「事業仕分け」と「裁判員裁判」/「同じ」と「違う」(16)
行政刷新会議による「事業仕分け」の様子に対して、人民裁判のようではないか、という批判があるようだ。
確かに、「仕分け人」なる言葉も流通しており、TVドラマの「必殺仕事人」を連想する人もいるのではなかろうか。
さしずめ、「仕分け人」は、長い間さまざまな利権を欲しいままにしてきた「悪い奴ら」を倒す仕事人である。
国民の支持の背後に、そのような勧善懲悪的な心情が作用していることは否めないだろう。
しかし、それは一時的なものに過ぎないと思われる。
確かに、私も、TV映像を見ながら、何となく60年代末の学生反乱の状況を思い出すことがあった。
それは「知性の叛乱」としての要素も多分にあったが、一方で、碩学の教授たちに向かって、「テメェ、バカヤロー、ちゃんと答えろよ」などと罵声を浴びせる、およそ知性の感じられない状況もあったことは事実である。
しかし、今にして思えば、それは戦後史における一種の通過儀礼ではなかったかと思う。
戦後復興から高度成長へ。めまぐるしく変貌する社会を何事もなく過ごすわけにはいかなかったのではないか。
私は、「事業仕分け」の報道に接しつつ、裁判員裁判のことを考えた。
今まで専門家の手に委ねられていたことに関して、市民の目線を導入するという意味では、両者に共通するものがあるように感じられたのである。
もちろん、片や公共的な政策に対する判断、片や個人的な量刑に対する判断であるから、両者のテーマは全く異なるものである。
しかし、専門家の閉じた世界での判断から、より開かれた世界での判断へというベクトルは共通するものであろう。
私は、裁判員裁判の制度についてはいささか疑問を持つものである。
2009年1月24日 (土):裁判員制度に関する素朴な疑問
2009年5月16日 (土):裁判員制度と量刑判断
2009年6月 6日 (土):冤罪と裁判員制度
2009年6月10日 (水):刑事責任能力の判断と裁判員裁判
2009年8月 4日 (火):裁判員制度と刑法総論
社会的にみて如何なものか、と思う判決が出されることがある。
だから、「市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映させる」ために、市民が直接裁判に参加しなければならないものかどうか。
刑法的思考の訓練を受けたことのない一般市民が、的確な判断を示せるものなのか。
冤罪の可能性というのは常に存在すると考えられるだろうが、一般市民がその精神的負担に耐えるべきなのか。
これに対して、「事業仕分け」は公共政策の判断の問題である。
究極的には一般市民・大衆の多数決の論理によるべきものである。
専門性も必要とされる場合もあるのだろうが、すべての分野に対する専門家はいない。
また、すべての案件を、国民投票に付すわけにもいかなりことは自明である。
議員なり有識者に代理的に権限を委ねざるを得ないのが現実だろう。
「木を見て、森を見ず」ではないか、という批判もある。
しかし、森の姿を直ちに目に見えるものとすべきである、というのはないものねだりというものだろう。
今までと比べてより良いかより悪いか、と考えるべきだろう。
確かに劇場的な方式で行われたことにより、仕分け人にはキャストという意識があったと思うし、国民には観劇的な気分もあっただろう。
そして、先般の事業仕分けの風景には、佐伯啓思京都大学大学院教授が言うように、「反論の余地なき正義を振りかざして全権を行使する」(産経新聞12月2日「正論」欄)ように感じられる局面があったことは事実である。
しかし、「反論の余地」はもちろんあったのだろうし、仕分け人に全権が委ねられているというわけではないだろう。
佐伯教授が言うような、優等生が議論を誘導するようなイヤラシサの感覚は私も共有するものであるが、それはまだ不慣れだから、ということもあるのではないか。
公開されている以上、成熟してくるに従い、一般良識的な判断に収斂してくると思う。
しかし、裁判員裁判はこれとは異なる。
1回ごとに選任される裁判員には、判断を成熟させるプロセスは予定されていないからである。
市民の持つ日常感覚や常識は重要だろうが、専門性を軽視すると、衆愚の発露に陥る可能性があることを心しておかなければならないのではないだろうか。
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