卑弥呼の時代
邪馬台国の時代を大局的に眺めるために、関連年表をみてみよう。 図は、日本経済新聞09年11月11日。
この年表によれば、卑弥呼が擁立され、「倭国乱」が終わった時点と、纏向遺跡の始まりとがほぼ同時期ということになる。
そして、卑弥呼が魏に朝貢して「親魏倭王」の称号と銅鏡100枚を賜ったのが、纏向遺跡の盛期、卑弥呼の死去の時点と箸墓古墳の築造時期とがほぼ近接していることになる。つまり、纏向遺跡を邪馬台国の所在地と考えれば、都合のいいことが多いのは事実である。
しかし、だから「纏向遺跡が邪馬台国である」ということが必然的に導き出されるわけではない。
卑弥呼が擁立されたのが、上記の年表のように180年ごろだとすれば、中国では後漢の時代である。
後漢とは次のような時代である(Wikipedia(最終更新 2009年9月4日 (金))。
後漢(ごかん、25年 -220年)。
漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢と紛らわしいので、現在では東漢と言うことが多くなってきた(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。時代となり、数多くの群雄の中から、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が抜け出して覇を競ったのが三国時代である。
地図は、『 朝日ジュニアシリーズ週刊マンガ日本史』(0910)朝日新聞出版。
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