マルチアーチストとしての蕪村
蕪村が俳人として認知されたのは、正岡子規に再評価されてからのことで、それまでは画家として認められていたという。
言いかえれば、画家として超一流だったということであり、重要なことは、文学的表現と視覚的表現が見事に融合していたことである。
現代でいえば、卓越したコピーライターとしての才能と、デザイナーとしての才能を併せ持っていたということになる。
『芸術新潮2001年2月号』は、「与謝蕪村」特集号であるが、蕪村を「江戸ルネサンス最大のマルチアーチスト」と位置付けている。 図は、上掲誌に掲載されている「澱河曲」自画賛で、詩書画が1つになった俳画の妙と評価される作品であり、蕪村62歳の安永6(1777)年に発表されたものである。
中名生正昭『芭蕉の謎と蕪村の不思議』南雲堂(0407)によれば、蕪村は幼少の頃から絵に興味を持ち、摂津国池田元荒木町(現池田市大和町)に住む狩野派絵師の桃田伊信から絵を学んだとされる。
享保18(1733)年に17歳で家を出た蕪村は、桃田伊信の紹介で京に行き、俳人早野巴人(宋阿)を知り、元文2(1737)年、巴人が江戸に帰ると蕪村も江戸に行き、巴人改め夜半亭に入門した。
師の宋阿が寛保2(1742)年に没すると、夜半亭一門は消滅してしまい、蕪村は生活基盤を失って、同門の砂岡雁宕を頼って、下総・結城に行き、弘経寺の大玄に帰依した。
蕪村は、結城滞在中に松嶋、象潟などを旅し、「寛保四年宇都宮歳旦帖」を刊行し、はじめて蕪村の号を用いた。
延享3(1746)年ごろ再び江戸に戻り、芝増上寺の裏門近くに住んだ。
江戸では、日本南画の先駆者・服部南郭と交流があり、南画の示唆を受けたのではないか、とされる。
宝暦元(1751)年、江戸から京に移り住んだが、蕪村の狙いは、彭城百川、池大雅らが活躍する京の画壇で、南宋文人画を研鑽することにあったようである。
宝暦4(1754)年、丹後の宮津に赴き、宝暦7年まで滞在した。
宮津では、京での充電期間中に蓄積したさまざまな絵画手法を試行して、絵の修業に努めた。
宮津の近くに与謝という土地があるが、蕪村の母の出身地ではないかともされる。
蕪村は、宮津から京に戻ってしばらくすると、谷口から与謝に改姓している。
京に戻った蕪村は、屏風講組織により屏風絵の販売を生業として画家の地位を築いた。
蕪村の絵の特質を、上掲書の中で、中名生氏は次のように説明している。
蕪村の絵は、生き生きとした精神的な生命を画面に躍動させることにある。一言で言えば『介子園画伝』の画論で言うところの「気韻生動」そのものを感じさせる。気韻生動は学んで得られるものでなく、生来備わっているものとされるから、これは蕪村の天賦の才といえる。
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