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2010年5月 2日 (日)

「恐竜の脳」の話(2)オウム真理教をめぐって

先頃、国松元警察庁長官が狙撃された事件が、時効(15年)を迎えた。
月日の流れるのは早いものだ、と改めて思う。
この年(1995年)は、年明け早々の阪神淡路大震災に続いて、地下鉄サリン事件などオウム真理教が引き起こした諸事件が世の中を騒がせていた。
まさに、物情騒然といった情勢であった。
国松元長官狙撃事件は、そんな雰囲気の中で発生した。
「また、オウムか!」と多くの人が考えたのではないだろうか。
私もまた、報道に接し、瞬間的にそう思ったように記憶している。

結局、犯人を特定できないまま、時効期日を迎えたわけである。
警察サイドは、現在も、オウム真理教が犯人であるとする考えであることを、あえて公表した。
しかし、ならば、なぜ犯人名に触れないのか。
具体的な実行犯を、確信をもって特定できないということであろう。
言ってみれば、警察も状況証拠以上のものを持っていないのではないか。
オウム犯人説をことさらにアナウンスしたのも、犯人を捕まえられなかったことの言い訳めいて聞こえたことは否定できない。

状況的には、確かに同教団はかなり黒っぽい。
しかし、いくら黒っぽいとはいえ、灰色と黒は質が違うと言うべきであろう。
法的に確定した訳でもない犯人像を、警察が公表するのは果たして妥当なことなのか?
過去の冤罪が問題視されている折りでもある。
捜査当局としては、もう少し慎重であるべきではなかったか?
たとえ容疑者として裁判中であっても、罪が確定するまでは、犯人として扱われない(推定無罪)。
また、状況的に黒だと思われるものであっても、「疑わしい」というだけで処罰するべきではない(疑わしきは罰せず)。

オウム真理教については、教団幹部に、有名大学の理系の学歴の人間が多かったことが思い起こされる。
このことに関しては、一般教養(general arts)の欠如という視点で捉えられることが多い。
確かに、荒唐無稽ともいうべき教義を疑わなかったとしたら、批判されてしかるべきであろう。
しかし、ものごとは相対的である。
「幸福の科学」教団あるいは幸福実現党の方が、より荒唐無稽だともいえる。
もちろん、創価学会あるいは公明党、マルクス・レーニン主義あるいは日本共産党の方が、より荒唐無稽であると考える人もいるだろう。

私は、オウム真理教の教団幹部に、理系有名大学出身者が多いことは、西大條ドクターの「恐竜の脳」の話の1つの事例のように思える。
執筆時には、オウム真理教がまださほど社会的関心を集めていなかったと記憶している。
したがって、西大條ドクターは、(未確認ではあるが)オウム真理教を想定して執筆しているわけではないと思う。

理系高学歴人間とは、いわば「新しい脳」が秀でた人の典型であろう(もちろん例外はあるが)。
彼らが、真摯に状況と向き合ったとき、そこに彼らとは異なる資質の教祖・麻原彰晃がいた。
「恐竜の脳」に特化したような存在である。
西大條ドクターの言うように、「恐竜の脳」自体は必ずしもマイナスの価値を意味するものではない。
むしろ、これからの時代には大いに期待されるものである。
しかし、果たしてオウム真理教あるいは麻原彰晃はどうだったか?

オウム真理教に帰依した人は、自分の閉塞感を解放してくれるものとして、教義を理解した(かった)であろう。
しかし、それは単なる勘違いというものである。
彼らが、「新しい脳」だけでなく、「古い脳」とのバランスがとれていたら、ある段階で「気づいた」はずである。
いわば、健全な常識というものである。
人を殺すことを平然と指示できるような思考が、未来に向かって可能性を広げるものであるわけがない。
やがて、彼らの多くが目が覚めることになるが、未だマインドコントロールが解けない人もいる。
脳の不思議なところである。

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