経系、皮膚、感覚諸器官が形成される。
この三胚葉の分化と、人類史における産業発展の三段階が対応する、というのが「情報産業論」の趣旨である。

人間の五感にうったえかける情報を感覚情報とするならば、それを産業化したものは、感覚情報産業とよびうる。
たとえば、音楽であり、映像である。
音楽や映像が大きな産業を形成しているのは分かりやすい。
味覚もまた感覚情報の一種である。
食事の問題は、栄養の問題として捉えられやすい。
特に、生活習慣病対策が喧伝される昨今は、運動と栄養が問題にされる。
かくいう私も発症以来カロリー・コントロールを続け、10kg程度の減量を維持している。

しかし、すべての食物が、カロリーだけでなく味をもっている。
外胚葉に由来する味覚器官がその情報を受信する。
肉や魚貝類は、動物性タンパク質というカロリー源であると同時に、感覚情報のメディアである。
新聞や雑誌が紙という物質のうえに情報をのせて伝達するように、味覚情報は食物という物質的媒体にのせて伝達される。

被服も食物と同様である。
消費者は、布地や繊維を買うのではない。
布地のうえにのせられた色彩、模様、デザインなどの感覚情報を買うのである。
ファッションビジネスは、明らかに感覚情報産業である。
しかし、もっとも権威のあるファッションビジネスの業界紙の名前は、「繊研新聞」である。

特定の感覚器官だけでなしに、全身の身体感覚(体験情報)も産業化されている。
自動車の乗り心地などは、このような体験情報といえよう。
そういう意味では、デザインの問題を含め、自動車産業も単なる製造業ではなく、感覚情報産業の要素が大きい。
特に、差別化要素において、感覚情報のウェイトが高いといえよう。

観光産業もまた体験情報産業の一種である。
風光をめで、名所旧跡をたずねることは、体験情報を享受することに他ならない。
スポーツやイベントなども同様である。
あるいは、健康産業もそうであろう。
そういう意味では、現代の多くの消費行動が、感覚情報の享受として支出されている。
しかし、消費支出をこのような観点で集計したデータは未だ存在しないのではなかろうか。

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2010年7月25日 (日)

情報産業における価格決定/梅棹忠夫さんを悼む(13)

情報は、多くの場合、原価が不明である。
その量を測定することも難しいから、需要や供給の量もよく分からない。
情報の価格は、どうして決まるのか?

情報理論では、bitという単位によって情報量を計る。
情報理論では、情報とは、いくつかある可能性の中から、ひとつを指定することであると考える。
競馬の場合を考えてみよう。
何頭か出走する馬の着順には、いくつかの可能性がある。
単勝ならば1頭だけ、複勝ならば複数の勝馬を指定する。
その最小の単位として、二つの可能性のうちの一つとして指定することを考え、それをbitとした。
理論的には、すべての情報を、bitに換算できる。

しかし、「今夜のTVドラマは、何bitであるか」「このTVニュースは、何bitであるか」という問いは、ナンセンスであろう。
商品の価値は、bit数では計れないのである。
商品として流通している情報は、価値が不確定なまま取引されていることになる。
商品としての情報は、モノではない。
買い手が欲しいのは、その内容である。

情報産業においては、内容を教えてしまえばそれまでであって、先にお金を払うのが原則である。
情報産業の買い手は、その内容を知りもしないで、先にお金を出して買うのである。
情報産業においては、そもそも「商品」という考えがなじまない。
商品という観念は工業社会のものであって、情報産業社会では別のカテゴリーを考えることが必要なのである。

梅棹忠夫さんは、「情報産業論」において、情報の価格決定の論理として、有名な「お布施の原理」を提唱した。
情報の価格決定のヒントとして、「お布施」を考えた。
「お布施」は、お経の長さによって決まるのでもなく、木魚をたたく回数によって決まるのでもない。
しかし、「お布施」には「お布施」の、ある限定された額があり、各家はそれを包んでわたす。
それでは、「お布施」の額は、何によって決まるのであろうか。

「お布施」の額を決定する要因は二つ考えられる
一つは坊さんの格であって、偉い坊さんに対しては、たくさん出すのが普通である。
もう一つは、檀家の格である。
格式の高い家は、相応の「お布施」を出さなければ格好がつかない。
「お布施」の額は、坊さんが提供する情報や労働には関係なく、坊さんと檀家の社会的位置によって決まってくる。

情報産業における価値決定には、不可測な部分だけではなく、計測可能な部分も存在している。
たとえば、電波料の場合、サービス・エリア内の人口や電波の使用時間などは、計測可能な要素である。
「お布施」の原理は、不可測な部分についてのアナロジーである。
計測可能な部分を実数、不可測な部分を虚数と考えると、情報の価格は複素数的構造を持っているということができる。

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2010年7月24日 (土)

情報とエントロピー/梅棹忠夫さんを悼む(12)

湯川秀樹さんと梅棹忠夫さんの対談において、次のようなことが議論されている。

情報が集積されるということは、エントロピーが減ることであるが、それはわれわれが使うような広い意味の情報とどういう関係にあるか。
情報理論やサイバネティックスなどの数学的アプローチからきた情報の扱い方は、情報の持っている一つの形式を抽象化して体系づけたものであって、普通の意味でいっている情報の性質、非常にたくさんのいろんな性質を落としているのではないか。

どういうことかいささか分かり難いので、情報理論における情報量の概念についてレビューしてみよう。

情報量(じょうほうりょう、エントロピーとも)は、あるできごと(事象)が起きた際、それがどれほど起こりにくいかを表す尺度である。
頻繁に起こるできごと(たとえば「犬が人を噛む」)が起こったことを知ってもそれはたいした「情報」にはならないが、逆に滅多に起こらないできごと(たとえば「人が犬を噛む」)が起これば、それはより多くの「情報」を含んでいると考えられる。情報量はそのできごとがどれだけの情報をもっているかの尺度であるともみなすことができる。

WIKIPEDIA:100614最終更新

情報量に関して、競馬の予想を例に解説しているサイトがあったので参考にしよう。
http://szksrv.isc.chubu.ac.jp/entropy/entropy3.html

ニュース等における衝撃度は何で決まるか?
一般に、「確率が非常に小さいようなことが起きた場合、衝撃度が大きい」と考えられる。
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確率Pから衝撃度Sを計算してみたいが、その計算式はどういうものがいいだろうか?
1)確率1の出来事が起きた場合、まったく当たり前のことが起きたので、衝撃度は0である。
2)確率が非常に小さな出来事が起きた場合、衝撃度は大きくなる。
3)確率P1の出来事と確率P2の出来事が同時に起きる確率はP1×P2であるが、このとき衝撃度は確率P1の出来事の衝撃度と、確率P2の出来事の衝撃度の和となるとしよう。
このような条件を満たす関数として次式を考える。
Photo_3
衝撃度のことを、自己情報量という。

競馬の例で考えてみる。
過去の実績から、ある程度、出走馬の情報があり、勝つ確率がわかっているとする。
Photo
衝撃度の大きい事象は、確率率が小さいので、あまりおこらない。

そこで、衝撃度の期待値というものを考えてみる。
Photo_5 
アキウララは勝つ確率が小さいので、これが勝ったときの衝撃度(-log p)は大きい。
しかし確率が小さいため、-p log pにすると小さくなってしまうことがわかる。
したがって、衝撃度の期待値は
0.29+0.43+0.5+0.5=1.72
この衝撃度の期待値が、情報エントロピーである。

情報エントロピーの性質を調べてみよう。
例1:1頭が圧倒的に強い場合
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情報エントロピー(期待値)は0.07+0.07+0.07+0.04=0.25

例2:1頭が圧倒的に弱い場合
Photo_8 
情報エントロピー(期待値)は0.07+0.53+0.53+0.53=1.66

例3:実力が同じ場合
Photo_9
情報エントロピー(期待値)は0.5+0.5+0.5+0.5=2.0

この場合、情報エントロピー(衝撃度の期待値)が一番大きいのは「実力が等しいとき」で2.0ビット、一番小さいのは「1頭が圧倒的に強いとき」で0.25ビットである。
衝撃的なことが起きる方がレースは盛り上がるので、情報エントロピーはレースの盛り上がり方の指標となる。
1頭が圧倒的に強いとそれが勝つことがほぼ決まりなので、レースとしてはあまり面白くないし、実力が等しいとどれが勝つかわからないのでレースが盛り上がる。
したがって、情報エントロピーが大きいほど、面白いレースになるというのは計算結果とよくあっている。

もし、出走馬に関する情報が事前に何もわかっていないと、どの馬が勝つかは「等確率」と考えざるを得ない。
しかし、「この馬はまず勝てない」とか「この馬は本命」といった情報がもたらされると、各馬が勝つ確率が等確率からずれていく。
そして、等確率からずれていくことで情報エントロピーが小さくなっていく。
つまり、情報エントロピーはレースの予想のしやすさの指針、事前にわかっている情報がどれくらいあるのかという指針である。
「情報エントロピーが大きい」とは「結果の予想が難しい」という意味であり、「十分な情報が与えられていない」ということを表している。
逆に「情報エントロピーが小さい」とは「結果の予想が易しい」という意味で、「十分な情報が与えられている」ということを表している。

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2010年7月23日 (金)

情報産業の典型としてのデザイン/梅棹忠夫さんを悼む(11)

梅棹忠夫さんは、九州芸術工科大学の第3回「勧進」において、発話者として「情報産業社会におけるデザイナー」と題する講演を行っている。
その速記録が、『情報論ノート』中央公論社(8903)、『梅棹忠夫著作集 第14巻 情報と文明』中央公論社(9108)に収録されている。
講演が行われた1970年を振り返ると、「70年安保」の運動は前倒しで1969年にピークアウトし、新しい時代への予感がさまざまな形で語られるようになっていた。
情報という言葉も、「情報産業論」を発表した頃には秘密めいたニュアンスをまとっていたのが、ニュートラルな意味ですっかり定着していた。
というよりもむしろ、盛んに「情報化社会」が論じられ、情報という言葉は、ジャーナリズムの世界を賑わす一種の流行語現象になっていたといってよい。

それは、企業や公的機関などで、本格的にコンピューターが利用され始めたのと軌を一にするものであった。
つまり、情報という言葉は、コンピューターと同義的に使われた。
情報化=コンピューター化であり、情報産業=コンピューター産業である。
しかし、梅棹さんは、このような潮流に異を唱える。
たとえば、情報化社会という言葉では、適切な対語がないではないか。非情報化社会というのでは、トートロジーである。

この点、情報産業社会という言葉はどうか。
対語として、工業社会あるいは産業社会がある。
工業が社会の生産活動のなかで最も重要な地位を占める工業社会に対し、情報産業社会は、情報産業が人間の全生産活動のなかでもっとも大きなウェイトを占める社会である。

人類社会の歴史を振り返ると、狩猟採集社会の次に、はじめて農業社会が人間の組織的な産業活動というものを始める。
その次に産業革命を経て工業社会になり、やがて情報産業社会になる。
つまり、情報産業社会は、工業社会の後期の現象ではなく、あたらしい別の発展段階の社会なのである。
当時のコンピューター化社会というのは、工業社会の成熟化現象に過ぎないのではないか。

工業社会において重要な要素として、物質とエネルギーがある。
物質は原料であり、製品である。
そして、原料を製品に転化するにはエネルギーを加えなければならない。

ところが、物質とエネルギーだけでは製品を製造することができない。
物質をどのように組み合わせ、それにどうエネルギーを作用させるかという処方箋が必要である。
この処方箋をつくる作業が、「設計=デザイン」である。

情報産業社会が工業社会と異なるのは、デザインがもっとも重要な要素になるというところである。
情報産業社会とは、設計の時代であり、デザイン産業の時代である。
工業社会では、知恵の価格はただ同然であるが、情報産業社会では、商品の価格を決定する最大にファクターは知恵の値段になる。

そのような商品の事例が新聞である。
物質すなわち紙としての新聞は、もっとも悪質な風呂敷にすぎない。
新聞の原価には、物質としての紙代もあるし、印刷や搬送のためのエネルギー代もある。
しかし、いちばん肝心なのは、情報の値打ちである。

それでは、九州芸術工科大学が標榜する芸術工学とは何か。
いままでの工学は、人間と機械との関係が、かならずしもうまくできていなかった。
機械は機械の法則で発展し、人間は人間の法則にしたがい生活している。
ところが、現代は「人間-機械系=マンマシン・システム」が形成され、人間と機械との共存社会になっている。

そのとき、人間を抽象的な存在ではなく、五感をもった存在として考えなければならない。
動物以来のさまざまな遺産や人間になってから発展したさまざまな性質をひっくるめて背負いこんだ存在である。
それが、ヒューマンということであり、芸術工学における芸術はそういうことを意味している。
つまり、芸術工学とは、技術のヒューマナイゼーション、人間化された技術のことである。

特に、ヒューマン・エンジニアリッグを、個体としての人間ではなく、社会的存在としての人間として考える必要がある。
すなわち、社会的関連をもった、孤立していない人間である。
そして、コンピューター化とは、人間の活動を機械に置きかえるのではなく、人間の機能を充足し、拡張するものである。
工業社会ではエネルギーの拡張をしたが、情報産業社会では知的活動の拡張がはじまる。

農業の時代にあっては、人間の生死が重要な問題だった。成人することが難しいことだったのである。
工業の時代には、生まれたらある程度生きられる時代になった。
問題は、如何に生きるか、どういう生き方をするかである。
情報産業社会においては、生きているあかしが問われる。
つまり、「生きがい」の問題である。

情報産業社会において重要になる設計の仕事=デザインは、具体的、個別的なものである。
すべてに適用できる原則や公式は、ほとんど存在せず、ケース・バイ・ケースである。
現場において、個別的な状況に対応したものでなければならない。
問題は現場にあり、問題の解決法は現場がきめる。
この意味で、芸術工学は、現場主義の学問である。

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2010年7月22日 (木)

九州芸術工科大学/梅棹忠夫さんを悼む(10)

梅棹忠夫さんの「情報産業論」の初出は、朝日放送の広報誌『放送朝日』(6301)である。
しかし、単行本として『情報の文明学』中央公論社(8806)に収録されるまでの25年の間、有名な割りに、なかなか一般の目に触れる機会がなかった。
『放送朝日』のバックナンバーなど、なかなか手に入らなかったのである。
私自身は、探し求めた末に、コミュニケーション関連の著名論文を集めた一種のアンソロジーを知人から借りて、コピーして読んだ覚えがある。.

梅棹さんは、動物生態学の研究者として学究生活をスタートした。
「動物の社会的干渉」がそのテーマであり、オタマジャクシの集団を観察していたが、オタマジャクシは明らかに感覚器官によって他の個体の存在を情報として認知していた。
つまり、学者人生の最初期から、情報と係わってきたわけである。
放送などのマスメディアも、感覚器官による情報の捕捉という面では、オタマジャクシの問題と共通した問題を含んでいる。

梅棹さんの情報論の展開の上で、もう一つの重要な契機となったのが、九州芸術工科大学での講義であった。
九州芸術工科大学とは、下記のような大学である。
WIKIPDIA:100713最終更新

九州芸術工科大学(きゅうしゅうげいじゅつこうかだいがく、Kyushu Institute of Design)は、福岡県にかつて存在していた国立大学で、現在の九州大学にある芸術工学部・大学院芸術工学府・大学院芸術工学研究院の前身である。略称は芸工大
1968年4月、福岡教育大学福岡分校跡地である福岡市南区大橋に、日本初の芸術工学 (design) を本格的に研究教育する国立の単科大学として設立された。これは研究を主体とする、現在の筑波大学のプロトタイプとして造られた経緯もある。この場所は1926年~1949年まで、現在の福岡県立筑紫丘高等学校の前身である筑紫中学校の跡地であった。「芸術工学部」の名称も日本初であり、世界でもほとんど例を見ないものだった。
当初、環境設計学科、工業設計学科、画像設計学科、音響設計学科の四学科であったが、1997年に芸術情報設計学科が加わった。ユニークな学部を持つ大学だったので、九州という立地にもかかわらず全国から学生が集まっている。一方、地元の人はその存在を知らない人が多く、大学名を言っても専門学校等と一緒にされがちである。
2003年10月、九州大学と統合し、芸術工学部は九州大学芸術工学部に、大学院芸術工学研究科は九州大学大学院芸術工学府・同研究院となった。所在地は変わらないがキャンパスの名称は九州大学大橋地区である。

梅棹さんは、1965(昭和40)年秋、文部省内の「国立産業芸術大学(仮称)設置に関する会議」の専門委員に任命された。
他のメンバーは、小池新二(千葉大学教授)、木村秀政(日本大学教授)、清家清(東京工業大学教授)、福井晃一(千葉大学助教授)、諸井三郎(東京都交響楽団長)などであった。
論議を重ね、1968年4月に、九州芸術工科大学として開学した。
初代学長は、小池新二氏(1901~1980)。
小池氏は、千葉大学工学部意匠学科教授、日本デザイン学会初代会長等を歴任したデザイン関係の草分け的存在で、『デザイン』保育社(1965)等の著書がある。

上述のように、このユニークなコンセプトを持つ大学は、いまは存在しない。
私も、何人かのOBと知り合ったが、こんな大学で学んでみたかった気がする。
もっとも、私が高校生の頃は、構想すら存在しなかったのだが。

なお、同大学では、年に1度、「勧進」と称する全学討論会が行われる慣例があった。
その第3回目(1970)が「梅棹忠夫氏と語る」で、「情報産業社会における設計人(デザイナー)」がテーマであった。
大学の開学に係わりを持った梅棹さんは、オープン後も集中講義をするなどの形で大学に関係していたが、この「勧進」において基調講演を行った。

このような大学が、合理化という名目で統廃合されてしまう風潮が、日本の科学技術を底の浅いものにしているのではないか。
「事業仕分け」は常に行うべきであるが、当然、仕分ける人の見識が問われるものである。
功罪を明確にするためにも、いたずらにパフォーマンスに走るのではなく、仕分けの責任の所在を明らかにしておくべきだと思う。

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2010年7月21日 (水)

「もの」と「こころ」と「情報」/梅棹忠夫さんを悼む(9)

梅棹忠夫さんは、湯川秀樹さんとの対話において、この碩学の内奥から示唆に富んだ言葉を引き出す。
対談の名手と評される所以である。
人間の持つ最も不思議な「こころ」という現象の、情報との関係について、次のように会話は進展する。

湯川 昔から「もの」と「こころ」というふうに対立するものとして分けていたけれども、しかしそうすると「もの」と「こころ」はどこで結びついているか、物心二元論ではややこしいことになる。しかしそうではなしに、「もの」と「こころ」との中間に情報というものを置いてみる。それで見通した方がわかりやすくなりそうだ。
梅棹 いままでの考え方ですと、情報というものを、たとえば感覚とか思考というような心的過程から切り離すことが大変むつかしかった。ところが今日では、そういう心的過程から切り離された情報概念が次第に確立されつつある。これは大変重要なことだと思うのです。物質化されたという表現はよくないと思いますけれども、「こころ」の話ではない、「もの」と密着した情報概念がだんだん確立しつつある。いや、実はそれが先にあって、それからもう一度ふり返って、「こころ」とは何かということが逆に問われるべき段階にきていると思うんです。「こころ」がなぜ、どんなプロセスを経て出てくるのかということですよ。
たとえばさっきの話で、電気に乗って情報伝達ができるということ。電気に乗ってきた情報が「こころ」に何か意味を持つということは、大変大事なことなんですね。「こころ」というものは、そういうものに乗って出てくるんです。最初に「こころ」があって、それから情報が生まれるのと違うんです。情報的に世界が構成され、つくられてきた結果として、電気という媒体がその「こころ」の発生という段階までくっついて出てくる。そのことを、私はおもしろいと思うのです。
湯川 「こころ」というふうにぱっとつかもうとすると、また逃げてしまうけれども、たとえば言葉を使って考える人間の思考作用の場合、言葉というものは、もうすでに非常にはっきりしたシンボルであり、またそれが情報になっている。これをもう一つ進めて、言葉とは何か、意味とは何かという問題になると、またむつかしいけれども、それを後まわしにして、まずできるだけ情報というような概念の拡張として取り入れられるものを取り入れると、それは何に乗っているかということで、物質につなげることができる。そのつなぎ方は、たとえばデカルトの物心並行論みたいにややこしいものじゃない。自然科学的な方法で分析し、確立できるはずのものなんです。そのへんをもっと追及しなければならないでしょうね。
梅棹 いまの科学にとっての分子生物学の意義は、そのへんのところで非常に高く評価されると思うのです。分子生物学は、生命現象を物質的現象の一種として理解する道をひらいてきたものには違いないけれども、同時に、初めに期待していたのと少し違う意味を持ってきた。やはり、分子生物学の発達によって、いまの情報という概念がだんだんはっきりしつつある。われわれが情報という言葉で表していることの内容がはっきりしてきた。学問の体系ができてゆく過程の中で、対象が逆に限定されてくるという作用がいま進行している最中です。そこのところで、われわれ自身もだんだんはっきり納得がゆくようになりつつある。いま先生がおっしゃいましたシンボルという概念も、このプロセスの中で内容をだんだん限定され、はっきりしてくると思うのです。それと、もう一つ「もの」の形の意味ですね。たとえば分子生物学に出てくる酵素反応の話で、酵素と基質が合鍵をはめるような格好で、すっぽりとはまるというのがありますが、なぜ酵素はそんな形をしているのか、その形の持っている意味というものが、次第にはっきりしてくると思うのです。
湯川 そうですね。情報といっても、いろいろある。一九五○年代に進んできたのは数学的な情報理論です。工学的な応用もあるけれども、それは本来、数学のものを借りただけです。数学的情報理論はどんなものかというと、一次元の線の上に情報を並べてゆく。それを時間的な順序にしたがって伝えてゆくことができる。あるいは二次元、三次元に並べ変えるという操作もやれるけれども、数学的情報理論でもとになるのは、本来、一次元ですね。時間の順序にしたがって一個ずつ整然と情報が出てくるという理論です。電子計算機などもそうだ。紙テープの上に穴があいとって、それを順々に読み取るという形式です。本質的にこれは一次元のものです。
しかし、われわれは頭の中でいろいろなことをしている。絶えず頭の中で何かを砕いたり集めたりしている。それも情報ではないのか。たとえば、なにか図形があれば、それを見て、そこから何かを思いつくというようなことがある。それができるのは、人間の思考作用の中には意識的、無意識的にかかわらず、もうすでに図形化されたものを、まとめて使うということがあるからではなかろうか。形を形としてそのまま受け取るという働き、それが人間の思考に非常に大きな役割を果たしている。知らぬ間に、それが思考の単位みたいな役割を果たすようになっている。そういう側面はわりあい閑却されてきたと思うのです。

人間と他の動物が決定的に異なるのは、「こころ」の持つ比重の大きさである。
「こころ」は、今では脳のはたらきであることが理解さえている。
しかし、物質としての脳が、いかにして「こころ」を宿すようになるのか。
もちろん、未だ脳科学が今日のように隆盛ではなかった時代の限界はあるが、脳のはたらきに関して、きわめて重要だと思われることが語られている。
生物の進化史における大きな画期としての「こころ」の発生を、情報あるいは言葉との関連で捉えようという思考である。

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2010年7月20日 (火)

情報をどう考えるか/梅棹忠夫さんを悼む(8)

世界の識者に先駆けて「情報産業論」を発表した梅棹忠夫さんは、もちろん「情報」という言葉に対して、人一倍の見識を持っていた。
人間にとって科学とはなにか』中公新書(6705)から、梅棹さん(と湯川さん)の「情報」に対する考え方を見てみよう。

先ず、われわれが使う「情報」を、次のようなものとする。
つみあげられた建築材料の山があって、材料のままつみあげられている限りでは、それは無秩序な物質の集合にすぎない。
それを一定の方式に組みあげて、一つの建築にまでもってゆくときも、その材料を使って組みあげ得る建物の種類は、無数にある。
その中で、「これだ。この通りにせよ」ということを指定する設計図のようなものが「情報」である。

つまり、「情報」は、基本的なところで、「秩序」ということと関係がある。
物理学でも、「秩序」に関連して、エントロピーという概念が使われている。
また、最近発展してきたいる情報理論においても、もっとも基礎的な概念としてエントロピーという言葉を使っている。
物理学のエントロピーは、「だんだんと増えてゆくことはあるけれども減ることはない」という特徴をもった一種の物理量である。
「際立った状態からだんだんとありふれた状態に移ってゆく傾向」を「エントロピーが増える」と物理学(熱力学)では表現している。

自然界は、何も手を加えないで放っておくと、エントロピーが一方的に増大する。
つまり、ありふれた無秩序な状態になっていく。
情報が集積されるということは、エントロピーが減ることである。
人間の営み、とくに機械を作るという人間の営みは、ありふれたものをありふれていないものにするということであり、自然と人間は逆方向を向いているようにみえる。

生物学の場合はどうか?
生物の進化をさかのぼれば、だんだん簡単な生物へ戻ってゆく。
たとえば、ウイルスは蛋白質と核酸からできているが、要するに原子が適当な並び方をしてできた分子の集まりにすぎない。
それが生物らしく振るまうのは、そこに大量の情報がたくわえられ、伝達されるからで、それはDNAという分子が遺伝情報を全部になっていることが分かってきた。

こうして生物物理といわれる分野では、情報の概念が大きな位置を占めるようになってきた。
20世紀の後半は、情報概念の入った学問がだんだんと盛んになってくる時代でもある。
シャノンの情報理論とか、ウィーナーのサイバネティックスが出てきたのは、ちょうど20世紀の前半と後半の境目あたりだし、ワトソン=クリックのDNAモデルが発表され、その構造がはっきりしたのも1950年代だ。

情報という概念に近いものとしては、確率とか統計がある。
物理的なプロセスにおいて個別的に精密に扱うことができぬ場合には、統計的・確率的に扱う。
エントロピーも確率に関係しているし、情報理論に非常に近づいてくる。
それでは、それはわれわれが使うような広い意味の情報とどういう関係にあるか。
情報理論やサイバネティックスなどの数学的アプローチからきた情報の扱い方は、情報の持っている一つの形式を抽象化して体系づけたものであって、普通の意味でいっている情報の性質、非常にたくさんのいろんな性質を落としているのではないか。

情報というものは、現実には、媒体=メディアに乗ってあらわれてくる。
電波に乗るとか新聞の活字に乗るとか、とにかく何か形をなしたものに乗って現れてくる。
頭の中で考える際も、神経系とか脳細胞とか、に乗ってくる。
動物における神経系統による情報伝達は、突きつめてみたら、現代の生理学では電気だということになっている。
しかし、人間なら人間、動物なら動物のからだの中に、その情報が伝達され、集積されてゆくにともなって、情報の意味が不明確になってくる。

複雑な生物体と、抽象的な情報とはどういう関係にあるのか
生物というものは、存在すること自体が情報であるというところがある。
「もの」であると同時に情報であるという存在である。
進化史などは、そう理解しないと分からない。
ものの比重が高くなっていくのが進化のプロセスである。

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2010年7月19日 (月)

人間にとって科学とはなにか/梅棹忠夫さんを悼む(7)

梅棹忠夫さんは、座談・対談の名手としても知られている。
たとえば、日本人として初のノーベル受賞者である湯川秀樹さんとの対談の記録がある。
湯川秀樹、梅棹忠夫『人間にとって科学とはなにか』中公新書(6705)。
出版された年、湯川さんは60歳、梅棹さんは47歳だった。
同じ京都大学に在籍しているものの、専門分野も世代も異なっている。
梅棹さんの「あとがき」の表現に従えば、「(湯川)先生は大物理学者であり、私は未完成の人類学者である。常識的にみれば、この組み合わせは、やや冒険的というべきであろう」。
しかし、結果的に、この対談は見事に成功した。

「人間にとって科学とは何か」。
「○○にとって××とは何か」という言い方は、私たちの世代にとっては、吉本隆明氏の『言語にとって美とはなにか』角川ソフィア文庫(0109)によって馴染み深いものである。
吉本氏の論考は、安保闘争の終焉後、谷川雁、村上一郎氏と3人で共同で発刊した雑誌「試行」に連載され、1965年に単行本化された。
「人間にとって科学とはなにか」ということは、難しい問題で、正解を求めるという性格の問いではない。
問いを立てて、考えてみることに意味がある、といえよう。

梅棹氏自身は、対談の内容を、カテゴリーとしては、「科学論」とか「科学概論」に入るものだろうか、と自問し、それにしては「奇妙で、独特の内容のものだ」という。
何故か?
それは、従来の科学概論ではおおい尽くせない状況が現代科学に出てきているから、である。
対談の内容は、科学の本質についての、二人の科学者の内省の記録となった。

科学は普通、きれいにでき上がった成果だけが発表される。
それは、いわば、productとしての科学である。
その発表された成果だけを読んでも、舞台裏で何が行われているかは、全くわからない。
それに対し、ここでは、できあがったものとしての科学ではなく、科学を生み出す原動力になっているものにアプローチしている。
processとしての科学である。
この舞台裏を見せてしまうという方法論は、後に『知的生産の技術 』岩波新書(6907)で意識的に行われるものだ。

対談の冒頭部分で、梅棹さんは、上記の「従来の科学概論ではおおい尽くせない状況」について、次のように言う。

科学というものは、人間がつくったものであるにもかかわらず、いまや人間をおいてきぼりにして、どこかあらぬ方向につっぱしっていっているのではないか、そういう疑問なんです。
こういうことをいうと、すぐに、現代の科学・技術の異常な発達の結果、核兵器のようなものがあらわれて、そのために人類それ自身が破滅の危険にさらされている、という現代人類の危機的状況が思い起こされますが、私は、必ずしもいま、そのことをいっているのではないのです。もちろん、そのことも大問題だと思いますが、そのことをも含めて、現代の科学が、あるいは現代の科学的考え方それ自体が、なにか、人間離れした、ある意味で非人間的なものになってきているのではないかと、ちょっとそんな気がするのです。

これは、カレル・チャペックの『山椒魚戦争 #岩波文庫#』(栗栖継訳 (1978)などと共通する問題意識ではないか。(2010年5月23日 (日):『「恐竜の脳」の話(4)山椒魚』の項参照)。
人間的スケールの、常識的な経験的事実を説明するための理論が、常識では分かり難いものになっている物理学の状況。
たとえば、量子論や相対論などを考えると、物理学の対象はなんであるのか、ということが問題になってくる。
それで、物理学は、物質とエネルギーに対象を一応絞ってきた。
物理学が、物質とエネルギー以外のものに対象を拡大しようとすれば、どういうものが考えられるか?
湯川さんは、従来の物理学の領域に比較的近接しているものとして、「情報」をあげる。

「情報」は、梅棹さんの専門領域である生物学や人間の科学においては、非常に重要な要素である。
ところで、「情報」ということばを、どう考えるか。
一般的にいえば、ある一定の「知識」を所有しているものが、所有してないものに与えるものが「情報」である。
さらにもっとも一般的にいえば、可能性の選択的指定作用のことである。
無秩序あるいは混沌のの状態にあるものに対して、何かの秩序を指定するものが「情報」である。

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2010年7月18日 (日)

「情報産業論」の時代/梅棹忠夫さんを悼む(6)

梅棹忠夫さんが「情報産業論」を発表したのは、1963(昭和38)年のことであった。
その年、私は高校を卒業し、大学に入学した。
つまり、「情報産業論」を、ほぼ同時代的に体験してきたといってよいであろう。

私は、大学では、工学部の工業化学系の学科に入学した。
今年は、「60年安保」から50年という節目の年である。
安保改定反対運動が空前の盛り上がりを見せた1959年から1960年は、中学から高校への進学期にあたる。
田舎の中学生にとって、新聞記事で見る安保闘争は、ほとんどリアリティのない世界だった。
東大の樺美智子さんが亡くなった「6・15」は、高校に入った直後のことだった。
衝撃はあったが、私の高校で政治的な活動をする人は、殆どいなかったように見えた。

安保条約の改定の批准が自然承認され、岸信介首相が退陣すると、改定反対運動は潮が引くように鎮静化していった。
岸に替わって首相に就任した池田勇人は、所得倍増計画を打ち出し経済成長路線を邁進した。
政治の季節から、経済の季節に時代の相が変わったのだった。
高度成長を牽引するのは技術革新であり、銀色のパイプとタンクの石油コンビナートの景観はその象徴であった。
大学に入学した1963年には、反安保の高揚はすでに鎮まっていた。

学生運動は混乱と低迷の時期を迎えていた。
大学に入ったらデモに行くものだと思っていたが、初めて参加した集会で、日本共産党系の活動家と反日共系の活動家が激しく主導権争いをするのを目にし、その後のデモ行進では機動隊に追い散らされた。
大学のクラスメイトも、殆どデモや集会に参加しなくなっていった。
それにしても、その後の激しい敵対関係を考えると、日共系と反日共系が同じ集会に参加していたこと自体が信じ難い気がする。

修士課程を終えて社会人になったのが1969年。
その前(前)年から、学生運動は再び高揚していた。
低迷を打ち破ったのは、またしても「学生の死」の衝撃だった。
1967年10月の、佐藤訪ベト阻止羽田闘争において、京大生・山崎博昭君が亡くなった。

1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するため中核派、社学同、解放派からなる三派全学連を中心とする部隊は羽田周辺に集結した。
はじめてヘルメットと角材で武装した。
社学同、解放派部隊900人は鈴ケ森ランプから高速道路上を進撃。ゲバ棒を振るい、60年安保闘争以来はじめて機動隊の阻止線を撃破し実力で突破した。さらに空港に通じる穴守橋上を固める機動隊と激しく衝突し、橋をふさぐようにおかれた7台の警備車に放火するなど現場は大混乱となった。
また、1000人の中核派部隊は弁天橋に進撃。迎え撃った機動隊を撃破し、激しい放水の中、弁天橋上で警備車を奪うなど激しい乱闘を繰り返した。
この闘いで中核派の京大生山崎博昭が殺され、重軽傷者600人あまり、逮捕者58人が出た。街頭での反体制運動で死者がでたのは、60年安保闘争時の樺美智子以来のことで、社会に多大の衝撃を与え、同時に警察力に押え込まれ沈滞していた学生運動が再び高揚する契機となった。
この闘い以後、いわゆる三派全学連は勇名を馳せヘルメットとゲバ棒で武装した新左翼のデモ隊と機動隊との激しいゲバルトが一般化した。
http://zenkyoto68.tripod.com/haneda01.htm

日本大学における不正経理問題、東京大学医学部における学生の処分問題等をめぐって、運動は大衆的な広がりを見せる。
いわゆる「70年安保」と、学内のアンフェアな執行体制に対する不満がリンクした。
1969年1月の東大安田講堂の封鎖解除をめぐる攻防戦は、この時期のシンボルとして位置づけられる。
テレビで全国に実況放送されたが、高い視聴率が国民的関心事だったことを示している。

私の大学生活の最後期である69年1~3月は、学内が混乱と高揚とで、一種の無秩序状態に陥っていた。
授業は殆ど行われず、教官と学生・院生が徹夜で議論することも珍しくなかった。
記憶に残っているのは、雪の降りしきる夜のキャンパスにおける、投擲された火炎瓶の軌跡である。
非現実的な夢のような景色だったが、多くの学生が負傷した。
結局、修士論文発表会も、自主開催ということになって、怠け者にとっては有り難かったが、達成感に乏しい学生生活となった。

大勢のままに、化学系の製造業に就職した。
就職担当の教授に、候補先として、当時独立企業として発足したばかりの野村総合研究所の名を挙げると、「工学部の卒業生は、実業の世界に進むべきだ」と言われ、それに従った。
いま、就職氷河期などと言われるが、未だ高度成長期で、企業の方が学生の囲い込みに必死だった。
新兵の補充の意味で使われていたリクルートという言葉が、企業戦士に援用された。
企業説明会に出席すると、鰻の弁当が振舞われた。
貧乏学生にとっては滅多にありつけないご馳走で、鰻の弁当目的で説明会に参加したこともある。

就職した年に、梅棹さんの『知的生産の技術』が岩波新書で刊行された。
技術者にとっても創造性開発は重要なテーマで、同書も発刊後間を置かず購入して読了した。
話題の京大型カードも購入してみたが、ご多分に漏れず長続きしなかった。
4年半ほど製造業に在籍し、コンサル系のシンクタンクに転職したが、その直後に第一次オイルショックが起きた。
時代は、物質とエネルギーを中心とする中胚葉産業の時代から、脳と神経系を中心とする外胚葉産業の時代に転換しようとしていた。

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2010年7月17日 (土)

ハンディキャップとどう向き合うか?/梅棹忠夫さんを悼む(5)

梅棹忠夫さんを、「知の巨人」と評した(梅棹忠夫さんを悼む)。
そうに違いないが、梅棹さんの人生の総決算とも言うべき米寿を記念して行われたシンポジウムの記録をまとめた著書(石毛直道、小山修三編『梅棹忠夫に挑む』中央公論新社(0812))の帯の惹句には、「知の探検家」とある。
結果として、梅棹さんは「知の巨人」になったが、そのプロセスは探検家と呼ぶのが相応しい営為だったということだろう。

米寿といえば、長寿化したとはいえ、日本人男性の平均寿命を超えている。
普通は、長寿を寿いで、親しい人が集まって内輪の食事会でも……、というところであろう。
梅棹さんの場合も、石毛直道さんと小山修三さんがそのつもりで梅棹さんに話したら、本人が「食事じゃつまらないから、もっと実のあることを」ということになった。
それで、還暦のときの記念行事である「文明学の構築のために」(梅棹忠夫編『文明学の構築のために』中央公論社(8108))に倣って、シンポジウムをやることになった。

シンポジウムの成果である前掲書に、梅棹さんの読売新聞の連載インタビュー記事『時代の証言者」が掲載されている。
梅棹さんには、自伝として『行為と妄想 わたしの履歴書 』中公文庫(2204)があるが、それとは別に、梅棹さんが自分の歩いてきた道を語り、それを読売新聞記者の持丸直子さんが背景の解説を加えたものである。
その中で、失明のことが触れられている。

中国旅行から帰ってきた、一九八六年三月のことです。西安あたりでひいた風邪が治らず、せきがひどかったのですが、帰国後も休まないで仕事を続けていました。あのころは忙しかったな。会議や出張も多く、自治体の文化行政のアドバイザーをいくつも頼まれていましたし、夜は原稿書きがあり、お酒もよく飲みました。
その夜は遅くに帰宅して、テレビの画像がちょっとおかしいなと思ったけれど、そのまま寝ました。あくる朝、目がさめたとき、まだ薄暗い。女房に夜が明けてないのかと聞くと、「とっくに明けてます」と言う。それで目の異変に気がつきました。
大阪大学医学部附属病院の眼科に行くと、診断はウイルスによる球後視神経炎だという。視神経が風邪のウイルスにやられたんでしょうな。すぐ入院でした。医者に三週間かかると言われ、ステロイドや高圧酸素療法などいろんな治療をうけました。
初めは治るに決まっていると思っていたのに、治らなかった。漆黒の闇ではなく、明暗はわかります。ただ、色はなく暗い灰色が広がっているだけ。だれかがそこにいるのはわかるけど、どんな顔かはわからない。
実証科学がわたしの学問ですが、自由に歩くこともできないし、文字が読めない、書けない。学者として絶望的です。六五歳で失明。これは一生の誤算でした。

梅棹さんの心境は想像するしかないが、突然にそれまでの人生の予定が断ち切られてしまったのである。
しかし、梅棹さんの凄いところは、発症してからの生き方である。

七ヵ月後に退院し、まず、いろんな出版社と約束していた原稿をかたづけた。フリーの編集者に来てもらい、わたしが口で文章を言うと、その場でパソコンで入力し、原稿にしてくれました。

その結果、失明後の三年間で、月一冊のペースで約40冊の単行本を出した。
毎月でることから、「月刊うめさお」といわれた。
そればかりでなく、並行して、『著作集』の刊行を行っている。
しかも、当初15巻の予定だったものが、別巻をあわせると23巻に膨れた。
いかにロングセラー『知的生産の技術 』岩波新書(6907)の著者といえども、その知的生産力は驚異的という以外にない。

梅棹さんに学ぶべきは、その明るさであろう。
ただ、現実認識は悲観主義で、「明るいペシミスト」というやや矛盾した自己規定である。
人生を振り返れば、「いろんなことを経験したけど、けっこうおもしろい人生でした」ということになる。
私も、失明には比ぶべくもないが、未だ右半身不随状態で、事実として気が滅入ることがしばしばである。
しかし、できるだけ明るさは保っていたいと思う。
私も、努力すれば明るく過ごすことはできるだろう。
そうすれば、「けっこうおもしろい人生でした」と振り返ることができるときがくるかも知れない。

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2010年7月16日 (金)

不起訴不当という落し所

小沢一郎民主党前幹事長の資金管理団体『陸山会」の政治資金規正法違反事件で、東京第一検察審査会は、「不起訴不当」と議決した。
検察審査会の審査の流れは、下図のようである。
検察審査会の審査の流れ
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/384882/slideshow/287906/

陸山会の政治資金収支報告書をめぐっては、04~05年度分と07年度分について、それぞれが検察審査の対象になっている。
Photo
日本経済新聞100716
前者については、既に第五検察審査会が4月に全員一致で起訴相当と議決し、再捜査した東京地検は5月に嫌疑不十分で不起訴としたため、第五検察審査会で再審査中である。
再度起訴相当になれば、強制的な起訴となる。
強制起訴の事例としては、JR西日本の福知山線の事故に関して、歴代社長らの責任追求の件が記憶に新しい。

今回は、07年度分についてであり、起訴相当より軽い不起訴不相当という議決となった。
とはいえ、もちろん小沢氏がクリーンだと判断されたわけではない。
検察の不起訴という判断が、不相当と斥けられたわけで、再びクロに近い判断を示したものといえよう。
ただ、「不起訴不当」は、検察が再捜査をして、改めて不起訴処分にしたら、捜査はそこで終了することになる。
もちろん、検察の再捜査の結果を予断を持って考えてはいけないだろうが、おそらく東京地検は、再び不起訴とすると考えるのが常識的な判断であろう。

とすれば、07年度分に関しては終わりであり、04~05年度分の再審結果を待つことになる。
再審結果は予想すべくもないが、仮に起訴相当ということでなくても、それですべて終わりと考えるのは誤りである。
起訴に足る証拠がなということであって、容疑が否定されたわけではないからだ。
政治家の立場としては、積極的なシロの立証に努力すべきだろう。
もちろん、「ない」ことの証明は、一般的に難しいが、国会での説明などは、当然するべきだと思う。

何よりも、「政治とカネ」の問題は、参院選での民主党敗北の、小さくない要因の1つである。
どうやら、菅首相をはじめとする党首脳は、「コメントする立場にない」という姿勢のようだ。
しかし、「触らぬ神に祟りなし」的な考えだと、国民の感覚とズレていく一方だろう。
党自身が積極的に疑惑を解明していく姿勢を示すことが求められているのと思う。

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2010年7月15日 (木)

理念と現実の乖離-日本振興銀行の場合

日本振興銀行の検査妨害事件で、前会長の木村剛氏が逮捕された。
木村氏は、金融維新の旗手として知られる。
東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。営業局、企画局、ニューヨーク事務所、国際局など主要部局を歴任。
日本銀行を退職後、金融・企業財務に関するコンサルティング会社「KPMGフィナンシャルサービスコンサルティング」を設立、社長に就任した。
2002年に、金融庁金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム(通称竹中チーム)のメンバーと、金融庁の顧問を務めた。
また日本振興銀行の設立に携わり、社長に、後に会長に就任したが、2010年に辞任した。

日本振興銀行は、木村氏と東京青年会議所の有志らが、平成16年に、中小企業向け融資の専門銀行として設立。
大手銀行が手を出せなかった中小零細企業の資金需要に応えるため、無担保で年利7から15%で融資する。
「ミドルリスク・ミドルリターン」の新しい銀行のビジネスモデルのはずだった。

同行の主要な財務指標を、HPから引用する。2

金融庁は、新規参入行に、開業3年目の黒字化を義務づけていた。
同行は、上記のサマリーのグラフに見るように、3年目の19年度に黒字化を果たした。
しかし、規模の拡大とウラハラに、21年度の経常損益が大幅に赤字化していることからも、実態は多分にムリを重ねていたことが窺える。
報じられているところでは、悪名高い旧商工ファンド(SFCG)との間で、債券売買の形をとって、出資法の上限金利を大きく上回る手数料を取得していた。
また、融資先約110社が加盟する「中小企業振興ネットワーク」の中核企業との間で、不良債権の付け替えを行っていたとされる。

中核企業とは、下図において、「中小企業○○機構」という名称のものである。
2_2
ネットワークは、任意団体であるが、実質的に銀行と個別企業との間にあって、外部からは銀行と個別企業の関係を分かり難くしている。
つまり、建前は「互恵互栄」であるが、内実は債権の焦げ付きを防ぐための迂回融資の受け皿とされる。
木村前会長らは、この会員企業との不透明な取引実態の発覚を防ぐため、業務用のメールを削除したと見られる。

木村前会長は、金融庁顧問に時、現在の金融検査マニュアルの原型を作ったとされる。
いわば、金融検査を熟知したプロ中のプロである。
どこに「抜け道」があるのかなどは、自分の庭を歩くようなものだろう。
竹中平蔵氏の盟友としても知られる。
この人がブレーンだった「小泉・竹中改革」とは何だったのか?
木村氏の逮捕に、政権交代が関係しているとすれば、民主党の不手際が目に余るにしても、再び自民党政権に戻るという選択肢はあり得ないのではないか。

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2010年7月14日 (水)

『行為と妄想』と「飲酒と安息」/梅棹忠夫さんを悼む(4)

梅棹忠夫さんは、かなりの酒飲みだったらしい。
梅棹さんが酒飲みになったいきさつについて、梅原猛さんが面白いエピソードを書いている。
日本経済新聞100707『独創の知、颯爽たる行動』

いつだったか町でばったり出会って、いきなり「梅原君、君は酒をべらぼうに飲むそうだね。くだらんからやめなさい」と言われた。私は梅棹さんの言葉に従わず、60歳になってからやめた。梅棹さんは45歳くらいから飲み始め、一時はウィスキーを一ビン空けるほどになったという。私は「酒なんかやめなさいよ」と言ってやろうかと思ったけど、言えなかった。
梅棹さんが酒飲みになったいきさつについて、ある話が伝わっている。アフリカのキリマンジャロに登ることになり、尊敬する豪傑の今西錦司さんから、「酒もやらないようじゃ、山登りはできんぞ」と言われたからだというのだ。もっとも、桑原武夫さんの話だから、できすぎている気がするが。

人文科学研究所を中心とする「京都学派」の碩学たちの、密度の濃い交友を感じさせるエピソードである。
その京都学派の人たちも多くの人が既に鬼籍に入られているが、その頃の人文科学研究所は、さながら知の梁山泊といった趣きである。
『産経抄』100709に、「梅棹の家はみんな大酒のみ」という、梅棹さんの証言が紹介されている。

昼食はレストランでビール1本、夕食にも晩酌2合を楽しみ、深夜目覚めて、ウィスキーの水割りを飲みながら、妄想にふけるのが、「至福のひとときである」と自伝を結ぶ。

自伝が『行為と妄想』というちょっと変わったタイトルであるのも、行動の人である梅棹さんが、「妄想にふけるのが至福のとき」であれば、納得的である。
同書に次のような文章がある。

しかし、タートすなわち行為には、かならず夢想が先行する。むしる妄想というべきかもしれない。行為と妄想とは、あいともなっているのである。青年時代に愛読したドイツの山岳文学にオスカー・エーリッヒ・マイヤーという人の『でいうタート・ウント・トラウム』という本があった。文字通り訳すれば、『行為と夢想』である。ここでいう「行為と妄想」もおなじである。行為のまえには、かならず情熱的な夢が先行しているのである。その種のイマジネーションにもとづく情熱がなければ、ことははじまらない。

行為に先行する情熱的な夢。
颯爽たる行動の人は、夢想家でもあるのだ。
しかし、行動家にとって、失明が致命的なダメージになることは容易に想像されよう。
だが、梅棹さんは、失明して以後も驚異的な質と量の知的生産活動を続け、第三者にダメージを感じさせない。
梅棹さんが失明したのは、65歳の時である。
私も65歳にして脳梗塞を発症し、右半身不随となった。
不便この上ないが、失明に比べればダメージは軽い。
酒を飲んで至福のひとときを味わうのはしばらく控えざるを得ないが、梅棹さんの生きる姿勢には学ぶことが多い。

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2010年7月13日 (火)

タレント候補擁立に象徴される民主党の民意の読み違い

参院選において大敗した民主党の責任論をどう考えるか?
現時点では、民主党は、当面(9月の代表選まで)は、現体制を替える意向はないようである。
党内には、首相はともかく、枝野幹事長は引責辞任すべきだ、という声があるようだが、まあ、余り拙速にジタバタするのも問題であろう。
しかし、結果は明白な敗北(失敗)であるから、責任を目に見える形で示すことも必要ではないか。

責任論は、当然敗因論とセットで考えなければならない。
報道で知る限り、菅首相ら執行部は、選挙戦中の消費税論議が主因である、との認識のようである。
特に、消費税を争点化したこと自体は間違いではなく、説明不足で有権者に正しく理解されなかったことが問題だったということらしい。
しかし、それは妥当な認識だろうか?
聞きようによっては、有権者の理解力に問題があるかのようである。

もちろん、消費税の説明の仕方が稚拙であったことは否めない。
唐突感は最後まで残ったままだし、説明の軸も、事実としてクルクル変化した。
それは、ブレたと批判されても仕方のないものであった。
十分な党内論議を経ていないことを感じさせるものであったし、明らかに熟慮の結果の成案ではないことを感じさせた。
首相の発言としては、重みに欠けるものであったとせざるを得ないだろう。

それにしても、民主党の敗北の主因は、消費税の説明の仕方にあったのだろうか?
私の感覚は違う。
問われるべきは、政権奪取後の民主党の姿勢だと思う。
「政治とカネ」「普天間問題解決の道筋」「参院での首相の所信表明」などから、明らかに「逃げた」ことではないのか。
つまり、政治の根幹に係わる諸問題に真摯に向き合おうとしない姿勢こそ、問われているのではないか。

それを象徴するのが、比例区を中心に擁立した、いわゆるタレント候補である。
もちろん、一芸に秀でた人は、他分野でも優れた能力を発揮するだろう、ということは一般論としては必ずしも間違いではないであろう。
しかし、今まで政治的な見識を披歴したこともない芸能人やスポーツ選手などが、知名度を頼りに立候補するのに、有権者はいささか飽きていたようである。
タレント候補の擁立は他の政党も同様であるが、特に民主党に多かったのではないか。

主な著名人候補者の当落は次表の通りである。
http://news.goo.ne.jp/elex2010/news/article/snk20100713071.html2

失礼だが、民主党の落選者は、やっぱり……という感じではないだろうか。
一般に、現役で活躍中の人は、政治家になることを選ばないであろう。
本業と政治家が両立するほど甘くないことをわきまえているからである。
結果として、「昔の名前で出ています」のような人が多くなる。
庄野真代さんや岡崎友紀さんは、芸能オンチの私でも名前を知っている。
しかし、私は彼女らに国政を託す気にはなれない。
多くの有権者が同じ感覚ではないか。

当選した谷亮子さんは、実績も知名度も抜群であり、さすが貫禄である。
しかし、「次のオリンピックでも金を目指す」という発言には批判もある。
果たして、国会議員と現役の選手の両立を図れるのか?
プラス子育ても?
如何にスーパーウーマンといえども難しい、というのが常識というものであろう。
女優業からの引退を表明している三原じゅん子さん(自民党)が、妙に清々しく感じられる。

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2010年7月12日 (月)

日本の政治はどうなるのだろうか?

参議院選挙の結果が出た。
予想通り(?)民主党(あるいは与党側)の惨敗である。
昨年の政権交代を実現させた総選挙の裏返しのようでる。
私は、昨年の暮れから5月末まで、山奥の病院に入院していて、浦島太郎状態であったが、それでも、参院選の結果と今後の政治動向は、気になるところである。

多くの国民が、長い間の自(公)政権には多くの不満を抱いていた。
そこで、一度政権を交代させてみたらどうか?
ところが、誕生した民主党政権は、首相と幹事長が、共に「政治とカネ」の疑惑が晴れなかった。
沖縄の基地問題で迷走して、支持率が低落すると、首相を交代し支持率の回復を図った。
支持率が回復したように見えると、新首相が所信を表明する時間を惜しむかのように、選挙日程を優先させた。

選挙戦に入ると、唐突に(?)消費税率を争点化した。
確かに、財政も社会保障も経済(景気)も重要なテーマに違いないが、
今、あえて争点にする狙いは?
多くの国民は、「政治とカネ」「普天間基地移設問題」から目を逸らさせることにある、と見たのではないだろうか?

これからの国会運営は厳しいものとならざるを得ない。
衆参のねじれ現象により、政策遂行速度は、大幅に減殺することになろう。
国際的な日本の位置は、ますます後退することが予想される。
多くの国民にとって、幸福度は増大しないであろう。
あるいは、不幸度は低減しないであろう。

しかし、それが「民意」であると、真摯に受け止めるべきである。
国政もSlowにならざるを得ないと思われるが、Slow=悪いこと、とばかりはいえない。
政治も、LOHASなあり方を追求すべきときかもしれない。
菅首相の消費税10%は、余りにも「腰だめ」的であった。
財政あるいは税制の全体像は、どうあるべきか?

消費税論議のあり方が、民主党の直接の敗因であると言われている。
もちろん、唐突感、説明不足、軸のブレ等があったことは否定できない。
しかし、より重要なことは、政権交代後の民主党政権のあり方ではないか。
そのことの総括が全く不十分なままであることが、惨敗の主因ではないのか。

消費税は、いずれ手をつけなければならないというのが、国民の大勢である。
必要なのは、もっと腰を落とした重心の低い姿勢で、今後の方向性を論じることである。
暮らしと財政を両立させる産業構造はどうあるべきか?
東アジアの中で、日本はどうあるべきか?
難問であるがゆえに、今後の、長期の見通しについて、じっくり論議すべきであろう。
今こそ、「文明の生態史観」や「文明の情報史観」のような骨太の歴史認識が必要なのではないだろうか?

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2010年7月10日 (土)

日本語のコミュニケーション/梅棹忠夫さんを悼む(3)

梅棹さんは、略年譜に記したように、1986年に、突然視力を失う。
原因は良く分かっていないようであるが、モンゴル滞在時に特殊な菌に侵されたらしい。
梅棹さんは、有力な日本語のローマ字論者(ローマ字化推進論者)で、社団法人日本ローマ字会会長でもある(WIKIPEDIA100706最終更新)。
ローマ字表記を推進しようとした理由は、はじめは、漢字混じりの日本語を、タイプライターで書くのが難しいことからであった。

PCのワープロ機能で、ローマ字変換が確立し、ローマ字入力が一般化した現在では、かつて日本語タイピストという職業があったことすら想像し難い。
しかし、私が30台の頃までは、重要な提案書や報告書などの清書は、タイピストに外注していたのである。
本人の手で機械入力できれば……。
文書作成という最も重要な知的生産行為に携わる人間には、梅棹さんと同様の願望があったはずである。
しかし、梅棹さんのように、徹底してこだわった人は珍しい。

ローマ字表記は、後に失明したことにより、日本語のより本質的な問題に繋がる。
自伝である『行為と妄想 わたしの履歴書 』中公文庫(2204)に、次のような文章がある。

もちろん、「漢字かなまじり」の現代日本語の文章を、いきなり表音文字のローマ字で書きあらわすには、さまざまな困難がある。たとえば、おびただしい同音異義語をどう処理するのか。とても不可能におもえてくる。しかし、わたしは青年時代にローマ字書き日本語を実践した経験をもっている。手紙も日記もすべてローマ字で書いた。すこしくふうすれば、それはじゅうぶんに可能なのである。とにかく、いちど日本語をローマ字で書くことをおおこのひとにすしめたいとおもっている。実践してみれば、どこにどういう問題点があるかもわかってくる。
……
幸か不幸か失明したことによって、わたしはすべての日本語を音だけで理解しなければならなくなった。字をみて意味を判断することができなくなったのである。世のなかには、耳で聞いただけでは意味のわからない言葉が氾濫している。耳で聞いて意味のわかる日本語であれば、ローマ字で書いても、完全に意味がわかるはずである。そういう言語に日本語がそだってほしいのである。この老人のねがいと努力をあたたかく見まもっていただけるであろうか。

言語は、民族のアイデンティティを担保するものである。
その意味で、私も美しい日本語の伝統を守りたいと思う。
しかし、次のような問題もある。

EPA(経済連携協定)に基づきインドネシアとフィリピンから来日した外国人看護師・介護福祉士候補者の中途帰国が相次ぎ、受け入れが始まった2008年以降、計33人(今年7月1日現在)に上っていることがわかった。
日本の国家試験突破の難しさなどから、将来の展望が見いだせずに就労をあきらめた人が少なくないと見られる。
候補者は、これまで998人が来日。国内の施設で働きながら勉強し、3~4年の在留期間に国家試験に合格すれば本格的に日本で就労でき、そうでなければ帰国するのが条件だ。しかし、漢字や難解な専門用語が試験突破の壁になり、合格者は昨年がゼロで、今年は看護師3人のみ。
……
また、政府は6月に閣議決定した「新成長戦略」で、2011年度中に実施すべき事項として「看護師・介護福祉士試験の在り方の見直し(コミュニケーション能力、母国語・英語での試験実施等の検討を含む)」と明記、外国語による国家試験実施の可能性に言及している。
読売新聞100709
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100709-OYT1T00108.htm

看護師や介護福祉士は、日本人だけでは充足されず、外国人に頼らざるを得ない、という現状がある。
外国人とはいえ、とりわけこれらの職業では、コミュニケーションが重要である。
そこで、「日本語の壁」にぶつかる。
確かに、「褥瘡(じょくそう)」などの言葉は、日本人だって難しい。
耳で聞いて分かるどころか、漢字を見ても分からない。
「褥瘡」は、たとえば「床ずれ」などと言い換えてもいいだろう。
しかし、言葉には、多くの場合、必然性がある。
その言葉が必要だから、その言葉が生まれたという、誕生の理由を持っている。

言葉の伝統を守ろうとすれば、閉鎖的になりがちである。
極論すれば、江戸時代のように、鎖国した方がいい、ということになりかねない。
しかし、一方で、グローバリゼーションも必然の流れである。
クローズとオープンの折り合いをどうつけるか。
何事も、程合いの問題であるが、それが結局は難しい。
個人の自由は保証しつつ、ルール・制度は最大公約数で、ということであろうか。

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2010年7月 8日 (木)

梅棹忠夫さんを悼む(続)

梅棹さんが、「情報産業論」において、産業の発展の法則性を、生物進化の過程とのアナロジーで捉えたことは有名である。
すなわち、以下のような図式である。

農業の時代=消化器官系の機能充足の時代=内胚葉産業の時代

工業の時代=筋肉を中心とする諸器官の機能拡充の時代=中胚葉産業の時代

脳神経系もしくは感覚器官の機能拡充の時代=外胚葉産業の時代

「文明の生態史観」が生態学の論理のアナロジーに拠っているのと同様である。

現在が、脳神経系もしくは感覚器官の機能拡大の時代であることは、いわゆるIT革命の進展が証明しているだろう。
脳は典型的な情報器官である。
養老孟司氏は、有名な『唯脳論』青土社(8910)で、「情報化社会とは、社会がほとんど脳そのものになって行くことを意味している」と述べた。
同じようなことを、三好万季さんは、次のように言っている(『文藝春秋』2000年臨時増刊号)。
三好さんは、中学生の時、「和歌山カレー殺人事件」を、インターネットを駆使して疑問点を掘り下げ、多くの読者に感動を与えた。
インターネット時代の申し子といっていいだろう。

二十一世紀はインターネットの世紀です。赤ちゃんの脳の中で、爆発的速度でシナプスのネットが編まれるように、物質文明の象徴であるコンピュータが、来るべき気宇壮大な情報文明のインフラとして、爆発的な速度で人類文明の脳神経系を編みつつあります。
脳神経系の飛躍的な発達が、サルからヒトへの驚異的な進化をもたらしたように、人類の文明もまた、今飛躍的な進化の跳躍台に立たされているのです。情報文明は私たちに、サイバースペースという、時空を超えた全く新しい第二の宇宙空間を与えています。

梅棹さんは、「情報産業論」の情報を軸として歴史を捉える見方を、「文明の情報史観」と名づけている。
「文明の生態史観」は、地理的・風土的な条件の違いによる共同体の生活様式の差異が、歴史の発展の仕方にどのように影響するかを論じたものであったが、「文明の情報史観」は、歴史を変革して行く要因としての「情報」の重要性を指摘したものである。
生態史観と情報史観は、歴史の発展法則の、水平軸と垂直軸といえよう。

梅棹さんは、『情報の文明学』中央公論社(8806))において、文明の発展法則を次のように整理している。

文明とは、人間と人間をとりまく装置群とでつくる、1つの系である。また、文明の歴史は、人間・装置系の自己発展の歴史であり、人工的につくりだされた環境としての装置群に着目すれば、それは諸装置の開発と蓄積の歴史である。人類史における1つのおおきな飛躍は、農地という装置と制度をつくりだしたことであり、もう1つの転機は工業の発展である。 
工業の発展は大量の工業生産物をつくりだしたが、現代の工業製品のうち、おびただしい部分がいつのまにか情報担荷体と化している。機能一点ばりの製品がまかりとおる時代はとっくにすぎ、デザインこそが問題とされる。需要は情報にあり、モノそれ自体は、情報をのせる台にすぎないとさえ言える。
文明は、情報というあたらしい人工環境を大規模に展開しはじめている。情報こそは新しい装置群の一種であり、文明系は新段階にはいろうとしている。工業は価値の大転換をもたらしたが、それは、情報という、より根源的な価値転換の先駆形態であるかもしれない。情報を中心とする文明系の新段階において、人間は、根本的な価値の大転換を経験するであろう。

いま、まさに情報という人工環境が大きく変容しつつあるのが実感できる。
3DテレビやiPADなどの登場は、われわれがその最先端をリアルタイムで生きていることを体感させるものではなかろうか。

現在を、巨視的な歴史において、どう位置づけるべきか。
もちろん、誰も証明できないことであり、人によりさまざまであろう。
私自身は、自分が生きている時代が、歴史的な大きな変革期であることに、スリルを感じ興奮すると同時に、的確な認識を持ちたいと願う。
日本でも多くの支持者を持つ経営学者P.ドラッカーは、ITがもたらしつつある現代の革命を、人類史上4度目の情報革命と位置づける(『明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命』ダイヤモンド社(9903))。

1度目は,メソポタミアで5000~6000年前に起った文字の発明による変革であり、2度目は、中国で紀元前1300年頃に起こった書物の発明による変革であり、3度目は、西暦1450年から55年にかけてのグーテンベルグによる活版印刷の発明ならびに時を同じくして発明された彫版による変革である。
現時点では、ITは、経営者に対し、データを供給するに過ぎず、新しい問題意識や新しい経営戦略を与えるには至っていない。
その原因は、経営者の頭の古さによるものではなく、彼らの仕事に必要な情報が出てこないからである。
経営者が現在手にし得る会計システムのデータは、コストを管理するためのものである。しかし、事業を成功させるものは、コストではなく価値の創造である。

コンピュータを基礎とする現在のITは、旧来の会計システムのデータに依存せざるを得ず、それゆえにITは、現場の仕事には大きな影響を与えたが、経営者の仕事にはほとんど影響をもたらさなかった。
新しい情報革命は、データの処理にかかわるものではなく、情報のコンセプトにかかわる革命である。
これまでの50年間、ITはT(テクノロジー)を中心としていたが、これからの情報革命は、ITのI(情報)に焦点を合わせたものとなる。

ITのIに焦点を当てた情報革命の時代とは、脳の機能がますます重要な時代になるということである。
いわば、人類史が本格的に始まる時代である。
脳梗塞というハンディキャップは負っているが、私もその時代を堪能したいと思っている。

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2010年7月 7日 (水)

梅棹忠夫さんを悼む/追悼(8)

梅棹忠夫さんが、7月3日、自宅で亡くなられたことが報じられている。
90歳で、老衰によるものという。
さしもの「知の巨人」も、年齢には勝てなかったということか。
まさに、「巨人」というに相応しい人だった。

『梅棹忠夫著作集 別巻 年譜 総索引』中央公論社(9406)の「梅棹忠夫年譜」を中心に、略歴を追ってみよう。
1920(大正9)年  京都市に生まれる
1936(昭和11)年 京都一中第4学年修了。第三高等学校入学、山岳部入部
1941(昭和16)年 京都大学理学部入学。京都探検地理学会ポナペ島調査隊に参加
1944(昭和19)年 結婚。財団法人蒙古善隣協会西北研究所嘱託
1946(昭和21)年 京都大学大学院特別研究生
1949(昭和24)年 大阪市立大学助教授
1955(昭和30)年 京都大学人文科学研究所講師。カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊に参加
1956(昭和31)年 『モゴール族探検記』刊行
1957(昭和32)年 「文明の生態史観序説」を『中央公論』に発表
1963(昭和38)年 「情報産業論」を『放送朝日』に発表
1969(昭和44)年 『知的生産の技術』刊行
1974(昭和49)年 国立民族学博物館創設、初代館長に就任
1986(昭和61)年 視力喪失。その後も口述筆記で旺盛な著作活動
1989(平成元)年 『梅棹忠夫著作集』刊行開始(1994年に全23巻が完結する)
その後も、1996年1月に、日経新聞の「私の履歴書」(後に『行為と妄想』(1997)として刊行)等の重要著作を発表している。

広範な梅棹さんの足跡を要約することは無謀ともいうべきであるが、敢えて端的に表現すれば、先見性に富んだ文明学者ということであろうか。
上記の年譜からも窺えるように、既に学生時代から海外の探検調査隊に参加していたが、実証的な調査研究を踏まえた骨太の思想家として論壇で注目を集めたのは、「文明の生態史観序説」においてである。
唯物史観による単線的な文明史が強い影響力を持っていた戦後の思想界に、梅棹さんは、生態学の遷移理論を応用した文明史の仮説を提唱する。

梅棹さんは、西洋が先行し、アジアはそれを後追いするという通説に対し、日本と西欧とが平行して進化した、という世界史モデルを提唱した。
第一地域…日本、イギリス、フランスなどの西ヨーロッパ諸国
第二地域…中国世界、インド世界、ロシア世界、イスラム世界
第一地域は、自成的遷移で、封建主義→ブルジョワ革命→資本主義という径路を辿るという点で共通している
第二地域は、巨大な専制帝国として発達し、その中で停滞しているが、一部独裁官僚による社会主義革命が遂行された、他成的遷移である
「文明の生態史観」は、当時の大勢に瀬にパラダイム・シフトを迫るものであり、多くの反発と批判を招いた。
しかし、今日ではむしろ当たり前の考えともいえる。

「情報産業論」の先駆性も、特筆すべきものであろう。
現在、情報産業とか情報社会という言葉は、ごく一般的な言葉として使われている。
しかし、梅棹さんが「情報産業論」を発表した1963年ごろは、諜報に関連する用語として、胡散臭いイメージがまとわりついていた。
この論文自体、「一部の人はみとめてくれましたが、全体としてはほとんど域無視されました」(『情報の文明学』中央公論社(8806))という状況であった。

私は、職業生活の殆どを情報産業の一隅で過ごしており、「情報産業論」は、最も重要な羅針盤であった。
「情報産業論」の論旨は、梅棹さん自身の要約によれば、以下の通りである(『メディアとしての博物館』平凡社(8710))。

人類史において、文明の初期には、まず農業の時代があり、そこでは、食糧の生産が産業の主流をしめた。やがて工業の時代がおとずれ、物質とエネルギーの生産が産業の主流をしめるようになった。つぎに産業の主流をしめるようになるのが、情報産業である。経済的にも、情報の価値が、経済のもっともおおきい部分をしめるようになるであろう。

このような考え方は,文明論としては、現在の定説的見解とも言えよう。
しかし、「情報産業論」は、D.ベル『脱工業化社会』、D.ガボール『成熟社会』、H.カーン『大転換期』、A.トフラー『第三の波』などの、世界的な影響力を持つ著作に先行するものであったことに留意する必要がある。
白根禮吉氏によれば、日本は石油ショックの打撃を最も強烈にうけたが、その打撃からいち早く脱出し立ち直れた。
それは、日本が1960年代の末ごろから、未来予測として情報化社会論を確立し、情報技術を最も重要な開発テーマのひとつとしたからである(『新コミュニケーション革命』東洋経済新報社(8301))。
「情報産業論」は、このような「未来予測としての情報化社会論」の“ハシリ”ともいえる。

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2010年7月 6日 (火)

恐竜はなぜ絶滅したのか?/因果関係論(6)

男の子は、大概恐竜が好きだ、と書いた。
まあ、学術用語としての「恐竜」ではなくて、通俗用語としての「恐竜」である。
1007052
写真は、いずれも産経新聞100705

むしろ、怪獣といったほうがいいのかも知れない。
ウルトラマン・シリーズなどの人気は相変わらず高いようだ。
ウルトラマンの敵役の怪獣たちは、何物にも負けそうもない、強大な生き物である。
それと対峙して、苦闘の末に退治するというのが、様式化したストーリーである。
いわば、水戸黄門などと共通するもので、勧善懲悪の場合、敵役は、強ければ強いほど、悪ければ悪いほど、ヒーローは人気を高める。

この敵役の怪獣が、恐竜をもとにイメージされたのは、ハシリともいえる『ゴジラ』の姿形からして明らかであろう。
怪獣は、必ずしも敵役ばかりではないが、強い存在であることは共通している。
恐竜は、中生代(約2億5000万年前~約6500万年前)に生息し、白亜紀末の約6550万年前に、絶滅したとされる。
この、かつて地球上でわが世の春(?)を謳歌していた巨大な生物は、なぜ絶滅してしまったのだろうか?
どんな強者といえども、永遠に繁栄を続けることは不可能なのか?
驕れるものは久しからず?

恐竜などの大型爬虫類が絶滅したという白亜紀末には、当時生存していた生物種の約7割が絶滅したという。
はたして、地球に何が起きたのだろうか?
子供のみならず、大人にとっても興味深いテーマである。
産経新聞100705に、「宇宙-その過去から未来を解き明かす」という記事が掲載され、約6550年前の「恐竜の突然の絶滅」に関する長年の論争に、終止符が打たれたとされている。

大型爬虫類の絶滅に関しては、大規模火山噴火説、複数の天体衝突が原因とする説、突然ではなく徐々に減少したとする説などがあった。
これについて、世界の学際的な研究者41人の研究チームが、米科学誌「Science」の100305号に、小惑星の衝突による環境変動が原因と結論づけたことが発表された。
1980年に、ノーベル物理学者のルイス・アルバレズ博士らにより提唱され、1991年に、メキシコのユカタン半島で直径約180キロの白亜紀末に形成された大クレーター(チュチュルブ・クレーター)が発見されて、賛同者が増えていたものだ。

該説とは、以下のようなものだ。
直径10~15キロの巨大隕石が、秒速20~30キロで、浅い海の下にあったユカタン半島に衝突し、クレーターを生成した。
そのエネルギーは、冷戦時代に米ソが保有していた核爆弾を、全部同時に爆発させたものの1万~10万倍と計算されている。
といっても、なかなか実感できる数字ではないが、ともかく想像を絶する規模であったことは間違いない。
1007052_2
しかし、これにより、生物大量絶滅の謎が完全に解明されたかというと、そうではない。
研究チームに参加した惑星科学者の松井孝典氏や地質学者の後藤和久氏は、次のようにいう。
生物がどのような因果関係で絶滅していったかを説明しなければならない。
例えば、白亜紀末においても、ワニやカメは生き延びている。
生き延びた種と絶滅した種の違いは何か?
それが、天体衝突による環境変動とどういう関係にあるか?
謎は謎を呼び、その解明の夢は広がる。

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2010年7月 4日 (日)

「恐竜の脳」の話(7)恐竜とは何か

ところで、「恐竜」とは何であろうか?
「恐竜」が爬虫類の一種であることは、誰でも知っている。
大概の男の子は、「恐竜」が大好きである。
「恐竜展」のようなイベントは、夏休みの定番であると言っていい。
今年も、六本木ヒルズで「地球最古の恐竜展」と題するイベントが、7月10日から開催される。
http://www.kyoryu-saiko.jp/pc/top.html

私たちの世代なら、「ゴジラ」を思い浮かべる人が多いだろう。
「ゴジラ」とは、改めて説明すると、以下の通りである。

ゴジラは、日本の東宝が1954年(昭和29年)に公開した特撮怪獣映画『ゴジラ』に始まる一連のシリーズ作品及び、それらの作品に登場する架空の怪獣の名称である。
WIKIPEDIA:最終更新100616

上記のように、「ゴジラ」は息の長いシリーズ作品であるが、その第1作を、小学生だった私は田舎の映画館で観た記憶がある。
印象的だったのは、苦悩する科学者・芹沢役の平田昭彦という俳優だった。
後に、東大法学部出身であることを知ったが、子供心にもいかにも知的な風貌であったのが印象に残っている。
今でいう「インテリ芸人」のハシリということになろうか。

作品の概要は、以下の通りである。

1954年11日、同年3月1日にビキニ島の核実験によって起きた第五福竜丸事件をきっかけに製作された、第1作“水爆大怪獣映画”『ゴジラ』が公開される。身長50メートルの怪獣ゴジラは人間にとっての恐怖の対象であると同時に、「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。また核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品となった。
WIKIPEDIA:最終更新100616

人間の手が生み出したものが、人間を滅ぼす可能性を持ってしまうという設定は、チャペックの『R・U・R』(ロボットという語が用いられた作品)や 『山椒魚戦争』と共通するものであろう。
また、「ゴジラ」は、怪獣映画から派生して、メジャーリーガー・松井秀樹の愛称となっていて、今では、アメリカ人にも良く知られている。

それでは、「恐竜」についての説明はどうであろうか?

通俗的には、「恐竜」という言葉は往々にして「大昔の巨大爬虫類」という程度の把握しやすいイメージで理解されており、翼竜や魚竜、首長竜などもひっくるめた概念として呼ばれる場合が多い。いわゆる“恐竜展”や子ども向けの“恐竜図鑑”などでも、翼竜、魚竜、首長竜を展示/掲載するものはよく見かける。
いっぽう、学術用語としての「恐竜」は、地表に生息しているもののみを指し、翼竜、魚竜、首長竜などは一切含まないものである。

WIKIPEDIA:最終更新100629

つまり、「恐竜」には、通俗的な用法と学術的な用法とがあり、当然のことながら、後者がより厳密(狭義)である。
「恐竜」の場合もそうであるが、何かを分類する場合、広狭さまざまな分け方がある。
そして、「分ける」ことは、「分かる」ことと密接な関係がある。
多くの場合、適切・的確に「分ける」ことができた場合、「分かった」という感じがするのではないか。

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2010年7月 3日 (土)

「恐竜の脳」の話(6)山椒魚(3)

「山椒魚」といえば、日本人にはチャペックの『山椒魚戦争』よりも、井伏鱒二の短編小説『山椒魚』の方が馴染み深い。
作品は、「山椒魚は悲しんだ。」という簡明にして印象的なフレーズで始まる。
棲家にしていた岩屋から、頭がつかえて外に出られなくなってしまったのである。
2年間に彼の体が発達したからであるが、そのことは山椒魚を狼狽させかつ悲しませた。
予期せぬ事態に直面し、どうしようもないことを知ると、人間だって同じである。
脳梗塞により後遺症が避けられないと理解したとき、私もまた相当うろたえていたはずである。

山椒魚は、目を閉じ、目蓋を開こうとしなかった。
彼に残された自由はそれ位しかなかったのだ。
そして、目を閉じることが、彼を暗闇の世界に閉じ込め、悲嘆にくれさせた。
そのことが、かれの性質をよくないものにした。
そして、岩屋に迷い込んできた蛙にいじわるをし、言い争いになる。

この作品は、短編であるがゆえに、多様な読み方が可能である。
中学校の国語の教科書にも取りあげられたから、読者の裾野も広い。
井伏鱒二の代表作の1つとも目される。
1929年に、「文芸都市」に発表されたのが初出である。

井伏鱒二は、推敲(加筆修正)を重ねることで有名な作家であった。 
この『山椒魚』も、1985年(初出から56年後)に、『井伏鱒二自選全集』(新潮社)に収録するに際して、大胆な推敲(改変)を行い、末尾の部分をすべて削除してしまった。
末尾は一般に読後感に最も影響を与える部分であるが、その箇所の、全体の約1割相当の分量をカットしてしまったのである。
このことを巡っては、当然さまざまな論議が交わされた。
果たして、妥協を許さない作家精神として称揚すべきことなのか?
それとも、既に中学校の教科書にまで採用されている作品を、作者だからといって、読後感が変わってしまうほど改変することが許されるのか?
それは、権利の濫用ともいうべき暴挙ではないのか?

おそらく、改編前の作品と改変後の作品とでは、読者の解釈は異なってるであろう。
筑摩書房版現代日本文学大系65の『井伏鱒二・上林暁集』(7008)の解説で、武田泰淳も、後に削除された部分のさらに最終部の、空腹で動けない蛙と山椒魚の会話の様子を取り上げている。

「それでは、もう駄目なようか?」
相手は答えた。
「もう駄目なようだ」
よほど暫くしてから山椒魚はたずねた。
「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」
相手は極めて遠慮がちにに答えた。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」

この三つの「よう」について、武田泰淳は、「性急な表面的断言を嫌って、底にこもった苦悩をひかえ目ににじみ出させる、触媒の作用を持たされている」と解説する。
つまり、山椒魚や蛙にいかにも相応しい「スラスラした雄弁には無い、音響ならびに光線の屈折の含有」を読む。
この会話は、いわば『山椒魚』という作品のキモであると位置づけている。

また、この部分から、山椒魚と蛙の和解が暗示されている、と解釈した読者がいたとする。
読書感想文には、その類が多かったのではないかというのは、あながち的外れな推測とは言えないと思われる。
しかし、それは作者の意図するところではなかったのかも知れない。
作者の真意が誤解されて解釈されていたとすれば、誤読を招かないように推敲するというのは理解できる。
それで、末尾の部分をカットした。
しかし、そこは作品の最も重要な箇所であった。

一般論として、作品の意図を守るのが作家の権利だ、というのは正しいであろう。
しかし、作者の意に反して、「誤読する」こともまた読者の権利なのではなかろうか?

いずれにせよ、私たちは現在、改稿前と後の2つの作品を読むことができる。
文庫版など、現在市場に出ているのは改稿後のものであろうが、図書館等には改稿前の版が収蔵されているはずである。
私は余りムキにならないで、どちらの方が自分の好みにフィットするかという楽しみが増えたと考えればいいのではないかと思うが、如何だろうか。

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