卑弥呼の死
『魏志倭人伝』は、「倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。」の節の後、やや唐突に卑弥呼の死について記す。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。 更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政檄を以て壱与を告喩す。
この部分は、何かと論議の多い箇所である。
卑弥呼の死に至る経緯は、次の通りである。
http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_14-E.htmlでは、以下の事項について、問いを立てている。
1.「死」に関する用語の用い方
2.「以死」の意味
3.冢について
4.卑弥呼の墓
5.「卑弥呼の死」の原因
6.「徇葬する者、奴婢百余人」について
先ずは、「死」の用語については、以下のような使い方がある。
崩:天子の死に用いる
殂:君主の死を忌みはばかっていう言葉
薨:諸侯の死に用いる
卒:大夫やしもべの死に用いる
死:身分の無い者の死に用いる
『魏志倭人伝』の用法も上記のようであるかどうかは分からないが、もしそうであるとすれば、倭国はさほど重要視されていなかったともいえる。
「以死」については、先ず、自殺か他殺か、自然死か事故死・戦闘死か、という問題がある。
三木太郎元駒澤大学教授による「『魏志』倭人伝の「告喩」と「以死」」と題する論考(北海道駒澤大学研究紀要)をみてみよう。
三木氏は、『魏志倭人伝』には、「告喩」という言葉が二度出てくるが、余り難しい解釈を要しない言葉なので、従来さほど注意を払われてこなかった、とする。
ところが、在野の研究者である阿部秀雄氏が、「爲檄告喩之彌呼以死」について、「檄」「告喩」「以死」を不可分であるとする見解を発表し、こに大御所の松本清張や、1980年『邪馬台国』創刊1周年記念論文で最優秀賞を受賞した奥野正男氏らが同様の見解を発表した。
3人の見解を要約すると以下の通りである。
1.郡使が檄を作って難升米に告喩したのは、卑弥呼を死亡させるため(阿部説)
2.卑弥呼は狗奴国との重大な戦いに敗れ、その責を負って諸部族長たちに殺された(松本説)
3.帯方郡使張政らは、狗奴国との戦争に対する立場を檄によって示し、倭国側のとるべき態度を告喩し、これによって卑弥呼は死に追いやられた(奥野説)
なお、三木氏は、三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』創元社(9607)から、「卑弥呼以死」の従来の読解について、次の例を示している。
1.卑弥呼以て死す(本居宣長など)
2.卑弥呼以(スデ)に死せり(内藤虎次郎など)
3.卑弥呼死するを以て(伊瀬仙太郎、東一夫など)
そして、各種読み下し文を比較し、1の「以て死す」が主流であり、阿部、松本、奥野説も、「以て死す」の立場であって、特に異とするものではない、としている。
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