百人一首の構成
寒い季節になったが、ゴルフに出かけたりして防寒が特に必要なとき以外は、最近は股引というものを滅多にはく機会がない。
全般的な暖冬化ということもあるだろうが、暖房器具の発達や家屋等の構造によるものだろう。
私の育った環境では、このモモヒキをモモシキと発音していた。
もちろん、江戸っ子というわけではないが、周りの人間もヒとシを混用していたように思う。
そんなこともあって、子供の頃、「百人一首」で遊び始めた頃、オオトリに位置する順徳院の歌は比較的早く覚えたものの1つである。
ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり
ももしきは勿論下着のことではない。
百磯城の表記で、たくさんの石で築いた城の意味であり、大宮、宮中を指す。
子供の頃には、歌の意味も余り考えたことがなかったし、ましてこの歌がオオトリに置かれていることの意味など全く関心の外であった。
しかし、直前の99番が後鳥羽院の歌で、この2人が「承久の乱」に敗れて、それぞれ佐渡と隠岐に流され、生きて帰ることがなかったことを知ると、その配列の意味に興味が湧いてくる。
2人の院は、歌人としても力量のある人だった。
特に後鳥羽院は、『新古今和歌集』の撰にも深く係わったとされ、和歌の歴史に大きな影響を与えた人物だった。
2008年7月24日 (木):「百人一首」と藤原定家
2008年7月26日 (土):「百人一首」の成立事情
隠岐に流されたとき、後鳥羽院は42歳で、この小島で18年を過ごし、60歳で亡くなった。
順徳院が佐渡に流されたのはまだ25歳のときだった。
佐渡で20年を過ごして亡くなった。
「ももしきや……」の歌は、かつての栄華の日をしのぶものであり、佐渡へ流されてからの望郷・懐旧の歌のように思われる。
しかし、実際は、建保4(1216)年のまだ20歳のとき、討幕の謀に取り組んでいた頃の作ということである。
冒頭に天智天皇、持統天皇を置き、最後を後鳥羽院と順徳院で締めたことに、藤原定家はどのような意図を込めたのだろうか?
持統天皇は、天智天皇の娘であるから、最初と最後に親子の作が並べられている。
もちろん、偶然ではないだろう。
天智天皇は、中大兄皇子として大化改新を決行し、蘇我氏から権力を奪還して天皇家の権力を確立したとされる。
後鳥羽・順徳の両院は、朝廷への権力の奪還を試みたが、逆に朝廷の権力を失う結果となった。
天智・持統の親子は、実質的な律令制の確立者であり後鳥羽・順徳の親子は、結果的に律令制を崩壊させることになった。
私は、「百人一首」は単に時代順に並べられているのかな、と単純に考えていたのだが、さすがに定家は、意図を持った構成を行っていたようである。
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