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2009年11月12日 (木)

纏向遺跡と建物跡の復元

纏向遺跡の位置は次の通りである。
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-afd4.html Photo
畿内説論者が卑弥呼の墓ではないかとする箸墓古墳も、纏向遺跡に含まれている。
2009年5月29日 (金):箸墓は卑弥呼の墓か?

また、周辺には、三輪山、大神神社をはじめとして、古代史上重要な遺跡が群集している。
邪馬台国が存在したとされる3世紀ごろにおいて、わが国の政治権力が存在した一級の地域であることは疑いえない。
しかしながら、ここが邪馬台国だったと結論づけるのは早計であろうし、箸墓が卑弥呼の墓とも断定できないと思われる。

いわゆる『魏志倭人伝』には、次のような記載がある。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。 

今回確認された建物跡が、この「宮室・楼観・城柵、厳かに設け」に相当するのではないか、ということである。
ちなみに、黒田龍二・神戸大学大学院准教授による建物群の復元模型は、下図の通りである。
(日本経済新聞11月11日掲載。)
黒田准教授は、図の建物(入母屋造り)の高さを約10メートルと想定している。

果たして、『魏志倭人伝』の伝える卑弥呼の宮室はこのようなものだったのだろうか?Photo_3

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