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2009年12月12日 (土)

『日本書紀』はなぜ、「卑弥呼=神功皇后」と見せかけたのか

『日本書紀』は、神功皇后紀に「魏志」の記事を引用していて、「卑弥呼=神功皇后」を匂わせている。
2009年11月26日 (木):卑弥呼の死(7)天照大御神の年代観
神功皇后は、Wikipedia(最終更新 2009年11月21日 (土))では次のように記されている。

神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) -神功69年4月17日(269年6月3日))は、仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。 父は開花天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。

つまり、『日本書紀』の年代設定において、卑弥呼と神功皇后が重なるわけである。
しかし、『日本書紀』の記す天皇の系譜が正しいとしても、実年代をその通りとするわけにはいかないから(神功皇后も享年100歳ということになるが、100歳を超える超長寿の天皇が大勢いて、これらを真だとはとても考えられない)、神功皇后の実年代も別途検討が必要になってくる。
ちなみに、100歳以上とされている天皇には、以下のような人々がいる。
初代神武(127歳)、5代孝昭(114歳)、6代孝安(137歳)、7代孝霊(128歳)、8代孝元(116歳)、9代開化(111歳)、10代崇神(119歳)、11代垂仁(139歳)、12代景行(143歳)、13代成務(107)、15代応神(111)、16代仁徳(143歳)

「卑弥呼=神功皇后」とした背景を、『邪馬台国の位置と日本国家の起源』新人物往来社(9609)の著者鷲﨑弘朋氏は、次のように解説している。

1.日本書紀の編纂にあたっては、初代神武天皇と皇祖天照大御神をどう位置づけるかが最大のポイントであった。ことは言うまでもない。

2.数多くの漢籍を見た日本書紀の編者達は、漢籍に頻出する著名な女帝卑弥呼が、皇祖天照大御神の人物像と一致し、同一人物であると認識せざるを得なかった。

3.ここで、日本書紀の編纂に重大な障害が生じた。
1)卑弥呼=皇祖天照大御神とすると、天照大御神が三世紀の人物となる。 しかし日本建国を太古の時代と設定したい大和朝廷にとって、これは是認しがたいことであった。
日本建国の時期を中国に劣らず古い時代に設定する必要から、初代神武天皇の即位を、推古天皇九年辛酉(紀元601年)から1260年(1蔀=21元)を溯った紀元前660年とした。
このように、神武天皇の即位を紀元前660年に設定すると、皇祖天照大御神すなわち卑弥呼は、それ以前の人としなければならない。
ところが中国側歴史書群では卑弥呼が三世紀の女帝であることが歴然としている。
このように、中国側であまりに有名な女帝卑弥呼を無視できず、日本書紀の作成にあたっては、中国側歴史書との整合性を意識せざるを得なくなった。
2)卑弥呼と中国魏王朝との地位関係も問題になる。
卑弥呼は日本神話・伝承では皇祖天照大御神として、神聖不可侵の存在であった。
ところが魏志倭人伝は卑弥呼と魏王朝を対等の関係に扱っていない。
魏の明帝から卑弥呼への詔書は、中国の天子が臣下に与える内容で、たとえば卑弥呼を「汝」と呼び捨てにするのが13ヶ所も出現する。また、「是れ汝の忠孝にして我甚だ汝を哀れむ」 「勉めて孝順を為せ」 「国家の汝を哀れむを知らしむべし」 「汝に好物を賜うなり」とある。このような表現は、対等な国家間の国書とは到底言いがたい。
卑弥呼が親魏倭王に制せられ魏の友好国としても、日本書紀の編者すなわち大和朝廷は、卑弥呼・邪馬台国を正面きって認めることができなかった。

4.そこで考案されたのが架空の人物 「神功皇后」である。
天照大御神の実体は卑弥呼・台与であるが、これを実像とすれば、日本書紀はこの実像を神武天皇以前----すなわち紀元前660年以前の神代に送った。さらに虚像・神功皇后を三世紀邪馬台国時代に設定するとともに、神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけて、中国側歴史書と年代の整合性をとったのである。

5.日本書紀は神功皇后をあくまで皇后とし、天皇(女帝)とは扱っていない。
日本書紀は神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけようとした。しかし、神功を第15代天皇の女帝と設定すると、後世の歴史家が神功と卑弥呼・台与を完全な同一人物と断定する危険性が生じる。
その場合は、第15代神功天皇が中国魏王朝に臣従していたことになる。このよう な事態を避けるため、日本書紀の編者は二つの細工をした。
1)
日本書紀は神功紀に魏志と晋起居注を引用しながら、卑弥呼・台与・邪馬台国との表現を一切避けて、単に年代を合わせるにとどめた。そして神功皇后の人物像と治績は卑弥呼・台与とまったく異なるものとした。このようにしておけば、神功が卑弥呼・台与であるような無いような微妙になって、あいまいにしておける。
2)神功を天皇とはせず、あえて皇后にとどめ、後世の歴史家がまんいち神功=卑弥呼・台与と断定しても、日本の最高指導者・天皇は中国に臣従していない、との伏線を張った。

6.仲哀天皇に皇后がいたことは当然であろう。そして、この皇后を仮に 「神功皇后」 と 呼ぶとすれば、その意味では実在の人物である。
しかし日本書紀が語る神功皇后像の本質は、①:69年間の天皇空位のままの摂政、②:時の最高権力者でありながら、また応神を出産する間際でありながら、さらには夫の仲哀天皇の喪中でありながら、みずから200キロの海を越えて朝鮮出兵したこと、③:神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけていること、----以上の三点であって、これらの観点からすれば、神功皇后は架空の人物ということである。
すなわち神功皇后の実体は、仲哀天皇の皇后という実像の上から、卑弥呼・台与の虚像の半透明膜を覆いかぶせたものである。

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