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2009年12月21日 (月)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(5)承久の乱

古来、天皇は、政治利用される対象であると共に、しばしば自ら政治権力者として行動してきた。
天智天皇は、中大兄皇子として大化改新の主導者として理解されているし、天武天皇は、壬申の乱に勝利して天皇位に就いた。
天皇号を初めて用いたのも天武天皇とされる。
天武朝は、天皇親政だったが、天皇の政治的権力を高めようとするときのスローガンが「天皇親政」という言葉だった。
明治維新は、長らく武家に握られていた政治権力を朝廷に大政奉還するものであった。

鎌倉幕府の成立後、鎌倉の武家政権と京都の公家政権が並存していた。
承久元(1219)年、3代将軍の実朝が、甥の公暁に暗殺された。
実朝の死後、鎌倉の政務は頼朝の正室の北条正子が代行し、弟の執権・義時が補佐する体制となった。
朝廷の最高権力者は後鳥羽上皇だった。

鎌倉サイドは、実朝の後継将軍として皇族を迎えたいと申し出るが、後鳥羽上皇の求めた条件が幕府の根幹を揺るがすものとして拒否した。
義時は、皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、執権を中心とした政務体制となったが、この将軍継嗣問題により、義時と後鳥羽上皇との間にしこりが残ることになった。

朝廷と幕府の緊張が次第に高まっていき、後鳥羽上皇は討幕の意思を固める。
土御門上皇は反対の立場であり、多くの公卿たちも反対もしくは消極的だったが、順徳天皇は積極的だった。
承久3(1221)年5月14日、後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して挙兵した。
「承久の乱」である。
京方は、院宣の効果を過大視し、「義時は朝敵となったので、義時に参ずる者は千人もいないだろう」と楽観視していた。

上皇の挙兵に鎌倉の武士は動揺したが、武士たちを鼓舞して団結を高めさせたのは、政子のアジテーションだったとされる。
政子は、追討令は、上皇側近の讒言によるもので、不条理なものであり、頼朝の恩顧を説いて、上皇との戦いに向かう決意を固めたという。

『増鏡』には、北条泰時が、「もし鳳輦を先立て、上皇みずから軍の先頭に立って攻めてこられた場合」にどうすればいいかと問うたのに対し、義時が、「君の御輿に弓を引くことはできぬ。鎧をぬぎ、弓の弦を切って降参するほかない。だが、上皇が洛中にとどまり、軍兵だけが派遣されてきた場合には、千人が一人になるまでも戦うべし」と答えたとされる。
この時点では、朝廷の権威はそれだけ大きかったわけである。

結果として京方は大敗した。
首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島に、順徳上皇は佐渡へ配流となった。
朝廷の権力奪還の試みは敢え無く失敗し、朝廷は幕府に完全に従属することになった。
律令制は実質的に崩壊し、古代から中世への転機となった乱であった。
大化改新と対をなす出来事だったと見ることができる。

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