三国鼎立の時代
後漢の時代は、黄巾の乱によって、群雄割拠の動乱の時代となり、数多くの群雄の中から、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が抜け出して覇を競って三国鼎立の時代となる。
黄巾の乱(こうきんのらん、中国語:黃巾之亂)は、中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。「黄巾の乱」は後漢が衰退し三国時代に移る一つの契機となった。
(Wikipedia/最終更新 2009年10月16日 (金))
地図は、『 朝日ジュニアシリーズ週刊マンガ日本史』(0910)朝日新聞出版。
『後漢書』によれば、「桓・霊の間に倭国で大乱が発生した」とある。
桓帝は(かんてい)は、後漢の第11代皇帝で、在位期間は146~167年、霊帝(れいてい)は、後漢の第12代皇帝で、在位期間は167~189年である。
つまり、「桓・霊の間」は、146~189年の期間ということになる。
黄巾の乱などによる中国の動乱が、わが国に波及したものと考えられる。
三国鼎立の状態はしばらく続くが、233年に魏が西方で蜀と戦いを始めた間に、呉の孫権は遼東の公孫淵のもとに大量の軍勢を送り込んで魏の後方を攪乱しようとした。
しかし、公孫淵が孫権を裏切り、呉の狙いは成功しなかった。
そうこうするうちに、蜀の軍師・諸葛孔明が五丈原で没し、蜀は大きな柱を失う。
諸葛亮孔明は、おそらく日本人の間で最も好感度の高い中国人だろう。
たとえば、レッドクリフのタイトルで映画化されてヒットした「赤壁の戦い」は、孔明の知略の真骨頂を示したもので、『三国志演義』のクライマックスである。
しかし、『三国志演義』は、史実をベースとしつつも、あくまでもフィクションである。
正史としての『三国志』では、赤壁で曹操をやぶったのは呉の名将、周瑜(しゅうゆ)となっている。
しかし、孔明について、陳寿は、「国家のために働いた者には、仇であっても恩賞を与えた。法を犯す者は、身内でも罰した。罪に服して反省する者は重罪でも釈放したが、言い逃れようとする者は微罪でも処罰した。善行はどんなに小さくとも必ず賞したし、悪はどんなに小さくとも必ず罰した。かくして国民は皆、彼を敬愛した。厳しい刑罰にもかかわらず、誰も彼を恨まなかったのは公平無私だったからだ。まことに政治の何たるかを知っていた大政治家であり、管仲(かんちゅう)、蕭何(しょうか)に匹敵する。」と書いている、という。
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