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2009年11月22日 (日)

卑弥呼の死(3)松本清張説

松本清張は、1909年12月21日に広島市で生まれた。
現在の北九州市小倉北区に生まれたという説もあるが、Wikipedia(最終更新 2009年11月19日 (木))では、広島市生まれと明記されている。
つまり、今年は生誕100年の年で、太宰治と共に、数多くの関連イベントが実施されている。

清張は、1958年に発表した推理小説『点と線』『眼の壁』の2長編がベストセラーとなり、流行作家としての地位を確立した。
犯罪の動機を重視したいわゆる「社会派推理小説」の開拓者と位置づけられる。
同時に、古代史に対しても並々ならぬ関心を示し、数多くの著作を遺している。
「邪馬台国問題」に関しても一家言をもっており、「卑弥呼の死」に関してもユニークな見解を示している。
以下では、「清張通史1」と題された『邪馬台国』講談社文庫(8603)の記載を見てみよう。

清張は、「卑弥呼の死」について、従前の説として、老齢のために死んだというのと、狗奴国との戦闘中に戦死したというのと、2つの説があるとしたうえで、もう一つ別の「憶測」として自説を展開する。
それは、「倭人伝」の「持衰」の役目に着目した論である。
「持衰」について、倭人伝は次のように記している。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。

清張は、持衰の記事は難解の1つであるが、本来の意味は、他人の喪をひきうける専門家である、という。
巫者に近い性格だろうと推測している。
『旧約聖書』にも、古代イスラエルでは服喪者が頭の髪を剃り落とし、荒布をまとい、身体を傷つけて、広場や屋根の上で泣き叫ぶという「エレミヤ記」の文章を紹介し、持衰と同じように服喪を職業とするものであろうとしている。
そして、民俗学者の大林太良氏の、遠距離航海が危険が大きいことから、航海儀礼やタブーがあったという説に触れ、持衰は、この儀礼者にも思える、とする。

清張は、次に「東夷伝」の夫余にある「自然災害があるとき、その責を王に帰し、王を易(カ)えたり、王を殺す」という慣習がある、という記事を紹介する。
古代中国でも、天変地異、農耕の不作、疫病流行して人民多く死ぬとき、これを皇帝の不徳のせいにし、他の者とかえる易姓革命の思想があり、夫余にも同じ慣習があったのではないかという。
夫余の記事は、麻余王が天候不調による五穀の不毛の責めを負わされて殺され、あとは子の依慮が王に立てられた、というものである。

この「夫余伝」の、麻余・依慮の記事と、「倭人伝」の卑弥呼・壱与(台与)の記事が良く似ている、と清張は指摘する。
麻余王は天候不調による不作を、彼の不徳に帰せられて死んだ(殺された)。
卑弥呼は「以て死す」とあるが、「以て」の原因・理由が書かれていない。
しかし、そのすぐ前の文章は、狗奴国との戦闘激化を推測させるものである。
魏帝の詔書・黄幢が帯方郡の張政から難升米にわたされている。

この状況を、清張は、狗奴国の攻勢にあって女王国が不利な形勢となり、詔書・黄幢もテコ入れのためであったが、にもかかわらず女王国は狗奴国に負けたのではないか、と推測する。
卑弥呼は狗奴国との戦争に、作戦の指針を与えていた。
しかし、狗奴国に女王国は敗北した。
敗戦責任は卑弥呼に帰せられ、麻余王と同じ運命を辿ったと清張は結論づけている。

「卑弥呼以死」は前段の文章からのつづきにしては唐突な感じがする。
清張は、「以て」を、「もって」ではなく「よって」と訓むとする。
つまり、張政の檄によって告諭がなされ、よって(そのために)卑弥呼は死んだ。
文章が唐突な感じがするのは、張政が卑弥呼に「死なねばならぬ」ことを諭した部分が脱落したからである、とする。
つまり、張政は、英語で言えば、「You shall die.」と諭したのであり、英語でも「お前を殺す」を意味しているのと同じことである。

女王国連合の首長たちは、敗戦の責めを卑弥呼に帰し、これを殺すべしという意見の一致をみた。
難升米はこの決定を帯方郡使の張政にいい、張政は郡の権威によってその旨を檄にして卑弥呼に送り、諭し告げた。
よって卑弥呼はそれを受けて死んだ(殺された)、というわけである。

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