「恐竜の脳」の話(4)山椒魚
山椒魚という動物がいる。
「魚」という字が使われているが、生物学的な分類においては、「魚類」ではなく、「両生類」と呼ばれている。
「両生類」とは、以下のような生物である(広辞苑)。
脊椎動物の一種。魚類と爬虫類の間に位置し、多くは卵生であるが、胎卵生のものもある。変温動物。皮膚は柔らかく湿っている。一般に四肢があって、前肢に2~4指、後肢に2~5趾を有する。普通、幼時は鰓があって水生だが、成長すると鰓が消失して肺を生じ、陸生となる。アシナシイモリ目(無足類)サンショウウオ目(イモリ・サンショウウオ・オオサンショウウオなど。有尾類)、カエル目(無尾類)などに分ける。両性綱。
つまり、私の主治医の西大條先生の説で言うならば、恐竜以前の「古い脳」(だけ)の持ち主である。
両生類というのは、名称からして何やら怪しげ(両義的)であり、ナニカを象徴するにふさわしいように思う。
「山椒魚」という言葉によって、チェコの作家カレル・チャペックの『山椒魚戦争 #岩波文庫#』(栗栖継訳 (1978)を想起する人がいるだろう。
私は、チャペックの名前は、「ロボット」の造語者として記憶にあったが、「文藝春秋1005」に掲載された佐藤優氏の「古典でしか世界は読めない 第4回「イルカ、マグロ、山椒魚」によって、この作品を知った。
チャペックは、戯曲『R・U・R(エル・ウ・エル)』(1920年)において、「人造人間」を意味する言葉として、ロボット(robot)を使用した。
『R・U・R』とは、「Rossum's Universal Robots」の略であるが、robotは、ギリシャ語arbeit=働く、から転じたチェコ語のrebotaを語源としているということである。
『R・U・R』の概要は、労働者の代役として安上がりで文句を言わないロボットを作ったが、数の増えたロボットに人間が滅ぼされる、というもので、「科学技術の発達は、本当に人間に幸福をもたらすのか」という問題提起の作品である。
ロボットは、今では、人間の代役をするモノという共通性のもとに、世界的に用いられているが、人間のどの部分に着目するかによって、その性質はさまざまである。
ロボットの進化の軸としては、次の2つを挙げることができる。
第一は、産業用ロボットといわれる分野である。
この場合、形態的な面での人間との共通性は捨象されるが、廉価な労働力という意味では、チャッペックの意図に近い。
工業生産において、いわゆるオートメーションを推進する基盤として幅広く利用されると共に、放射能など危険な用途や各種の連続運転などの特殊な用途においては、人間の限界を超える働きをする。
第二は、人間の各種の活動の本質を理解しようとする試みである。
人間だけが飛躍的に発展させ得た脳の働きを、シミュレーションすることにより、理解を深めることを意図している。
特に、高次脳機能といわれる推論や感情の問題の解明に寄与することが期待される。
上述のように、ロボットは、チャペックが意図したように、あるいはチャペックの想定を越えて、「科学技術の発達」の象徴でもある。
「科学技術の発達」といえば、現代社会に生きる我々は、直ちに原子力のことを思い浮かべるであろう。
原子力のエネルギー源としての重要性は、いまさら言うまでもない。
特に、二酸化炭素を排出しないので、地球温暖化対策の上では不可欠であると位置づけられている。
一方で、周知のように、原子力を兵器として使用すれば、人類を何回も滅亡させ得る破壊力を持っている。
科学技術の進歩の精華である原子力は、プラスにもマイナスにも大きな力を持っているが、本当に人類の幸福に繋がるのか否か、結論は未だ出ていないというべきであろう。
しかし、『R・U・R』が発表されたのは1920年である。原水力の理論的基礎というべき量子力学が定式化されたのが、1926年だとされており、チャペックの問題提起の鋭さには脱帽せざるを得ない。
『山椒魚戦争』(1936年)は、ロボットを山椒魚に置き換えて、改めて同じテーマを追求した作品ということができる。
すなわち、山椒魚は、安上がりで扱いやすい労働力として飼育されたのだが、やがて人間を脅かすほどの量にまで繁殖することになる。
きっかけは、劣悪な条件下に置かれた山椒魚の地位向上問題であった。
たとえば、教育問題である。
「山椒魚問題」に関する女性の先駆者は、次のように情熱的に説く(上掲書)。
文化が今後も持続するためには、誰でも教育をうけられるようにしなければなりません。人為的に動物の状態におかれているかぎり、われわれは文明の恵みも文化の果実も、のほほんと味わってはいられないのです。十九世紀のスローガンが『婦人解放』であったごとく、今世紀のスローガンは『山椒魚にしかるべき教育を!』でなくてはなりません。
なにやら、「友愛」というスローガンを思い浮かべてしまうが、かくして、山椒魚は、一定の知力を獲得していき、「文明の階段を登る」ことになる。
そもそも文明とは、他人が考え出したものを利用する能力のことではなかったか。たとえ、山椒魚には、独自の思想がなくとも、けっこう優れた科学を持つことができる。山椒魚には、音楽や文学はないが、彼らはそんなものがなくとも、ぜんぜんこまらない。こうなると、山椒魚のやり方が、すばらしくモダンに見えて、今度は人間の方で、彼らの動きを見守る始末である。
……
「われわれ山椒魚時代の人間は」と、誇りをもって言われたものだが、むべなるかなである。カビのはえた「人間時代」は、文化・芸術・純粋科学などといわれた、ぐずでくだらぬガラクタとともに、もはや事物の本質を深く探究して時間を空費するようなことは、しないだろう、とのことである。事物の数と量産こそ、これから人間の関心の対象になる、というのだった。
文化・芸術・純粋科学などが、「ぐずでくだらぬガラクタ」として、仕分けられかねない世相を予見しているようであるが、民主主義は本質的に「事物の数=量」を競うものであろう。
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