三国志の地政学と卑弥呼の対応
魏は、景初2(238)年に公孫氏を滅ぼして、帯方・楽浪の2郡を設置し、朝鮮半島の経営に乗り出した。
『魏志倭人伝』は、次のように記す。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。
余りにも素早い対応である。
倭の女王が、大陸および朝鮮半島の情勢にこのように素早く対応したのはどうしてであろうか?
金田弘之『軍事からみた邪馬台の軌跡』国書刊行会(9903)によれば、その理由として考えられるのは以下の2つである。
1.魏の朝鮮半島への進出を脅威と感じとり、魏に侵略されるまえに朝貢した。
2.倭国内で戦争の兆しがあり、魏の援助(承認)を必要とした。
(図は上掲書)。
同じく『魏志倭人伝』に次のような記述がある。
倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。
ここで問題となるのは、西暦233年に遼東の公孫淵との提携に失敗した呉の孫権の行動である。
孫権は、倭に対してどのような戦略を講ずるであろうか?
呉が邪馬台国と敵対している勢力である狗奴国と提携しようとしたのではなかろうか。
つまり、女王国は魏と提携し、呉はその対立勢力である狗奴国と提携した。
中国大陸での魏・呉・蜀対立の図式が、倭国に反映したということになる。
呉の江南から遼東までの海上移動距離は、九州に至る海上移動距離とほぼ等しく、遼東へ船団を送った呉が、狗奴国へ渡来することは十分に可能であったといえる。
上掲書には、「中国の江南地方にゆくとたいへん『懐かしい』という感じがする。たとえば、下駄や蓑傘はつい最近まで日本で使われていたものである」という司馬遼太郎の言葉が引用されている。
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