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2009年11月

2009年11月30日 (月)

投資と費用/「同じ」と「違う」(15)

鳩山内閣の行政刷新会議の行った事業仕分けが幅広い関心を集めた。
来年度(平成22年度)の予算概算要求は95兆円に膨張しており、現在の財政事情からすれば、大幅な圧縮をせざるを得ない。
何を残し、何を削るのか?

事業仕分けの考え方は、図のように説明されている。
Photo 図は、産経新聞11月12日。

この考え方、論理の道筋は、当たり前のことのように見えるが、その認識を国民が改めて共有することは意味のあることだろう。
予算の原資が限られている以上、項目の優先順位の査定は不可避である。
今まで財務省と各省庁との間で行われきた折衝を、オープンに論議しようということであり、評価すべき試みだと考える。
しかし、十分な審議が尽くされていない、という印象も拭えない。
しかし、この仕分け作業が最終決定ということでもないので、関心を集めたことを出発点として評価すべきだろう。

個別にみればもちろん、「それでいいのか?」というクエスチョンマークを付けたい項目はある。
もちろん、それは人それぞれに異なるものであろうから、最終的には多数決によって決めざるを得ないだろう。

論議を呼んだものの1つに、「次世代スーパーコンピュータの開発予算」がある。
行政刷新会議の事業仕分けでは「事実上の凍結」と評決された。
これに対して、科学技術の専門家側から、強い批判が寄せられている。
スーパーコンピュータの開発は、理化学研究所が主体となっている。
理事長の野依良治氏は、ノーベル化学賞の受賞者として著名な人であるが、「不用意に事業の廃止、凍結を主張する方には将来、歴史の法廷に立つ覚悟ができているのか問いたい」と激烈に批判している。

スーパーコンピュータ開発予算の事業仕分けの際に、仕分け人の蓮舫参院議員が、「世界一を目指す理由は何か。2位ではだめなのですか」と発言し、評決の趨勢を決めた様子の映像が繰り返し放映され、事業仕分けを象徴する案件となった。
この発言が独り歩きし、蓮舫氏が科学技術に理解を示さない人であるかのように報道されもしている。
もちろん、2位よりも1位がいいに決まっている。
しかし、蓮舫氏も、「世界一であるべき、その説明を求めたのに……」といささかトーンダウン気味である。

言うまでもなく、事業仕分けに「聖域」はあり得ないだろう。
「聖域」を設けるならば、最初から仕分けの対象から除外すべきだということになる。
事業仕分けの対象とするとしたら、蓮舫氏の問いかけは、ある意味で当然ではないだろうか。
どうしても1位でなければならない理由は何なのか?

スーパーコンピュータの開発は影響の裾野が広いからか?
しかし、それとても定量的に評価できるものではないだろう。
つまり、問題は予算が付いた場合と削除された場合の「効果と影響」の想定である。
野依氏は、「科学技術振興や教育はコストではなく投資だ」としている。
確かに、これらの分野への支出は長期的な効果を求めるものであるから、投資と考えるべきだろう。
それでは、これらの分野への投資の評価方法論は確立しているのだろうか?

企業の場合には、その投資によって得られるであろうリターンを想定し、ROI(投資収益率)などを比較考量して投資の是非を判断するだろう。
しかし、科学技術振興や教育や文化などは、そもそも経済的評価に馴染まないのではないか。
また、投資と効果の関係すら不分明ではないだろうか。
いくら精緻な予測を行っても、それは精々意思決定の判断のための参考材料に過ぎないだろう。
結局は、国の財政事情、言い換えれば国力、に応じた投資を政策的に決定するしかないのではないかと思う。

例えば、敗戦直後のような状況では、いくら科学技術振興の重要性を訴求しても、先ずは食糧の確保を優先しなければならなかったのではないか。
文化的なものへの投資も、衣食足りて後のことだろう。
私もノーベル賞学者を尊敬する心において人後に劣らないつもりである。
しかし、だから特権が付与されているというものでもないのではないか。
予算配分は、まさに政治家が見識を賭けて取り組むべき問題だと思う。

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2009年11月29日 (日)

卑弥呼と天照大御神/「同じ」と「違う」(14)

『魏志倭人伝』が記載する卑弥呼は、果たして『記紀』に登場する人物の誰かと同一人物か?
卑弥呼の比定者についてはさまざまな論議があるが、その有力な説として、「卑弥呼=天照大神」説がある。
金田弘之『軍事からみた邪馬台の軌跡』国書刊行会(9903)の、両者の死の状況等に関する検証については既に触れた。
2009年11月27日 (金):卑弥呼の死(8)「天の岩戸隠れ」との関係

金田氏は、「死の状況」以外に、「弟」「部族」「習俗・地名」などの視点から、卑弥呼と天照大神の比較検討を行っている。
1.弟
『古事記』は、「天照大神が岩戸隠れをしたのは、弟の須佐男命の乱暴が原因である」と記載している。
この記述を、金田氏は、天照大神が弟との戦いに敗北して死亡したことを示している、と解釈する。
『魏志倭人伝』は、卑弥呼について、以下のように記述している。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm

鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
男弟があって、佐(たす)けて国を治めている。

卑弥呼には弟がいて、、国の政治を助けていたわけである。
金田氏は、卑弥呼は狗奴国との戦争失敗の責任を負わされて、この弟によって殺されたのかもしれない、と推測する。

倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(男王の音を、誤り写したか)とは、まえまえから不和であった。

この部分について、金田氏は、「不和」を「仲たがい」の意味ではないか、としている。
つまり、かつては良く知っていた者同士の争い、同族(兄弟)の争いではないか、ということである。
卑弥呼と卑弥弓呼は、共に当時の倭音を漢音に置き換えたものであるが、文字の構成が良く似ている。
須佐男命と同じように、卑弥弓呼は卑弥呼の弟であったのかもしれない。
弟に敗北した結果、殺害されたのではないか、というのが金田氏の推測である。
卑弥呼と天照大神には、共に「弟」が存在し、この「弟」が政治的あるいは軍事的な影響力を行使していた、という共通性がある。

2.部族
『古事記』の天の岩戸隠れの記述は、天照大神が死んで国中が乱れ、部族同士で争いを始め、死者が出た。
天照大神が再び擁立されると、争いがおさまって、世の中が明るくなった、と解釈可能である。
つまり、「太陽を崇拝する女王(巫女)としての力を再び取り戻した」ことを示すものだろう。

金田氏は、天照大神は死んだと考えるので、再び現れたのは別の神(女王)であったとする。
八百万の神(部族の首領)が集まって協議をした結果、あらたな神(女王)を擁立したのであろう。
一方、『魏志倭人伝』の記述は以下の通りである。

あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し (あっ)た。
(倭人たちは)また卑弥呼の宗女(一族の娘、世つぎの娘)の壱与(台与。『梁書』『北史』には、台与[臺與]とある)なるもの、年十三をたてて王とした。国中はついに定まった。

『古事記』の「八百万の神(部族の首領」と、『魏志倭人伝』の邪馬台国連合の30か国(部族の首長)が同一の意味であったと考えれば、内容はほとんど一致している。

3.習俗・地名
『古事記』は、「困った八百万の神は天の安の河の河上の堅石をとり……天の香山の真男鹿の肩骨をぬきこれを焼いて占った」と記述している。
つまり、世の中が内乱状態に陥って、困った部族の首長たちが天の安の河原に集まって神だのみをした……天の香山の鹿の骨を焼いて占いを行ったわけである。

一方、『魏志倭人伝』には、以下のような記述がある。

その(風)俗に、挙事行来(事を行ない、行き来すること、することはなんでもあまさずすべて)云為(ものを言うこと・行うこと)するところがあれば、すなわち骨をやいてトする。そして吉凶をうらなう。

つまり、3世紀の倭では、困ったときやもめごとを解決する場合には、動物の骨を焼いて吉凶を占っていたのであり、この点でも、『古事記』の記述と『魏志倭人伝』の記述は一致している。

『古事記』の描く「安」や「香山」という地名は、どこを指しているのだろうか?
筑後川中流域の福岡県朝倉郡に「夜須町」という地名がある。
この夜須町から弥生時代の土器が出土し、線刻の鹿の絵が見られた。
夜須町の西方約8kmのところ(筑紫市)に、天拝山という山がある。
朝倉町の高山には、戦国時代に「香山城」があった。
また、『万葉集』では、香久山を「高山」と書き、「カグヤマ」と読む例がある。
つまり、「高山」を「カグヤマ」と読んだ可能性があり、『古事記』の「香山」は朝倉町の高山を指していたのではないか。

金田氏は、卑弥呼と天照大神を表のように対比させ、天照大神と卑弥呼が同一人物であるとする仮説は肯定できるものである、としている。
Photo

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2009年11月28日 (土)

卑弥呼の死(9)風邪・肺炎説

卑弥呼の死因については、前後の文脈等から、狗奴国との戦争で戦死もしくは敗戦の責任を追及されて死んだ(あるいは殺された)とするのが有力説のようである。
しかし、独自の分析によって、病死の可能性が強いと主張している人がいる。
岩下徳蔵氏は、『推理邪馬台国』楽游書房(8304)や『稲の路の果てに邪馬台国はあった』徳間書店(8406)において、卑弥呼は風邪あるいはそれがこじれた肺炎であった可能性が高いとしている。

岩下氏は、人の死は、外部から加えられる物理的な力によるもの(戦争など)と、肉体の内部でおこるいわゆる病気などの2つの原因に分けられるが、疾病などによるものは、季節性を伴う場合が多い、としている。
そして、この疾病の季節性に着目し、弥生期の死因が何であった可能性が高いかを統計学的に推定しようと試みた。
その具体的な方法は、『記紀』による歴代天皇の死亡月の分布型と、現在の死亡統計による疾病別の月別の分布型との相関関係を計算し、当時の死亡原因を推定しようとするものである。

岩下氏の計算により相関係数は表のようであった。
Photo_3 ★印が統計的に有意な相関関係を持つものである。
上代天皇の死亡月分布型と、現代死因別月分布との相関係数は、インフルエンザ・肺炎・気管支炎を因とする死亡分布と高い相関係数(0.72)を示す。

岩下氏は、疾病別月別死亡率のグラフも示している。

現在の死亡分布は冬・夏型であり、それは冬カゼ・夏カゼによるものが多いことを示している。
悪性新生物による死亡は明らかに異なる分布型を示している。
死因としての悪性新生物は、近代になって急に増加した病気である。

なお、岩下氏は、上代と近代の天皇の死亡月別分布が高い率で相関を示すことは、81代~129代天皇の死亡月が史的文献に比較的正確に記録されていることから、上代天皇(大王)などの実在も示唆しているのではないか、としている。Photo_4

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2009年11月27日 (金)

卑弥呼の死(8)「天の岩戸隠れ」との関係

金田弘之『軍事からみた邪馬台の軌跡』国書刊行会(9903)は、安本美典氏らの「卑弥呼=天照大御神」説の妥当性について検証している。
『古事記』の「天照大神は天の岩屋戸を開いてお隠れになった」という記述については、以下のように解説している。

『古事記』では、天照大神とが須佐男命が「誓約(ウケイ)」をしたとしている。
須佐男命が天に上がりたまうときに、山川が成り騒ぎ国土が振動した……天照大神は驚いて『弟は国を奪おうと思っているのかも知れない』と……天照大御神は髪を解き、左右の手に勾玉を持ち、背には靱を負い……弟は天照大神に誓いを立てて男の子を生み自分が正しいことを証明した、というものである。
これを、金田氏は、次のように解釈する。

「天照大御神の支配する国と須佐男命の支配する国が戦争をおこなった。戦争はいったん平和裏に終結するかにみえた。しかし、須佐男命の支配する国が因縁をつけて再び天照大神の支配する国を侵略した」のであろう。天照大神は、「髪を解き、左右の手に勾玉を持ち、背には矢が千本も入る靱を負った」と記述する。この意味は、天照大神自ら戦闘の最前線で戦ったことを示している。
須佐男命の乱暴とは戦争(侵略)を意味するものであり、最終的に天照大神は戦争に敗れたのである。その結果「天照大神は殺害された」と私は考える。「天の岩屋戸」とは、お墓(古墳)のことである。中つ国が闇くなったとする意味は、太陽に使える天照大神が巫女としての力を失った、つまり「死」を意味するものと考える。

これを、「天照大神の死」と表現しないことについては、坂口光司氏(郷土史家)の説を援用し、次のように説明している。
天照大神は世襲された官職名であって、何人も存在した。
卑弥呼に相当するのは三代目であり、台与は四代目である。
つまり、「死」は同時に世代交代であった。

あるいは、桜井光堂氏の次のような説を紹介している。
新しい女王は、亡くなった老女王とおなじ人物として、老女王が生き返ったという扱いかたをする。
生まれかわったのではなく、息をふきかえしたという扱いだから、そのまま生存年齢が延長される。

古代においては、日の神に仕える巫女(日巫女)は、永遠に生きつづけなければならなかった。
天の岩屋戸に隠れるのは、あくまで一時的なもので、再び地上に現れなければならなかった。
『古事記』は、「死」という表現を使っていないが、岩屋戸隠れは、明らかに「天照大神の死」を意味している。

一方、卑弥呼の死についてはどうか。
松本清張は、「戦争責任をとり『よって』殺害された」とする。
天文学の斎藤国治氏は、西暦247年と248年に、九州上空で皆既日食が発生した、とする。
皆既日食により天界が闇くなったことは、日の神に仕える巫女(日巫女)である卑弥呼が力を失ったことを暗示させるものであろう。
皆既日食という自然現象を、古代人は不吉な予兆ととらえたと思われる。

金田氏は、狗奴国との戦争の敗北による人心の離反の中で、卑弥呼が殺害される運命にあったのではないか、とする。
『古事記』が、「中つ国が闇くなった」とするのは、皆既日食による暗黒の世界の出現と同じことである。
また、『古事記』が「天の岩屋戸に入る」とするのは、『魏志倭人伝』の、「卑弥呼以死」と同じ意味である。
つまり、天照大神と日に使える巫女としての卑弥呼は、その立場や死亡した背景、場の類似性等から、同一人物であるとする「仮説」は肯定される、というのが金田氏の検証の結論である。

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2009年11月26日 (木)

卑弥呼の死(7)天照大御神の年代観

卑弥呼が『記紀』に描かれている女性の誰に相当するか、ということは古くから考えられてきた問題である。
『日本書紀』において、神功皇后紀に魏志の文章が引用されている。
http://www.j-texts.com/jodai/shoki9.html

四十年。魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等、奉詔書・印綬。詣倭国也。
四十三年。魏志云。正始四年倭王復遣使大夫伊声者・掖耶約等八人上献。

つまり、『日本書紀』の編纂者たちは、神功皇后を『魏志倭人伝』に見える倭王とみなしたのではないか、ということになり、「卑弥呼=神功皇后」と考えられていた。
一方で、『魏志倭人伝』に描かれた卑弥呼と、『記紀』に描かれた天照大御神の姿がきわめて類似していることが、白鳥庫吉や和辻哲郎などによって指摘されていた。
問題は、辛酉(紀元前660)年に即位したとされる神武天皇との系譜関係からして、年代観が合わないことであった。
Photo 系図は、Wikipedia(最終更新 2009年11月18日 (水))。

この問題に、推測統計学の手法によって、鮮やかな解を与えたのが安本美典氏であった。
安本氏は、ある人物の活躍した時期やある事件のおきた年代を知ることができれば、他の文献や考古学上の成果などと比較検討することができるので、「年代」についての枠組みを設定することが、古代史を考える場合の根本である、とする。
安本氏は、『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』勉誠出版(0306)において、明治年間の那珂通世の行った年代論を評価しつつ、那珂とは異なる自身の年代論を展開している。
そのポイントは、以下のようである。
1.古代の年代を考える場合は、「王」の平均在位年数が重要な手がかりとなる。
2.「王」の平均在位年数は、中国、西欧、わが国のいずれも、古代にさかのぼるにつれて短くなる傾向がある。
3.「王」の在位年数の統計的な取り扱いとして、推測統計学を用いる(那珂の時代は、記述統計学の段階)。

安本氏は、世界の王の在位年数を調べ、以下のような結論を導いた。
1.時代をさかのぼるにつれて、平均在位年数が短くなる傾向がかなりはっきりみられる。
2.1~4世紀の平均在位年数は、全世界的にみておよそ10年である。
3.17~20世紀の平均在位年数は、全世界的にみておよそ20年である。
4.つまり、2000年近くのあいだに平均在位年数は2倍に伸びている。

日本の場合、1~4世紀の王の平均在位年数は不明であるが、天皇が存在したとした場合、平均在位年数はほぼ10年と考えるのが妥当であるとしている。
それは、同時代の中国や西洋の王の平均在位年数(断面データ的、共時的)な検討からも、時系列データ的(通時的)な検討からも帰結できる。

『記紀』は、神武天皇の5代前が天照大御神であるとしている。
安本氏は、上記の視点から、神武天皇の時代を270~300年と推定し、その5代前として、天照大御神の時代を、220~250年ごろになるとして、卑弥呼の時代とまさに重なり合うことを示した。
Photo

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2009年11月25日 (水)

卑弥呼の死(6)敗戦責任と皆既日食

井沢元彦氏は、『逆転の日本史』などのシリーズで、歴史の見方に新しい視点を提供している作家である。
猿丸幻視行』講談社文庫(新装版・0712)や『隠された帝―天智天皇暗殺事件』祥伝社文庫(9702)については、既に触れたことがある。
2008年7月22日 (火):偶然か? それとも…④幻視する人々
2008年5月16日 (金):「日本国」誕生

井沢氏は、『逆転の日本史(1)古代黎明編』小学館文庫(9712)において、「卑弥呼の死」について、松本清張の敗戦責任による他殺説と皆既日食とを結びつけた解説をしている。
井沢氏は、日本の歴史学の三大欠陥として、次の3つを挙げる。
1.史料至上主義だが、当たり前のことは史料に残りにくい
2.歴史における言霊の影響の過小評価
3.呪術的側面の無視ないし軽視

井沢氏は、「卑弥呼の死」は、呪術的側面を評価すべき代表例であるとする。
呪術的側面とは、言い換えれば怨霊信仰の側面である。
例えば、『記紀』の神話に登場するオオクニヌシである。
井沢氏は、オオクニヌシあるいはその有力なモデルは実在したはずだ、という。
それは大和朝廷に抵抗した先住民族の王でる。
大和朝廷は、これを滅ぼしたために、この人物の怨霊を恐れた。
あるいは、祭祀を絶やすことによって怨霊化することを恐れた。
それが、天皇の宮殿の御所や国教の神殿である東大寺よりも、オオクニヌシを祀る出雲大社が「大きな」建物である理由である。

井沢氏は、「卑弥呼の死」が、狗奴国との戦いに敗れたことによる敗戦責任であるとする松本清張説を是とする。
古代人の考え方によれば、天災も基金も疫病も、すべて王者の責任である。
天災が王者の責任であるから、まして戦争などの人災については当然責任を問われる。
現人神である卑弥呼は、戦争の敗北責任を取らされて「処刑」された。
つまり、王者の不徳であり、「祭祀者としての王の霊力の衰えが敗戦を招いた」という考え方である。

卑弥呼が敗戦責任を問われたのは、おそらくは致命的と思われるほどの大敗北を喫したためであろう。
それは単なる小戦闘における敗北ということではないはずである。
邪馬台国の屋台骨をゆるがしかねない大敗北であったと考えられる。
井沢氏は、元東京大学理学部教授の斎藤国治氏の古天文学の成果を引用する。

斎藤氏は、『記紀』神話における天照大御神の岩戸隠れが、皆既日食のことではないか、と考えた。
天照大御神は、その名前が示すように「太陽神」である。
つまり、彼女が姿を隠すと世の中は急に真っ暗になってしまう。
斎藤氏は、天照大御神の岩戸隠れの神話が、皆既日食のことではないかという仮説を立て、日本の古代における皆既日食の事例を探索した。
その結果、248年9月5日に皆既日食があったことを見出した。

井沢氏は、卑弥呼は、人の名前ではなく、王者の称号なのだろうとする。
王者については、その本名をみだりに口にしないはずだからである。
卑弥呼については、その字は意味がない。「ヒミコ」(に近い)音に意味がある。
おそらくは「日御子」か「日巫女」の音を中国人が聞いて、卑弥呼と表現したのだろう。
「日御子」であれば、太陽神そのものの化身、「日巫女」であれば太陽神に仕える巫女だった。
両方の意味に解釈できるということは、両方の意味を兼ね備えていたと考えるのが妥当なのではないか。

つまり、天照大御神の岩戸隠れが、皆既日食がモデルだとすると、それは邪馬台国の女王が死んだ年と一致する。
しかも、『魏志倭人伝』は、卑弥呼の死後、壱与(台与)という女性が跡を継いだとしている。
「岩戸隠れ」が、天照大御神の死と若い女王がその跡を継いだことを、天照大御神の復活という形え神話にしたのではないか。

大和朝廷の成立における最も重要な神話は、3世紀の邪馬台国において実際に起こった事件を投影していることになる。
つまり邪馬台国は大和朝廷の源流であり、天照大御神のモデルは卑弥呼である、ということになる。
それでは、卑弥呼はなぜ殺されたのか?
井沢氏は、松本清張の敗戦責任説と斎藤国治氏の日食現象を結びつけて、それが共に卑弥呼の責任とされたのではないか、とする。
つまり、皆既日食のようなことが起きるのは、卑弥呼の心がけが悪いからで、だから狗奴国との戦争にも負けたのではないか。
空前の大敗北を喫した邪馬台国の人々によって、役に立たなくなった女王は殺された。

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2009年11月24日 (火)

卑弥呼の死(5)日食との関係

今年の7月22日、日本の陸地では46年ぶりとなる皆既日食が観察された。
トカラ列島など、皆既日食が可能な南の島に大勢の人が押し掛けた記憶は、まだ鮮明である。
私の生活圏では天候があまり良くなく、観測できなかったが、TVの映像を通じて皆既日食を体感することはできた。
090722
写真は、http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4585051236/nifty0b5-nif1-22/ref=nosim

卑弥呼の死は皆既日食と関係があるのではないか、とする説がある。
すでに何回か取り上げているが、 安本美典氏は、現在もっとも活動的な邪馬台国論者といっていいだろう。
「邪馬台国の会」を主宰し、「季刊邪馬台国」の責任編集者である。
もっとも先鋭な反畿内説論者であり、また、数理歴史学という新しい歴史方法論の開拓者でもある。
2008年11月16日 (日):安本美典氏の『数理歴史学』
2008年12月 1日 (月):邪馬台国に憑かれた人…②安本美典と「神話伝承」論
2008年12月27日 (土):珍説・奇説の邪馬台国…⑩「甘木」説(安本美典)

安本氏の基本的なスタンスは、北九州の甘木・朝倉にあった邪馬台国が東遷して、大和朝廷となった、とするものである。
そして、その東遷の伝承が、神武東征の神話のもとになった。
また、卑弥呼の事跡は、記紀神話の中の天照大御神に投影されている。
実在する天皇の台数と在位期間から天照大御神の年代を推理統計的に推測すると、ちょうど『魏志倭人伝』に記載されている卑弥呼の年代に重なる、というのが安本氏の推論のベースである。

そして、安本氏は、卑弥呼の死の前後の西暦247年と248年に、2年つづけて、北九州の上を、ほぼ皆既日食といえる日食が通りすぎており、それが天照大御神の天の岩屋隠れ伝承と関係している、としている。
現代ではコンピュータによるシミュレーションによって、古代の天文現象も再現できるらしい。
安本氏の説を踏まえて、黒岩徹「皆既日蝕が明かす卑弥呼の正体」と題する文章が雑誌「正論09年12月号」に掲載されている。
黒岩氏は、NPO法人日本パラオ協会の理事長を務められており、パラオ共和国との親善に尽力されている人である。

シミュレーションによれば、西暦247年3月24日、北九州地方において皆既日食が起きた。
この日蝕は夕刻に起きて、真黒になった太陽が東シナ海水平線下に沈んでいくというものであった。
約1年半後の248年9月5日、今度は太陽が真黒のまま東の空に昇り、ダイヤモンドリング現象の後、急速に世界が明るくなっていく、という日食が起きた。
247248_2図は、安本美典『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』勉誠出版(0306)。(左が247年、右が248年)。

なお、248年については、奈良県の飛鳥地域でも皆既日食となるが、247年は部分日食だったとされる。
天の岩屋の伝承が日食の神話化ではないか、ということは、江戸時代の儒学者・荻生徂徠も指摘しているという。
すでに、哲学者の和辻哲郎は、1920年刊の『日本古代文化』において、『記紀』と『魏志倭人伝』の記述の一致について、指摘している。
和辻は、天の岩屋事件以前の天照大御神を卑弥呼に、天の岩屋事件以後の天照大御神を卑弥呼の宗女の台与になぞらえている。
言い換えれば、天の岩屋事件は、卑弥呼の死を意味しているということである。

また、白鳥庫吉は、近代の邪馬台国論争の発端ともなった1910(明治43)年に発表した「倭女王卑弥呼考」の中で、『古事記』『日本書紀』の伝える天照大御神は、『魏志倭人伝』の記す卑弥呼の反映であり、天照大御神がいたと伝えられる高天の原は、邪馬台国の反映なのではないか、とする考えを示している。
白鳥庫吉は、邪馬台国=北九州筑後山門説である。
畿内大和に存在した大和朝廷の伝える神話上の事跡が、北九州に存在した邪馬台国についての事実と酷似しているとする白鳥の所説は、大和朝廷の原勢力が北九州にあり、それがのちに畿内に移動したことを示唆しており、安本氏は、のちに和辻哲郎が唱えた邪馬台国東遷説の萌芽がみられると指摘している。

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2009年11月23日 (月)

卑弥呼の死(4)春秋の筆法

「卑弥呼以死大作冢」という文章の唐突感は、「春秋の筆法」によるものではないか、とする説がある。
生野真好「倭人伝」を読む―消えた点と線』海鳥社(9905)は、「春秋の筆法」を、「あからさまにできない真実を、文を矛盾させることによって、その裏にある真実を知らしめるという大変難解なもののようである」と紹介している。
生野氏は、「春秋の筆法」について、孫栄健氏が君主の死亡記事の書き方について解説(どこで死亡したかを書いていないのは、実は暗殺を意味している、など)を引用し、通常と違う記述(省略)をすることで、その裏にあることを指示していることだとする。
つまり、形式に反することにも厳重な形式があり(規則的な矛盾)、その形式・規則を知ることが、意味理解のためには必要だ、ということである。

生野氏は、『魏志倭人伝』の構成を次のように三分する。
1.倭国の地理的位置・道里・政治体制など
2.風俗習慣・植生・気候など
3.外交関連
このうち、「1」と「2」については、筆者の陳寿は何ら遠慮することなく、真実をありのままに書くことができるが、「3」つまり外交についてはそうではない可能性もあるだろう。
言い換えれば、「春秋の筆法」が用いられているとすれば、「1」や「2」の部分ではなく、「3」の部分である。

卑弥呼の死について、陳寿はその死因を記していない。
何らかの脱落の可能性もあるのだろうが、生野氏は、「春秋の筆法」の可能性を検討している。
もし、「春秋の筆法」ならば、なぜ陳寿はその死因を隠す必要があったか?
陳寿が真実を語るのを憚ったとするなら、その対象は誰か?

卑弥呼の死因が、倭国側の理由によるものならば、陳寿は何も憚ることはないだろう。
倭国側の事情とは、病死、暗殺、自殺、事故死、老衰などである。
仮に、狗奴国との戦争責任をとって自殺でもしたのなら、陳寿はそれを特異な習慣として詳細に記したのではないか。
それを死の事実だけを伝えるという記述の裏には何かがあると考えるべきだろう。

陳寿が憚らなければならないとしたら、司馬氏一族だけである。
陳寿が遠慮しなければならなかったのは、『三国志』編纂時の晋の皇帝武帝(司馬炎)であり、その基礎を築いた司馬慰仲達・司馬師・司馬昭らであり、特に卑弥呼との関係で考えれば、司馬慰仲達しかいない。
卑弥呼が亡くなったのは247年、仲達が亡くなったのは251年で、ほぼ同時期を生きた。
卑弥呼の死に関与した可能性があるとすれば、仲達である。

もちろん、『魏志倭人伝』に、卑弥呼と仲達の関係が記されているわけではない。
しかし、次のような流れがある。
・正始6年に難升米が登場する。卑弥呼の最初の朝貢の際の使節団長である。
・この難升米に、帯方郡経由で魏の軍旗が渡される。
・正始8年に、狗奴国との戦争が逼迫し、卑弥呼は帯方郡に使者を送り支援要請をしている。
・帯方太守は洛陽に赴きその旨を伝えると、皇帝は詔書と黄幢を張政に託し倭国に派遣した。
・張政は、それを卑弥呼ではなく難升米に渡して皇帝の命令を伝えた。

そして、突然「卑弥呼以死」である。
「詔書」の「詔」は、天子だけが使う命令を意味する語である。
正始8年の皇帝は斉王芳であるが、まだ17歳だった。
朝廷の実権を掌握していたのは、後見人の曹爽と仲達の2人だった。
東夷諸国の事情に詳しく、東夷経営で一日の長があったのは仲達だったから、卑弥呼の訴えに対して指示を出したのは、仲達であった可能性が高い。
その指示とはいかなるものだったか?

卑弥呼を退位させ、難升米を王とするような指示が書かれていたのではないか、というのが生野氏の想定である。
なぜならば、卑弥呼の死後即位した男王の名前が記されていない。
なぜ陳寿は口を噤むのか?

男王が立った結果、内乱が起こり1000人以上の死者が出た。
とんでもない事態となったのである。
それは倭国の国々の話し合いで、卑弥呼の親族の娘を王にすることにより収まった。

つまり、魏の倭国に対する内政干渉があった。
そして、それは大失敗であった。
表向きは皇帝の斉王芳の失政であるが、実際は司馬慰仲達であって、陳寿は正直に書きにくい。
卑弥呼は朝貢し、親魏倭王に任じられていたので、卑弥呼を退ける仲達の策の失敗は書くのを憚られて当然である。
とすれば、卑弥呼の死が唐突であり、死因が書かれていず、男王の名が記されていないことなどが「春秋の筆法」として理解できるのではないか、ということである。

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2009年11月22日 (日)

卑弥呼の死(3)松本清張説

松本清張は、1909年12月21日に広島市で生まれた。
現在の北九州市小倉北区に生まれたという説もあるが、Wikipedia(最終更新 2009年11月19日 (木))では、広島市生まれと明記されている。
つまり、今年は生誕100年の年で、太宰治と共に、数多くの関連イベントが実施されている。

清張は、1958年に発表した推理小説『点と線』『眼の壁』の2長編がベストセラーとなり、流行作家としての地位を確立した。
犯罪の動機を重視したいわゆる「社会派推理小説」の開拓者と位置づけられる。
同時に、古代史に対しても並々ならぬ関心を示し、数多くの著作を遺している。
「邪馬台国問題」に関しても一家言をもっており、「卑弥呼の死」に関してもユニークな見解を示している。
以下では、「清張通史1」と題された『邪馬台国』講談社文庫(8603)の記載を見てみよう。

清張は、「卑弥呼の死」について、従前の説として、老齢のために死んだというのと、狗奴国との戦闘中に戦死したというのと、2つの説があるとしたうえで、もう一つ別の「憶測」として自説を展開する。
それは、「倭人伝」の「持衰」の役目に着目した論である。
「持衰」について、倭人伝は次のように記している。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。

清張は、持衰の記事は難解の1つであるが、本来の意味は、他人の喪をひきうける専門家である、という。
巫者に近い性格だろうと推測している。
『旧約聖書』にも、古代イスラエルでは服喪者が頭の髪を剃り落とし、荒布をまとい、身体を傷つけて、広場や屋根の上で泣き叫ぶという「エレミヤ記」の文章を紹介し、持衰と同じように服喪を職業とするものであろうとしている。
そして、民俗学者の大林太良氏の、遠距離航海が危険が大きいことから、航海儀礼やタブーがあったという説に触れ、持衰は、この儀礼者にも思える、とする。

清張は、次に「東夷伝」の夫余にある「自然災害があるとき、その責を王に帰し、王を易(カ)えたり、王を殺す」という慣習がある、という記事を紹介する。
古代中国でも、天変地異、農耕の不作、疫病流行して人民多く死ぬとき、これを皇帝の不徳のせいにし、他の者とかえる易姓革命の思想があり、夫余にも同じ慣習があったのではないかという。
夫余の記事は、麻余王が天候不調による五穀の不毛の責めを負わされて殺され、あとは子の依慮が王に立てられた、というものである。

この「夫余伝」の、麻余・依慮の記事と、「倭人伝」の卑弥呼・壱与(台与)の記事が良く似ている、と清張は指摘する。
麻余王は天候不調による不作を、彼の不徳に帰せられて死んだ(殺された)。
卑弥呼は「以て死す」とあるが、「以て」の原因・理由が書かれていない。
しかし、そのすぐ前の文章は、狗奴国との戦闘激化を推測させるものである。
魏帝の詔書・黄幢が帯方郡の張政から難升米にわたされている。

この状況を、清張は、狗奴国の攻勢にあって女王国が不利な形勢となり、詔書・黄幢もテコ入れのためであったが、にもかかわらず女王国は狗奴国に負けたのではないか、と推測する。
卑弥呼は狗奴国との戦争に、作戦の指針を与えていた。
しかし、狗奴国に女王国は敗北した。
敗戦責任は卑弥呼に帰せられ、麻余王と同じ運命を辿ったと清張は結論づけている。

「卑弥呼以死」は前段の文章からのつづきにしては唐突な感じがする。
清張は、「以て」を、「もって」ではなく「よって」と訓むとする。
つまり、張政の檄によって告諭がなされ、よって(そのために)卑弥呼は死んだ。
文章が唐突な感じがするのは、張政が卑弥呼に「死なねばならぬ」ことを諭した部分が脱落したからである、とする。
つまり、張政は、英語で言えば、「You shall die.」と諭したのであり、英語でも「お前を殺す」を意味しているのと同じことである。

女王国連合の首長たちは、敗戦の責めを卑弥呼に帰し、これを殺すべしという意見の一致をみた。
難升米はこの決定を帯方郡使の張政にいい、張政は郡の権威によってその旨を檄にして卑弥呼に送り、諭し告げた。
よって卑弥呼はそれを受けて死んだ(殺された)、というわけである。

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2009年11月21日 (土)

卑弥呼の死(2)水野祐氏の解説

「卑弥呼以て死す」の書き方がやや唐突であると書いたが、『魏志倭人伝』の詳細な評釈書である水野祐『評釈・魏志倭人伝 』雄山閣(8703)(新装版(0412))は、「前文からこの文に接続するのに何か途中の文章が欠落しているようで、文脈がスムーズにつづかない」としている。
水野祐氏は、有名な古代王朝三交代説を唱え、戦後の古代史や天皇制研究に大きな影響を与えた人である。
ちなみに、三王朝は、崇神、仁徳、継体の各王朝であり、天皇は万世一系ではない、ということである。
2008年5月10日 (土):三王朝交替論

『魏志倭人伝』では、女王国と狗奴国との抗争に関連して、郡使張政らが来て調停にあたり、檄をもって告諭したとあるが、その告諭によってどういう結果になったのかが存在せず、いきなり「卑弥呼の死」が述べられている。
それをどう解するべきか?
水野氏は、卑弥呼の死について、次の2つの考え方があり得るとする。
1.卑弥呼の死は直接この告諭につながるものである
2.前段の文章と「卑弥呼以て死す」とは因果関係はなく、別の文である

つまり「卑弥呼以死大作冢」を、「卑弥呼死するを以て、大いに冢を作る」と訓じれば、「卑弥呼が死んだので、大いに卑弥呼の墓を作った」ということになるが、「卑弥呼以て死す。大いなる冢を作る」と訓じれば、卑弥呼は告諭を受けたことで死んだという意味になる。
また、前記したように、「以」を「すでに」と訓じる内藤湖南(虎次郎)のような説もある。

水野氏は、「卑弥呼死するを以て、大いに冢を作る」説である。
檄の内容については一切不明であるが、水野氏は、『漢書』の類似用例から類推して、次のようなものであっただろうとしている。

魏は属国同志がみだりに事をかまえ私闘を演じ、干戈をとって互いの主権を侵犯することを禁じている。しかるにいま女王国と狗奴国とは、ともに天子に朝献した服属国であるにかかわらず、ほしいままに干戈をとって交戦し、わが禁令を破った行動にでている。誠に許しがたいことである。速かに戦を納め、互いに和睦し、即時停戦した上、おのおのの主権を侵すことなく旧態にもどせ。もしこの命に従わず、なお戦争を継続するならば、攻撃する者を魏は敵国として断乎として征伐の師をさしむけるであろう。

告諭の結果については本文には記載がないが、水野氏は、魏が黄幢(将軍旗)を下したことは、きわめて有効だった。
もし、張政に反抗すれば、それは魏に対して戦いを挑むことになる。
女王は「親魏倭王」であるから、狗奴国もただ女王国を相手にするのではなく、背後に控える魏をも相手とすることになる。
そのため、強勢で有利に作戦を展開していた狗奴国も、和睦に応じる方が得策だと判断することになって、檄文による張政の調停策は成功した。

告諭を受けて、狗奴国と女王国の間の停戦が成立したことは、卑弥呼が交戦中に死んだのではなく、告諭を受理して、停戦に踏み切り、狗奴国王も承諾して停戦が死んだことを意味している。
つまり、卑弥呼は和平が訪れたときに死んだのである。
水野氏は、次のようにいう。

卑弥呼は決して檄を受け、告諭を受けたために死んだのでも、まだ抗戦中に死んだのでもなく、また一部にいわれているように、卑弥呼が狗奴国との交戦中に、巫として女王国軍の先頭に立って指揮をしていて戦死をしたというのでもない。卑弥呼は決して戦場などには出ず、ひたすら宮殿内の斎場において戦勝の祈念に余念なく、激しい業をつづけて敵国伏滅の祈りを捧げていたはずである。卑弥呼は老齢であったが、女王として連合体の守護にあたる巫王としては、彼女の全能力をあげて敵国を撃滅して自国を防衛する全責任を負わされているのであるから、激しい荒業をつづけて祈願をつづけていたのである。そして和平が成立した。卑弥呼もホッとした。その時にそれまでの疲労が出て、過労の老巫はそのために安堵して死んだか、あるいは戦勝を得られなかった責任をとって自ら死の道を選んだのであろうと思う。

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2009年11月20日 (金)

卑弥呼の死

『魏志倭人伝』は、「倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。」の節の後、やや唐突に卑弥呼の死について記す。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。 更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政檄を以て壱与を告喩す。

この部分は、何かと論議の多い箇所である。
卑弥呼の死に至る経緯は、次の通りである。
http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_14-E.htmlでは、以下の事項について、問いを立てている。

1.「死」に関する用語の用い方
2.「以死」の意味
3.冢について
4.卑弥呼の墓
5.「卑弥呼の死」の原因
6.「徇葬する者、奴婢百余人」について

先ずは、「死」の用語については、以下のような使い方がある。
崩:天子の死に用いる
殂:君主の死を忌みはばかっていう言葉
薨:諸侯の死に用いる
卒:大夫やしもべの死に用いる
死:身分の無い者の死に用いる

『魏志倭人伝』の用法も上記のようであるかどうかは分からないが、もしそうであるとすれば、倭国はさほど重要視されていなかったともいえる。

「以死」については、先ず、自殺か他殺か、自然死か事故死・戦闘死か、という問題がある。
三木太郎元駒澤大学教授による「『魏志』倭人伝の「告喩」と「以死」」と題する論考(北海道駒澤大学研究紀要)をみてみよう。
三木氏は、『魏志倭人伝』には、「告喩」という言葉が二度出てくるが、余り難しい解釈を要しない言葉なので、従来さほど注意を払われてこなかった、とする。

ところが、在野の研究者である阿部秀雄氏が、「爲檄告喩之彌呼以死」について、「檄」「告喩」「以死」を不可分であるとする見解を発表し、こに大御所の松本清張や、1980年『邪馬台国』創刊1周年記念論文で最優秀賞を受賞した奥野正男氏らが同様の見解を発表した。
3人の見解を要約すると以下の通りである。
1.郡使が檄を作って難升米に告喩したのは、卑弥呼を死亡させるため(阿部説)
2.卑弥呼は狗奴国との重大な戦いに敗れ、その責を負って諸部族長たちに殺された(松本説)
3.帯方郡使張政らは、狗奴国との戦争に対する立場を檄によって示し、倭国側のとるべき態度を告喩し、これによって卑弥呼は死に追いやられた(奥野説)

なお、三木氏は、三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』創元社(9607)から、「卑弥呼以死」の従来の読解について、次の例を示している。
1.卑弥呼以て死す(本居宣長など)
2.卑弥呼以(スデ)に死せり(内藤虎次郎など)
3.卑弥呼死するを以て(伊瀬仙太郎、東一夫など)
そして、各種読み下し文を比較し、1の「以て死す」が主流であり、阿部、松本、奥野説も、「以て死す」の立場であって、特に異とするものではない、としている。

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2009年11月19日 (木)

台風と温帯低気圧/「同じ」と「違う」(13)

世の中には、悪い冗談かと思うようなことが大真面目で行われることがある。
台風情報は、気象庁が一元的に扱うことになっているが、台風から温帯低気圧に変わった時間を、故意に遅らせて発表していたという。

気象庁は、次のように解説している。
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/conf/tyc180202-03data3.pdf
Photo_2 つまり、台風が温帯低気圧に変わっても、再発達したりする可能性があるので、警戒を継続する必要がある、ということである。
台風情報の発表を終了したことにより、警戒感が薄れて災害を惹起した事例があるので、台風情報の発表には工夫が必要であるとして、「台風情報の表示方法等の見直し」が行われた。
その内容は、以下のようである。

・これまでは、台風が温帯低気圧に変わると気象庁は「台風情報」の発表を終了していました。
・しかし、2004年の台風第18号のように、温帯低気圧に変わりながら再び発達し、広い範囲で台風に匹敵する暴風・強風を伴って被害をもたらすため、引き続き警戒が必要な場合があります。
・このため、台風から温帯低気圧に変わっても、暴風を伴って災害を及ぼすおそれがある場合には、台風情報として発表を継続し、台風並みの警戒を呼びかけることとします。
・図に示すように、台風は中心付近に風が強い地域が集中し、温帯低気圧では中心から離れた地域でも風が強い、というように、風の吹き方の特性が違います。このことを情報の中でわかりやすく伝えて行きます。

問題化したのは以下のような経緯による。
http://sankei.jp.msn.com/science/science/091119/scn0911190023001-n1.htm

問題が明らかになったのは、10月29日に気象庁で行われた、民間気象情報会社など予報業務許可事業者に対する、台風解析の技術や予測の技術についての講習会の席。出席者から出た「最近、『台風が温帯低気圧となった』とする発表のタイミングが遅いようだが」との質問に対し、気象庁は「早い段階で台風が温帯低気圧になったと発表すると、防災対応に支障が出ることがある」として、あえて遅らせて発表していることを明らかにした。
一般的な天気予報なら、気象予報士や気象予報会社は、気象庁と異なる予報や見解を示すことは可能だが、台風情報などの防災情報は、緊急時に無用な混乱を防ぐために気象庁の情報に一元化する必要がある。そのため、「台風はすでに温帯低気圧になった」と判断しても、気象庁が台風とする限り、そのまま伝えなければならない。

気象庁は、「「台風から温帯低気圧になると、急激にマスコミが報道をしなくなる。気象庁は報道機関ではないので、多くの人々に情報を伝えるツールを持たないが、それでも気象庁として危険な現状を伝え、災害を防ぐ必要がある」と説明している。
あたかもマスコミの報道が原因で、「正しい情報」を発表しないかのような口ぶりである。
しかし、ここには根源的な誤認があるのではないだろうか?

もし、上記の通りだとしよう。
やがて人々は、台風情報について、「きっともう温帯低気圧に変わっているのではないか」などと思うようになるだろう。
つまり気象庁の「オオカミ少年」化である。
必要なことは的確に発表した上で、その意味が十分に伝わるように工夫することである。
台風が温帯低気圧に変わったことを発表するタイミングを故意に遅らせることが災害の低減に繋がるとは思えない。
Photo_2

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2009年11月18日 (水)

三国志の地政学と卑弥呼の対応

魏は、景初2(238)年に公孫氏を滅ぼして、帯方・楽浪の2郡を設置し、朝鮮半島の経営に乗り出した。
Photo_4 『魏志倭人伝』は、次のように記す。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。

余りにも素早い対応である。
倭の女王が、大陸および朝鮮半島の情勢にこのように素早く対応したのはどうしてであろうか?
金田弘之『軍事からみた邪馬台の軌跡』国書刊行会(9903)によれば、その理由として考えられるのは以下の2つである。
1.魏の朝鮮半島への進出を脅威と感じとり、魏に侵略されるまえに朝貢した。
2.倭国内で戦争の兆しがあり、魏の援助(承認)を必要とした。
(図は上掲書)。

同じく『魏志倭人伝』に次のような記述がある。

倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

ここで問題となるのは、西暦233年に遼東の公孫淵との提携に失敗した呉の孫権の行動である。
孫権は、倭に対してどのような戦略を講ずるであろうか?
呉が邪馬台国と敵対している勢力である狗奴国と提携しようとしたのではなかろうか。

つまり、女王国は魏と提携し、呉はその対立勢力である狗奴国と提携した。
中国大陸での魏・呉・蜀対立の図式が、倭国に反映したということになる。
呉の江南から遼東までの海上移動距離は、九州に至る海上移動距離とほぼ等しく、遼東へ船団を送った呉が、狗奴国へ渡来することは十分に可能であったといえる。
上掲書には、「中国の江南地方にゆくとたいへん『懐かしい』という感じがする。たとえば、下駄や蓑傘はつい最近まで日本で使われていたものである」という司馬遼太郎の言葉が引用されている。

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2009年11月17日 (火)

星落秋風五丈原

西暦234年の8月のある日、天を東北から西南に星が流れて、蜀軍の諸葛亮孔明の陣地のあたりに墜ちた。
3度墜ちて2度天に戻ったが、3度目はついに戻ることがなかった。
まもなく孔明の病は篤くなり、再起できないまま陣中に没した。享年54歳であった。
蜀軍は整然と退却し始めたが、魏の司馬懿が追撃すると、蜀軍が反撃の姿勢を示したので、魏軍は追撃を諦めた。
死期を悟っていた孔明は自分の死後のことまで指示していた。
「死せる孔明、生ける(司馬懿)仲達を走らす」である。

孔明の没後30年にして、蜀の2代目皇帝劉禅は成都を魏に明け渡し、劉備の建国した蜀は50年で命脈が尽きた。
蜀を無傷の状態で差し出した劉禅は、安楽県公に任じられたが、郡にも及ばない小さな諸侯であった。
蜀の皇帝の末路としてはいささか寂しいが、命を永らえただけでも幸いとすべきかも知れない。
呉は、4代孫皓が暴君で人心は離反し、魏の曹氏の取って代わった晋の司馬炎に攻められると、孫皓を見限っていた将軍たちは、次々と逃亡し、西暦280年に孫皓は降伏した。
孫権の建国から50年後のことであった。

三国鼎立の時代の最終的な勝者は、魏・呉・蜀のいずれでもなく、魏の中から生まれた晋であった。
その立て役者は、司馬懿仲達である。
司馬懿は、孔明のライバルであったこともあって、『三国志演義』などにおいて、芳しい扱いを受けていないが、実際は、大局観に優れた知略の人であったと考えるべきであろう。
蜀の侵攻を防ぐと共に、遼東の公孫淵が呉の孫権と結ぶと、公孫淵を討ち、さらに東進して朝鮮半島に楽浪・帯方の2郡を設置した。
司馬懿は、魏の実権を握り、265年には司馬懿の一族司馬炎が、曹氏に代わって皇帝の地位に就き、晋を建国する。

魏が楽浪・帯方の2郡を設置したのは238年のことであったが、この情勢をいち早く捉えて、同年に魏の帝都洛陽に使者を送ったのが、倭の女王卑弥呼である。
魏帝は、卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印を与えるが、東海の小国としては異例の厚遇である。
同じような扱いを受けたのは西方の大月氏(「親魏大月氏王」)だけであり、司馬懿の功績を称えるため、倭を大月氏国並の大国として扱ったとか、呉との地政学的な関係から倭を大国として扱ったとかの諸説があるが、卑弥呼の外交センスも並々ならぬものであったと言うべきであろう。

『荒城の月』の作詞者と知られる土井晩翠に、諸葛孔明の最後を詠んだ詩がある。
晩翠は、日本の近代詩の創始者の1人であった。
第一詩集の『天地有情』が、明治321899)年に刊行されている。
島崎藤村の『若菜集』に遅れること2
年、日清・日露の間の「臥薪嘗胆の時代」であった。
藤村と晩翠は、当時の詩壇の双璧であったが、詩の内容は対照的であった。
晩翠の詩には、硬派的・国士的なものが多く、「臥薪嘗胆の時代」において、多くの人の心情にフィットするものであったようだ。

中でも、『星落秋風五丈原』は有名である。いわゆる七五調の口調の良さ、漢文調の格調の高さなどの魅力で、多くの人に暗誦・愛唱されてきた。
冒頭の部分は以下の通りである。

祁山悲愁の風更けて
陣雲暗し五丈原
零露の文は繁くして
草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く
鼓角の音も今しづか。
  * * *
丞相病篤かりき。

以下、(一)においては、「丞相病篤かりき」のフレーズが繰り返され、(二)以降は、孔明の履歴を回顧するという内容で、最終連は以下のように終わる。

草蘆にありて竜と臥し
四海に出でゝ竜と飛ぶ
千載の末今も尚
名はかんばしき諸葛亮。

私も、暗記しようとした記憶があるが、スケールの大きな構図の絵画的な描写だと思う。
晩翠の詩は、旧制中学・高校の校歌や寮歌の原型的存在であった。
いま、寮歌などは既に老人のノスタルジーの中にしか存在しないかのようであるが、私たちの高校では、学園祭の前の歌唱指導の中に、旧制高校等の寮歌の練習も含まれていて、今でもそれらの一節を歌うことができる。

旧制三高の『紅萌ゆる』、同じく『琵琶湖周航の歌』、北大予科の『都ぞ弥生』、旧制四高の『北の都に秋たけて』、旧制七高の『北辰斜めにさすところ』、旧制八高の『伊吹おろし』、旧制松本高校の『夕暮るる』などは、曖昧ながら、口をついて出てくることがある。
教育制度の改革は常に難しいテーマであるが、青春の一時期を共に愛唱する歌があったということは幸せなことだったのではないかと思う。

日露戦争の終結によって、時代の空気、文学の傾向も変わり、詩人としての晩翠が高く評価される時代ではなくなった。
晩翠は、旧制二高(仙台)の教授を長く努め、二高を退いてからは、ホメロスの叙事詩の訳業に打ち込んだ。

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2009年11月16日 (月)

三国鼎立の時代

後漢の時代は、黄巾の乱によって、群雄割拠の動乱の時代となり、数多くの群雄の中から、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が抜け出して覇を競って三国鼎立の時代となる。

黄巾の乱(こうきんのらん、中国語:黃巾之亂)は、中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。「黄巾の乱」は後漢が衰退し三国時代に移る一つの契機となった。
(Wikipedia/最終更新 2009年10月16日 (金))

Photo_3

地図は、『 朝日ジュニアシリーズ週刊マンガ日本史』(0910)朝日新聞出版。

『後漢書』によれば、「桓・霊の間に倭国で大乱が発生した」とある。
桓帝は(かんてい)は、後漢の第11代皇帝で、在位期間は146~167年、霊帝(れいてい)は、後漢の第12代皇帝で、在位期間は167~189年である。
つまり、「桓・霊の間」は、146~189年の期間ということになる。
黄巾の乱などによる中国の動乱が、わが国に波及したものと考えられる。

三国鼎立の状態はしばらく続くが、233年に魏が西方で蜀と戦いを始めた間に、呉の孫権は遼東の公孫淵のもとに大量の軍勢を送り込んで魏の後方を攪乱しようとした。
しかし、公孫淵が孫権を裏切り、呉の狙いは成功しなかった。
そうこうするうちに、蜀の軍師・諸葛孔明が五丈原で没し、蜀は大きな柱を失う。

諸葛亮孔明は、おそらく日本人の間で最も好感度の高い中国人だろう。
たとえば、レッドクリフのタイトルで映画化されてヒットした「赤壁の戦い」は、孔明の知略の真骨頂を示したもので、『三国志演義』のクライマックスである。
しかし、『三国志演義』は、史実をベースとしつつも、あくまでもフィクションである。
正史としての『三国志』では
赤壁で曹操をやぶったのは呉の名将、周瑜(しゅうゆ)となっている。

しかし、孔明について、陳寿は、「国家のために働いた者には、仇であっても恩賞を与えた。法を犯す者は、身内でも罰した。罪に服して反省する者は重罪でも釈放したが、言い逃れようとする者は微罪でも処罰した。善行はどんなに小さくとも必ず賞したし、悪はどんなに小さくとも必ず罰した。かくして国民は皆、彼を敬愛した。厳しい刑罰にもかかわらず、誰も彼を恨まなかったのは公平無私だったからだ。まことに政治の何たるかを知っていた大政治家であり、管仲(かんちゅう)、蕭何(しょうか)に匹敵する。」と書いている、という。
http://homepage3.nifty.com/ryuota/koumei.html

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2009年11月15日 (日)

卑弥呼の時代

邪馬台国の時代を大局的に眺めるために、関連年表をみてみよう。                                                                     Photo_3図は、日本経済新聞09年11月11日。

この年表によれば、卑弥呼が擁立され、「倭国乱」が終わった時点と、纏向遺跡の始まりとがほぼ同時期ということになる。
そして、卑弥呼が魏に朝貢して「親魏倭王」の称号と銅鏡100枚を賜ったのが、纏向遺跡の盛期、卑弥呼の死去の時点と箸墓古墳の築造時期とがほぼ近接していることになる。
Photo_2つまり、纏向遺跡を邪馬台国の所在地と考えれば、都合のいいことが多いのは事実である。

しかし、だから「纏向遺跡が邪馬台国である」ということが必然的に導き出されるわけではない。
卑弥呼が擁立されたのが、上記の年表のように180年ごろだとすれば、中国では後漢の時代である。
後漢とは次のような時代である(Wikipedia(最終更新 2009年9月4日 (金))。

後漢(ごかん、25年 -220年)。
漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢と紛らわしいので、現在では東漢と言うことが多くなってきた(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。時代となり、数多くの群雄の中から、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が抜け出して覇を競ったのが三国時代である。

地図は、『 朝日ジュニアシリーズ週刊マンガ日本史』(0910)朝日新聞出版。

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2009年11月14日 (土)

「纏向遺跡と国家の誕生の息吹」と邪馬台国

産経新聞(11月14日)に、論説副委員長の肩書で、渡部裕明氏が、「纏向遺跡と国家誕生の息吹」と題する文章を書いている。
今回の大型建物跡の発見のニュースを紹介したもので、纏向遺跡については、次のように紹介されている。

纏向遺跡は、神奈備山として有名な三輪山(標高467メートル)の西麓に広がる大規模な遺跡である。それも3世紀の初頭、突如姿を現し、4世紀の初めまで約100年間、繁栄したことがわかる。これまでの調査で、幅5メートルもの運河や大量の土器や木器、鍛冶遺構などが見つかっている。
土器は東海から北陸、九州まで幅広い地域から持ち込まれている。こうした点から、纏向遺跡は列島各地の人々が集められ、「新首都」として建設されたとの説が唱えられてきた。宮殿群発見の意義は、首都に不可欠な要素が初めて加えられたことである。

さて、この解説は100%正しいと言えるだろうか?
私には、大型建物跡とされているものが、黒田龍二・神戸大学大学院准教授による建物群の復元模型(2009年11月12日 (木):纏向遺跡と建物跡の復元)の通りかどうかは別として、それが「邪馬台国」の「宮殿群」であると確定しているかのような渡部氏の論調には大きな疑問を抱く。
確かに、『魏志倭人伝』には、次のように記載されている。

宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

今回、邪馬台国の有力候補地とされるエリアから、大型建物跡が発掘されたことをもって、直ちにそれが『魏志倭人伝』の上記の記述と結び付けられるだろうか?
私には、単なる短絡としか考えられない。
纏向遺跡の年代が卑弥呼(邪馬台国)の時代と重なるとしても、同じ年代であれば、日本列島の、ある程度先進的な地域では同じような建物があっただろう。
だから、『魏志倭人伝』の伝えるような建物が纏向遺跡に「も」あったとしよう。
しかし、だから纏向遺跡は邪馬台国である、というのは一種の先入見だとしか思えない。

上掲渡部氏は次のようにも言う。

卑弥呼は邪馬台国を中心とした連合国(倭国連合)の女王なのである。
連合が成立したきっかけの「倭国大乱」の背景には、東アジアの情勢があった。
中国大陸では強大な後漢帝国が「黄巾の乱」(184年)などで衰え、220年には滅亡する。魏、呉、蜀という3国が覇を競う時代(三国時代)が幕を開ける。後漢を後ろ盾に、大陸の先進文物などを入手していた奴国や伊都国など北部九州の国々の地位は低下せざるを得なかった。その後の主導権をめぐる争いこそ、倭国大乱だったのである。

この認識はおおむね首肯できるものであろう。
邪馬台国問題は、当時の東アジア情勢との関連で考察されるべきものであると思う。倭国大乱が、その東アジア情勢を反映したものであったことについても同意である。
しかし、問題は、その倭国大乱の対象地域がどこであったのか、である。
渡部論説副委員長の言うように、日本列島の西南部を巻き込んだ大乱だったのか?
あるいは、九州地域内での大乱だったのか?
つまりは、ここで問題は振り出しに戻ってしまうのである。

渡部氏は次のように書いている。

箸墓が卑弥呼の墓かどうかはおくとして、纏向遺跡がヤマト王権発祥の地であったことは、もはや動かしがたいであろう。邪馬台国(倭国連合)から古墳時代への移行はこの地で、直接的に行われたのである。

纏向遺跡はヤマト王権発祥の地であったとしても、それが邪馬台国(倭国連合)の直接的な継承であるなどと、どうして言えるのだろうか?
確かに実在した最初の天皇(大王)とされる崇神天皇やその後の垂仁天皇、景行天皇の宮が纏向の地に営まれたことは、ヤマト王権発祥の地であったことの傍証にはなるであろうが、それと邪馬台国との関係が問われているのであって、渡部氏の論は、先に「邪馬台国=纏向遺跡」という前提であることを示しているに過ぎないのではなかろうか?

渡部氏の言をさらに見てみよう。

邪馬台国九州説を唱える人はまだいる。しかし、それは学問的な発言ではなく、もはや「お国自慢」などのレベルでしかないと筆者は感じている。

渡部氏が「邪馬台国=纏向遺跡」説を信ずるのは全く自由である。
しかしながら、それは「お国自慢」の論理と五十歩百歩などではないかと、私は感じざるを得ない。

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2009年11月13日 (金)

邪馬台国と大和朝廷の関係

「邪馬台国」は、いわゆる『魏志倭人伝』に登場する名前である。
『魏志倭人伝』についてのWikipedia(最終更新 2009年9月30日 (水))の解説をみてみよう。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称であり、日本において一般に知られる通称である。江戸時代の漢学者の中で『三国志』という書名を用いず『魏志』『蜀志』『呉志』などと称する慣習があったため、この通称が用いられた。
正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」である。全文で1988(又は2008)文字からなっている。著者陳寿の死後正史の扱いを受ける。
著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年-290年間)に書かれた。現存する数種の版本のうち、「百衲本」が最も善本とされるが、現在の中国では諸本を校訂した「中華書局本」が多く通行しており日本語訳もこれを底本としている。

纏向遺跡の発掘によって、考古学的に所在地論争が決着したかのような報道もあるが、「親魏倭王」などの決定的な遺物が発見されない限り、考古学の知見が決定打になることはないと考えるべきであろう。
やはり『魏志倭人伝』に記載されている事項を、『記紀』や遺跡・遺物、伝承、地名などと対比して総合的に検討することが必要だと思われる。
そして、大局的な観点から整合性のある解釈を導き出すことが求められよう。

たとえば、「邪馬台国大研究」と題して浩瀚なリサーチの成果を公開している井上さんのサイトでは、纏向遺跡について、次のような見方をしている。
1.紀元前1世紀から紀元後2世紀にかけての弥生時代中期には、北九州を中心に銅剣・銅矛が広く分布し、ひとつの文化圏をつくり、一方、近畿を中心に銅鐸が分布して、やはりひとつの文化圏を作っていた。
両者の文化が融合した形跡は見られないから、このふたつは交流をもたない異民族国家であったと推測できる。

2.もし畿内説論者の言う邪馬台国が纒向にあって、ここから大和朝廷が全国に支配権を浸透させていったとすれば、なぜ自分たちの用いていた、銅鐸による呪術的性格を帯びた文化のことを後世に伝えていないのか。
古事記・日本書紀には銅鐸はおろか、それを用いていた民族のこともまったく登場しない。
記紀に登場するのは銅剣・銅矛・勾玉・銅鏡であって、これは戦闘的性格を帯びていた北九州文化圏のものであり、今でも皇室が保有する「三種の神器」は、剣・鏡・玉である。

3.やがて古墳時代に入ると、そのままこの文化は近畿圏にも伝わり古墳からも多く出土するようになるが、北九州から夥しく出土する甕棺墓に起源がある事は明白である。
もし邪馬台国が近畿にあった場合、のちの大和朝廷と深い関係にあるのは明白で、「邪馬台国=大和朝廷の前身」と考えていいはずである。

4.だとすれば、大和朝廷のつくる記録のなかに、邪馬台国の記述や伝承が残っていても良さそうなものである。これは「邪馬台国東遷説」についても同じである。「邪馬台国=大和朝廷」ならば、記紀に何かの伝承を残すはずではないだろうか。

5.ところが、万世一系を強調し、架空の天皇までつくって歴史を水増し、粉飾を計っている大和朝廷が、『記紀』の中で何も語っていない。
偉大なる自分たちの祖である卑弥呼の偉業を残さないとは、どうしても考えられない。

6.今年の5月に、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が発表したように、奈良県桜井市の箸墓古墳の築造時期が、240~260年と推定され、これが卑弥呼の墓に比定できるとすると、卑弥呼の墓は前方後円墳ということになる(注:箸墓がもともと前方後円墳であったかどうかについては、異論もある)。
→2009年5月29日 (金):箸墓は卑弥呼の墓か?

7.卑弥呼の墓が前方後円墳であるとすれば、仁徳天皇陵や応神天皇陵などへ続く、4~5世紀の近畿を中心とした「大古墳時代」へと、その勢力は拡大して行っているはずだ。つまり、邪馬台国が発展して強大な大和朝廷を形成していったはずである。
しかし、邪馬台国の中国への朝貢は、卑弥呼の次の女王「壱与」をもって消えてしまう。
紀元266年、壱与が数回朝貢船を送ったのを最後に、邪馬台国は歴史からかき消えてしまうのである。

8.これは、邪馬台国になんらかの異変があった事を示唆している。
つまり、前方後円墳と邪馬台国は関係ないということになる。言い換えれば、大和朝廷と邪馬台国は関係ないという事であり、両者は別系統の王朝である。

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2009年11月12日 (木)

纏向遺跡と建物跡の復元

纏向遺跡の位置は次の通りである。
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-afd4.html Photo
畿内説論者が卑弥呼の墓ではないかとする箸墓古墳も、纏向遺跡に含まれている。
2009年5月29日 (金):箸墓は卑弥呼の墓か?

また、周辺には、三輪山、大神神社をはじめとして、古代史上重要な遺跡が群集している。
邪馬台国が存在したとされる3世紀ごろにおいて、わが国の政治権力が存在した一級の地域であることは疑いえない。
しかしながら、ここが邪馬台国だったと結論づけるのは早計であろうし、箸墓が卑弥呼の墓とも断定できないと思われる。

いわゆる『魏志倭人伝』には、次のような記載がある。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。 

今回確認された建物跡が、この「宮室・楼観・城柵、厳かに設け」に相当するのではないか、ということである。
ちなみに、黒田龍二・神戸大学大学院准教授による建物群の復元模型は、下図の通りである。
(日本経済新聞11月11日掲載。)
黒田准教授は、図の建物(入母屋造り)の高さを約10メートルと想定している。

果たして、『魏志倭人伝』の伝える卑弥呼の宮室はこのようなものだったのだろうか?Photo_3

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2009年11月11日 (水)

纏向遺跡の巨大建物跡は卑弥呼の宮殿か?

邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と同時代の3世紀前半の大型建物跡が見つかり、桜井市教委が10日、発表した。柱穴が南北19.2メートル、東西6.2メートルに整然と並び、同時代の建物では国内最大級。過去の発掘調査で確認された3棟の建物や柵列と共に、東西方向の同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されており、卑弥呼の「宮室」(宮殿)の可能性がある。邪馬台国大和説を前進させる成果と言えそうだ、と報じられている。
http://mainichi.jp/select/wadai/graph/makimuku/
Msn2写真は、http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/090320/acd0903201932005-p1.htm

今回の調査は、1978年に柵と建物跡が確認された調査地点を、今年2月から区域を広げて再度調査。東西に計画的に並ぶ三つの建物群や柵を確認したもので、大型建物跡は、その東側の区域で新たに見つかった。
図は、http://kitsunekonkon.blog38.fc2.com/blog-entry-2075.html
Photo_2
今回の調査結果により、畿内説をとる論者は、巨大建物跡を卑弥呼の宮殿ではないかとしている。
果たして、邪馬台国論争は決着したのだろうか?
私も、邪馬台国がどこにあったかを確定することは、わが国の歴史上重要な事項であると考えており、少なからぬ関心を抱いてきた。
そして、邪馬台国の所在地論争については、渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房(9710)や岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)などで取り上げられている諸説についてレビューしたこともある。

2008年11月30日 (日):邪馬台国に憑かれた人…①原田大六と「東遷」論
~2008年12月12日 (金):邪馬台国に憑かれた人…⑨石野博信と「纏向遺跡」論
2008年12月16日 (火):珍説・奇説の邪馬台国…①「ジャワ島」説(内田吟風)
~2009年1月 7日 (水):珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑦「宇佐移転」説(澤田洋太郎)

今回の発表で、長年の論争に終止符が打たれることになるのだろうか?
正直な感想として、あるいはファン心理ということかも知れないが、とてもそうは思えない。

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2009年11月10日 (火)

水銀の化学(15)金原子と水銀原子の相対論的効果

水銀の原子番号は80であるが、その前の79は金である。
金は、洋の東西を問わず古代から富裕の象徴とされてきた。
永久に変わらない光沢を放つことがその主因と思われる。
4月に、静岡県立美術館で展示された「よみがえる黄金文明展-ブルガリアに眠る古代トラキアの秘宝-」という展示会を見に行った。

日本では縄文時代の頃、現在のブルガリアには黄金文明が栄えていた。
Photo_9有名なエジプトのツタンカーメンの黄金のマスクに匹敵するといわれるトラキア王の黄金のマスクも展示されていた。
私は、このような文明の存在すら知らなかった。

この金が黄金色に輝くのは、相対性理論による現象だという。
(富永裕久『元素 #図解雑学#』ナツメ社(0512))
意外なことであるが、どうやら次のようなことらしい。
相対性理論によれば、高速に近づくと質量が増える。
原子核の周りを回っている1s軌道の電子の平均速度は、原子番号に比例して早くなる。
つまり、質量が増え、軌道の半径が収縮する。
s軌道が収縮すると、p軌道も収縮し、d軌道とf軌道は離れていく。
Photo_10
金が黄金色に輝くのは、原子軌道の大きさが変わることにより、電子遷移時に電子が青から紫の可視光を吸収するようになり、その補色である赤から黄色の光を反射して黄金色となる。
水銀が常温で液体であるのも、相対論的効果で原子半径が小さくなり、イオン化されにくくて水銀原子同士の結合が弱いため、常温で液体になる。
Photo_11

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2009年11月 9日 (月)

水銀の化学(14)アセチレンと水銀の結合

水銀イオンのd電子の軌道のうちのdxy軌道は、複占状態である。
この軌道から1個の電子が、炭素の反結合性のπ軌道(空状態)に移ることにより、d軌道もπ軌道も単占状態になる。
Photo_7 アセチレンのπ軌道と水銀イオンのd軌道が交差することによって、新しい結合性の軌道が生まれる。
それが金属の配位結合と呼ばれるものである。
ところが、この結合は安定的ではなく、近くにある水酸基イオンを分子内取り込んで(3)、安定な分子(4)を形成する。
(3)はきわめて不安定で短寿命のため、実験的に捉えた事例は存在しない。

西村肇、岡本達明『水俣病の科学 』日本評論社(0106)の著者の1人である西村氏は、上記のような説明は、一般の有機化学の教科書、専門書には、水銀のことはまったく出てこないという。
有機金属化学の専門書には、二重結合に対する遷移金属の働きについて説明されていることがあるが、水銀については普通は全く触れられない。
それは「水銀は遷移金属とはみなさない」というのが通念になっているかららしい。

ちなみに周期(律)表において、遷移元素と呼ばれる元素がある。

周期表の3族~11族の元素は遷移元素と呼ばれ、典型元素とは異なる以下のような性質を持つ。
☆最外殻電子数が族番号の一の位と一致しない。典型元素では、同じ周期の中で族番号が大きくなるごとに最外殻電子が1つずつ増えていくが、遷移元素では電子は内側の電子殻に電子が入り、最外殻電子はほとんどの場合1つまたは2つである。
☆典型元素は同族元素で性質が似るのに対し、遷移元素では原子番号の隣り合う原子どうしで性質が似ている。
☆遷移元素はすべて金属元素である。いずれも融点が高く、密度が大きく、スカンジウム(Sc)とチタン(Ti)以外は重金属である。
☆さまざまな酸化数の化合物を作ることができる。
☆典型元素のイオンや結晶は白色あるいは無色のものが多いが、遷移元素のイオンや結晶は色の付いているものが多い。

http://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8C%96%E5%AD%A6I/%E9%87%91%E5%B1%9E%E5%85%83%E7%B4%A0%E3%81%AE%E5%8D%98%E4%BD%93%E3%81%A8%E5%8C%96%E5%90%88%E7%89%A9/%E9%81%B7%E7%A7%BB%E9%87%91%E5%B1%9E

水銀の専門家向けの叢書『Comprhensive Organometalic Chemistry』では、水銀は遷移金属として扱われているという。
2

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2009年11月 8日 (日)

水銀の化学(13)アセチレンの三重結合の分子軌道

分子軌道は、軌道が原子に所属するのではなく、原子と原子の結合そのものに所属すると考える。
2つの軌道が重なってできた新しい軌道は、2つの原子A、Bのどちらにも所属せず、AとBの間の結合そのものに所属する。
原子Aと原子Bの所属していた2つの軌道が、AとBの間に、結合性と反結合性の2つの軌道に変換したわけである。

アセチレンの三重結合への金属の結合を考える。
炭素の電子の走る軌道には、s軌道とp軌道とがある。
2 s軌道が重なって結合したものがσ軌道であり、p軌道が重なって結合したものがπ軌道である。
三重結合は、1本のσ結合と2本のπ結合から成る。

炭素には、s電子の他に、p電子が2個ずつ残っている。
炭素原子が近づいて軌道が交差すると、分子軌道が形成される。
分子軌道は、p軌道の配置が同じ向きか逆向きかによって、結合性(2)か反結合性(3)になる。
Photo_5
p軌道は、炭素と炭素を結ぶ軸をz軸とすると、x軸方向、y軸方向に伸びている。
つまり、x軸方向とy軸方向に、2個のπ結合が生成する。
つまり、それが三重結合が1個のσ結合と2個のπ結合とから成ることの意味である。
σ結合は、炭素と炭素の結合軸上に形成されるが、π結合は、軸から少し離れたところに形成される。
そlの分、π結合は反応しやすい、ということになる。

水銀イオンはπ結合に結合する。
原子内の電子のうちで結合に関与するのは最外殻の電子である。
2価の水銀イオンの最外殻には18個の電子を持っている。
最外殻の電子には、s軌道、p軌道、d軌道がある。
d軌道が一番外側に出ていて結合や反応に関係するのはd軌道である。
d軌道には立体的な形が異なる5個の軌道があるが、結合に関係があるのは、π結合と同じ対称性を持つ軌道である。

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2009年11月 7日 (土)

水銀の化学(12)分子軌道と化学結合

西村肇、岡本達明『水俣病の科学 』日本評論社(0106)において、西村氏は、電子が走る軌道を図解している。
Photo 電子軌道には、次の3つの状態がある。
1.空状態(電子0)
2.単占状態(電子1)
3.複占状態(電子2)
面には表と裏がある。軌道が表にある場合が位相が正、裏にある場合が負であり、これが位相である。
図のように軌道の考査の前後で位相が反転する。

この電子軌道が2つ重なったとき、同位相だと引力になり、逆位相だと斥力になる。
原子Aは軌道aを、原子Bは軌道bを持っているとする。
Photo_2aには電子が1個右回りに、bには1個左回りに流れている。
図(1)のように、AとBが近づいて軌道が交差した状態を考える。
交差した後の軌道は、(2)のようになる。
もし、bの向きが逆で、交差するのが転戦軌道の場合には、電子の流れは(3)のように軌道が2つに分かれてしまう。

(2)と(3)は、ともに2つの電子が流れているが、電子の平均的な位置に大きな違いがある。
a、bが離れている場合には、2つの電子の平均的位置は、それぞれの原子核A、Bの上にあり、核の電荷と電子の電荷が打ち消し合って、外には力を及ぼさない。
(2)の場合には、2つの電子がA、Bの中心に寄り、(3)の場合には中心に電子がいる割合が小さくなって結果的に核の外側に来る。
電子が核の内側にあるときは引力が働き、外側にあるときは斥力が働く。

電子が0の空状態の場合には、電子の軌道そのものが存在しないことになり、引力は働かない。
また、電子が2個ある複占状態の場合には、軌道が交差しても他の軌道から電子が流れ込む余地がないので、結合には関与しない。

つまり、中学校段階で教えられる結合手とは、電子が1個だけ入った単占状態軌道ということになる。
この場合、軌道と軌道が重なると結合が起こる。つまり、電子対が生成する。
既に電子対ができている場合は複占軌道であって、結合に関与できないない。

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2009年11月 6日 (金)

水銀の化学(11)「古い化学」と「新しい化学」

西村肇、岡本達明『水俣病の科学 』日本評論社(0106)の著者によれば、メチル水銀の生成機構について、従来の成書における説明は、いずれも「古い化学」に基づくものであって、今日の「新しい化学」のレベルからすると、その説明は到底受け入れられるものではない。
著者のひとりである西村肇氏は、東京大学で化学工学を専攻し、同大学でプロセス工学を講じてきた。
「あとがき」によれば、上掲書は、プロセス工学の完全な応用を示した最初の仕事である。

西村氏によれば、有機化学は1960年ごろに革命的な変化をした。
特に、有機反応における金属の役割については、この「新しい化学」の誕生によって、初めて新しい理解が可能になった。
言い換えれば、それまでの理解は誤りであったということになる。
メチル水銀の生成機構については、今でも「古い化学」による化学式が使われることが多く、上掲書の刊行時の状況としては、「最近、環境庁が発表した水俣病に関する社会科学的研究の報告書でも同じです」。

上掲書の巻末に、「新しい化学」=量子化学による説明が「補論」として記載されている。
水銀がアセチレンの三重結合に結合することを配位結合と呼ぶ。
中学校の段階では、原子にはそれぞれ結合手がある。水素は1本、炭素は4本の結合手を持っていて、それが手を結んで結合する、と教えられる。
高校の段階では、結合手は実は電子である、と教えられる。
双方から電子を1個ずつ出し合って、電子対を作る。それが化学的な原子と原子の結合である、ということになる。
大学になると、電子は雲のような状態で、原子核の周りに広がっている、と教えられる。
それでは、この電子雲は、どう作用して化学的な結合となるのか?

それを説明するのが量子化学という「新しい化学」である。
西村氏は、量子化学の基本的な考え方を、次のように集約する。
1.2つの原子の間に力が働くのは電子雲が重なり合うとき。
2.しかも、その力が引力であるのは、電子雲をあらわす波動関数の位相が一致する場合。位相が反対なら斥力。
3.したがって、決動力が働くのは、重なり合う電子雲が位相を含め同じ対称性を持つ場合。
4.それに加え、引力または斥力が働くためには、合成された軌道(=波動関数)の中にスピンの向きが違う電子が1個ずつ入らなければならない。

上記の中で、3の対称性の原則が、有機化学の革命に相当する知見であると、西村氏は評価する。
1981年のノーベル化学賞は、ウッドワード、ホフマン、福井謙一の3人が受賞したが、この対称性に関する発見によるものである。
配位結合は、上記の4つの原則と有機分子と金属の電子雲による知識によって理解することができる。

波動関数は、電子の存在する範囲と確率を示す。
西村氏は、この波動関数は直観を超える内容であって、さらに抽象的な「波動関数の位相」とか「電子のスピン」は直観的理解を受け付けない、という。
しかもそれは専門家にとっても同じことで、専門家は分かることをあきらめて、理論の結果だけを鵜呑みにして利用しているのだという。
「本当かな?」と思うが、西村氏は、分かることが目的の素人に対して、何とか位相やスピンの意味をわからせようと、電子の走る軌道に注目したモデルを提示する。

そのモデルは、原子核の周りには電子が走る「軌道」ある。
軌道は複線で、外回り線と内回り線がある。
つまり、核を右手に見て走る電子と左手に見て走る電子があり、それが電子のスピンに対応する。
軌道は、外側は右回り専用、内側は左回り用と決められている。
軌道の状態には、電子が全く走っていない空状態、右回りか左回りかどちらかの向きに1個だけ走っている単占状態、どちらの向きにも1個ずつ合計2個で走っている複占状態の3つの場合がある。

さらに、軌道が表にある場合と裏にある場合とがある。
これが位相に相当する。
軌道は、係数を掛けて足したり引いたりできる。
マイナス1を掛けると位相が反転する。
反転軌道ともとの軌道を足すと、軌道は消失する。

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2009年11月 5日 (木)

水銀の化学(10)メチル水銀生成実験

アセチレンの水和反応によって、アセトアルデヒドを合成する工程において、メチル水銀が副生するかどうかを確認する実験が、1960年代初期に、熊本大学研究班によって行われていた。
西村肇、岡本達明『水俣病の科学 』日本評論社(0106)に、その実験報告をもとにしたメチル水銀濃度の時間的変化を示した図が掲載されている。
この実験により、チッソの反応器と同じ条件の実験によって、メチル水銀の生成が確認できた。

図では、アセトアルデヒド濃度は一定の割合で上昇しているが、メチル水銀濃度は濃度が12~13ppmに達したあたりで飽和していることが分かる。
これは、以下のようなメチル水銀の挙動に関する仮説と一致している。
(1)アセチレンを原料として、メチル水銀が生成する。
(2)メチル水銀の濃度の上昇と共に、生成速度が減少し、最終的には低指する。その結果として、メチル水銀濃度は右肩上がりで上昇した後、最大濃度に達して頭打ちとなる。

2_2 頭打ちが実証されたから、反応機構が実証されたというわけにはいかない。
別の反応が起きていて、メチル水銀の濃度が飽和した可能性もあるからである。

上掲書には、この他に、アセトアルデヒドを原料にしたメチル水銀の生成反応、酢酸を原料にしたメチル水銀の生成反応、アセトアルデヒドに酢酸を加えた場合のメチル水銀の生成反応の結果について比較検討している。
詳細は割愛するが、メチル水銀生成反応には、酢酸へのバイパスが存在する有力な根拠が得られた。
酢酸に容易に変化するのは、水銀化酢酸であり、中間体として、水銀化酢酸が生成しているという著者らの仮説が裏付けられたことになる。

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2009年11月 4日 (水)

水銀の化学(9)メチル水銀の生成機構

アセトアルデヒドの反応器の中で、メチル水銀はどのようにして生成したのか?
アセチレンは炭素2個であり、そこから出発した中間体はすべて炭素2個である。
メチル水銀が生成するとすれば、その炭素と炭素の結合が切れて、炭素が1個になる反応があるはずである。

炭素と炭素の結合が切れる反応は、熱分解反応か、脱炭酸反応(炭素の1個が二酸化炭素になって離脱する反応)である。
脱炭酸反応によってメチル水銀を生成するとすれば、その元の物質は、メチル水銀と二酸化炭素からできている物質ということになる。
それは酢酸のメチル基の水素の1つが水銀で置換されたものである。
西村肇、岡本達明『水俣病の科学 』日本評論社(0106)は、この物質を水銀化酢酸と略称するとし、この水銀化酢酸の生成機構を考察する。

Photo_5水銀イオンがアセチレンの三重結合の1つを切り開いて、中間体1>をつくり、この二重結合の1つをさらにすぎんイオンが切り開いて 、水銀2個と水酸基2個を結合した<中間体3>をつくる。
その後、1個の水銀が還元離脱して<中間体1>に酸素分子1個が付加した水銀化酢酸が得られる。
この水銀化酢酸が脱炭酸反応を起こしてメチル水銀が得られる。

上掲書には、アセトアルデヒド合成反応器の中で起こっていたであろう水銀の関与する反応の全容が示されている。
その中で、特筆すべき点として次が挙げられている。
1.水銀化酢酸が、水銀イオンと水素イオンの交換で容易に酢酸に変わってしまうこと。
<中間体1>の酸化によって生成した水銀化酢酸は、メチル水銀になるか、酢酸になるか2つの経路があって、どちらに進む可能性もある。

2.水銀イオンと水素イオンに置き換わるイオン置換反応の向きが逆の反応が起こるとすれば、<中間体1>はアセトアルデヒドから、水銀化酢酸は酢酸からできることになる。
言い換えれば、アセトアルデヒドや酢酸を出発原料として、メチル水銀が生成する可能性があることになる。
とすれば、反応器内でメチル水銀が生成する場合、アセチレンを出発原料として直接できるのか、あるいは生成したアセトアルデヒドからできるのかが問題になる。
Photo_7著者らは、メチル水銀生成の反応機構を実験的に確認するため、アセトアルデヒド合成反応器と同じ反応を実験し、メチル水銀が生成することを確かめる。
しかし、メチル水銀の生成が確認できても、その機構は確認できない。
反応の機構を確認するためには、中間体の生成と消滅を把握できればいいが、中間体の寿命はきわめて短いので、それを実験的に確かめることは不可能である。

そこで、濃度の計測が可能なメチル水銀イオンに着目して、その経時的変化を測定した。

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2009年11月 3日 (火)

水銀の化学(8)アセチレンからアセトアルデヒドへの転換

メチル水銀は、次のように説明されている(Wikipedia:最終更新 2009年10月24日 (土))。

メチル水銀(メチルすいぎん、Methylmercury)とは、水銀がメチル化された有機水銀化合物であり、ジPhoto_2 メチル水銀 (CH3)2Hg とモノメチル水銀 CH3HgX(X = Cl, OH など)が知られており、いずれも毒性が強い。
(図は、ジメチル水銀)

このXが取れた状態は、電子1個分のプラスの電荷を持つイオンであって、水に溶けた状態で存在する。
人間や動物の体内では、メチル水銀はこのイオンの状態で損際するといわれる。
チッソ水俣工場では、アセチレンを水和してアセトアルデヒドを得ていた。
アセチレンの分子式は、C2H2、構造式は HC≡CHで、炭素間の結合は三重結合と呼ばれる。
アセチレンの三重結合は付加反応を受けやすい。ニッケルを触媒として水素を付加させるとエチレンになり、さらに水素を付加させるとエタンになる。

アセチレンは燃焼するときに多量の燃焼熱を発生するので、バーナーの燃料として用いられる。
かつては アセチレンランプ(カーバイドランプ)として照明用に使われていた。
私が子供の頃は、お祭りの夜店の照明にアセチレンランプが使われていて、その臭いが何となく郷愁をそそる感じがするものである。

アセチレンからアセトアルデヒドを得る反応は、水和反応、すなわちアセチレンに水が付加した形となっている。
HC≡CH+H2O → [CH2=CH(OH)] → CH3CHO
Photo しかし、アセチレンに水がつくわけではなく、実際はアセチレンの片方の炭素に水素イオンが、もう1つの炭素に水酸イオンがついてビニルアルコールとなり、その後二重結合の位置が移ってアセトアルデヒドになる。

図(西村肇、岡本達明『水俣病の科学 』日本評論社(0106))に示されているように、アセチレンがアセトアルデヒドに転換するには、<中間体1>とビニルアルコールという2段階の反応中間体を経る。
<中間体1>は、炭素の一方に水銀が結合したものであり、これが水素と入れ替わってビニルアルコールになる。
水素は、自分の力では三重結合を切って自分がそこに入りこむ力がなく、水銀イオンが三重結合を切る働きをしている。
水銀イオンは、ビニルアルコールを生成する段階で放出されるから、反応の前後では元通りになる。
つまり触媒である。

このような過程を経ていれば、水銀イオンは反応の前後で量は不変である。
つまり、メチル水銀は発生しないはずである。
ところが、実際は、反応器の中では2価の水銀イオンが減って、金属水銀が増えるという現象が起こっている。
触媒反応だけではない、別の反応が起きていることになる。

Photo_3 この反応は、ビニルアルコールから酢酸が生成する反応である。
ビニルアルコールとアセトアルデヒドは、二重結合の位置が異なるだけの異性体であって、容易に移り変わる。
実際の存在形態としては、両者が混在していると考えられる。

ここで<中間体2>が生成するが、この<中間体2>から酢酸が生成する際、水銀イオンではなく、電荷を失った水銀としての形で抜ける。
つまり、水銀イオンが元の形に戻らないということになる。

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2009年11月 2日 (月)

水銀の化学(7)チッソ水俣工場からの廃液と水俣病の発症/因果関係論(5)

私たちは、水俣病については、因果関係の科学的な解明はずっと以前に終わっており、救済措置が政治的な判断や法的な手続きなどの関係で遅延してきた、と考えがちである。
ところが、西村肇、岡本達明『水俣病の科学 』日本評論社(0106)によれば、同書以前には、「何が原因でこの大惨事が起こったのか、その原因と結果をつなぐ連鎖が科学的なレベルでは全く未解明、謎につつまれたまま」の状態であった、という。

たとえば、無機水銀を触媒に用いてアセチレンからアセトアルデヒドを合成するプロセスにおいて、メチル水銀が副生する生成機構が分かっていない。
もちろん、簡単な反応式は示されている。
2009年10月29日 (木):水銀の化学(3)嫌われ元素?
しかし、著者らによれば、その説明は「古い化学」に基づくものであり、「今日の化学」のレベルでは説明になっていない。
あるいは、メチル水銀の排出量を定量的に把握し、「なぜ水俣で」「なぜ操業から20年経って突然に」を説明できなければならない、とする。

著者らは、工場のプロセス内でメチル水銀が生成する段階から、水俣病が発病するまでの因果関係を図のように示す。
Photo_2 ①~④までは工場の化学プロセスである。
④~⑦は、自然界でのプロセスである。
前者は、データがあれば推論の精度は高い。
しかしながら、メチル水銀排出に関するデータは全くといっていいほど存在しない。
後者は、現実に起きている現象であり、情報量は多いが、推論の精度(定量性)に問題がある。
著者らは、上方からの推論と下方からの推論を組み合わせて、全体像を把握する努力を行った。

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2009年11月 1日 (日)

水銀の化学(6)自然界における水銀の循環

水俣病の原因物質であるメチル水銀については、当初、魚介類もしくは微生物中で無機水銀がメチル化する、という説が唱えられていたことがあった。
チッソのアセチレンをアセトアルデヒドに転換する工程で、触媒として用いられている無機水銀から副反応によって生成することが確認され、生物の関与については否定的に捉えられることになった。
2009年10月29日 (木):水銀の化学(3)嫌われ元素?

ところが、スウェーデンで、1965年に穀食鳥とこれを餌とする鳥とが急減する現象が起き、それが農薬に起因すると想定されたことから、大規模な自然環境調査が実施された。
調査の結果、魚中に高濃度の水銀が蓄積されていることが分かった。
しかし、それと農薬のメチル水銀とは直接関係ないことも分かり、環境中に放出された無機水銀が、自然界でメチル水銀化する、という仮説が再び浮上した。
自然界での無機水銀の有機化、有機水銀の無機化について数多くの研究が実施され、自然界における水銀の循環については、図のような各種のプロセスがあることが分かった。
Photo (日本化学会編『嫌われ元素は働き者 #一億人の化学# 』大日本図書(9203))。

たとえば、湖底の堆積物中にいる微生物が、無機水銀をメチル水銀化する作用を示すことなどが明らかにされた。
上掲書の「有機水銀化合物」の章を担当している小熊幸一氏は、章末で、「最近、ネズミの肝臓から有機水銀を無機水銀に変える酵素が日本の研究者により発見され」ていることを紹介している。
水銀利用の歴史は古いが、いまだ解明されていないことも少なくない。

水俣病は、食物連鎖により汚染物質が濃縮された、と説明されている。
食物連鎖とは、図のように、植物プランクトンを動物プランクトンが食べ、それを小魚が食べ、さらに小魚を大魚が食べる、という生態系の連鎖である。
Photo 西村肇、岡本達明『水俣病の科学 』日本評論社(0106)は、水俣病の全容を解明した労作である。
この書の中で著者らは、一般論としてはこのような食物連鎖の説明は正しいが、特定の場所における特定の生物種については、このような典型例による説明は成立しない、と警告している。
あくまで現場の事情を踏まえることが重要だ、ということである。

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