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2009年11月13日 (金)

邪馬台国と大和朝廷の関係

「邪馬台国」は、いわゆる『魏志倭人伝』に登場する名前である。
『魏志倭人伝』についてのWikipedia(最終更新 2009年9月30日 (水))の解説をみてみよう。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称であり、日本において一般に知られる通称である。江戸時代の漢学者の中で『三国志』という書名を用いず『魏志』『蜀志』『呉志』などと称する慣習があったため、この通称が用いられた。
正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」である。全文で1988(又は2008)文字からなっている。著者陳寿の死後正史の扱いを受ける。
著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年-290年間)に書かれた。現存する数種の版本のうち、「百衲本」が最も善本とされるが、現在の中国では諸本を校訂した「中華書局本」が多く通行しており日本語訳もこれを底本としている。

纏向遺跡の発掘によって、考古学的に所在地論争が決着したかのような報道もあるが、「親魏倭王」などの決定的な遺物が発見されない限り、考古学の知見が決定打になることはないと考えるべきであろう。
やはり『魏志倭人伝』に記載されている事項を、『記紀』や遺跡・遺物、伝承、地名などと対比して総合的に検討することが必要だと思われる。
そして、大局的な観点から整合性のある解釈を導き出すことが求められよう。

たとえば、「邪馬台国大研究」と題して浩瀚なリサーチの成果を公開している井上さんのサイトでは、纏向遺跡について、次のような見方をしている。
1.紀元前1世紀から紀元後2世紀にかけての弥生時代中期には、北九州を中心に銅剣・銅矛が広く分布し、ひとつの文化圏をつくり、一方、近畿を中心に銅鐸が分布して、やはりひとつの文化圏を作っていた。
両者の文化が融合した形跡は見られないから、このふたつは交流をもたない異民族国家であったと推測できる。

2.もし畿内説論者の言う邪馬台国が纒向にあって、ここから大和朝廷が全国に支配権を浸透させていったとすれば、なぜ自分たちの用いていた、銅鐸による呪術的性格を帯びた文化のことを後世に伝えていないのか。
古事記・日本書紀には銅鐸はおろか、それを用いていた民族のこともまったく登場しない。
記紀に登場するのは銅剣・銅矛・勾玉・銅鏡であって、これは戦闘的性格を帯びていた北九州文化圏のものであり、今でも皇室が保有する「三種の神器」は、剣・鏡・玉である。

3.やがて古墳時代に入ると、そのままこの文化は近畿圏にも伝わり古墳からも多く出土するようになるが、北九州から夥しく出土する甕棺墓に起源がある事は明白である。
もし邪馬台国が近畿にあった場合、のちの大和朝廷と深い関係にあるのは明白で、「邪馬台国=大和朝廷の前身」と考えていいはずである。

4.だとすれば、大和朝廷のつくる記録のなかに、邪馬台国の記述や伝承が残っていても良さそうなものである。これは「邪馬台国東遷説」についても同じである。「邪馬台国=大和朝廷」ならば、記紀に何かの伝承を残すはずではないだろうか。

5.ところが、万世一系を強調し、架空の天皇までつくって歴史を水増し、粉飾を計っている大和朝廷が、『記紀』の中で何も語っていない。
偉大なる自分たちの祖である卑弥呼の偉業を残さないとは、どうしても考えられない。

6.今年の5月に、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が発表したように、奈良県桜井市の箸墓古墳の築造時期が、240~260年と推定され、これが卑弥呼の墓に比定できるとすると、卑弥呼の墓は前方後円墳ということになる(注:箸墓がもともと前方後円墳であったかどうかについては、異論もある)。
→2009年5月29日 (金):箸墓は卑弥呼の墓か?

7.卑弥呼の墓が前方後円墳であるとすれば、仁徳天皇陵や応神天皇陵などへ続く、4~5世紀の近畿を中心とした「大古墳時代」へと、その勢力は拡大して行っているはずだ。つまり、邪馬台国が発展して強大な大和朝廷を形成していったはずである。
しかし、邪馬台国の中国への朝貢は、卑弥呼の次の女王「壱与」をもって消えてしまう。
紀元266年、壱与が数回朝貢船を送ったのを最後に、邪馬台国は歴史からかき消えてしまうのである。

8.これは、邪馬台国になんらかの異変があった事を示唆している。
つまり、前方後円墳と邪馬台国は関係ないということになる。言い換えれば、大和朝廷と邪馬台国は関係ないという事であり、両者は別系統の王朝である。

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コメント

記紀、万葉集が記されたのは7世紀後で、そこにある歌のどれでも、取り出してきて、つくづくに見てみると、10世紀頃の文人の知性を感じることすらあり、そこに、中国の魏の時代と同時代 (3世紀) のこの国の具体的な有様を探すことは、結局、出来ないことだと思います。
大神山などは、額部王も歌に詠み、律令国家を築いた天皇家の人々が古を偲ぶ、その根幹の地であることは分かります。‘やまと’と呼ばれたその地でもあったのだろう、とも思います。けれど、そこが、邪馬台国であった とは、記紀を記した人々でさえ考えてはいなかったことだったのではないでしょうか。

卑弥呼 という女王が治めていた国が、万世一系を歌う皇室の祖先であってはいけない と考えると思います。

考古学は日本の歴史では未詳の時代を調べているのですから、思い込みや願望は外し、もっと広い視野をもってその仕事に当たってほしいと思います。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年11月14日 (土) 18時03分

重陽の節句を祝う様

コメント有難うございます。
いつの時点かにおいて、纏向を含む大和の地に政治的な権力が存在したことは事実でしょうが、その由来・起源は、考古学だけでは解明できない問題でしょうね。
最近の報道(その背後に考古学者の意見があると思います)は、いささか勇み足ではないかと感じます。
記紀・万葉、中国の史書、神社伝承、金石文などを総合的に勘案してアプローチすることが必要だと思います。
考古学的遺物・遺跡は、物証としての強みはありますが、その意味は解釈の要素が入らざるを得ません。そこに文字が書かれていたとしても、果たして「文字通り」なのかどうか、一歩引いた姿勢で検討されるべきだと思います。

投稿: 管理人 | 2009年11月16日 (月) 11時41分

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