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2010年4月11日 (日)

闘病記・中間報告(3)初期微動を捉えられるか

1泊2日で、3回目の外泊訓練。

徐々に介助の必要度を軽くし、自立した生活に戻りたい。
そのためには、多少の冒険も必要ではなかろうか。
リハビリ患者にとって、「ムリは禁物」というのは鉄則である。
ムリをして転倒してしまい、最初からやり直すことになってしまった事例を身近に見てもいる。
「ムリをしないで!」というのはごく当たり前の注意である。
だが、100%の安全などあり得ないのではないか。
日常生活にだって、どこにリスクがあるか分からない。
もちろん、危険な(匂いのする)ものには一切近づかないという生き方はあるだるう。
しかし、危険の方から近づいて来る場合もある。

子供に、「知らない人に話しかけられても、相手をしてはいけない」というのは、母親がよく言う言葉であろう。
しかし、4月8日の産経新聞「正論」欄の加藤秀俊さんの『「こども」はカネでは育たない』にあるように、「危ない(と思われる)ものに一切接触しない」のは如何なものだろうか。
事実として、世の中には「悪い人」もいる。
係わりを持たないことに越したことはないが、そうもいかないのが社会というものである。
だから、危険のもの一切にアンタッチャブルにはできない。
いずれは「悪い人」にも出会うとしたら、少しずつ慣れていた方がいいのではないか。

リハビリでも、100%の安全を目指すことがベストであろうか。
私は、適度なムリ、という一種の矛盾した行為が必要ではないかと思う。
言葉を換えれば、管理されたムリ、とでも言えようか。
リスクを測りながら、ある程度新しいことにチャレンジすることも辞さないという姿勢である。
それは、ある面で企業のマネジメントに通ずるもののような気がする。
企業もリハビリ患者も生き物である。
生き物は常に環境の変化にさらされている
適応していくためには、「新しいモノ・コト」に直面し、それに主体的に向き合っていくことが必要である。

4月7日の払暁、ジャイアンツの木村拓也コーチが、くも膜下出血で亡くなった。
4月2日の夕暮れ近く、広島で、試合前の守備練習中にノックをしていて倒れ、市内の病院に救急車で運ばれたが、そのまま意識が戻ることはなかった。
木村コーチは、昨年まで現役のプレーヤーとして活躍し、投手以外のすべてのポジションに対応可能、左右両打ちができるという、文字通りのユーティリティ・プレーヤーだった。

今年から、原監督の要請で、コーチに就任したばかり。
37歳だった。
一般的に言って働き盛りの時期であり、本人もまったく予期しない出来事だったと思う。
無念だったに違いない。

くも膜下出血と脳梗塞と脳出血の総称が、脳卒中である。
「卒」は、「卒然と」などという表現から分かるように、「突然に」とか「にわかに」といった意味である。
「中」は、「中る=あたる」である。広辞苑には、「対象に向かって直進し、対象がそれに対応するショックや反応をおこすような作用をいう」と説明されている。
つまり、脳卒中は、脳が突然ショックを受けたような現象ということ、と理解できる。
木村コーチはその典型例といえよう。

脳卒中は、端的に言えば、脳の血管の障害のことである。
くも膜というのは、脳を保護する膜の1つで、頭蓋骨の内側に、硬膜・くも膜・軟膜の層がある。
くも膜と軟膜の間が、くも膜下である。脳脊髄液で満たされていて、クッションの役割を果たしている。
脳の血管の出血がくも膜下に及んだのが、くも膜下出血である。

脳梗塞と脳出血は、脳の血管が詰まったり(脳梗塞)、破れて出血したり(脳出血)して、脳の細胞が壊死する現象である。
言い換えれば、脳出血は出血を伴う脳梗塞である(栗本慎一郎『脳梗塞になったらあなたはどうする』たちばな出版(第1刷0105/第7刷0903))。
したがって、広義には、脳梗塞は脳出血を含むと考えることもできる(上掲書)。
私の場合は、出血を伴わない狭義の脳梗塞である。
念のために言っておけば、出血の有無と重軽の程度は無関係である。

小渕元総理は、私と同様、狭義の脳梗塞だったといわれるが、致命的なダメージを受けたことは周知の通りである。
小沢一郎現民主党幹事長との権力闘争による心労が引き金になったのではないか、といわれている。
また、私と同じ病室の人は、私とほぼ同時期に脳出血を発症した。
意識を失ったということだが、私と時を同じくして転院してきた際には、身体的な後遺症はほとんど見られず、1ヶ月余で退院した。

「脳細胞の壊死」とは、栗本氏も言うように、イヤな言葉である。
脳細胞に酸素が供給されず、つまり酸欠状態で、いわば窒息死するわけである。
壊死までの時間は、酸素が途絶えてから、わずか3分程であるという。
栗本氏の著書は、自身の体験を踏まえた警告の書として、多くの人が参考にすべきだとは思うが、リハビリ中の人間としては、いささかブルーな気分になる。

前回、脳梗塞(脳卒中)の予知は、基本的に不可能であるとした。
木村拓也さんのように、健康(そう)な人が、文字通り卒然と襲われる。
果たして、彼の発症を予測できた人がいたであろうか。
その意味で、脳卒中の予知は不能あるいはきわめて難しいのは事実である。

ふたたび、地震とアナロジーで考えみよう。
地震には2つの波がある。

地震のゆれは2つの「波」として伝わってきます。
地震発生してしばらくして、カタカタと小さなゆれが伝わってきて、その後大きなゆれが届きます。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/lylle/jishin1.html

この最初のカタカタという揺れが、初期微動といわれるものである。
地震の場合、初期微動を捉えることができれば、被害を大幅に軽減することができる。

私の友人は、歩行中に足の異変に気づき、その後の予定をすべてキャンセルする手配をして病院に直行した。
検査の結果、脳梗塞だったのだが、ごく初期の段階だったため後遺症らしきものは見られない。
彼(の主治医)の話では、歩行中が幸いであったらしい。
会議中などで座っていると、気づきが遅れた可能性があるという。
幸いにして、友人の場合には、初期微動を感知し得たことになる。

木村拓也さんと私および私の友人の脳の中で起きたことは、ほぼ同じことで、ごく微細な差があったに過ぎない。
しかし、結果として遺されたものの差異は限りなく大きい。
何が異なっていたのか?
運動神経は無関係というべきだろう。
プロ野球のレギュラーになる位の人は、とうぜん人並み以上の運動神経の持ち主である。
なかでも木村コーチは抜群の器用さをもっていた。
同じく脳梗塞を発症した長嶋茂雄氏は、運動神経の申し子のような人である。

脳のメカニズムは精妙で未だ分からないことも多い。
しかし、初期微動の段階で気がつくか否かが、大きな分かれ道であることは疑い得ない。
できれば、初期微動を感知したいものである。
初期微動を捉えるためには鋭敏なセンサーが必要であるし、さまざまなノイズに惑わされない判別力も求められよう。
そして、そのような準備があったとしても、必ず初期微動が捉えられるとは限らない。
後は、運命の女神に好かれる努力をするかないのではないか。

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コメント

順調に回復している様子なによりです。脳の機能には殆んど影響は残ってい無そうですね。
私のほうは月一回の検査がしばらく続きますが、いまのところ異常はありません。
退院したら奥さんとすこしリスクを犯して千葉まで遠出をしてみてください。  田中

投稿: 田中義明・京子 | 2010年4月29日 (木) 19時10分

田中様

有り難うございます。
脳への影響は、まだよく分かりません。
今のところ、日常生活に支障を来すことはないように思いますが、現実にマヒがある以上影響が全く無いハズもありません。加齢による機能低下との識別も困難です。
千葉辺りまでは出かけられるよう、回復したいと思っています。

投稿: 管理人 | 2010年5月 1日 (土) 20時34分

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