プライマリーな独創とセカンダリーな独創
西澤潤一『独創は闘いにあり』プレジデント社(8603)は、タイトルが示すように、著書全体が独創性についての論考であるが、特に「独創」とは何か、を論じた箇所がある。
日本人の独創性について、「独創力がある」と評価する人と、「ない」と否定する人がいる。
その違いは、日本の得意とする「改良・応用技術」をどう評価するか、という点にかかっている。
日本の技術開発の成功率は、世界に類をみない高さである。
西澤氏は、これは先ず第一に、外国で成功したことをやるからであり、また改良・応用技術の分野をやるからである。
種子から育てていこうとする欧米の技術風土と決定的な違いがある。
この物真似技術、改良・応用技術にも技術革新の努力が必要であり、「独創」の範疇に入るが、西澤氏は、これは「セカンダリーな独創」の域を出ない、という。
そして、西澤氏は、やはり基本的(プライマリー)な独創を高く評価するとする。
それが実現すると革命的に世の中が変ってしまうようなものこそ、真の独創であり、そこにロマンがある。
しかし、ロマンは人それぞれである。
わが子に「俺がつくったんだぞ」と胸を張れるようなら、すべて独創であるといって構わないともいう。
要するに、人はみなそれぞれ「分」というものがある、ということである。
「分」とは、西澤流に表現すれば、あるがまま裸で付き合い、尊重し合えるための基本的なアイデンティティである。
たとえば、奇妙な現象にAが気が付き、Bが着目して、Cがアイディアを思いついて、Dが実験で確かめ、Eが理論的に体系づけて、Fが実用化し、Gが工業化した。
A、B、C、D、E、F、Gそれぞれが広義の独創者である。
しかし、時に、すべて自分ひとりの独創だといいはる人もいる。
西澤氏は、セカンダリーな技術が「独創」ではない、ということではない、という。
しかし、「応用・改良ないしは総合化という意味での“独創”である」ということを自覚することが必要だ。
その自覚があれば、「プライマリーな独創」を尊重する態度になってくるだろう。
そして、独創的な成果を生むには、思考の原点において自由でなければならない、という。
誰もいまだかって通ったことにない道を、ただ自らを信じて切り拓いていけるのは、そういう自由があればこそである。
「自由」ということで思い出すは、日本で初めてノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士の理論が生まれる過程を解説した米沢貞次郎、永田親義『ノーベル賞の周辺―福井謙一博士と京都大学の自由な学風』化学同人(9910)である。
副題が示すように、福井謙一博士のノーベル賞受賞の背景に、自由な学風があったこと示したものである。
もとより、著者らは、福井博士の弟子筋にあたる人たちだから、「京都大学が伝統的に持つとされる自由な雰囲気」を称揚する。
しかし、それを差し引いても、理論化学の分野において、世界的に京都学派と呼ばれるほどの勢力を誇る背景には、自由な学風が寄与したことは間違いないだろう。
福井博士の受賞は、フロンティア軌道理論に対して与えられたものである。
現代化学理論の根幹を成すものとされる。
著者らは、フロンティア軌道理論の誕生に立ち会った人たちで、ノーベル化学賞受賞の功績は、もちろん基本的には福井博士自身の卓越した能力、特にその数学的な実力によるものであるが、それが開花する土壌として、喜多源逸、兒玉信次郎らの先駆者にによって培われてきた学風がある、とする。
著者らは、喜多、兒玉、福井と継承されてきた自由を尊び、基礎を重視する学風が先見性の伝統を生んだ、とする。
それを著者らは「山脈」と表現している。
福井博士の博士論文は、「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」というものであるが、全篇数式で埋められていたという。
理論だけで工学博士号が授与された初めてのケースでもあるという。
思うに、自由とは、非主流に身を置くことを可能にする条件なのではないだろうか。
フロンティア軌道理論も、誕生当時二重の意味で非主流の立場にあった。
すなわち既存の反応性理論に対する非主流の立場と、実験的研究に対する理論的研究という非主流の立場である。
その非主流の立場が、同時代の趨勢を抜け出た先見性をもたらしたのだと考える。
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