「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(2)玉松操
内政上の「30日ルール」を破って、中国の習近平副主席との会見の機会を設定したことについて、激しい批判が起きている。
もちろん、現代において、天皇の政治利用は戒められるべきことであろう。
しかし、日本史は、ある意味で「天皇の政治利用」の歴史でもあった。
「大化改新」「建武中興」「明治維新」「二・二六事件」……
「天皇の政治利用」という言葉から、「玉」という言葉を連想する。
東京大学教授の山内昌之氏は、産経新聞に連載している『幕末から学ぶ現在』で、次のように書いている。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091217/acd0912170807002-n1.htm
木戸孝允や大久保利通ら政治工作に巧みだった薩長の人間は、幼少の明治天皇を隠語で「玉」と称して、ひそかに抱え込み、「玉」の威力で官軍を名乗ることに成功したのであった。
これは最も大胆な天皇の政治利用にほかならない。この時に、錦旗を考案して討幕軍を鼓舞したのが玉松操である。
玉松操は余り馴染みのある名前ではないが、Wikipediaでは以下のように解説されている(2008年10月22日最終更新)。
玉松 真広(たままつ まひろ、文化7年3月17日(1810年4月20日) -明治5年2月15日(1872年3月23日))は幕末期の国学者。岩倉具視の謀臣として王政復古の勅を起草したことで有名。通称は操。雅号は毅軒。
京都で国学者大国隆正に師事したが、やがて師と対立して泉州に下り、さらに近江国真野に隠棲。三上兵部、樹下茂国らを弟子とした。1867年、三上の紹介によって岩倉具視に会い、その腹心となる。以後、幕末維新期の岩倉と常に行動をともにし、その活動を学殖・文才によって助けた。
ことに有名なのは小御所会議の席上示された王政復古の勅を起草したことであろう。さらに玉松は、早晩幕府との交戦があることを予想し、官軍の士気を鼓舞するための錦旗のデザインを考案するなど、その功績小ならざるものがあった。
つまり、「錦の御旗」を考えた人であった。
錦の御旗とは次のような旗である。
もっと 古くからあったような気がしていたが、歴史はそんなに古くない。
しかし、その威力は大きかった。
山内氏は、以下のように解説している。
東海道や東山道を下る軍の先頭を飾った日月章の錦の御旗と菊花の紅白旗は、そのまま古代から公の旗として格別に使われていたわけでない。下級公家出身の玉松の工夫したデザインは、あたかも朝廷に長く伝えられた由緒ある制式の旗でもあるかのように各地の人びとを心服させる魔法の役割を演じた。
つまり、幕末において、既に古くから使われていたように錯覚されていたということである。
「旗」というものは、まことに不思議な働きをするものである。
「旗幟鮮明」という言葉があるように、その立場を明確に示すものであるが、アイデンティティを示す最も有効な手段ともいえよう。
そういえば、最近は、国民の祝日に国旗を掲げている家を見る機会が激減している。
私などの世代は、日章旗に対する拒絶感はほとんどない。
紛糾の上「国歌・国旗」を法制化したが、現状を見る限り、その効果は余りなかったということになる。
しかし、「錦の御旗」に「天照皇太神」とあるように、皇国史観と一体のものであった。
山内氏は、次のように説いている。
(玉松操は)幕末薩長の倒幕リーダーたちが天皇を「玉」と呼ぶなどプラグマチックな活動家だったことを知っていたはずだ。
そのうえで、「玉」という考えにあたかも象徴的権威を与えるために「旗」を考案したのだから、新政府が倒幕を実現して想像以上の欧化主義を採用したとしても自業自得というところであろう。
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