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2009年12月 7日 (月)

専門家による「八ツ場ダム計画」擁護論(3)利根川改修計画の経緯

引き続き、虫明功臣東京大学名誉教授の『八ツ場ダムは本当に無駄なのか-治水と水資源の観点から考える』(「正論2009年12月号収載)を見て行こう。

2.明治時代における治水事業への要望の高まり
江戸時代を通しての新田開発の拡大と、沖積地への人口・資産の増加によって、全国的に洪水災害が顕在化した。
明治23(1890)年に第1回の帝国議会が開催されると、政府の責任において本格的な治水事業を行うよう要望が高まった。
明治29(1896)年に旧河川法が制定され、大河川における洪水防御を目的とする直轄治水事業が始まった。
地先水防から水系全体を見通した治水方式への転換である。

利根川については、明治33(1900)年に最初の改修計画が立案された。
この計画における計画洪水流量は、栗橋地点を基準地点として、3750立法m/秒であった。
この値は、集水面積を考慮すると、淀川、筑後川、木曽川などに比べて極めて小さく、中条堤の洪水調節効果を前提としたものであった。

明治43(1910)年に、吾妻川、烏川流域に大雨が降り、利根川の全川にわたり大規模な氾濫をもたらす被害が発生した。
中条堤が破堤し、東京まで氾濫流が流下するという事態だった。
中条堤の破堤とその修復をめぐって、上・下流の地域的対立が激化した。
埼玉県議会を2分する争いとなり、住民と警官隊が激しく衝突する事件も起きたりした。
結果的に、上流域側の遊水地化に対する強い反対が入れられて、本川に連続堤を築き、河道の流下能力を高める案が採用されることになった。
利根川治水の大きな転機ということになる。

明治43(1910)年の洪水後、治水計画の対象とする計画洪水流量を増大する改定が行われ、工事が進められてきた。
しかし、昭和10(1935)年、昭和13年と計画洪水流量を上回る洪水が発生し、計画対象洪水流量を引き上げざるを得なくなった。
しかし、戦時体制下となったこともあって、改修はほとんど進捗しなかった。

昭和22(1947)年の敗戦の傷跡も癒えていない時期に、カスリーン台風が利根川上流域に未曾有の大雨をもたらし、利根川流域の全域で甚大な災害が発生した。
この水害を契機として、カスリーン台風規模の降雨による洪水に耐える治水計画が検討され、基本高水は、基準点八斗島で17000立法m/秒とされた。
そのうり、3000立法m/秒を上流のダム群で調節する改修計画が立案された。
この時点で、八ツ場ダムが洪水調節を担うダムとして計画の中に位置づけられたのである。

その後、洪水出水が増大傾向にあることを踏まえ、昭和55(1980)年に、基本高水を八斗島で22000立法m/秒とし、上流ダム群で6000立法m/秒調節する計画に改定された。
さらに平成9(1997)年の河川法の改定時に昭和55年計画の見直しが行われ、上流ダム群の調節機能は5500立法m/秒とされた。

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