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2009年12月

2009年12月22日 (火)

百人一首の構成

寒い季節になったが、ゴルフに出かけたりして防寒が特に必要なとき以外は、最近は股引というものを滅多にはく機会がない。
全般的な暖冬化ということもあるだろうが、暖房器具の発達や家屋等の構造によるものだろう。
私の育った環境では、このモモヒキをモモシキと発音していた。
もちろん、江戸っ子というわけではないが、周りの人間もヒとシを混用していたように思う。

そんなこともあって、子供の頃、「百人一首」で遊び始めた頃、オオトリに位置する順徳院の歌は比較的早く覚えたものの1つである。

ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり

ももしきは勿論下着のことではない。
百磯城の表記で、たくさんの石で築いた城の意味であり、大宮、宮中を指す。
子供の頃には、歌の意味も余り考えたことがなかったし、ましてこの歌がオオトリに置かれていることの意味など全く関心の外であった。

しかし、直前の99番が後鳥羽院の歌で、この2人が「承久の乱」に敗れて、それぞれ佐渡と隠岐に流され、生きて帰ることがなかったことを知ると、その配列の意味に興味が湧いてくる。
2人の院は、歌人としても力量のある人だった。
特に後鳥羽院は、『新古今和歌集』の撰にも深く係わったとされ、和歌の歴史に大きな影響を与えた人物だった。
2008年7月24日 (木):「百人一首」と藤原定家
2008年7月26日 (土):「百人一首」の成立事情

隠岐に流されたとき、後鳥羽院は42歳で、この小島で18年を過ごし、60歳で亡くなった。
順徳院が佐渡に流されたのはまだ25歳のときだった。
佐渡で20年を過ごして亡くなった。

「ももしきや……」の歌は、かつての栄華の日をしのぶものであり、佐渡へ流されてからの望郷・懐旧の歌のように思われる。
しかし、実際は、建保4(1216)年のまだ20歳のとき、討幕の謀に取り組んでいた頃の作ということである。

冒頭に天智天皇、持統天皇を置き、最後を後鳥羽院と順徳院で締めたことに、藤原定家はどのような意図を込めたのだろうか?
持統天皇は、天智天皇の娘であるから、最初と最後に親子の作が並べられている。
もちろん、偶然ではないだろう。

天智天皇は、中大兄皇子として大化改新を決行し、蘇我氏から権力を奪還して天皇家の権力を確立したとされる。
後鳥羽・順徳の両院は、朝廷への権力の奪還を試みたが、逆に朝廷の権力を失う結果となった。
天智・持統の親子は、実質的な律令制の確立者であり後鳥羽・順徳の親子は、結果的に律令制を崩壊させることになった。
私は、「百人一首」は単に時代順に並べられているのかな、と単純に考えていたのだが、さすがに定家は、意図を持った構成を行っていたようである。

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2009年12月21日 (月)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(5)承久の乱

古来、天皇は、政治利用される対象であると共に、しばしば自ら政治権力者として行動してきた。
天智天皇は、中大兄皇子として大化改新の主導者として理解されているし、天武天皇は、壬申の乱に勝利して天皇位に就いた。
天皇号を初めて用いたのも天武天皇とされる。
天武朝は、天皇親政だったが、天皇の政治的権力を高めようとするときのスローガンが「天皇親政」という言葉だった。
明治維新は、長らく武家に握られていた政治権力を朝廷に大政奉還するものであった。

鎌倉幕府の成立後、鎌倉の武家政権と京都の公家政権が並存していた。
承久元(1219)年、3代将軍の実朝が、甥の公暁に暗殺された。
実朝の死後、鎌倉の政務は頼朝の正室の北条正子が代行し、弟の執権・義時が補佐する体制となった。
朝廷の最高権力者は後鳥羽上皇だった。

鎌倉サイドは、実朝の後継将軍として皇族を迎えたいと申し出るが、後鳥羽上皇の求めた条件が幕府の根幹を揺るがすものとして拒否した。
義時は、皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、執権を中心とした政務体制となったが、この将軍継嗣問題により、義時と後鳥羽上皇との間にしこりが残ることになった。

朝廷と幕府の緊張が次第に高まっていき、後鳥羽上皇は討幕の意思を固める。
土御門上皇は反対の立場であり、多くの公卿たちも反対もしくは消極的だったが、順徳天皇は積極的だった。
承久3(1221)年5月14日、後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して挙兵した。
「承久の乱」である。
京方は、院宣の効果を過大視し、「義時は朝敵となったので、義時に参ずる者は千人もいないだろう」と楽観視していた。

上皇の挙兵に鎌倉の武士は動揺したが、武士たちを鼓舞して団結を高めさせたのは、政子のアジテーションだったとされる。
政子は、追討令は、上皇側近の讒言によるもので、不条理なものであり、頼朝の恩顧を説いて、上皇との戦いに向かう決意を固めたという。

『増鏡』には、北条泰時が、「もし鳳輦を先立て、上皇みずから軍の先頭に立って攻めてこられた場合」にどうすればいいかと問うたのに対し、義時が、「君の御輿に弓を引くことはできぬ。鎧をぬぎ、弓の弦を切って降参するほかない。だが、上皇が洛中にとどまり、軍兵だけが派遣されてきた場合には、千人が一人になるまでも戦うべし」と答えたとされる。
この時点では、朝廷の権威はそれだけ大きかったわけである。

結果として京方は大敗した。
首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島に、順徳上皇は佐渡へ配流となった。
朝廷の権力奪還の試みは敢え無く失敗し、朝廷は幕府に完全に従属することになった。
律令制は実質的に崩壊し、古代から中世への転機となった乱であった。
大化改新と対をなす出来事だったと見ることができる。

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2009年12月20日 (日)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(4)二・二六事件

「文藝春秋2010年1月号」に、『昭和の肉声-いま甦る時代の蠢動』という特集記事に、「今からでも遅くない」という言葉が取り上げられている。
「二・二六事件」の戒厳司令官の言葉である。
「二・二六事件」は、事件を起こした側も、鎮圧した側も、天皇を政治利用した代表的な例と言っていいだろう。
Photo_9Photo_10写真は、http://homepage3.nifty.com/yoshihito/niniroku.htm

昭和11(1936)年2月26日の未明、22名の青年将校に率いられた1400余名の下士官兵が、重臣たちの官私邸を襲撃した。
内大臣斎藤実、教育総監渡辺錠太郎が即死、蔵相高橋是清は、重傷のち死亡。侍従長鈴木貫太郎は重傷を負った。
決起に参加した人数からしても、死傷者の数からしても、昭和史における最大級の事件だった。
雪の光景と相まって、映画等においても印象的なシーンとして描かれることが多い。

事件の背景には、貧富の差が拡大し、貧しい農民の暮らしが更に苦しくなる政治の在り方があり、より直接的には陸軍内の皇道派と統制派の対立があった。
皇道派という名前の由来は、陸相を務めた荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる。
一方、統制派は、、軍内の規律統制の尊重・堅持を主張したことによる。

統制派が陸軍大学出身のエリートを中心としていたのに対し、決起した青年将校らは、皇道派の立場に立っていた。
農村や漁村の窮状は、農漁村出身の兵隊と共に、日夜訓練している自分たちでなければ分からない、という自負である。
当時の社会情勢と青年将校らの心情については、松本清張『昭和史発掘 <8>』文春文庫(0510)に、次のようにある。

農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和 6 年と昭和 9 年に大凶作があって深刻化した。農家は蓄えの米を食い尽くし、欠食児童が増加し、娘の身売りがあいついだ。農村出身の兵と接触する青年将校が、兵の家庭の貧窮や村の飢饉を知るに及んで軍隊の危機を感じたというのはこれまでくどいくらい書いてきた。
そして青年将校らは考えた。結局独占資本的な財閥が私利私欲を追求するために、こうした社会的な欠陥を招いたとし、それは政党がこれらの財閥の援助をうけて庇護し、日本の国防を危うくする政策を行っているからだとの結論に達した。

青年将校らは、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていたのだった。
しかしながら、彼らの思惑とは全く異なり、昭和天皇は、青年将校らを叛乱軍とみなし、断乎鎮圧を指示したのだった。
統制派にとっては、皇道派を排斥する格好の機会でもあった。

天皇親政という形で、天皇の政治利用を図った青年将校らの思いは、天皇自らの政治判断によって、全く意図せざる結果となったわけである。
栗原安秀中尉の最後の言葉は、次のようであった。

天皇陛下万歳。霊魂永久に存す。栗原死すとも維新は死せず。

享年29歳だった。

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2009年12月19日 (土)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(3)張作霖爆殺事件

「文藝春秋2010年1月号」に、『昭和の肉声-いま甦る時代の蠢動』という特集記事がある。
歴史探偵を自認する半藤一利氏の解説で、昭和史の60のシーンを象徴する言葉でレビューしようという企画である。
その2番目に、昭和天皇の「最初に言つたことと違ふぢやないか」という言葉が取り上げられている。

昭和3(1928)年6月4日に、満州軍閥の指導者だった張作霖を乗せた特別列車が爆破され、張作霖が暗殺されるという事件が起きた。
いわゆる「15年戦争」と呼ばれる中国との戦争の導火線に火を点けた事件である。
この張作霖爆殺事件については、現在では、日本陸軍の陰謀であったことが共通認識になっていると言っていいだろう。

しかし、世の中には敢然と通説に反論する人がいる。
例えば、田母神俊雄元航空幕僚長である。
田母神氏は、アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文』の最優秀賞を受賞した人である。
応募の時点では現職の航空幕僚長であったが、この論文の内容が問題視され、職を解かれたことで話題になった。
2009年1月10日 (土):田母神第29代航空幕僚長とM資金問題

私は、多くの場合、異端の説を好む傾向があるが、この田母神論文は、私の感覚とは全く相容れないものであた。
張作霖爆殺事件についての田母神氏の見解に対しては既に触れたことがある。
田母神氏は、張作霖爆殺事件は、「関東軍の仕業であると長い間言われてきたが」「最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」と書いた。
2009年1月13日 (火):田母神氏のアパ論文における主張②…張作霖爆殺事件

「文藝春秋」誌で解説を担当している半藤一利氏は、『歴史探偵 昭和史をゆく』PHP研究所(9205)において、「いまでは日本陸軍の陰謀であることは明らかになっている」が、「当時、なぜあれほど早くバレてしまったのか」いつも気になっていた、として、その背景事情を調べた経緯を書いている。
半藤氏は、『小川平吉関係文書』から、白川義則大将の小川宛書簡と、小川が中国に派遣していた工藤鉄三郎らの小川宛電報を見つける。

白川大将は、事件当時陸相の地位にあったが、この書簡の時点では、田中義一内閣が総辞職して後任の宇垣一成大将と交代していた。
書簡と電報から、現職の陸相だった白川大将から、主犯河本大佐の名前が明らかになったあとの、もみ消し工作の資金が拠出されていることが分かる。

半藤氏は、陸軍中央ぐるみの陰謀であったと解説している。
田母神氏の見解は、現時点におては、異端というよりも偏見というべきだろう。
張作霖爆殺事件については、当初から、陸軍に疑念がかけられていた。
元老西園寺公望に言われ、田中義一首相は、「張作霖爆殺事件については、どうも我が帝国の陸軍の中に多少その元凶たる嫌疑がありやうに思ひますので、目下陸軍大臣をして調査させてをります」と昭和天皇に報告した。
陸軍大臣は、上記の白川大将である。

陸軍部内の処罰に反対し、闇から闇に葬ってしまえ、という大勢に押されて、「断固処罰します」と明言していた田中義一首相は態度を変え、「本件を行政事務として内面的に処置し、然して一般には事実なしとして発表致したく」といいはじめた。
これに対し、『昭和天皇独白録』文藝春秋(9103)によれば、以下のような天皇の発言となる

田中は再び私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。
この言葉によって、田中義一は辞表を出さざるを得なくなり、総辞職するに至る。
そして、この事件の後、昭和天皇は内閣の上奏する所のものは、自分が反対の意見を持つていても裁可を与える事に決心した、と「NOを言わぬ天皇」となった。
現在とは政治体制も異なるが、昭和史の起点において、誰が天皇を政治利用(しようと)したことになるのだろうか?

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2009年12月18日 (金)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗(2)玉松操

内政上の「30日ルール」を破って、中国の習近平副主席との会見の機会を設定したことについて、激しい批判が起きている。
もちろん、現代において、天皇の政治利用は戒められるべきことであろう。
しかし、日本史は、ある意味で「天皇の政治利用」の歴史でもあった。
「大化改新」「建武中興」「明治維新」「二・二六事件」……

「天皇の政治利用」という言葉から、「玉」という言葉を連想する。
東京大学教授の山内昌之氏は、産経新聞に連載している『幕末から学ぶ現在』で、次のように書いている。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091217/acd0912170807002-n1.htm

木戸孝允や大久保利通ら政治工作に巧みだった薩長の人間は、幼少の明治天皇を隠語で「玉」と称して、ひそかに抱え込み、「玉」の威力で官軍を名乗ることに成功したのであった。
これは最も大胆な天皇の政治利用にほかならない。この時に、錦旗を考案して討幕軍を鼓舞したのが玉松操である。

玉松操は余り馴染みのある名前ではないが、Wikipediaでは以下のように解説されている(2008年10月22日最終更新)。

玉松 真広(たままつ まひろ、文化7年3月17日(1810年4月20日) -明治5年2月15日(1872年3月23日))は幕末期の国学者。岩倉具視の謀臣として王政復古の勅を起草したことで有名。通称は。雅号は毅軒。
京都で国学者大国隆正に師事したが、やがて師と対立して泉州に下り、さらに近江国真野に隠棲。三上兵部、樹下茂国らを弟子とした。1867年、三上の紹介によって岩倉具視に会い、その腹心となる。以後、幕末維新期の岩倉と常に行動をともにし、その活動を学殖・文才によって助けた。
ことに有名なのは小御所会議の席上示された王政復古の勅を起草したことであろう。さらに玉松は、早晩幕府との交戦があることを予想し、官軍の士気を鼓舞するための錦旗のデザインを考案するなど、その功績小ならざるものがあった。

つまり、「錦の御旗」を考えた人であった。
錦の御旗とは次のような旗である。
もっと 古くからあったような気がしていたが、歴史はそんなに古くない。
しかし、その威力は大きかった。
山内氏は、以下のように解説している。

東海道や東山道を下る軍の先頭を飾った日月章の錦の御旗と菊花の紅白旗は、そのまま古代から公の旗として格別に使われていたわけでない。下級公家出身の玉松の工夫したデザインは、あたかも朝廷に長く伝えられた由緒ある制式の旗でもあるかのように各地の人びとを心服させる魔法の役割を演じた。

Photoつまり、幕末において、既に古くから使われていたように錯覚されていたということである。
「旗」というものは、まことに不思議な働きをするものである。
「旗幟鮮明」という言葉があるように、その立場を明確に示すものであるが、アイデンティティを示す最も有効な手段ともいえよう。
そういえば、最近は、国民の祝日に国旗を掲げている家を見る機会が激減している。
私などの世代は、日章旗に対する拒絶感はほとんどない。
紛糾の上「国歌・国旗」を法制化したが、現状を見る限り、その効果は余りなかったということになる。

しかし、「錦の御旗」に「天照皇太神」とあるように、皇国史観と一体のものであった。
山内氏は、次のように説いている。

(玉松操は)幕末薩長の倒幕リーダーたちが天皇を「玉」と呼ぶなどプラグマチックな活動家だったことを知っていたはずだ。
そのうえで、「玉」という考えにあたかも象徴的権威を与えるために「旗」を考案したのだから、新政府が倒幕を実現して想像以上の欧化主義を採用したとしても自業自得というところであろう。

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2009年12月17日 (木)

「天皇の政治利用反対」という錦の御旗

12月15日に、天皇陛下が、中国の習近平国家副主席と会見した。
習氏は、胡錦濤現主席の後を継ぐ人物と目されているが、中国のことだからこれから何が起きるか予測不能である。
しかし、中国の国家的要人であることは間違いないようだ。
この会見の日程の調整をめぐって、論議が紛糾している。

民主党政権が、「30日ルール」を破って無理矢理日程調整したのではないか?
天皇の政治利用に相当するのではないか?
あるいは、中国に媚びる朝貢外交ではないのか?
逆に、宮内庁は政権交代して、政治主導になったことに適応していないのではないか?

どうやら、世論は鳩山内閣を操縦しているように見える小沢幹事長の剛腕(というよりも傲慢)ぶりに対する批判が多数派のようである。
私も、小沢幹事長の挙動について、いささか不遜の度が過ぎるように感じるのは事実である。
しかし、小沢氏や鳩山総理に対する反発も、感情論が先行しているのではなかろうか。
例えば、「週刊文春091224」号の特集記事は、『小沢も鳩山は天皇陛下に土下座して謝れ』と銘打たれている。
これでは、「天皇の政治利用反対」を錦の御旗として振りかざしているのではないか、という気がする。

もう少し冷静に問題の所在を探ってみよう。
もちろん、私には現時点で論点を俯瞰できる知見も、また特別の情報があるわけでもない。
しかし、ごく図式的にいえば、天皇制に対する共同幻想が、基層の部分で分裂しつつあるのではなかろうか。
多くの国民の、小沢氏等に対する反発は、2000年の伝統ともいうべき共同幻想に基づくものだろう。
極論すれば、「天皇は神聖不可侵」である。

一方、戦後民主主義の申し子とでもいうべき現在の民主党の執行部は、天皇制に対して、よりプラグマティックな構えではなかろうか。
それは明治維新時の薩長の志士たちのようでもあり、昭和前期の石原莞爾らのように、である。
要するに、天皇は「玉」である、という位置付けである。

今回の天皇陛下と習副主席との会見は、客観的に見れば、中国の政治的思惑と、民主党の政治的思惑との落着点である。
現在の日本国憲法では、冒頭で天皇について、次のように規定している。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
つまり、現在の日本の「国体」は「象徴天皇制」である。
しかし、この「象徴天皇制」というものが、いささか分かりづらい。
そして、「国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要」とする、とある。
責任は内閣にあるのである。
そして「国事」については、次のように規定されている。
第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2.国会を召集すること。
……
9.外国の大使及び公使を接受すること。
10.儀式を行ふこと。
今回の論議の現象的な問題点としては、第一に「30日(1カ月)ルール)」と呼ばれるルールをめぐる問題がある。
私は、今回の問題が起きるまで「30日ルール」というものの存在を知らなかった。
それは、次のようなことである。
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp3-20091214-575796.html

外国要人が天皇陛下との会見を希望する場合に、1カ月前までの正式申請を求める日本政府の慣例。公務多忙な平価の日程調整を円滑に行うのが目的で、1995年に文書で定められた。特に2004年以降は、前年に平価が前立腺がんの摘出手術を受けられたこともあり、厳格に守るよう徹底してきたとされる。

問題は、このようなルールが存在したとして、その運用に関してのルールが明確でなかった、ということではなかろうか?
このルールを運用するのは宮内庁なのか、その上位機関として内閣があるのか?
何でもかんでもルール化すればいい、というものではないとは思うが、これは最終的な判断を誰が行うかという職務分掌を明確化すればいい問題だと思う。

第二は、中国副主席との会見は憲法に規定する国事行為ではないので、「内閣の助言と承認を必要とする」という憲法の規定を持ち出すのは筋違いである、という点である。
確かに、天皇の国事行為は限定列挙されていて、「外国の大使及び公使を接受すること」は挙げられているが、「要人」について規定されてはいない。
そして、要人との接受などは、「公的行為」という区分けになるらしい。

小沢氏が憲法について認識不足であるかのような批判がある。
しかし、天皇の公的な活動について、国事行為か公的行為かを論じることは、余りにも文言に囚われたもの言いではないだろうか。
小沢氏の発言は、言葉の表面的な解釈からすれば、誤解である。
しかし、法の精神ということを考えた場合、「国事行為」と「公的行為」を厳密に区分して考えることが妥当であろうか。
私は、外国要人との接受についても、「内閣の助言と承認を必要とする」という国事行為に関する規定は準用すべきではないかと思う。

第三は、今回の会見が、「天皇の政治利用」に相当するか否か、という点である。
これにはさらに2つの側面がある
1つは、会見自体が「天皇の政治利用」なのか否かという問題であり、もう1つは「30日ルール」との関係で政治利用なのか否かという問題である。
後者については、「30日ルール」についての「運用のルール」の問題なので、これについては、ルールを明確化するということで決着するだろう。

前者についてはどうか?
私は、日本国憲法の第一章が「天皇」となっている以上、国事行為であるか公的行為であるかを問わず、公人としての天皇の行為は、政治的効果を持つものだと思う。
そもそも、今回のようなことが問題化すること自体が政治的効果の反映ではないだろうか。
だから、天皇の公的な行為については、「内閣の助言と承認を必要とする」ということを原則だとすべきだと考える。

羽毛田長官は、皇太子にさえ苦言を辞さない人と言われる。
だとしたら、「30日ルール」を守るべきだと考えたのならば、職を賭してでもそうすべきだったのではないだろうか。
私は、小沢幹事長の傲慢さに組する気持ちはないが、「天皇の政治利用反対」を錦の御旗とする人たちもいささか感情論が先行しているように思う。

問題は、「象徴天皇制」をどう捉えるか、というところにあるように思う。
私たちは、戦後と呼ばれる時間を、巧妙に問題を先送りして曖昧に過ごしてきたのではないだろうか。
それも限界に近づいているように感じる。
2010年は、天皇制と憲法について、大いに論議が起きてくる年のような予感がする。

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2009年12月16日 (水)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(3)母集団と標本-その2

坂田隆氏が、『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)において展開している安本美典『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)における数理統計学の誤利用論をもう少しみてみよう。
安本氏の立論の基本は、以下のように示される。
Photo_8 ある天皇の即位年Tが既知とすると、その天皇よりn代まえの天皇の即位年τは次の式で推定できる。
Photo_12 
坂田氏は、ここで安本氏は、1つの母集団において適用すべき(3)式を、2つの母集団に対して適用するという誤用をしていると批判している。
2つの母集団とは以下の2つである。
母集団A:第31代用明天皇から第49代光仁天皇までの19代およそ200年間の天皇の在位年数。母集団の大きさは19である。
母集団U:歴史的に確実でさかのぼりうる最古の諸天皇と等質の母集団。

Photo_2安本氏は、用明天皇より前の諸天皇は、母集団「U」からの標本である、とする。
あるいは、天照大神~光仁天皇の54代の一人一人の在位年数「x」は、仮想母集団「U」からの標本である。
この(仮想)母集団「U」の大きさは、54もしくはそれ以上である。
坂田氏は、「A」と「U」は、「2つの母集団」であるにもかかわらず、「1つの母集団」に対して成立する(3)式を用いて推論するのは間違いである、と指摘している。

坂田氏は、このことを説明するために、岡田泰栄『統計』共立出版(1968)から、上掲コラムを引用している。
つまり、(5・6)式は、安本氏の式(3)と同一であるが、この式は、「1つの母集団」を前提とするもであり、安本氏の説明は、「1つの母集団」については成り立つが、安本氏は、実際には「2つの母集団」を対象としているのであって、それは重大な誤りである、ということになる。

坂田氏は、安本氏はさらに重大な誤りをしている、とする。
それは、安本氏が、“数値の知られていないものを「標本」としている”ということである。
そして、安本氏は“「母集団」の数値によって、「標本」の数値を推定している”が、数理統計学は“「標本」の数値によって、「母集団」の数値を推定する”方法であり、安本氏はまったく逆のことを行っている。

安本氏は、次のように言っている。
1.用明から光仁まで19代の天皇の在位年数を「母集団」とする。
2.用明天皇より前の諸天皇は、母集団「U」からの「標本」と考える。
つまり、安本氏は、「母集団」によって「標本」を推定しているのである。

安本氏の誤用の原因は何か?
第一に、用明~光仁の19代の天皇の在位年数を、安本氏は「母集団」としているが、これは「標本」と考えるべきである。
なぜならば、標本とは数値が知られているものであって、その標本から母集団を推定するものであるから、用明~光仁の在位年数は「標本」だとすべきである。
また、用明以前の天皇の在位年数は、数値の分からないものとして扱っているのであるから、これは「標本」ではなく、母集団の一部として考えるべきものである。

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2009年12月15日 (火)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(3)母集団と標本

坂田隆氏は、『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)において、安本美典『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)における数理統計学の手法を批判している。
坂田氏は、まず、安本氏の説を引用する。
2
その批判の論点は、以下の通りである。
1.安本氏がここで母集団平均値、母集団標準偏差としているのは、それぞれ標本平均値、標本標準偏差である。
つまり、安本氏は、母集団と標本を取り違えているのではないか?
「母集団と標本」に関しては、下記でみたばかりである。
2009年12月11日 (金):「同じ」と「違う」(12)母集団と標本

坂田氏は、「母集団と標本」の関係を示すために、鷲尾泰俊『推定と検定 #数学ワンポイント双書 18#』共立出版(7802)から、以下の部分を引用している。

上の三つの例に見られる共通的な性質は、推測をしたい“もの”の集団があり、この集団についての推測をするために、集団から何個かの“もの”をランダムに取り出してデータを得ている、ということである。統計学では、この関係を強調するために、推測をしたい“もの”の集まりを母集団(population)とよび、母集団の推測をするために母集団から取り出されるいくつかの“もの”を標本(sample)とよぶ。標本の中に含まれている“もの”の数を標本の大きさ(size)とよぶ。統計学(数理統計学)は、標本から母集団についての推測をするための方法を与える学問であり、この方法を統計的方法とよぶ。

2.安本氏は、「n」を「n代前の天皇」の意味で用いている。
しかし、引用箇所における「n」は、「標本の個数」の意味である。
つまり、安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの19代の天皇の在位年数をもとに、天照大神の活躍時期を推定している。
すなわち、19は、標本の個数であって、通常、数理統計学ではこれを「n」と表わす。
また、天照大神~光仁天皇までの54代までが推計の対象であるから、これが母集団であって、54は母集団の大きさであり、ふつう「N」で表わす。
にもかかわらず、安本氏は、「n」を、本来の「在位年数の知られている天皇の数」の意味で用いたり、「N-n」つまり何代前の天皇かの意味で用いてたりしている。

3.上掲の引用における式(3)は、正規分布をした母集団から、n個の標本を取り出した際に適用できる式である。
天皇の在位年数は正規分布していない母集団であるから、このような母集団に適用することはできない。
Photo_6Photo_7坂田氏は、用明天皇から大正天皇までの天皇在位期間のヒストグラムを示している。
図で見るように、用明天皇から大正天皇までの天皇の在位期間の分布は正規分布をしていない。
このような分布の母集団に対して、(3)式のような推計を行うことはできない。

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2009年12月14日 (月)

「卑弥呼=天照大神」説の否定(2)n代違う天皇の時間差の推定

安本美典氏は、『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)において、歴代の天皇の在位年数のデータから平均値と標準偏差を算出している。
Photo_2つまり、第31代用明天皇から大正天皇までの98天皇の平均在位年数は14年であり、用明天皇から第49代光仁天皇(奈良時代の最後)までの平均在位年数は約10年である。

安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの値を、古代の天皇の一般的な在位年数と標準偏差とすれば、2人の天皇の時間的距離を、平均在位年数にその間の代数nを掛けることによって求められる、としている。
そして、平均値と実際の時間とは当然差異がある。
推定する時のこの差異は誤差であり、標準偏差から計算できる。

Photo_5安本氏は、用明天皇から光仁天皇までの平均在位年数と標準偏差を用いて、n代違いの天皇の時期の推計値と誤差の幅を、95%、99%の信頼度という形で、表のように算出している。

これをグラフ化すると、次図のようになる。
Photo_4  1代前の場合には、平均在位年数の10.35年に、±16.27年の幅をみておけば、95%くらいの確からしさ(つまり、100回のうちの95回くらい)でその範囲に収まる、ということである。
用明天皇の即位年を正しいものとして、その10代前の雄略天皇の即位年を推定する場合には、95%の信頼度だと、52.06~154.94年前、99%の信頼度だと、35.78~171.22年前ということになる。

安本氏は、雄略天皇の実際の即位年は不明であるが、雄略天皇が通説通り「倭王武」であるとすれば、478年に宋へ使いを出したことが『宋書』に記されている。
用明天皇の即位年を通説通り、西暦585年とすれば、雄略天皇の推計即位年は、95%の信頼度で、430.06年~532.94年であるが、上記の宋への使いからして、即位年がこの範囲において即位していることはほぼ確実である、としている。
即位年の推定値は、481±51.44年(95%信頼度)として表わされるが、481年は上記の478年ときわめて接近した値ということになる。 

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2009年12月13日 (日)

「卑弥呼=天照大神」説の否定論(1)天皇の在位年数

『魏志倭人伝』に描かれた「卑弥呼」像と、『記紀』の「天照(御)大神像」とには、類似した要素が多いことは事実だろう。
しかし、問題は、3世紀中ごろに死んだと想定される「卑弥呼」が、神武天皇より5代前とされる「天照大神」と、年代的に重ならないのではないか、ということである。
この問題に、数理統計学という斬新な手法で「解」を与えたのが、安本美典氏であった。
2009年11月26日 (木):卑弥呼の死(7)天照大御神の年代観

ところが、この安本氏の推論とその結論は、謬論であるとする人がいる。
坂田隆『卑弥呼をコンピュータで探る-安本美典説の崩壊』青弓社(8511)は、タイトルが示しているように、コンピュータによる推論によって、安本美典氏の説を全面的に否定したものである。
巻末に坂田氏が用いたコンピュータ・プログラムが掲載されている。
坂田氏は、京都大学の工学研究科の修士課程を修了後、仏教大学文学部史学科で学士号を取得した人で、履歴的にも数理的な推論は得意であると自負している。

坂田氏は、史学界においては正統的な研究者としては位置づけられていないのであろうが、日本古代史における有数の論客として多くの著書を出されている。
邪馬台国の位置論に関する坂田氏の推論についてレビューしたことがある。
2009年1月 6日 (火):珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑥「田川郡・京都郡」説(坂田隆)

坂田氏の安本説非定の論理をみてみよう。
坂田氏が問題にしているのは、安本氏の年代論である。
安本氏は、邪馬台国論に関して数多くの著書を出されているが、坂田氏が対象としているのは、先ずは『新考邪馬台国への道-科学が解いた古代の謎』筑摩書房(7706)である。
安本氏は、天皇の平均在位年数を検証し、ある天皇の即位の年代を、天皇の「代」の数から推論するという方法を採用した。

もちろん、天皇の在位年数は、個々の天皇によってまちまりである。
下図は、用明天皇から大正天皇までの在位年数をグラフ化したものである。
Photo_2即位や退位の時期などが、歴史的な事実として信頼できるのは用明天皇の頃から以後であろうという前提である。
 
グラフではあまり明確な傾向は読み取れないが、安本氏は、時代別に天皇の在位年数を平均し、あるいは世紀別に平均して、時代を遡るに従い、天皇の平均在位年数は短くなるという傾向を発見した。
Photo_3 Photo_4

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2009年12月12日 (土)

『日本書紀』はなぜ、「卑弥呼=神功皇后」と見せかけたのか

『日本書紀』は、神功皇后紀に「魏志」の記事を引用していて、「卑弥呼=神功皇后」を匂わせている。
2009年11月26日 (木):卑弥呼の死(7)天照大御神の年代観
神功皇后は、Wikipedia(最終更新 2009年11月21日 (土))では次のように記されている。

神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) -神功69年4月17日(269年6月3日))は、仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。 父は開花天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。

つまり、『日本書紀』の年代設定において、卑弥呼と神功皇后が重なるわけである。
しかし、『日本書紀』の記す天皇の系譜が正しいとしても、実年代をその通りとするわけにはいかないから(神功皇后も享年100歳ということになるが、100歳を超える超長寿の天皇が大勢いて、これらを真だとはとても考えられない)、神功皇后の実年代も別途検討が必要になってくる。
ちなみに、100歳以上とされている天皇には、以下のような人々がいる。
初代神武(127歳)、5代孝昭(114歳)、6代孝安(137歳)、7代孝霊(128歳)、8代孝元(116歳)、9代開化(111歳)、10代崇神(119歳)、11代垂仁(139歳)、12代景行(143歳)、13代成務(107)、15代応神(111)、16代仁徳(143歳)

「卑弥呼=神功皇后」とした背景を、『邪馬台国の位置と日本国家の起源』新人物往来社(9609)の著者鷲﨑弘朋氏は、次のように解説している。

1.日本書紀の編纂にあたっては、初代神武天皇と皇祖天照大御神をどう位置づけるかが最大のポイントであった。ことは言うまでもない。

2.数多くの漢籍を見た日本書紀の編者達は、漢籍に頻出する著名な女帝卑弥呼が、皇祖天照大御神の人物像と一致し、同一人物であると認識せざるを得なかった。

3.ここで、日本書紀の編纂に重大な障害が生じた。
1)卑弥呼=皇祖天照大御神とすると、天照大御神が三世紀の人物となる。 しかし日本建国を太古の時代と設定したい大和朝廷にとって、これは是認しがたいことであった。
日本建国の時期を中国に劣らず古い時代に設定する必要から、初代神武天皇の即位を、推古天皇九年辛酉(紀元601年)から1260年(1蔀=21元)を溯った紀元前660年とした。
このように、神武天皇の即位を紀元前660年に設定すると、皇祖天照大御神すなわち卑弥呼は、それ以前の人としなければならない。
ところが中国側歴史書群では卑弥呼が三世紀の女帝であることが歴然としている。
このように、中国側であまりに有名な女帝卑弥呼を無視できず、日本書紀の作成にあたっては、中国側歴史書との整合性を意識せざるを得なくなった。
2)卑弥呼と中国魏王朝との地位関係も問題になる。
卑弥呼は日本神話・伝承では皇祖天照大御神として、神聖不可侵の存在であった。
ところが魏志倭人伝は卑弥呼と魏王朝を対等の関係に扱っていない。
魏の明帝から卑弥呼への詔書は、中国の天子が臣下に与える内容で、たとえば卑弥呼を「汝」と呼び捨てにするのが13ヶ所も出現する。また、「是れ汝の忠孝にして我甚だ汝を哀れむ」 「勉めて孝順を為せ」 「国家の汝を哀れむを知らしむべし」 「汝に好物を賜うなり」とある。このような表現は、対等な国家間の国書とは到底言いがたい。
卑弥呼が親魏倭王に制せられ魏の友好国としても、日本書紀の編者すなわち大和朝廷は、卑弥呼・邪馬台国を正面きって認めることができなかった。

4.そこで考案されたのが架空の人物 「神功皇后」である。
天照大御神の実体は卑弥呼・台与であるが、これを実像とすれば、日本書紀はこの実像を神武天皇以前----すなわち紀元前660年以前の神代に送った。さらに虚像・神功皇后を三世紀邪馬台国時代に設定するとともに、神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけて、中国側歴史書と年代の整合性をとったのである。

5.日本書紀は神功皇后をあくまで皇后とし、天皇(女帝)とは扱っていない。
日本書紀は神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけようとした。しかし、神功を第15代天皇の女帝と設定すると、後世の歴史家が神功と卑弥呼・台与を完全な同一人物と断定する危険性が生じる。
その場合は、第15代神功天皇が中国魏王朝に臣従していたことになる。このよう な事態を避けるため、日本書紀の編者は二つの細工をした。
1)
日本書紀は神功紀に魏志と晋起居注を引用しながら、卑弥呼・台与・邪馬台国との表現を一切避けて、単に年代を合わせるにとどめた。そして神功皇后の人物像と治績は卑弥呼・台与とまったく異なるものとした。このようにしておけば、神功が卑弥呼・台与であるような無いような微妙になって、あいまいにしておける。
2)神功を天皇とはせず、あえて皇后にとどめ、後世の歴史家がまんいち神功=卑弥呼・台与と断定しても、日本の最高指導者・天皇は中国に臣従していない、との伏線を張った。

6.仲哀天皇に皇后がいたことは当然であろう。そして、この皇后を仮に 「神功皇后」 と 呼ぶとすれば、その意味では実在の人物である。
しかし日本書紀が語る神功皇后像の本質は、①:69年間の天皇空位のままの摂政、②:時の最高権力者でありながら、また応神を出産する間際でありながら、さらには夫の仲哀天皇の喪中でありながら、みずから200キロの海を越えて朝鮮出兵したこと、③:神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけていること、----以上の三点であって、これらの観点からすれば、神功皇后は架空の人物ということである。
すなわち神功皇后の実体は、仲哀天皇の皇后という実像の上から、卑弥呼・台与の虚像の半透明膜を覆いかぶせたものである。

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2009年12月11日 (金)

母集団と標本/「同じ」と「違う」(19)

旧日債銀の粉飾決算事件について、判断が最高裁から高裁へ差し戻された。
粉飾決算事案は、あたかも「浜の真砂」のごとく絶えることがない。
当然のことながら、数が多くなってくると、統計的方法が有効になる。
須田一幸、山本達司、乙政正太編著『会計操作―その実態と識別法、株価への影響』ダイヤモンド社(0706)は、会計操作の調査に統計学を応用し、定量的な分析を試みている。
編著者らによれば、会計操作という事象に関して、多くのサンプルを用いて、普遍的な説明を試みた本邦初の著書である。

巻末に、Appendixとして統計の解説が載っている。
そこで先ず取り上げられているのが、「母集団と標本」である。
統計的な調査方法には、全数調査と標本調査がある。
全数調査は、悉皆調査ともいわれ、調査対象のすべてについてデータを入手する調査法である。
国勢調査などがこれに相当する。

標本調査は、調査対象から一部のサンプルを抜き出して、それについて統計分析を行う。
その結果に基づき、もとの調査対象の特徴を分析するわけである。
その調査対象が母集団であり、分析を行うサンプルが標本である。
全数調査は、母集団と標本が一致した調査方法ということもできる。
Photo マーケティングなどにおける調査は、標本調査が一般的である。
それは、以下のような理由による。
①母集団全体のデータを入手することが不可能である。
②母集団全体のデータを収集するための時間とコストが、調査目的に照らして合理的でない。

選挙結果の予測なども標本調査の事例といえよう。
直接民主主義においては、選挙結果は、棄権も含め、母集団(有権者の全体)の特性を表現したものである。
これに対し、マスメディア等によって流される選挙予測は、ある限られた標本をもとにしたものである。
私などは、この予測について、「標本が本当に母集団を代表しているのだろうか?」という疑問を抱くことがしばしばある。
つまり、標本の採取に偏りがないのかどうか、という疑問である

たとえば、母集団の平均値を知ろうとする調査の場合について考えてみよう。
全数調査では、「標本=母集団」であるから、標本平均と母集団の平均値は、かならず一致する。
一方、標本調査の場合には、標本の採り方によって平均値のデータが変動する。
その標本変動は、下図のように、一定の確率的な分布をしている。
Photo_2母集団から標本が無作為抽出されていれば、標本分布を使って母集団の性質を推論することの妥当性が、一定の確率で保証される。
つまり、標本調査は、確率概念によって説明されるものである。                      たとえば、「95%の確率で、母集団の平均値はある一定の範囲にある」などというような形での主張となる。

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2009年12月10日 (木)

旧長銀と旧日債銀/「同じ」と「違う」(18)

旧日債銀(現あおぞら銀行)の窪田弘元会長、東郷重興元頭取ら3人が、粉飾決算の疑いで証券取引法違反の罪に問われた事件で、最高裁判所は12月7日、3人を有罪とした高裁の判決を破棄し、審理を差し戻した。
同様の構図で争われた旧長銀の場合には、最高裁は無罪判決を下している。
2008年7月19日 (土):旧長銀粉飾決算事件

しかし、旧長銀粉飾事件は、意外な内容を包蔵した事件だった。
第一に、破綻時の債務超過額約2兆6535億円という巨額の損失の責任が、結果として曖昧になってしまった。
先日、朝のTVで、鳩山内閣は2009年度2次補正予算に盛り込む総額をめぐって、国民新党が規模の拡大を求めていた案件が、1000億円の上積みで決着したことの解説で、「1000億円」の物理的な大きさを模型を作って示していた。
重さでいえば、1万円札で約10トンということである。
旧長銀の債務超過額は、その26倍以上だから、まあ普通の人の感覚を超えている。
10年間かけた司法的判断の結果が、無罪ということであった。

しかも、この無罪は、「粉飾はあったが、不法性はなかった」という、いささか分かりにくい判断の結果であった。
2009年1月26日 (月):長銀粉飾決算事件再考
2009年1月27日 (火):長銀粉飾決算事件再考②
この年の決算(平成10年3月期)においては、一般の上場企業に適用されていた「企業会計原則」と、旧大蔵省銀行局による「統一経理基準」が併存していたのであった。

そのような事情のもとに、旧長銀の経営陣には無罪判決が下された。
ところが、旧日債銀については、審理の差し戻しであって、高裁の有罪判決は棄却されたものの、無罪の結論が得られたわけではなかった。
日債銀も、旧基準ともいうべき「統一経理基準」によって決算を行った。
このことについては、最高裁は旧長銀の場合と同じように、違法性があるとはいえない、という判断である。

それでは、旧長銀の場合と、旧日債銀の場合とでは、何が異なるのであろうか?
旧長銀の場合、融資先は、第一ファイナンス、NED関係、日本リース関係等の関連ノンバンクが中心であった。
これらの貸出先は、一般貸出先と区分されていて、この身内の貸出先については、引当・償却処理を行わないことによって、損失を軽減する措置をとった。

この措置について、母体行は関連ノンバンクを積極的に支援するように求められており、追加支援策が予定されていれば、事業好転の見通しがないとはせず、回収不能とは評価できない、ということである。
これに対して、旧日債銀の融資先は、第一コーポレーションやどの独立系のノンバンクなどであり、「一般取引先」が主体であった。
つまり、母体行による支援が求められる貸出先ということではなく、回収可能性の判断は、合理的な再建計画や銀行による追加支援などを、旧基準に従って判断するとどうか、という問題である。
差し戻し審では、これらの観点から貸し出し経緯などを再検討することになる。

差し戻し審がどのような判断になるかを現時点で予測することは難しいが、高裁でも、既に貸し出しの経緯等について検討した結果でもあるので、旧経営陣にとって厳しい局面もあり得るのではなかろうか。
しかし、旧長銀の場合も、関連ノンバンクの先は、結局は「一般貸出先」であるので、間にクッションがあるかないかで判断が異なるというのも奇妙な感じがする。
長銀の方が、不良債権を巧妙に偽装したとも考えられるのではなかろうか。
しかし、今さら当時の事情を掘り返してみても、虚しい思いがするのは私だけではないだろう。

私は、以前の会社において、旧長銀の人とも、旧日債銀の人ともお付き合いをさせて頂いたことがある。
もちろん、ごく限られた人であるから、それを一般化できないとは思うが、敢えて言えば、長銀は優等的で、日債銀は野人的であった、という印象を持っている。
いずれにしろ、ある種の国策を担った銀行であり、時の流れを感じざるを得ない。

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2009年12月 9日 (水)

「八ツ場ダム計画」の行方

前原誠司国土交通相は、建設中止を表明していた「八ツ場ダム」について、新たな治水対策を検討する「今後の治水対策のあり方に関する有識者会議」(座長・中川博次京大名誉教授)が、ダム事業の継続を評価する新基準を策定するのを待ち、その新基準に従って「再検証」する方針を明らかにした。

民主党は先の政権交代を果たした衆院選のマニフェストにおいて、「ムダづかい」をなくすことを第一に挙げた。
その第一として、公共事業における「ムダ」が取り上げられており、「川辺川ダム」「八ツ場ダム」は中止、と明記されている。
時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直すとしており、その代表例として、八ツ場ダムが取り上げられていたわけである。
2009年9月12日 (土):八ツ場ダムの入札延期 その1.計画の現況

民主党の新政権が発足し、国土交通相に就任した前原氏は、このマニフェストに沿って、早速「八ツ場ダム」の建設中止を表明した。
2009年9月18日 (金):八ツ場ダムの入札延期 その7.政権交代と行政の継続性
マニフェストは、政権取得時に果たすべき国民との約束であるから、前原氏の建設中止の表明は、ごく当然のことであった。

しかし、これに対し、地元の反発は激しいものであった。
そもそもの計画の契機は、昭和22(1947)年のカスリーン台風であるから、それから数えれば既に60年以上の時間が経過している。
地元住民に計画が提示された昭和27(1952)からでも、57年である。
この間、地元の強い反対運動があったが、昭和60(1985)年には計画を受容することになった。
しかし、その後も補償の条件等が難航し、ダム本体工事が遅延しているうちに、建設中止をマニフェストに掲げる民主党を中心とする政権交代が起きてしまった。

地元住民としては、長期間翻弄された上に計画の変更では、「今までの苦労は何だったのか?」という思いがすることは当然のことである。
1都5県も、既に相応の負担をしており、自分たちの意見を聞かないで中止を決めるとは何事か、と怒りを表明している。
一方で、今までの国土交通行政のあり方を考え直すためのシンボル事業になってしまっている。
おいそれと、建設推進に政策転換することもできないだろう。

したがって、「有識者会議」の判断を尊重するというのは、1つの政治判断だろう。
「有識者会議」では、「八ツ場ダム」の妥当性について、様々な角度から検証してもらいたい。
中条堤の遊水機能が失われた時点で、上流ダム群の調整機能に大きな配分が課されるのは必然的な論理である。
しかしながら、「八ツ場ダム」以外に代替案はないのだろうか?

一例として、片品村に予定されていた幻のダム計画がある。
片品村は、同じ群馬県であるが、尾瀬の玄関口に位置している。
Photo_3この「片品ダム」と「八ツ場ダム」を比較すると、以下の通りだという。http://blogs.yahoo.co.jp/ken1121souma/34780313.html

1 ダムの貯水量     ほぼ同じ
2 工事費         片品ダムは八ツ場ダムの4分の1の工事費
3 水質           片品のほうがいいそうです(水道水の供給が目的)
4 住民の反対      片品は建設で水没住宅ゼロ、そこで地元では大歓迎

上掲サイトでは、片品村は山村で、産業がさしてない、としている。
温泉とスキー場とハイキング客主体の観光の村だから、観光名所が増えるので地元は大歓迎の意向だったという。

治水上、あるいは水資源開発上、「八ツ場ダム」と同じ規模のダムは、もう1つは不要とのことで、建設中止になったという。
ここで疑問は、なぜ工事費が1/4の「片品ダム」の方が棄却されたのか、ということである。
選択の基準は、「片品ダム」は設計段階で、「八ツ場ダム」は既に工事段階に入っていたから、ということのようである。
あるいは、工事費の大きな事業の方が、建設業界が潤うから、などということもあながち邪推ではないのかも知れない。

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2009年12月 8日 (火)

専門家による「八ツ場ダム計画」擁護論(4)八ツ場ダムの治水上の意義

東京大学名誉教授の虫明功臣氏は、『八ツ場ダムは本当に無駄なのか-治水と水資源の観点から考える』(「正論」09年12月号)において、洪水の処理法は、流すか、溜めて調節するか、の2つの方法である、とする。
そして、沖積平野の河川では、洪水を安全に流下させるために、川幅を決めて堤防が築かれるが、日本では土地利用が高度化しているので、広い川幅を採ることが難しい。
流下させる洪水量を増やそうと思えば、堤防の高さを高くするしかないが、堤防を高くすると、破堤したときの氾濫流の量とエネルギーが大きくなり、被害が増大する。
堤防を高規格化して、切れない堤防にすればいいが、時間とコストを考えると、現実的ではない。

一方で、溜めて調節する方式(ダムや遊水地)は、河川の洪水の水位を下げるという役割を果たす。
破堤したときの水位を下げることが、被害を局限することに繋がるので、治水計画では洪水位を下げることが基本となる。
また、堤防の整備・強化には長時間を必要とし、経時的に劣化することが避けられないので、継続的な維持・補修が必要である。
利根川のように堤防延長の長い河川では、とりわけ洪水位を下げることは大きな意味を持つ。

数値が公表されていないということであるが、虫明教授は、八斗島下流において、上流ダム群が基本高水の水位を低減する効果を、1m数十cmと推測している。
八ツ場ダムは、上流ダム群の中で最も大きな治水容量を持ち、有効な水位低減効果が期待される、とする。
つまり、八ツ場ダムは、無駄なダムではなく、利根川の治水計画の上で、極めて必要性の高いダムである、というのが虫明教授の結論である。

ダムには、治水のための洪水調節機能のほかに、水資源開発機能が期待されている。
日本の河川において、水利権の対象となる安定して流れている流量は、ほとんどが農業用水として利用されてしまっている。
生活用水や工業用水などの新規需要に対しては、ダム等によって、安定して取水できる流量を増やさなければならない。

首都圏における水資源開発は、主として利根川・荒川水系に依存してきた。
水資源開発が重要に追いついていない場合には、流量が豊富なときに限って取水の権利を認める暫定水利権が設定されている。
利根川・荒川水系では、特に暫定水利権が多い。
首都圏の水資源計画上、八ツ場ダムは重要な位置づけがなされている。
1都5県の知事が中止反対を唱えているのも、首都圏の水需給の不安定さによるところが大きい。

虫明教授は、地球温暖化による気候変動の悪影響への対応策としても、八ツ場ダムは被害を軽減するのに有効に機能する可能性を持っている、としている。
確かに、個人的な実感として、暖冬化が通例のようであり、集中豪雨等が凶暴化しているように思う。
しかしながら、、地球温暖化の現象と原因については、いまだ確定的なことが言えない段階のようである。
この部分については、虫明教授も「可能性を持っている」とやや控えめな表現となっている。

同じ「正論」の09年12月号に、地球物理学者でアラスカ大学名誉教授の赤祖父俊一氏が、『地球温暖化の原因は炭酸ガスにあらず』という論文を寄稿している。
赤祖父名誉教授は、「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の論議が、鳩山首相や国民世論をミスリードしている、と批判している。
赤祖父名誉教授によれば、地球温暖化の原因は大気中の炭酸ガス等の濃度の上昇によるものではなく、そのほとんどが自然変動と捉えるべきものであるとしている。

つまり、紀元1000年以後の大きな気候変動は、先ず、1400年ごろから1800-1850年ごろまで、「小氷河期」が続いたおとである。
世界平均で約1℃低く、世界各地で飢饉が起きた。
現在は、その小氷河期からの回復中である。
つまり、寒い期間から回復していることが温暖化であって、0.5℃/100年のペースである。
おそらく、2100年まで、このトレンドが続くと予測される。
2100

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2009年12月 7日 (月)

専門家による「八ツ場ダム計画」擁護論(3)利根川改修計画の経緯

引き続き、虫明功臣東京大学名誉教授の『八ツ場ダムは本当に無駄なのか-治水と水資源の観点から考える』(「正論2009年12月号収載)を見て行こう。

2.明治時代における治水事業への要望の高まり
江戸時代を通しての新田開発の拡大と、沖積地への人口・資産の増加によって、全国的に洪水災害が顕在化した。
明治23(1890)年に第1回の帝国議会が開催されると、政府の責任において本格的な治水事業を行うよう要望が高まった。
明治29(1896)年に旧河川法が制定され、大河川における洪水防御を目的とする直轄治水事業が始まった。
地先水防から水系全体を見通した治水方式への転換である。

利根川については、明治33(1900)年に最初の改修計画が立案された。
この計画における計画洪水流量は、栗橋地点を基準地点として、3750立法m/秒であった。
この値は、集水面積を考慮すると、淀川、筑後川、木曽川などに比べて極めて小さく、中条堤の洪水調節効果を前提としたものであった。

明治43(1910)年に、吾妻川、烏川流域に大雨が降り、利根川の全川にわたり大規模な氾濫をもたらす被害が発生した。
中条堤が破堤し、東京まで氾濫流が流下するという事態だった。
中条堤の破堤とその修復をめぐって、上・下流の地域的対立が激化した。
埼玉県議会を2分する争いとなり、住民と警官隊が激しく衝突する事件も起きたりした。
結果的に、上流域側の遊水地化に対する強い反対が入れられて、本川に連続堤を築き、河道の流下能力を高める案が採用されることになった。
利根川治水の大きな転機ということになる。

明治43(1910)年の洪水後、治水計画の対象とする計画洪水流量を増大する改定が行われ、工事が進められてきた。
しかし、昭和10(1935)年、昭和13年と計画洪水流量を上回る洪水が発生し、計画対象洪水流量を引き上げざるを得なくなった。
しかし、戦時体制下となったこともあって、改修はほとんど進捗しなかった。

昭和22(1947)年の敗戦の傷跡も癒えていない時期に、カスリーン台風が利根川上流域に未曾有の大雨をもたらし、利根川流域の全域で甚大な災害が発生した。
この水害を契機として、カスリーン台風規模の降雨による洪水に耐える治水計画が検討され、基本高水は、基準点八斗島で17000立法m/秒とされた。
そのうり、3000立法m/秒を上流のダム群で調節する改修計画が立案された。
この時点で、八ツ場ダムが洪水調節を担うダムとして計画の中に位置づけられたのである。

その後、洪水出水が増大傾向にあることを踏まえ、昭和55(1980)年に、基本高水を八斗島で22000立法m/秒とし、上流ダム群で6000立法m/秒調節する計画に改定された。
さらに平成9(1997)年の河川法の改定時に昭和55年計画の見直しが行われ、上流ダム群の調節機能は5500立法m/秒とされた。

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2009年12月 6日 (日)

専門家による「八ツ場ダム計画」擁護論(2)中条堤の遊水効果

虫明教授は、明治29(1896)年に制定された旧河川法による利根川沖積平野の洪水対策の転換を次のように整理している。
1.江戸時代から旧河川法制定まで
連続堤防ではなく、重要地域を守る地先堤防だった。
埼玉平野の上流部に築かれた中条堤は、上流区域に洪水を貯留・調整する遊水機能を持っていた。
中条堤により、下流の洪水氾濫を大幅に軽減させ得た。
Photo http://www.jice.or.jp/room/200811140.html

虫明教授は、利根川治水の歴史に関しては、関東学院大学宮村忠教授の利根川研究の成果を参照していると書いている。
以下、宮村教授による中条堤の洪水調節効果の解説を見てみよう。
http://www.kubota.co.jp/urban/pdf/19/pdf/19_3_3_4.pdf

利根川治水の基本は,中条堤の機構によってささえられてきた.近世における各種の河川事業も,この機構を前堤として成立,または可能であった.
明治中期からの流域杜会の動向は,激しくこの機構をゆさぶり,ついに利根川治水の要をとりのぞいてしまった.そのため,治水計画は混乱し,混乱の中から次第に明瞭に利根川東遷が位置づけられるようになり,同時に江戸川拡大の方向が成立してきた.しかし,中条堤機構が破たんした負担分は,やっと高水計画にのった段階にすぎない.
……
に大きな差が生じる.そのことを考慮しながら仮りに11,000m3/s の効果を中条堤に期待して,明治33年改修計画の流量配分図と付合わせれば,図15のような流量配分図がえがける.
Photo_2                     この図で八斗島における14,750m3/s という数字は,現在の計画洪水流量14,000m3/s とほぼ一致する.
したがってこの図は,あたかも,中条堤を放棄したその負担分を,下流河道で受けもたせている構図のようになる.この意味では,利根川の治水は,基準地点(八斗島)流量で明治33年改修計画と変っていないことになる,他の主要河川は,すでに安全率を高める方向にすすんでいるが,利根川の場合は治水史の観点からみる限り,従来の治水の要の代替えをつくった段階といえよう,

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2009年12月 5日 (土)

専門家による「八ツ場ダム計画」擁護論

「今後の治水対策」が検討されており、河道主体から流域全体での対応という方向性が打ち出されたとしても、ダムが全面的に不必要になるというわけではない。
どうしても必要なダムと、必ずしも必要というわけではないダムとに「仕分け」がなされることになるだろう。
それでには、当面の焦点となっている八ツ場ダムについてはどうだろうか?

11月26日には、地元の「八ツ場ダム推進吾妻住民協議会」が国交省に5万人余りの、八ツ場ダム中止撤回の署名を提出した。
また、関係6都県の知事も、中止反対を唱えている。
八ツ場ダムについては、賛否両論が対立したままで調整の見通しは立っていない。
専門家はどう見ているだろうか?

雑誌「正論」の2009年12月号に、東京大学名誉教授の虫明功臣氏が『八ツ場ダムは本当に無駄なのか-治水と水資源の観点から考える』という論文を寄稿している。
虫明氏は、東大工学部の出身で、東京大学の教授を定年退官後、現在は福島大学の教授を務めている。
専門は、水文学と水資源工学であり、社会資本審議会河川分科会、国土審議会水資源開発分科会などに係ってきた。
現在の水文学分野における第一人者ということになるだろう。

虫明教授は先ず、現在、河川・水資源行政は曲がり角にあり、開発重視からマネジメント重視へ、関連分野の総合性を求めるという方向へ舵を切りつつある、という。
そして、このような河川・水行政の見直しについて、大歓迎である、としている。
おそらくは、この度設置された「今後の治水対策のあり方に関する有識者会議」(座長・中川博次京大名誉教授)においても、マネジメント重視、関連分野の総合性を求める、という方向性で論議が収束されていくことになるだろう。

上掲論文において、虫明教授は、自身の前門の立場からすると、「八ツ場ダム中止」は暴論と言わざるを得ない、という。
八ツ場ダムは必要性が高いダムであるにも拘わらず、代替案を示すことなく、ダム本体着工前の計画を中止するというのは、強引で理不尽な政治決断だと断罪している。
そして、八ツ場ダム計画の妥当性を以下ののように論じている。

先ずは、利根川水系における治水の重要性である。
利根川水系は、群馬、栃木、埼玉、茨城各県の山地を水源として、広大な関東平野を流下し、下流には東京都、埼玉県、千葉県という人口稠密地帯がある。
言うまでもなく、日本において治水上最も重要な河川である。

一方で、利根川が、日本で最も治水の難しい河川である。
それは、勾配の緩やかな平野部を流れる距離が長く、規模の大きな支川を合流することにより、洪水流量が増加するからである。
利根川は、17世紀初頭以前には、東京湾に流れ込んでいた。
2009年9月14日 (月):八ツ場ダムの入札延期 その3.利根川における水資源開発
江戸時代に、埼玉平野を流れていたいくつかの派川を統合し、関宿付近の台地を開削するなどして、利根川と当時の常陸川を接続し、銚子方面へつないで、現在の流路とした。
いわゆる利根川東遷事業と呼ばれるものである。

利根川東遷事業については、その意図と経緯について多くの論議がある。
虫明教授は、東遷事業の主目的は、関東周辺や特に東北地方から江戸への物資を輸送する舟運体系整備の一環であった、とする。
そのため、利根川下流への開削部の川幅が狭く、銚子方面への洪水の分派量は極めて少なかった。
天明3(1783)年の浅間山大噴火により、利根川の河床が上昇し、氾濫被害が激化した。
2009年10月15日 (木):八ツ場ダムの深層(5)浅間山大噴火の利根川への影響
これに対処するため、幕末にかけて開削部の拡幅が行われたが、本格的に下流部への洪水分派量が増強されるのは、明治29(1896)年に、旧河川法が制定されて以降のことである。

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2009年12月 4日 (金)

今後の治水対策のあり方

国土交通省は、11月3日に、新たな治水対策を検討する「今後の治水対策のあり方に関する有識者会議」(座長・中川博次京大名誉教授)の初会合を開いた、と報じられている。
「民主党政策集INDEX2009」では、国土交通政策の中で、大型公共事業について、次のように記載している。

大型公共事業の見直し
川辺川ダム、八ッ場ダム建設を中止し、生活再建を支援します。そのため、「ダム事業の廃止等に伴う特定地域の振興に関する特別措置法(仮称)」の制定を目指し、国が行うダム事業を廃止した場合等には、特定地域について公共施設の整備や住民生活の利便性の向上および産業の振興に寄与する事業を行うことにより、当該地域の住民の生活の安定と福祉の向上を図ります。
また、環境政策の中で、水循環について、次のように記載している。
水循環の確保
日本の水循環の状況を見ると、省庁縦割りの水管理によって、自然環境を活かした循環とはなっていません。現状では細分化され目的も異なる森林、河川、海岸等に関連する各法律を、水循環という観点から環境指向的な一つの法律として統合します。
その際には、住民参加と情報公開により、地域の自然的・文化的・社会的特性に応じて住民が森林や河川の問題に真剣に取り組むことのできるシステムを法律に組み込みます。
また、水不足が深刻な国々の貧困層に十分で安全な水が供給されるよう積極的に援助します。
上記有識者会議では、以下のような内容が検討されるという。
1.幅広い治水対策の立案手法
2.新たな評価軸の検討
3.総合的な考え方の整理
4.今後の治水理念の構築
これだけでは、いささか抽象的すぎて、どういう方向性で考えられるのか不明である。

日本には、およそ2,600のダムのがあり、その総貯水量は202億トンだという。
これに対して、日本の森林2,500万ヘクタールの総貯水量は、1,894億トンであり、なんとダムの9倍にもなる。 さらに森林には貯水機能だけでなく、水源かんよう機能や土砂流出防止機能もあって、その効用はコンクリートのダムを、はるかに上回っている、という説がある。
http://d.hatena.ne.jp/naoshi11/20091003

しかし、もちろん、森林の貯水機能を短期的に管理することは不可能である。
台風が接近して、大雨が予想されるからといって、空にして大雨に備えるというわけにはいかない。
渇水だからといって、臨時に水を供給するわけにもいかない。
森林の貯水機能は、あくまで流出のピークを低減しボトムを上げて平滑化するだけである。
したがって、治水対策や水資源対策を、森林の貯水機能だけで行うことは不可能である。

戦後、わが国の国土は高度利用が進み、特に、昭和30年代以降の高度成長による国土の変貌は著しいものであった。
それが水循環の様相を大きく変えてしまった。
都市域では、道路の舗装や住宅の建設により、雨水を地中に浸み込ませる「保水機能」や、一時的に貯めておく「遊水機能」を持っていた田畑・山林が少なくなり、河川への流入を一時的に遅らせる働きが小さくなった。
そのため、雨が降った時に雨水が河川に流れ込む量が増大し、その変化が急速化した。
また、人口の密集する下流部では河道を拡げることが難しくなった。

そこで雨水の処理を「河川対策」だけに頼らず、一時的に雨水を貯めたり、地下に浸み込ませたりして流域全体雨水の流出を抑える「流域対策」の両面から水害を防ぐ考え方が生まれた。
「総合治水対策」と呼ばれるものである。
Photohttp://www.ara.go.jp/category/09_pd/bousai/water/kouzui/syowa/chisui/chisui.html

果たして、「今後の治水対策のあり方に関する有識者会議」において、総合治水対策を超える発想が出てくるのかどうか。
また、治水だけでなく、利水や親水などを含めた水循環のあり方が議論されることが必要だろう。
しかし、言うは易く、行うは難し、の典型でもある。
それこそ、「百年河清をまつ」にならないように期待したい。

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2009年12月 3日 (木)

投資と費用-その2.政権交代/「同じ」と「違う」(17)

スーパーコンピュータ開発に関する事業仕分けが科学技術関係者などの批判を招き、予算としては復活しそうな成り行きである。
特に、理化学研究所の野依良治理事長の「科学技術振興や教育は投資であって、費用と混同して考えてはならない」という発言がかなりの影響力を持ったようだ。
確かに、投資と費用は別の概念であろう。

しかし、考えてみれば、ダムの建設も道路の建設もすべて投資として考えるべき問題ではないか。
これらの公共事業は、まさに産業や生活の基盤整備事業であって、長期間にわたる受益を前提にしている。
およそ公共事業の多くは、投資として行われるものであろう。
その意味で、事業仕分けにおいて、投資と費用とを区分して考えるべきだ、という論理は成立しがたい。

事業仕分けの進め方について、多くの批判を耳にする。
私などは、自公連立政権時代と比べれば、大きな前進ではないかと思うが、もちろん現在の方法や状態に欠陥がないということではない。
変えるべきは変えていけばいいだろう。

今年の新語・流行語大賞は、「政権交代」だそうだが、政権交代自体が、一種の投資と考えるべきだろう。
多くの国民は、決して一過性の流行現象として選択したわけではないと思う。
長期政権の後で、直ちに交代の効果を求めれば、拙速という結果に陥ることになるだろう。
政権交代の費用はもちろん発生するであろうが、重要なことは、投資と位置づけて、長期的な効果をいかにして発現させていくかだと考える。

一般論として、投資に不確実性はつきものである。
不確実性を前提として、意思決定を行わざるを得ない。
ハイリスクのものはハイリターンを期待するし、ローリターンしか期待できないとすれば、ローリスクの道を選ぶだろう。
ハイリスク・ハイリターンがあるレベルを超えると、投資というよりも投機と呼ぶべき領域に入ってくる。
もちろん、その境目のレベルは、手持ち資金の余裕度等によって変わってくるだろう。
私は、国民は、ある程度のリスクを織り込んだ上で、政権交代という選択肢を選んだのだと思う。

投資に際しては、長期的な目論見が重要である。
民主党政権は、日本という国の長期的な展望を示していない、という批判がある。
それも、自公政権との対比で言えばどうなのか、という気がするが、長期的な方向性の提示は、投資、すなわち多くの事業仕分けの判断の基礎になるものである。
政権交代が先に現実化してしまったわけであるが、この国の将来像については、これからでも遅くはないので、議論を重ねていくべきだろう。

しかし、例えばダム問題をとっても、将来的な水循環の望ましい姿などは、そう簡単には描けないのではなかろうか。
とすれば、現時点で、何らかの見切りは止むを得ないのではないかと思うのだが。

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2009年12月 2日 (水)

「事業仕分け」と「裁判員裁判」/「同じ」と「違う」(16)

行政刷新会議による「事業仕分け」の様子に対して、人民裁判のようではないか、という批判があるようだ。
確かに、「仕分け人」なる言葉も流通しており、TVドラマの「必殺仕事人」を連想する人もいるのではなかろうか。
さしずめ、「仕分け人」は、長い間さまざまな利権を欲しいままにしてきた「悪い奴ら」を倒す仕事人である。
国民の支持の背後に、そのような勧善懲悪的な心情が作用していることは否めないだろう。
しかし、それは一時的なものに過ぎないと思われる。

確かに、私も、TV映像を見ながら、何となく60年代末の学生反乱の状況を思い出すことがあった。
それは「知性の叛乱」としての要素も多分にあったが、一方で、碩学の教授たちに向かって、「テメェ、バカヤロー、ちゃんと答えろよ」などと罵声を浴びせる、およそ知性の感じられない状況もあったことは事実である。
しかし、今にして思えば、それは戦後史における一種の通過儀礼ではなかったかと思う。
戦後復興から高度成長へ。めまぐるしく変貌する社会を何事もなく過ごすわけにはいかなかったのではないか。

私は、「事業仕分け」の報道に接しつつ、裁判員裁判のことを考えた。
今まで専門家の手に委ねられていたことに関して、市民の目線を導入するという意味では、両者に共通するものがあるように感じられたのである。
もちろん、片や公共的な政策に対する判断、片や個人的な量刑に対する判断であるから、両者のテーマは全く異なるものである。
しかし、専門家の閉じた世界での判断から、より開かれた世界での判断へというベクトルは共通するものであろう。

私は、裁判員裁判の制度についてはいささか疑問を持つものである。
2009年1月24日 (土):裁判員制度に関する素朴な疑問
2009年5月16日 (土):裁判員制度と量刑判断
2009年6月 6日 (土):冤罪と裁判員制度
2009年6月10日 (水):刑事責任能力の判断と裁判員裁判
2009年8月 4日 (火):裁判員制度と刑法総論

社会的にみて如何なものか、と思う判決が出されることがある。
だから、「市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映させる」ために、市民が直接裁判に参加しなければならないものかどうか。
刑法的思考の訓練を受けたことのない一般市民が、的確な判断を示せるものなのか。
冤罪の可能性というのは常に存在すると考えられるだろうが、一般市民がその精神的負担に耐えるべきなのか。

これに対して、「事業仕分け」は公共政策の判断の問題である。
究極的には一般市民・大衆の多数決の論理によるべきものである。
専門性も必要とされる場合もあるのだろうが、すべての分野に対する専門家はいない。
また、すべての案件を、国民投票に付すわけにもいかなりことは自明である。
議員なり有識者に代理的に権限を委ねざるを得ないのが現実だろう。

「木を見て、森を見ず」ではないか、という批判もある。
しかし、森の姿を直ちに目に見えるものとすべきである、というのはないものねだりというものだろう。
今までと比べてより良いかより悪いか、と考えるべきだろう。
確かに劇場的な方式で行われたことにより、仕分け人にはキャストという意識があったと思うし、国民には観劇的な気分もあっただろう。

そして、先般の事業仕分けの風景には、佐伯啓思京都大学大学院教授が言うように、「反論の余地なき正義を振りかざして全権を行使する」(産経新聞12月2日「正論」欄)ように感じられる局面があったことは事実である。
しかし、「反論の余地」はもちろんあったのだろうし、仕分け人に全権が委ねられているというわけではないだろう。
佐伯教授が言うような、優等生が議論を誘導するようなイヤラシサの感覚は私も共有するものであるが、それはまだ不慣れだから、ということもあるのではないか。
公開されている以上、成熟してくるに従い、一般良識的な判断に収斂してくると思う。

しかし、裁判員裁判はこれとは異なる。
1回ごとに選任される裁判員には、判断を成熟させるプロセスは予定されていないからである。
市民の持つ日常感覚や常識は重要だろうが、専門性を軽視すると、衆愚の発露に陥る可能性があることを心しておかなければならないのではないだろうか。

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2009年12月 1日 (火)

事業仕分けの限界と可能性

およそモノ・コトには、「限界と可能性」がある。
そのどちらに着眼するかで、これからの方策に対する考え方は異なってくるだろう。
多くの国民の注目を集めた「事業仕分け」も、限界があることは当然である。
その限界をみて、否定的に考えるか、それとも可能性をみて、今後の改善を考えるか?

大多数の人は、「事業仕分け」については肯定的な評価のようである。
ノーベル賞受賞者や大学関係者から批判が噴出したスーパーコンピュータの開発に関する査定も、予算では復活となりそうである。
政治評論家の屋山太郎氏が高く評価しているのは、「国交省の下水道事業(5188億円)は財源を移したうえで、地方自治体が判断する」とした仕分け作業である。

「民主党政策集INDEX2009」は、下水道政策について、次のように記述している。

環境・暮らしにやさしい下水道法等の改正
下水道整備が各自治体の大きな負担要因になっているとの認識に立ち、硬直的な接続義務を見直す法改正を行い、下水道に偏重した汚水処理対策を正します。
合併浄化槽は、汚水処理性能が下水道と比較して遜色のない水準に達していること、過疎地域において経済効率において優れていること、循環型社会の形成に寄与する機能を有することが指摘されています。このため、下水道法を改正し、公共下水道の排水区域内において合併処理浄化槽で汚水を処理している場合、公共用水域の水質の保全や公衆衛生の見地から著しく不適切な場合を除き、公共下水道への接続義務を免除する等の措置を講じます。
浄化槽方式の汚水処理については、民主党会派に属する新党日本の田中康夫氏が熱心に取り組んできた。
以下は、自民党政権時代の国会での質疑応答である。
(田中康夫君 これは弘友さんのデータではなく、これから申し上げるのは総務省が実際に出している資料なんでございますが、今申し上げました、一億二千七百万人くらいいる中の二千二百三十七万人、七百四十六万世帯の汚水処理ができていないという方々に関して、これを仮に下水道ですべて進めていくと四十七兆二千億円掛かるという形でございます。
 これに対して、仮に浄化槽というものを用いれば、これは六兆円でできるという形でございます。ですので、約年間二兆円という、こうした汚水処理の事業の新規に用いていくお金を使えば、約三年間でまさに基本的な生活という点において、前回も言いましたように、個別銘柄かもしれませんが、ウォシュレットも使える、そして水洗のトイレを、そして生活用水もきちんと環境に配慮して処理していくことができるわけでございます。
国務大臣(金子一義君) 下水道をどの手法でやるべきか、公共下水でいくのか、農村集落排水でいくのか、あるいは合併浄化槽でいくのかということについて地域がそれぞれ計画を作っていただいておりまして、あれは、委員も御担当でありましたから、県の知事の権限で作っているんですね。地図を書いてあるんですね。県が決めるんですよね。)
参議院国土交通委員会平成21年4月9日議事録抜粋 質問者民主党会派田中議員
私たちの世代は、下水道整備が文明のバロメーターのような感じがすることは事実である。
つまり、下水道の延伸を無条件で是と考えてしまいがちである。
しかし、整備が進むにつれて、人口密度が疎な地域が対象になってくる。
当然のことながら、下水道整備の限界効率はどんどん低下してくる。
浄化槽技術の進展により、浄化槽で処理した水も、環境の構成要素として利用できる水質になっている。
下水道管の中を流れている間は、生活と遮断された流水である。
経済的な効率面からだけでなく、環境面からも、排水の有効利用を考えるべきだろう。
「事業仕分け」はスタートしたばかりである。
改めることは多々あるだろう。
しかし、密室の作業をオープン化したことは何物にも代えがたいのではなかろうか。

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