故郷喪失者としての蕪村
中名生正昭『芭蕉の謎と蕪村の不思議』南雲堂(0407)は、2人の俳聖、芭蕉と蕪村の「同じ」と「違う」を論じている。
その第一部は、「芭蕉と蕪村 故郷と母」であり、さらに「二 故郷への思い」の項には、「帰る芭蕉、帰れぬ蕪村」という副題が付いている。
松尾芭蕉の故郷は、伊賀国上野(現・三重県上野市赤坂町)で、芭蕉は、28歳で江戸に出てからも、しばしば兄のいる上野の家に帰っている。
芭蕉は、寛永21(1644)年の生まれで、蕪村は、享保元(1716)年の生まれだとされるから、蕪村は芭蕉よりおよそ70年後の人ということになる。
しかし、芭蕉の故郷がはっきりしているのに対し、蕪村の故郷ははっきりしていないらしい。
というのは、蕪村が、故郷について、具体的に語ったことがなく、一度も帰省したことがなかったと思われているからである。
蕪村の故郷については、丹後国輿謝郡とか摂津国天王寺村とか諸説がある。
上掲書によれば、庶子だが蕪村が家督を継ぐように育てられた家は、母が亡くなり、次いで父が亡くなって、経営の才のなかった蕪村は、家を出なければならなかった。
蕪村が没して23年後の文化3(1806)年に、大坂の田宮橘庵が刊行した『嗚呼矣草』には、「蕪村は父祖の家産を破敗し」とある。
蕪村にとって、故郷は懐かしくも、近寄ることができない思いがあったのであろう、というのが中名生氏の見解である。
蕪村の出生の事情は分からないことが多いが、『春風馬堤曲』に添えた手紙に「馬堤は毛馬塘也。即ち余が故国也」と記されていることから、毛馬が故国であることが分かり、毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)で幼少期を過ごしたことは間違いないだろうと、推察されている。
毛馬村は、京都盆地から大阪平野に流れ出た淀川が、大坂城へ向かって南に流れを変え、西へ向かう長柄川と分離する地点である。
蕪村が故郷を出た経緯には不詳のことが多いが、享保18年に、画の師桃田伊信の紹介で京に行き、東山の知恩院塔頭に寄宿した。
やがて蕪村は江戸に出て、其角の弟子である早野巴人を頼り、内弟子として住み込む。
夏河を越すうれしさよ手に草履
遅き日のつもりて遠きむかしかな
中名生氏は、次のように書く。
春日遅々。春の日は長く日暮れは遅い。こういった時に幼少のころのことを思うと、このような日が積もり積もってはるか遠い昔となってしまったことを実感する。
確かに、私もこの感懐を理解できる歳になってしまった。
蕪村は望郷の句を遺している。
花いばら故郷の路に似たる哉
路たえて香にせまり咲いばらかな
愁ひつヽ岡にのぼれば花いばら
蜻蛉や村なつかしき壁の色
石川啄木の『一握の砂』に収められている次の歌は、蕪村の本歌取りとも考えられる。
愁ひ来て丘にのぼれば名もしらぬ鳥啄ばめり赤き茨の実
このような「故郷喪失者としての蕪村」と自分を重ね合わせてみたのが萩原朔太郎だった。
安保博史氏は、次のように説く。
昭和初期、萩原朔太郎は、蕪村句集を耽読していた。昭和四年から五年、妻との離婚葬儀、父の死去による家督相続問題等、現実生活のトラブルが打ち続き、
ああ この暗愁も久しいかな!
我まさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤独なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
(「珈琲店 酔月」、『詩・現実』第四号〔昭和六年三月〕)
と惨憺たる人生の漂泊者としての自己意識を吐露するしかなかった朔太郎の眼前に、「故郷喪失者」蕪村が、「見ぬ世の人」(『徒然草』第十三段)にもかかわらず、単なる鑑賞や学問的研究の対象ではなく、通底し合う詩情を有する座右の「友」として蘇ってきたのである。そして、蕪村が陶淵明を通して行った如く、「故しらぬ霊魂の郷愁」(『青猫』自序・大正十二年刊)、「魂の永遠の故郷」(『詩の原理』・昭和三年刊)を思慕する朔太郎も蕪村の詩的世界に自分自身を重ね、蕪村句を繰り返し「郷愁」の視点から解釈する営みを通して、自らの詩人としての本質と矜持を再認識したのである。
……
朔太郎が蕪村を語ることは、自らを語ることに等しい。そうした蕪村を通した、自己の再発見・再評価の書とも言える評論集『郷愁の詩人 与謝蕪村』(昭和十一年刊)は、期せずして、蕪村俳諧の詩情(ポエジー)の本質が〈郷愁〉であることを発見し、蕪村の〈近代性〉を鋭く解き明かすことになった。蕪村は、真の〈蕪村〉として蘇り、朔太郎は蕪村に救われたのだ。僥倖と言うほかない。
http://www.basho.jp/ronbun/gijiroku_3rd/3rd_1.html
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