星落秋風五丈原
西暦234年の8月のある日、天を東北から西南に星が流れて、蜀軍の諸葛亮孔明の陣地のあたりに墜ちた。
3度墜ちて2度天に戻ったが、3度目はついに戻ることがなかった。
まもなく孔明の病は篤くなり、再起できないまま陣中に没した。享年54歳であった。
蜀軍は整然と退却し始めたが、魏の司馬懿が追撃すると、蜀軍が反撃の姿勢を示したので、魏軍は追撃を諦めた。
死期を悟っていた孔明は自分の死後のことまで指示していた。
「死せる孔明、生ける(司馬懿)仲達を走らす」である。
孔明の没後30年にして、蜀の2代目皇帝劉禅は成都を魏に明け渡し、劉備の建国した蜀は50年で命脈が尽きた。
蜀を無傷の状態で差し出した劉禅は、安楽県公に任じられたが、郡にも及ばない小さな諸侯であった。
蜀の皇帝の末路としてはいささか寂しいが、命を永らえただけでも幸いとすべきかも知れない。
呉は、4代孫皓が暴君で人心は離反し、魏の曹氏の取って代わった晋の司馬炎に攻められると、孫皓を見限っていた将軍たちは、次々と逃亡し、西暦280年に孫皓は降伏した。
孫権の建国から50年後のことであった。
三国鼎立の時代の最終的な勝者は、魏・呉・蜀のいずれでもなく、魏の中から生まれた晋であった。
その立て役者は、司馬懿仲達である。
司馬懿は、孔明のライバルであったこともあって、『三国志演義』などにおいて、芳しい扱いを受けていないが、実際は、大局観に優れた知略の人であったと考えるべきであろう。
蜀の侵攻を防ぐと共に、遼東の公孫淵が呉の孫権と結ぶと、公孫淵を討ち、さらに東進して朝鮮半島に楽浪・帯方の2郡を設置した。
司馬懿は、魏の実権を握り、265年には司馬懿の一族司馬炎が、曹氏に代わって皇帝の地位に就き、晋を建国する。
魏が楽浪・帯方の2郡を設置したのは238年のことであったが、この情勢をいち早く捉えて、同年に魏の帝都洛陽に使者を送ったのが、倭の女王卑弥呼である。
魏帝は、卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印を与えるが、東海の小国としては異例の厚遇である。
同じような扱いを受けたのは西方の大月氏(「親魏大月氏王」)だけであり、司馬懿の功績を称えるため、倭を大月氏国並の大国として扱ったとか、呉との地政学的な関係から倭を大国として扱ったとかの諸説があるが、卑弥呼の外交センスも並々ならぬものであったと言うべきであろう。
『荒城の月』の作詞者と知られる土井晩翠に、諸葛孔明の最後を詠んだ詩がある。
晩翠は、日本の近代詩の創始者の1人であった。
第一詩集の『天地有情』が、明治32(1899)年に刊行されている。
島崎藤村の『若菜集』に遅れること2年、日清・日露の間の「臥薪嘗胆の時代」であった。
藤村と晩翠は、当時の詩壇の双璧であったが、詩の内容は対照的であった。
晩翠の詩には、硬派的・国士的なものが多く、「臥薪嘗胆の時代」において、多くの人の心情にフィットするものであったようだ。
中でも、『星落秋風五丈原』は有名である。いわゆる七五調の口調の良さ、漢文調の格調の高さなどの魅力で、多くの人に暗誦・愛唱されてきた。
冒頭の部分は以下の通りである。
祁山悲愁の風更けて
陣雲暗し五丈原
零露の文は繁くして
草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く
鼓角の音も今しづか。
* * *
丞相病篤かりき。
以下、(一)においては、「丞相病篤かりき」のフレーズが繰り返され、(二)以降は、孔明の履歴を回顧するという内容で、最終連は以下のように終わる。
草蘆にありて竜と臥し
四海に出でゝ竜と飛ぶ
千載の末今も尚
名はかんばしき諸葛亮。
私も、暗記しようとした記憶があるが、スケールの大きな構図の絵画的な描写だと思う。
晩翠の詩は、旧制中学・高校の校歌や寮歌の原型的存在であった。
いま、寮歌などは既に老人のノスタルジーの中にしか存在しないかのようであるが、私たちの高校では、学園祭の前の歌唱指導の中に、旧制高校等の寮歌の練習も含まれていて、今でもそれらの一節を歌うことができる。
旧制三高の『紅萌ゆる』、同じく『琵琶湖周航の歌』、北大予科の『都ぞ弥生』、旧制四高の『北の都に秋たけて』、旧制七高の『北辰斜めにさすところ』、旧制八高の『伊吹おろし』、旧制松本高校の『夕暮るる』などは、曖昧ながら、口をついて出てくることがある。
教育制度の改革は常に難しいテーマであるが、青春の一時期を共に愛唱する歌があったということは幸せなことだったのではないかと思う。
日露戦争の終結によって、時代の空気、文学の傾向も変わり、詩人としての晩翠が高く評価される時代ではなくなった。
晩翠は、旧制二高(仙台)の教授を長く努め、二高を退いてからは、ホメロスの叙事詩の訳業に打ち込んだ。
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