「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(4)二・二六事件
「文藝春秋2010年1月号」に、『昭和の肉声-いま甦る時代の蠢動』という特集記事に、「今からでも遅くない」という言葉が取り上げられている。
「二・二六事件」の戒厳司令官の言葉である。
「二・二六事件」は、事件を起こした側も、鎮圧した側も、天皇を政治利用した代表的な例と言っていいだろう。写真は、http://homepage3.nifty.com/yoshihito/niniroku.htm
昭和11(1936)年2月26日の未明、22名の青年将校に率いられた1400余名の下士官兵が、重臣たちの官私邸を襲撃した。
内大臣斎藤実、教育総監渡辺錠太郎が即死、蔵相高橋是清は、重傷のち死亡。侍従長鈴木貫太郎は重傷を負った。
決起に参加した人数からしても、死傷者の数からしても、昭和史における最大級の事件だった。
雪の光景と相まって、映画等においても印象的なシーンとして描かれることが多い。
事件の背景には、貧富の差が拡大し、貧しい農民の暮らしが更に苦しくなる政治の在り方があり、より直接的には陸軍内の皇道派と統制派の対立があった。
皇道派という名前の由来は、陸相を務めた荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる。
一方、統制派は、、軍内の規律統制の尊重・堅持を主張したことによる。
統制派が陸軍大学出身のエリートを中心としていたのに対し、決起した青年将校らは、皇道派の立場に立っていた。
農村や漁村の窮状は、農漁村出身の兵隊と共に、日夜訓練している自分たちでなければ分からない、という自負である。
当時の社会情勢と青年将校らの心情については、松本清張『昭和史発掘 <8>』文春文庫(0510)に、次のようにある。
農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和 6 年と昭和 9 年に大凶作があって深刻化した。農家は蓄えの米を食い尽くし、欠食児童が増加し、娘の身売りがあいついだ。農村出身の兵と接触する青年将校が、兵の家庭の貧窮や村の飢饉を知るに及んで軍隊の危機を感じたというのはこれまでくどいくらい書いてきた。
そして青年将校らは考えた。結局独占資本的な財閥が私利私欲を追求するために、こうした社会的な欠陥を招いたとし、それは政党がこれらの財閥の援助をうけて庇護し、日本の国防を危うくする政策を行っているからだとの結論に達した。
青年将校らは、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていたのだった。
しかしながら、彼らの思惑とは全く異なり、昭和天皇は、青年将校らを叛乱軍とみなし、断乎鎮圧を指示したのだった。
統制派にとっては、皇道派を排斥する格好の機会でもあった。
天皇親政という形で、天皇の政治利用を図った青年将校らの思いは、天皇自らの政治判断によって、全く意図せざる結果となったわけである。
栗原安秀中尉の最後の言葉は、次のようであった。
天皇陛下万歳。霊魂永久に存す。栗原死すとも維新は死せず。
享年29歳だった。
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